《東京スカイツリー》開業
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天保14年(1843)、最後の将軍社参が実施された。第12代徳川家慶(いえよし)である。天保の改革の最中でありながら幕府の威信を示すために使われた費用は、およそ18万両(1両=約6万円として、現代の感覚では約180億円)という。動員された供の数は、総勢18万人という膨大なものだった。この時の細かいスケジュールが、記録に残っている。
・4月12日申刻御供揃、亥刻先發はじまる。
(15~17時お供の者が揃い、21~23時先発隊が出発し始めた)
(錫杖寺:川口市観光物産協会提供)
(岩槻城址:さいたま市教育委員会提供)
・4月13日家慶卯中刻大廣間車寄より乗輿。
(将軍家慶が午前6時、江戸城大広間の車寄せから輿に乗られた)
・晝、川口宿錫杖寺
(昼食、川口宿の錫杖寺しゃくじょうじ)
・泊、岩槻城内、城主大岡主膳正忠固。
(宿泊:岩槻城、城主は大岡正忠)
(幸手宿聖福寺)
・4月14日晝、幸手宿聖福寺。
(昼食、幸手宿の聖福寺しょうふくじ)
・泊、古河城内、城主土井大炊頭利位。
(宿泊:古河城、城主は土井利位どいとしつら)
(小金井宿慈眼寺)
(宇都宮城)
・4月15日晝、小金井宿慈眼寺。
(昼食、小金井宿の慈眼寺)
・泊、宇都宮城内、城主戸田日向守忠温。
(宿泊:宇都宮城、城主は戸田忠温とだただはる)
(大沢宿龍蔵寺)
・4月16日晝、大澤宿龍蔵寺。
(昼食、大沢宿の龍蔵寺)
泊、日光山御本坊
(宿泊:日光山本坊)
・4月17日家慶日光山東照宮、同家光廟参詣。
(将軍家慶、家康の命日に日光東照宮と家光の墓所・大猷院参詣)
その後、4月18日午前5時~7時に行列は日光を出発。昼食を大沢宿の龍蔵寺でとり、宇都宮城に宿泊。19日、昼食を小金井宿の慈眼寺、古河城に宿泊。20日、昼食を幸手宿の聖福寺、岩槻城に宿泊。21日、川口宿の錫杖寺、夕刻、江戸城に帰館した。翌日には無事に旅を終えた祝いの席が施された。
江戸から日光まで3泊4日の行程である。(帰りも同様)社参の道は、御成街道(御成道)を経て、幸手宿で《日光街道》に合流するものであった。
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東京は墨田区業平橋1丁目に最近オープンした居酒屋《多か将》。以前は「大将」という老舗の居酒屋で、よく通っていたものだ。
刺身定食(780円)を食べた。新鮮でうまい。なお、刺身は通りに面している姉妹店の《多か美》のご主人が運んで来た。聞けば、多か美の息子さんが《多か将》を経営している。刺身は、中トロ・サーモン・タコ・イカで、なかなかよいネタである。若い人にはボリュームのある「鶏の唐揚げ定食」の評判がよいらしい。
ランチは、結構メニューが豊富。下町のモツ煮込み定食(630円)、大山鶏の唐揚げ定食(680円)、ミックスフライ定食(680円)、週替わり煮魚定食(680円)、週替わり中華定食(680円)で、いずれも小鉢、香の物、味噌汁、ごはんが付く。
たぶん揚げ物が得意なのか、この他に、ソースヒレカツ丼(580円)、カレーライス(450円)、ヒレカツカレー(630円)、コロッケカレー(530円)、唐揚げカレー(580円)もあり、カレー類にはサラダ、香の物、味噌汁が付く。
■ 居酒屋 多か将
■ 東京都墨田区業平1-13-5
■ TEL:不明
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日光街道を歩く旅もいよいよゴールが見えてきた。「日光」の中心である。その前に少し日光の歴史を見直しておこう。
