« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »

2006年7月の10件の記事

鑑真和上三部作その3

鑑真和上三部作その3 鑑真を訪ねて《中国江蘇省揚州》

 001031_edited

6月に鑑真和上の故郷である、「中国・揚州」への参詣を目的に上海・蘇州・揚州4泊5日ツアーを発表した。集まったのは20名だった。

揚州は南京からバスで約2時間。上海までバスで4時間以上。運河の街である。

ガイドブック風にいうと、

“揚州 隋の時代の煬帝が行宮を造営し、中国の南北を結ぶ大運河の基地として繁栄した。遣隋使や遣唐使も揚州に来訪していた。

元の時代には、有名なマルコポーロはこの都市の行政官であったという。

明から清の時代代には、国家の重要な収入源であった専売制の塩の役所である「塩運使署」が設置。塩の大集散地としてにぎわい、天下の富豪たちが集まった。

その後は、太平天国の時に廃墟となってからあとは歴史の表面から姿を消し、ひっそりとした地方都市となってしまった。“

揚州で一番有名な観光地は痩西湖という、湖だ。その他、大運河がある。

そしてなんといっても、今回の目玉は鑑真和上のいらした『大明寺(だいみょうじ)』である。実はこのお寺、日本と国交が回復するまでは、「法浄寺」と名乗っていたが、鑑真のいた8世紀の名前に戻したのだそうだ。(このあたりが商魂たくましい)

 Photo_43

 大明寺に着く。「鑑真記念館」がある。唐招提寺の金堂を模写した建物だが、ふたまわり小さい。記念館の中に鑑真和上像もまつられているが、どれもこれも最近のものだ。要するに、奈良の唐招提寺と和上像を「模写」したものだった。中国では文化大革命以後、唐の時代のものは、まず地方にも残っていないのは残念なことだ。一行は、予約してあった関係でお寺の職員の方に先導され、休憩室でイスにすわり、お茶をご馳走になった。この休憩所、よく見ると書画の掛軸がたくさん架かっていて、しかも○○元と値段までついている。 (売店だった)

 揚州の宿泊は、「揚州賓館」。夕食は名物料理だ。中国料理で有名な《揚州炒飯》を楽しみにしていた。横浜の中華街などで食べる揚州炒飯とは違って、油っぽくてまいった。そのほかの料理も醤油味がきつく、それほどおいしくない。 (たぶんこの日は腕利きの料理長が休みだったんだろう)

 とにかく、鑑真和上のいた揚州に来ることができた。それだけで旅の目的は達せられたわけだ。歴史的なものが何も残っていなくとも、掛軸の売店での休憩であろうとも、揚州に来られたのだ。この旅では、上海や蘇州の印象が強く、「揚州」の評判がいまいち(下今市)だったのは、意外だった。

 

Yangzhoupingguan_1

| | コメント (2) | トラックバック (0)

鑑真和上三部作その2

鑑真和上三部作その2 鑑真を訪ねて《鹿児島県南さつま市坊津》

 Photo_41

鑑真ファンの渋谷先生という、東京・目白で指圧の治療院を開業している方がいた。『唐招提寺・鑑真和上に出会う旅』に参加していただき、帰りの新幹線の中で、

ぜひ、鑑真の足跡を尋ねて、中国へ行きたいとおっしゃる。また、どうせなら鑑真が苦難の末、日本へたどり着いた、南九州の坊津(ぼうのつ)や大宰府にも行きたいとのことだった。

幸い、奈良への1泊旅行は「唐招提寺・鑑真」のテーマが目新しく、募集ものツアーとしては、バス2台80名の集客があり、ヒットであった。そこで翌年の3月に和上の上陸地「坊津」をメインにした、九州2泊3日ツアー『鑑真上陸地を訪ねて・南九州ツアー』を計画。その後、6月に鑑真和上の故郷である、「中国・揚州」への参詣を目的に上海・蘇州・揚州4泊5日ツアーを発表した。これまた自分の趣味・興味が高じてしまったのだ。※マップはクリックで拡大します

