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鑑真和上三部作その2

鑑真和上三部作その2 鑑真を訪ねて《鹿児島県南さつま市坊津》

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鑑真ファンの渋谷先生という、東京・目白で指圧の治療院を開業している方がいた。『唐招提寺・鑑真和上に出会う旅』に参加していただき、帰りの新幹線の中で、

ぜひ、鑑真の足跡を尋ねて、中国へ行きたいとおっしゃる。また、どうせなら鑑真が苦難の末、日本へたどり着いた、南九州の坊津(ぼうのつ)や大宰府にも行きたいとのことだった。

幸い、奈良への1泊旅行は「唐招提寺・鑑真」のテーマが目新しく、募集ものツアーとしては、バス2台80名の集客があり、ヒットであった。そこで翌年の3月に和上の上陸地「坊津」をメインにした、九州2泊3日ツアー『鑑真上陸地を訪ねて・南九州ツアー』を計画。その後、6月に鑑真和上の故郷である、「中国・揚州」への参詣を目的に上海・蘇州・揚州4泊5日ツアーを発表した。これまた自分の趣味・興味が高じてしまったのだ。※マップはクリックで拡大します

Akimeuramap

九州2泊3日は40名のお客様が集まった。往復航空機利用で、鹿児島に入り、市内を観光して1泊目は鹿児島市内の城山観光ホテル泊。2日目は、念願の坊津へ行き枕崎で昼食と鰹節工場見学後、指宿の名ホテル・秀水園泊。まさに「薩摩づくし」で高速を飛ばし、帰りに大宰府に寄り、福岡から帰京。

鹿児島市内から枕崎を経由して、鑑真上陸の地・坊津へ、約1時間40分。坊津、秋目浦は、小さな入江である。深緑色の小山、静かな海。遣唐使船の出入りはおこなわれていた奈良時代そのままのような空気だ。高台に「鑑真和上上陸記念碑」、背後には「鑑真記念館」がある。

記念碑は《鑑真大和上滄海遥来之地》と記され、添えられた碑文には、

「天平勝宝五年十二月二十日の午の刻、唐の鑑真大和上は、数々の苦難を乗り越えこの地に上陸。初めて日本の土を踏んだ。この国の文化は(鑑真和上の功績により)是より格段にその輝きを増した。」と記されている。(西暦753年)Photo_40

奈良時代の律令国家を整備するため、また鎮護国家の「仏教」の正当性を守るための人材養成の目的で朝廷は、その手本とした「唐」へ、留学生(留学僧)を派遣した。それが遣唐使船であった。何度か船は、海を渡るが、当時の造船技術や航海技術では失敗することが多々あった。

舎人親王の命を受け、唐から仏教の本筋を伝える受戒師の招聘(しょうへい)を目的に渡った、日本の僧、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)の二人が、長年、中国中を捜し求めて、やっと出会ったのが鑑真和上。743年から日本への渡航をこころみるが、失敗すること5回。6回目の753年、ようやく日本の地に上陸した。しかし鑑真は航海中に両目を失明。66歳になっていた。(和上の伝記については『唐大和上東征伝』や、それをもとに描かれた『東征絵伝』、井上靖の小説『天平の甍(いらか)』に詳しい。(ただし絵伝そのものは、鎌倉時代の作であるため、人物・風俗などは必ずしも奈良時代そのものではなく、後世の推察が混じっているという。そうであっても鑑真和上の功績が鈍るわけではまったくない)

坊津、秋目浦に上陸をはたした鑑真一行は、どうやら最近の研究によれば、小船に乗り換え、半島づたいに佐賀へ。さらに有明海、筑後川を経由して、大宰府に入ったらしい。さらに754年、鑑真和上は奈良、東大寺大仏殿前でときの聖武天皇に授戒、(仏法の正道を伝える儀式)

759年には唐招提寺を創建、仏教(律宗)の戒壇を開く。763年、和上没。76歳。

唐招提寺の開山忌・鑑真和上像特別拝観ツアー『唐招提寺・鑑真和上に出会う旅』が80名、九州坊津ツアー『鑑真上陸地を訪ねて・南九州ツアー』が40名。さてさて

揚州のツアーはいかがなものか。Vfsh0083

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