日光の歴史は、天平神護二年(766)、勝道上人が霊峰・男体山の登頂を志し、大谷川(だいやがわ)を渡って、現在の神橋の対岸に四本龍寺(しほんりゅうじ)を創建した時に始まるといわれている。
山々の神々と仏が習合した独特の信仰(神仏習合)を築きつつ、次第に領地を有する寺社勢力の道を歩むこととなった。とくに鎌倉幕府の信仰を得るに至り、日光の地位は、関東における守護の聖地にまで高められたといわれ、日光の歴史の中でももっとも華やかな一時期を形成したといわれている。
しかし、一千年にも及び築かれてきた信仰の聖地は、戦国領主たちの覇権争いに巻き込まれ、全国統一を成し遂げる戦国領主・豊臣秀吉による日光山の寺社領没収により、一気に疲弊の時を迎えた。
徳川初代将軍・家康の死後、その遺骸が日光に遷葬され、元和三年(1617)に東照宮に神(東照大権現)として祀られるにいたり、日光はそれまでの神仏習合の霊地に加え、徳川家の祖廟を祀る霊地として、江戸幕府の権威を支える重要な政治的地位をもつにいたった。そして、家康を祀る東照宮の社殿や仏閣は、三代・家光がおこなった寛永十三年(1636)の大造替により、現在見られる華麗で荘厳な造りとなった。
日光への将軍家の社参や、諸大名、公家による参詣が頻繁におこなわれるようになると、江戸からの街道や宿場、門前町も必然的に整備され、さらに一般庶民の参詣の人気も高まり、日光は江戸時代を代表する聖地になった。
(参考:日光観光協会「日光郷土センター」掲示に一部加筆)
さて、日光・鉢石宿での昼食は名物で、やはり「そば」に決めた。
評判のよい「江戸っ子」に入り「舞茸天ざる」850円を食べる。
そばは、手打ちである。北海道ホロコナイの粉と地元のそば粉をブレンドしているそうだ。風味がよい。
舞茸は、地元の福田農園のものだ。からっと揚がっている。観光地の食堂には違いないが、きちんとそばを打ち、調理して提供している。年配の女性と娘さんの接客も家庭的で気持がよい。
■江戸っ子 (日光市中鉢石町916、TEL:0288-54-0293)湯葉料理、薬膳料理の店。
■営業時間/11:00~15:00(不定休)
さて日光東照宮への参道である日光街道もまもなく終点。神橋手前、古い建物の日光物産商会の先左側に板垣退助の像が建つ。日光金谷ホテルへ行く坂である。
◆板垣退助像
明治元年(1968)4月29日、宇都宮から退却して日光山に陣を構える旧幕府軍と新政府軍が、今市付近で激突した。新政府軍のすさまじい砲火に、大鳥圭介率いる旧幕府軍は日光山内に退却。翌日、日光山の僧二人が新政府軍の大軍監・谷干城(たにたてき)を訪問し、「これ以上の戦を続ければ多くの犠牲者を出し、神廟東照宮も消失するでしょう。是非追撃を中止してもらいたい」と懇願した。谷は僧たちの申し出を了承し、新政府軍参謀・板垣退助の決断によって休戦となり、日光山は戦火を免れた。その後、旧幕府軍は会津に逃れて再決戦に臨む。(戊辰戦争のエピソード)
右側には、天海大僧正の像がある。
◆天海大僧正像
天文五年(1536)~寛永二十年(1643)。比叡山や奈良の寺々に学び、各地で修行。関ヶ原戦後、徳川家康の知遇を得、比叡山の復興など宗教行政に参画した。家康の死に際して、導師を務め、神仏両道を融合した「東照大権現」を定め、久能山から日光山に改葬するなど功労が大きい。家康の死後は、秀忠、家光にも仕えた。上野に寛永寺を創設し、関東天台宗第一世となり徳川家廟所と定めるなど、江戸天台宗の祖として尊敬を集め、平安時代の天台の僧・良源とともに両大師としてまつられている。ところで天海は107歳まで生きたことになるが・・・。