Akimeuramap

九州2泊3日は40名のお客様が集まった。往復航空機利用で、鹿児島に入り、市内を観光して1泊目は鹿児島市内の城山観光ホテル泊。2日目は、念願の坊津へ行き枕崎で昼食と鰹節工場見学後、指宿の名ホテル・秀水園泊。まさに「薩摩づくし」で高速を飛ばし、帰りに大宰府に寄り、福岡から帰京。

鹿児島市内から枕崎を経由して、鑑真上陸の地・坊津へ、約1時間40分。坊津、秋目浦は、小さな入江である。深緑色の小山、静かな海。遣唐使船の出入りはおこなわれていた奈良時代そのままのような空気だ。高台に「鑑真和上上陸記念碑」、背後には「鑑真記念館」がある。

記念碑は《鑑真大和上滄海遥来之地》と記され、添えられた碑文には、

「天平勝宝五年十二月二十日の午の刻、唐の鑑真大和上は、数々の苦難を乗り越えこの地に上陸。初めて日本の土を踏んだ。この国の文化は(鑑真和上の功績により)是より格段にその輝きを増した。」と記されている。(西暦753年)Photo_40

奈良時代の律令国家を整備するため、また鎮護国家の「仏教」の正当性を守るための人材養成の目的で朝廷は、その手本とした「唐」へ、留学生(留学僧)を派遣した。それが遣唐使船であった。何度か船は、海を渡るが、当時の造船技術や航海技術では失敗することが多々あった。

舎人親王の命を受け、唐から仏教の本筋を伝える受戒師の招聘(しょうへい)を目的に渡った、日本の僧、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)の二人が、長年、中国中を捜し求めて、やっと出会ったのが鑑真和上。743年から日本への渡航をこころみるが、失敗すること5回。6回目の753年、ようやく日本の地に上陸した。しかし鑑真は航海中に両目を失明。66歳になっていた。(和上の伝記については『唐大和上東征伝』や、それをもとに描かれた『東征絵伝』、井上靖の小説『天平の甍(いらか)』に詳しい。(ただし絵伝そのものは、鎌倉時代の作であるため、人物・風俗などは必ずしも奈良時代そのものではなく、後世の推察が混じっているという。そうであっても鑑真和上の功績が鈍るわけではまったくない)

坊津、秋目浦に上陸をはたした鑑真一行は、どうやら最近の研究によれば、小船に乗り換え、半島づたいに佐賀へ。さらに有明海、筑後川を経由して、大宰府に入ったらしい。さらに754年、鑑真和上は奈良、東大寺大仏殿前でときの聖武天皇に授戒、(仏法の正道を伝える儀式)

759年には唐招提寺を創建、仏教(律宗)の戒壇を開く。763年、和上没。76歳。

唐招提寺の開山忌・鑑真和上像特別拝観ツアー『唐招提寺・鑑真和上に出会う旅』が80名、九州坊津ツアー『鑑真上陸地を訪ねて・南九州ツアー』が40名。さてさて

揚州のツアーはいかがなものか。Vfsh0083

| | コメント (0) | トラックバック (0)

鑑真和上三部作その1

鑑真和上三部作その1 鑑真を訪ねて《奈良 唐招提寺》

 

Photo_32

 「旅行」を商売にしていると、時として自分の趣味・興味が高じてしまうことがある。学生時代に奈良へ通い、鑑真に、唐招提寺に強くひかれていた。近鉄の「西の京」駅から徒歩で10から15分。奈良郊外の五条町にその寺はある。いまでこそ「郊外」だが、平城京では中心に位置していたようだ。

天平3(759)年、聖武天皇により招聘され、苦難の末、来日し仏教の真の戒律を伝えた「鑑真和上」が開いた寺だ。和上は、いま境内の御影堂(みえどう)に鎮座し、いままでは開山忌(和上の命日)の6月6日の前後3日間(通常は6月5日から7日)に限って、一般公開されていた。同時に御影堂上段の間の、東山魁夷作の壮大なスケールの障壁画(襖絵)も 公開。長い行列で1時間近く待たされても、和上像に対面すると、まるで生きているような感じさえして、感激したものだ。

また唐招提寺では、なんといっても国宝の「金堂」の建物と千手観音がすばらしかった。残念ながら金堂は、2000年から『平成大修理』をおこなっており、完成は2010年。それまでは、あの均衡のとれた屋根の線やふっくらと曲線を描く柱は見れない。

聞くところ、平成7(1995)年の阪神大震災を機に建物全体を調査したところ、柱の傾きや垂木のたわみなどが激しく、すぐにでも解体修理が必要なことがわかった。あわせて、金堂内部の先の千手観音、本尊・盧舎那仏(るしゃなぶつ)、薬師如来も保存修理を受けており、2010年まではお会いすることができない。和上像も『唐招提寺2010プロジェクト』と題して、数々のイベントのため、全国行脚をするようだ。

 江戸時代(1688年)春、俳人・松尾芭蕉も唐招提寺を訪れた。鑑真和上が日本へ渡るために、苦難を乗り越えたが、潮風によって目をやられ、ついに盲目になった、と『笈の小文』にある。そのとき、詠んだ句・・・

 “若葉して御目の雫拭はばや (わかばして おんめの しずく ぬぐわばや)”

この青々とした若葉で、和上の目から流れ出る涙のしずくをぬぐってさしあげたら

目は見えるようになりだろうか、こんな意味だろうか。

 また会津八一も唐招提寺でたくさんの和歌を残したが、金堂を詠んだ1句が秀逸。

 

“おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ”

※唐招提寺「鑑真和上に出会う旅」は、バス280名のお客様が集まった。

Photo_35 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

志賀高原でてづくりジャムを、その後

志賀高原の手づくりジャムその後 ホテルマウント志賀

 _edited_2

 

 先日このブログで志賀一ノ瀬のホテルマウント志賀の手づくりジャムを紹介した。思いのほか好評で、問合せや申込みなど、たくさんの電話がかかったそうだ。また小学館の雑誌『サライ』の増刊号「旨いもの取り寄せグランプリ 美味取り寄せ帖(2006.7/10発行)にも、料理研究家・高城順子さんの記事で《信州の無添加ジャム、果物そのものの甘さ》と題して、紹介された。

 

“ホテルマウント志賀という小さなホテルのご家族が、丹精込めてつくっているジャムです。あんず、ブルーベリー、いちじくとありますが、どれも信州産のものです。ペクチンを添加せずに、果物そのものから甘さを引き出し、砂糖だけで調整していらっしゃいます”(本文より)

なかなか商業ベースにはのらないけれど、『本物』は大切だとつくづく思う。このジャムのおいしさを、いまさら言及することもないが、ぜひ味わっていただきたい。

☆りんごジャム735円、プルーン1,050円、あんず1,050円、

ブルーベリー1,155円、いちご945円

(すべて320グラム、消費税込み)

Photo_39    

| | コメント (0) | トラックバック (0)

利尻 礼文島 バスが来ない

Route2

 いまでこそ、離島ブームで「利尻島・礼文島」は、花をめでるハイキングやちょっとしたトレッキングで人気である。あのおぞましい添乗経験を忘れられない。

その頃、小樽を夜9時に出航して、利尻を経由して礼文に翌朝、6時に到着するフェリーがあった。「北海商船フェリー」という。昭和561981)年に就航、残念ながら平成51993)年に廃止されてしまった。24名の団体、某百貨店の友の会の募集ツアーで利尻・礼文へ行く。船中1泊、利尻に1泊のコース。

Photo_29 

羽田→札幌~小樽~(フェリー船中泊)~礼文島・香深港(島内観光)~(フェリー)~沓形港・利尻島(泊)、利尻島(島内観光)~利尻・鴛泊港~(フェリー)~稚内(市内観光)~稚内→空路→羽田