いよいよ日光街道のゴール地点、神橋に到着。何度も見てきたが、感慨はひとしおである。
◆神橋
聖地日光の表玄関を飾るにふさわしい朱塗りに映える美しい神橋は、昔は「山菅の蛇橋」などと呼ばれていた。日光二荒山神社の建造物で国の重要文化財に指定され、平成11年12月に世界遺産に登録された。
橋の長さは28m、巾7.4m、高さ(水面より)10.6mあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ、乳の木と橋板の裏は黒漆塗りで、その他は朱に塗られている。
奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋と尊ばれ、寛永十三年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなった。
昭和57年(1982)男体山頂鎮座1200年祭実施に際し、昭和48年(1973)よりその奉賛を目的として、広く一般に公開され、平成9年より今回の大修理がおこなわれた。山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我が国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つに数えられている。
●神橋の伝説
奈良時代の末、下野の人・勝道上人は、その伯父・大中臣諸清たちと、深く尊崇する霊峯二荒山(男体山)の登頂によって鎮護国家、人民利益のための大願をたてた。
天平神護二年3月(766年)、勝道上人一行は大谷川にたどりつき川を渡ろうとしたが、大谷川の激流のため渡る方法がなく、困り果てていた。上人は一心に祈念を凝らすと、川の北岸にひとりの神人が現れた。その姿は夜叉のようで、身の丈一丈余、左手は腰にあんじ、右手に二匹の蛇をまき、上人に向かって「我は深沙大王(じんじゃだいおう)である。汝を彼の岸に渡すばし」といいながら手にもった蛇を放つと、赤と青二匹の蛇は、たちまち川の対岸とを結び、虹のように橋をつくり、背に山菅が生えたので、上人一行は早速この橋によって急流を渡ることができたという。ふり返って見ると、神人も蛇橋もすでに消え失せてしまっていたので、上人は合掌して、深沙大王の加護に感謝し。それ以来この橋を「山菅の蛇橋」と呼んだという。
(「神橋」の説明文より)
◆星の宮 磐裂(いわさく)神社
神橋の手前、日光金谷ホテルへの坂の途中にある。勝道上人は、磐裂神(明星天子)のご加護を得て日光開山を完遂することができた。その神様への恩に報いるため、大同四年(809)創建したと伝わる。日光山最古の社。奈良時代から中世まで修験者の霊場として栄え、戦国武将のあつい尊崇も受けた。その後一時衰微したが、東照宮の鎮座に伴い再び徳川幕府の庇護を受け、社殿改修がおこなわれた。現在は東町と呼ばれる上中下鉢石町・御幸町・石屋町・松原町の鎮守である。
◆深沙王堂(蛇王権現堂)
神橋前の日光橋を渡ると小さな祠(ほこら)がある。伝説「山菅の蛇橋」にあるように、勝道上人一行が大谷川(だいやがわ)を渡れないでいる時に、二匹の蛇を放って一行を助けた「深沙(じんじゃ)大王」を蛇王権現として祀っている。深沙大王は、毘沙門天の化身である。橋渡しの神という信仰から縁結び、蛇信仰から商売繁昌にご利益があるといわれる。
◆太郎杉
神橋近くの老杉群の中で、この樹がもっとも大きく優れた姿であることから「太郎杉」と呼ばれている。樹齢は550年、樹高43m、目通り周囲5.75m。昭和30年代、道路拡張計画のため伐採の危機になる裁判で注目を集めた。