羽田から空路、札幌(千歳)へ飛び、小樽の鰊御殿や北一ガラス工房を見学。寿司屋横丁で昼食をとり、石原裕次郎記念館でゆっくり滞在。年配のお客様だったから大好評である。夕食は、小樽の「北海ホテル」で豪華な海鮮料理をいただく。アルコールも入り、お客様はフェリーに乗る。

乗船前に北海商船のターミナルで

『今日は少し波が高いので揺れますよ。それでも9時間ありますから、礼文に着くころには、天候も良くなりますから』

確かに揺れる。ゆれる。ユレル。横になっていると、ゴロゴロする。とても眠るどころの騒ぎではない。そのうち船酔いするお客様が続出。最初はエチケット袋(ビニール袋)でよかったが、バケツが必要になる。さっき食べた、北海ホテルご自慢の新鮮な刺身や魚介類が逆流してきた。すっかり酔いも冷める。

夜中の2時ころだろうか、うつらうつらしていると、お客様の中の初老の旦那さんが真っ青な顔で起こしにきた。小用を足そうと思うが、出ない。先っぽが痛くて痛くてとてもがまんできない。すぐにでも病院に行きたいとのこと。きけば「尿道結石」にかかったことがあり、久しぶりに飲んだせいか、“息子さん”の具合が悪く、竹の子のように腫れあがっているという。

これは大変だ。すぐに船長室へ。ドンドン、すみません、すみません。白髪あたまの船長さんが、むっくり起きて『どうしたんですか?』

いや、あのー、かくかくしかじか・・・び、び、病院へ・・・・

『お客さん、それは無理ですよ。いますぐ命にかかわることなら、ヘリコプターでも呼べるけど。利尻へ着いたら病院があるから、いま船舶電話で救急車の手配するから』

それから朝まで一睡もせず、苦しむ息子さん、いや旦那さんを看病し、やっと午前4時過ぎ、利尻港着。すぐさま救急車で病院へ。ツアーの目的地は、この日礼文島なので、初老のご夫婦を残し、フェリーに戻る。(あとで連絡をしたら、やはり尿道結石ですぐ手術をし、念のため稚内の専門病院の泌尿器科へ3日間入院して、回復したそうだ)

利尻から礼文は約1時間半。親しくなった船長さんと「やれやれ、海の上の仕事も大変ですね。」などと世間話をした。すぐ礼文島到着。朝の6時を回ったところ。港のすぐ近くのホテルで朝食と入浴休憩である。「礼文ホテル」のウニやイカの朝ごはんは最高だ。しかし、大浴場の湯には、おどろいたことに、緑色のバスクリンが入っていた。お客様は広間で休憩。しばしおやすみタイムだが、添乗員には仕事がある。

現地の宗谷バスに確認である。 

『宗谷バスさんですか。○○トラベルの添乗員ですが、今日の貸切の確認させてください。』 

『添乗員さん、申し訳ないんだけど、バスがまだ、稚内から来てないんですよ。』

 

『違いますよ、24プラス1名で小樽から今朝、フェリーで着いたんですけど。』

 詳しくきくと、梅雨前線の影響で海が荒れて、波が高く、安全性の問題でカーフェリーにバスを積み込めなかったという。(稚内からは東日本海フェリー)もっといえば、礼文島には路線バス用に中型バスが2台。そのほかに観光貸切で2台あるが、島めぐりの定期観光バスに1台使うと、残りが1台となるが、現在故障中で動かない。だから稚内の営業所から1台、都合をつけ、今朝のフェリーでバスを運ぶ算段だったらしい。

『前から頼んであったでしょうに。まっ、出発は9時、礼文ホテルで島内観光ですよ。なんでもいいからバスもってきてください。』

 バスが来た。マイクロバスである。ガイドさんも乗っている。お客様と乗り込む。

『なんだかサカナ臭いね、このバス。』 

『ほんと、なま臭いわね。』

確かにプーンとサカナのにおいがする。それもそのはず、カニの缶詰工場(こうば)の送迎用のマイクロだった。スコトン岬や桃岩など、景色は確かにすばらしかったし、あまり若くないバスガイドさんも親切だった。バスの車内の「におい」だけ除けば・・・。あの頃、ファブリーズがあったらよかったのに。10数年前の7月のことである。

※港の読み方は、礼文島・香深(かふか)港、利尻島・沓形(くつがた)港および、利尻島・鴛泊(おしどまり)港

Photo_28

※《宗谷バス》さんは、決していい加減なバス会社ではありません。これは、ひと昔前の話です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

南仏・エクス・アン・プロヴァンス

西欧美術紀行 南仏・エクス・アン・プロヴァンス

《セザンヌ サント・ヴィクトワール山》

 今年2006年はセザンヌ没後100年である。南フランスのエクス・アン・プロヴァンスという街で彼は生まれ、晩年、その地のアトリエで過ごした。エクスは古代ローマの噴水など、遺跡が残る、落ち着いた街だ。とくに中心のミラボー通りは、樹齢500年のプラタナスの並木が続く。通りのカフェもおしゃれだ。

 何よりも忘れてならないのはセザンヌの絵画。リンゴやオレンジの静物画やチョッキを着た少年、トランプをする人々などの人物画に水浴を描いた作品。この地にいまも存在する、聖地・サント・ヴィクトワール山もセザンヌが繰り返し描いたモチーフである。

 ポール・セザンヌはこの山の絵を油彩で60点以上、水彩も20点以上のあわせて80点を超えて描いたそうだ。実際にエクスへ行くと、なるほど彼のアトリエから歩いて、高台にあがるとすぐ目の前にサント・ヴィクトワール山がみえる。(アトリエは見学できる。山荘の2階がアトリエ)

 だがしかし、本当の山は、彼の作品とままったく異なり、ただの石灰岩の山にすぎない。色彩もセザンヌの緑や青、茶色ではない。白い山だ。

 大学の先輩で、いまやセザンヌ研究の第一人者・浅野春男先生によれば、

なぜセザンヌはこれほどまでに故郷の山に執着したのか。彼は山をあたかも人間の肖像のようにして描いた。セザンヌにとってそれは「息子のようにいとしい我が山」であったにちがいない。』

 確かにこの目でみると、何の変哲もない、白く灰色の石灰で無機質な山である。そこに生命力を加え、意味を与え、彼は描き続けた。ただセザンヌのモチーフとして、あまりにヴィクトワール山が有名なだけに、この山の存在感は大きい。世界中の美術館でサント・ヴィクトワール山を見ることができるが、中には描きかけ(製作途中)の、白い部分が残されている作品もある。

 プロヴァンス観光局の《セザンヌ2006》のHPにサント・ヴィクトワール山の画像があるので紹介する。あわせてロンドンのコートルド美術研究所(美術館)の作品も。どうして石灰岩の約1,000mの山が、これほどまでに人に感動をあたえるのか、不思議だ。(画像はコートルドの売店で購入した絵葉書)Photo_26 Photo_27

| | コメント (2) | トラックバック (0)

傘がない 突然のスコールで大渋滞・カラカウアは水びたし

ハワイこぼれ話 傘がない 突然のスコールで大渋滞・カラカウアは水びたし

《ハワイに暮らす》

                                                                                                            

年間を通じてワイキキに暮らしてみると、一年中暑いと思われるハワイにも季節がある。12月は風が吹き、天候が荒れることが結構ある。雨も降る。突然のスコールに見舞われることもある。そうするとワイキキのメインストリート・カラカウア通りは、車の大渋滞になる。地元の人は、もともと雨に慣れていないのと、地理に不案内の観光客が運転するレンタカーが右往左往するので渋滞。

しかしカラカウアは道路の中央から道端に向かって、若干、傾斜していて、雨水は歩道脇の排水溝に流れる仕組みになっているので冠水することはない。歩行者は、観光客も含めて、雨でも傘をささない。おおむね、すぐ止むので《暑いからちょうどいいや》って感じである。多少濡れネズミになっても、すぐ乾いてしまう。しかも雨が上がったあと、ワイキキに架かる虹がすばらしい。空気が澄んでいるせいか、大きなレインボーの半円が、アラモア運河からダイヤモンドヘッドまで架かることもあった。