日光二社一寺の玄関口、神橋たもとの国道120号の交通渋滞緩和や事故防止を目的に、「太郎杉」など老杉15本を伐採する道路拡張を国・県が計画。反対する東照宮は計画の取り消しを求めて昭和39年(1964) 8月、宇都宮地裁に提訴。 9年間にわたる訴訟となり、東照宮の全面勝訴となった。「自然の価値」が司法の場で認められ、環境問題の「先駆的な裁判」と位置づけられている。
◆日光杉並木寄進碑
書き下し文にすると、つぎのようになる。
下野国日光山山菅の橋(神橋)より、同国都賀郡小倉村(例幣使街道)、同国河内郡大沢村(日光街道)、同国同郡大桑村(会津西街道)に至る。二十余年を歴(へ)て、杉を路辺の左右ならびに山中、十余里に植え、以って東照宮に寄進し奉る。
慶安元年(1648)四月十七日 従五位下 松平右衛門大夫人源松平正綱
以上、日本橋からこの神橋まで、約三十五里十九町余でおよそ約140kmを踏破したことになる。歩き始めが9月であったので8ヶ月を要した。23回日帰りをした。
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いよいよ《日光街道》最後の宿場、鉢石(はついし)宿である。長さは五町余り(約545m)で、上鉢石・中鉢石・下鉢石に分かれ、人口は985人、旅籠は19軒であった。(天保14年)旅籠の数が少ないのは、日光山内に参拝者を泊める宿坊が80箇所近くあったためである。いよいよクライマックスの日光である。
杉並木が終わる。クラッシックな建物のJR日光駅。少し先には山小屋風の東武日光駅がある。都内からは、東武鉄道が早くて安いので断然便利なためか、東武日光駅前の方が開けていて、お土産屋さんや食堂が立ち並ぶ観光地の風景だ。このあたりに鉢石宿の木戸(入口)があった。
■龍蔵寺(日光市御幸町396)
瑞雲山正見院。天台宗。本尊は阿弥陀如来。
本堂の右手に「重慶阿闍梨(しげよしあじゃり)塔」と彫った墓碑がある。この重慶が庵を結んだのが寺の始まりと伝わる。重慶は畠山重忠の子で、元久三年(1206)、重忠が北条政子の父・時政に滅ぼされて後、日光に逃れて僧になったそうだ。したがって龍蔵寺の開基は、1206年以降となる。
境内には戊辰戦争で戦死した芸州藩(広島県)の藩士の墓もある。静かな寺だ。
◆稲荷神社(日光市稲荷町1丁目)
健保六年(1218)、京都伏見の稲荷大社の御分霊を勧請し、村の鎮守としたのが始まり。正一位。主祭神は稲倉魂命(うがのみたまのみこと)。
江戸時代の寛文二年(1662)、関東地方一帯に降り続いた大雨により、稲荷川が決壊し、濁流が一気に村を襲い、死者行方不明者148名、被災者915名、流失家屋300軒余の壊滅的な大災害を受けた。このため、被災者は幕府の援助を受け、稲荷川流域から現在地に集団移住し、稲荷神社も遷座した。現在の社殿は小規模ながら江戸期の建造物である。
境内には、御鎮座780年祭の記念事業(平成10年)として、庚申塔(こうしんとう)3基、青面金剛(しょうめんこんごう)13基、弁財天1基、梵字(ぼんじ)2基の石碑が集められている。年代は元禄二年(1689)から天保十五年(1844)まで江戸時代に村人たちが建立したものだ。
◆西行戻り石
西行〔元永元年(1118)~文治六年(1190)〕は、平安時代から鎌倉時代初期の歌人である。文治二年(1186)、西行は東大寺再建の資金調達のため、奥州藤原氏のもとへ旅をし、その帰路、日光山へと旅をした。目的は日光の僧たちとの知恵比べであったが、事前に察知した日光権現が、小童(小さなこども)に姿を変えて西行を待つ。
以下、西行と小童のやりとり。
・西行「まず木に登りたければ、猿の子供だと思えば早く登れる」
・小童「犬のようなお坊さんを見たと思えば(猿はこわがってなおさら早く登れる)」