やはり天候が安定するのは、789月で「日本の夏」である。空の色が違う。そして湿気がない。ホテルやオフィースでは、冷房がかかせないが、実際に住んでみると、高層階のコンドミアムだったせいもあるが、クーラーはほとんど使わない。開けっ放しの窓から涼しい風が入る。広い「ラナイ(ベランダ)」に出て、海からの風にあたりながらビールを飲む。住んでいたのは、30階建ての20階のコーナー部屋。屋上にはプールがあり、サウナもあった。24時間体制でガードマンが常駐していて、セキュリティーは万全。酔っ払ってソファーで「うたた寝」をしても風邪をひくことはなかったし、泥棒が入るおそれもなかった。

たいして高級ではないが、クヒオ通りのスーパー『フード・パントリー』の角を入ってアラワイ運河沿いの《フェアウエイ・ヴィラ》が住まいだった。2ベッド・ルームに一人だが、駐車場付きで、家賃は(10年前)月に1,100ドル(約15万)だった。(会社が家賃を払っていたのはいうまでもない。ワイキキでは格安の物件)P9130041_3         

←  《フェアウエイ・ヴィラ》

昨年、ひさしぶりに出張でホノルルへ出向いたので、なつかしくて見学に行った。まったく変わっていない。このコンドミアムに半年住み、その後、タンタラスやパンチボールに近い、マキキ地区の《ピイコイ・アトリウム》に引っ越した。ピイコイは会社の持ち物だった。(残念ながら売ってしまったそうだ)

ハワイでの単身赴任生活は、過ごしやすい気候や住 居、通勤などについては文句のつけようがない。しかし「仕事」をするところではない。1365日、日本からの観光客はやって来る。盆も正月もない。休みも取れて、月に2回。午前4時、5時から斡旋の仕事がある。のんびり遊びに行くには、最高なのだが。

P9140056 《ピイコイ・アトリウム》  →            

| | コメント (0) | トラックバック (0)

忘れがたき奈良の宿 いにしえの日吉館

 ちょっと格好をつけて古美術などに興味をもっていた大学生の頃、奈良に常宿があった。近鉄奈良駅を降りて登大路を東へ、奈良公園を抜けて大仏殿方向へ歩く。県知事住居の先、氷室神社の手前、国立博物館の真向かいにある、いかにも古めかしい商人宿といった風情の日吉館(ひよしかん)である。  

  いまから30年近く前で、1泊2食付の2,000円。夕食には決まって「2_3 すき焼き」が出る。部屋はほとんど小部屋で、四畳半に煎餅(せんべい)布団を敷き詰めて5、6人はあたり前の相部屋。風呂は狭く、男女兼用で一箇所しかないため、時間交代制。仲間を誘って近くの銭湯へ行くのが常識であった。手洗いは旧式のため、朝などは用を足すために歩いて大仏殿のバス駐車場にある、水洗トイレに通った。2階へあがる階段や廊下は、老朽化のためミシミシと泣き、冬にはすきま風が、容赦なく吹き込む。まだ底冷えのする東大寺二月堂の「お水取り」の時期などは、満館で、玄関のあがり口の板の間に寝たこともある。とにかく館内で暖房といえば、炬燵(こたつ)と丸火鉢のみである。

 

  なぜ、こんな日吉館に何度も通ったのかといえば、そこには「常連」と称する古美術を愛する同好の仲間達がいて、しかも日吉館そのものにかけがえのない歴史があったからだ。 また、この宿を守る名物女将(おかみ)の田村キヨノさんがいたからでもある。この「おばちゃん」は、まったくもって商売っ気がない。一見(いちげん)はお断りで、常連客の紹介がなければいかに部屋が空いていようが、泊めてくれない。当時、早稲田大学の古美術研究会に知合いがいたので紹介で、(違う大学の自分でも)泊めていただいた。それに毎日の夕食には、大量の牛肉と大盛り野菜の「すき焼き」が出た。砂糖をたくさん使う、関西風のものだ。街中(まちなか)でたべれば、すき焼きだけでも3,000円は下らない。しかも食卓は由緒ある特注「二月堂机」(東大寺二月堂で修行僧が使用する、幅1mくらいの黒うるしの座り机)である。朝食は、味噌汁と副菜が一品だが、奈良漬が山盛り。南大門そばの「森漬物店」の酒の効いた、この奈良漬が絶品である。 館内では原則として禁酒。(大学のゼミの先生が一緒のときは、ビールや日本酒が飲める)理由は「勉強するために奈良に来ているから」学生さんは禁酒。それでも日吉館の隣には、酒屋があったのでこっそり缶ビールを持ち込んでいた。

  しみじみ部屋を見渡すと、会津八一(あいづやいち、正しくは會津)の『観仏三昧』の書や杉本健吉の仏画が無造作に架かっている。おばちゃんに宝物の、過去の宿帳を見せてもらうと、そこには何回も登場する八一をはじめ、志賀直哉、「古寺巡礼」の和辻哲郎、亀井勝一郎、広津和郎、哲学者・西田幾多郎、映画監督・小林正樹など、著名な文化人がこれでもかこれでもかと、出てくる。日吉館の玄関先には、大手旅行会社のAizuaki3協定旅館看板ではなく、「文化庁指定の宿」という古い木札がかかっていた。また『旅舎日吉館』の看板は、会津八一(秋艸道人:しゅうそうどうじんと号した)の書である。

 

 奈良に行けば最低でも一週間は滞在したが、たまに二日酔いでお昼近くまで寝ていると、必ずおばちゃんに怒られた。はじめのうちは、母屋には泊れず、離れの増築したプレハブに寝た。おばちゃんに顔を覚えられると、母屋の2階の小部屋に通される。だから不思議な宿だった。日本全国から仏像を愛する若い人やお寺をめでる学生や瓦の研究者や売れない絵描きが、たくさん集まっていた。古美術研究のゼミの学生も多かった。 その中の常連が言う。「一日に、お寺に行くならふたつか多くてみっつ。好きな仏像があれば、まず手を合わせる。そして仏様と向き合う。人生の悩み、苦しいこと、たくさんあるだろう。日がな一日、じっくり考えること。のんびりとのんびりと過ごすこと。」

 

 お昼まで宿にくすぶっているときには、キヨノおばちゃんに追い出される前に、これまた近くの飯屋(めしや)「下下味亭(かがみてい)」へ行き、お昼にかやくごはんを食べる。日替わりの炊き込みごはんに気の効いた惣菜がつく。小さな店はすぐ満席になるため、 11時には並んだ。(現在、下下味亭はしゃれたカフェになり、カレーライスが評判だそうだ) 食後は、腹ごなしに近鉄奈良駅前の商店街へ歩く。喫茶「アカダマ」へ。奈良県ではもっとも歴史の古いお店で、自家焙煎のコーヒーはもとより、本格的な茶葉をそろえた紅茶もうまい。そのあとは、また奈良公園や興福寺あたりをぶらついて、夕方、宿へ帰る。またしても「すき焼き」(またはしゃぶしゃぶ)の夕食である。

 

 日吉館のおばちゃんは、高齢を理由に1982年引退、旅館は1995年廃業した。残念なことに田村キヨノさんは、1998年11月、88歳で天寿をまっとうした。NHKドラマ『あおによし』のモデルになったことでも知られている。(日吉館看板画像は早稲田大学會津八一記念博物館委託のもの。田村キヨノさんのご子息の承諾を得て、掲載しました)

※ 「二月堂机」については、つぎのホームページ参照

http://www.furniture-direct.co.jp/efds/nigatudo.html

| | コメント (16) | トラックバック (0)