・西行「あなたはこれからどこへ行くのですか」
・小童「冬に育つ夏枯草を刈り(麦刈り)に行きます」
・西行「それは何の草ですか」
・小童「あなたは仏の道に通じる知恵のある方(聖智の人)なのですか?世の中に広く知られている麦という草をお知りにならならいとは」
と、手をたたいて笑えば、西行は驚き、このようないやしい小さなこどもさえ知恵賢き場所なので、日光山へ入ることはかなわないと思い、ここから帰った。よって『西行の戻り石』と名づけた。ちなみに「麦」は、秋に芽生え冬を越え、初夏に開花して実を結ぶ冬の作物である。
この小童が休んでいたのがこの石の上であったそうだ。西行にまつわるこの種の逸話は、ほかの地域にも伝承しているが、なかなかおもしろい。
で、西行はつぎのような歌を詠み、引き返したそうである。
ながむながむ散りなむことを君もおもへ黒髪山(男体山)に花さきにけり
■虚空蔵尊
稲荷神社の先には、古びた石段と石の鳥居の虚空蔵尊がある。寛永十七年(1640)、神橋右岸の磐裂神(いわさくしん:虚空蔵尊の別名)を分祠(ぶんし)し、東町六ヶ町の住民の鎮守として祀った。御宮造・本朱塗極彩色の社殿は、栃木県文化財の指定を受けている。境内には太子堂もある。
また境内には「日光型庚申塔」が7基集められている。寛文二年(1662)から延宝八年(1680)のものである。
◆本陣跡 入江本陣と高野本陣
御幸町に入ると街道の右側に、手打ちそば「魚要(うおかね)」がある。本陣・入江喜兵衛の跡である。本陣でありながら、蒸菓子(まんじゅう)と麩和餅を製造していて日光東照宮にも御用として献上していたそうだ。
街道右側の大野屋旅館の先が、本陣・高野源蔵跡地である。空地になっており工事車両が置かれていた。発見できなかったが、この敷地には日光を訪れた松尾芭蕉の句碑が残っているそうだ。有名な「あらたうと青葉若葉の日の光」の推敲前の句である。
あらたふと木の下闇も日の光
さて「元祖日光酒饅頭」文化元年(1804)創業の湯沢屋の茶寮(和風喫茶)で休憩。
歩き疲れたので甘いものがほしい。湯沢屋セットを注文。蒸かし立て酒饅頭、水羊羹に箸休めのしそ巻き唐辛子、おいしい緑茶が付いて600円だ。満足。
■湯沢屋茶寮(日光市下鉢石町946、TEL:0288-54-0038)
営業時間/10:00~16:00(不定休)
◆鉢石
街道右側、中鉢石町の日本生命と三ツ山羊羹駐車場の間の小道を下ると鉢石の史跡である。勝道上人が托鉢の際、持ち歩く鉄鉢(お弁当箱)をこの岩盤の上に置き、つねに日光連山を拝したことからこの岩を鉢石と呼び、この地を鉢石宿と呼んだ。
日光市教育委員会の案内板によれば、地中から地表に突き出た岩盤の一端が鉢を伏せたような形のため、古来より「鉢石」と称されている。また「鉢石」の由来については、勝道上人が日光山開山の時、このあたりにはじめて人家を建て鉢石町と名付けた。この町の北、大谷川の両岸に鉢の形をした岩があり、地名としたと記述がある。
まだ午前中なので、お土産を購入。老舗「ひしや」の羊羹である。1本1,500円。朝9時から売り出し、完売すると店を閉めてしまう。ほとんど午前中で売り切れとなるそうだ。家に帰ってから食したが、評判通り抜群にうまい。とくに砂糖が凝固した羊羹のカドが最高である。
■ひしや(日光市上鉢石町1040、TEL:0288-54-0623)
※羊羹の写真は、日光老舗名店会提供
※入江本陣跡の「魚要」は、「うおよう」さんでした。本文を訂正してお詫びします。自家製粉の手打ちそばで湯波そば元祖の店です。
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