志賀高原で手づくりジャムを

志賀高原の手づくりジャム ホテルマウント志賀

  志賀一ノ瀬に山小屋風のホテルがある。43ルームと決して大型ホテルではない。ロビーには英国風パッチワークや絵画が飾られ、明るく落ち着いた雰囲気である。もちろん、ウィンターシーズンには、スキー場が徒歩圏内だし、宿泊料金も手頃だから人気の宿だ。(一の瀬ファミリースキー場まで100m、焼額山スキー場まで800mと近い)

Photo_24

でも本当は、静かなグリーンシーズンの春から夏に行ってほしい。しゃれた館内のレストランでいただく夕食は、旬の素材を生かした和食から、中華、はたまたワインを飲みながらイタリアンまで、お客様のリクエストにあわせてくれる。

本格的なアフタヌーン・ティーを楽しみたいなら、ロビーの「アプリコット・カフェ」へ。親切なおばあちゃんが提供する自家製のパンやクッキーに、おいしい紅茶がある。

Photo_25

朝食に出すために準備した手づくりジャムがおいしい。地元の材料しか使わないジャムは、あんず・いちご・りんご・いちじく・ブルーベリーなど、すべてが果物と砂糖にレモンのみ。(りんごジャムには、香り付けでシナモンが入る)無添加である。

_edited_1

とくに「ブルーベリー」と「いちご」はおすすめ。まだ粒のまま、果実の形を残すプリザーブ・ジャム。あまりにも評判がよいので、数年前、販売することにしたそうだ。一びん320グラム。ホテルの売店で購入できる。大量生産ができない関係で断り続けていたが、いくつでもできる範囲でと説得され、ついに東京・日本橋三越で販売するようになった。インターネット販売や通信販売もしない。どうしてもほしいと熱心におねがいすれば、着払いの宅配便で送ることもあるそうだ。

家族で作るジャムだが、長野県産の果実だけを自然のまま使う。お菓子の材料にするいちごやりんごなどは、ややもすれば形がくずれたものや痛みかけたものが多い。しかしここでは、そのまま食べておいしい材料しかジャムにしない。素材を煮詰めながら徐々に砂糖を加え、甘さを決める。決して甘すぎることもない。

もうひとつ、こだわりがある。ジャムのびんのフタがなかなかあかない。自然のままで防腐剤など無縁だから、フタがゆるいと酸化してすぐ腐ってしまう。だから特注のガラスびんは、かなりきつく閉めてある。小さな紙切れが入っていて、びんを逆さにして、1分位、お湯で煮る(湯煎する)とフタがあきやすいと、書いてある。

おまけに、オーナーのめい御さんがデザインした、パッチワーク調の包装紙で飾ってある。なるほど家族で手づくりの味。わざわざジャムを買いに、志賀高原へ行くのもいいなあ。(ホテル マウント志賀 TEL:0269-34-2727)

※写真はマウント志賀、黒岩社長提供、ジャムはたろべえ撮影

※黒岩社長さんは、2011年11月逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

幻のそば

長野県中野で「まぼろしのそば」を食す

Vfsh0065 長野の志賀高原でJATA仕入部会の会議があった。前からどうしても行きたかった、中野のそば屋さんを訪ねてみた。『郷土食堂(ごうどしょくどう)』という。

 

いまでは幻といわれる富倉産の玄そばを使い、つなぎに山ゴボウの葉を入れた手打ち。

ざる蕎麦は、750円。独特な風味があって、短く食べやすい。本しめじの天ぷらと名物の「笹寿司」も頼む。テーブルが2つと座敷。地元の人ばかりだ。

 昔は飯山(奥信濃)に行かなければたべられなかったそうだ。茶色のそばは、実にうまい。歯ごたえがある。また季節の本しめじの天ぷらも肉厚でおいしい。

Vfsh0066_1

        郷土食堂(ごうどしょくどう)

        長野県中野市東吉田

        TEL:0269230388(FAX兼用)

        国道292号線新井の信号から長野電鉄飯山口踏切手前

■ 営業時間 11:00~17:00(毎週木曜日定休)

        手打ちざるそば750円、

  本しめじ(山菜)天ぷら300円、

  笹寿司(1個)105

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »