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忘れがたき奈良の宿 いにしえの日吉館

 ちょっと格好をつけて古美術などに興味をもっていた大学生の頃、奈良に常宿があった。近鉄奈良駅を降りて登大路を東へ、奈良公園を抜けて大仏殿方向へ歩く。県知事住居の先、氷室神社の手前、国立博物館の真向かいにある、いかにも古めかしい商人宿といった風情の日吉館(ひよしかん)である。  

  いまから30年近く前で、1泊2食付の2,000円。夕食には決まって「2_3 すき焼き」が出る。部屋はほとんど小部屋で、四畳半に煎餅(せんべい)布団を敷き詰めて5、6人はあたり前の相部屋。風呂は狭く、男女兼用で一箇所しかないため、時間交代制。仲間を誘って近くの銭湯へ行くのが常識であった。手洗いは旧式のため、朝などは用を足すために歩いて大仏殿のバス駐車場にある、水洗トイレに通った。2階へあがる階段や廊下は、老朽化のためミシミシと泣き、冬にはすきま風が、容赦なく吹き込む。まだ底冷えのする東大寺二月堂の「お水取り」の時期などは、満館で、玄関のあがり口の板の間に寝たこともある。とにかく館内で暖房といえば、炬燵(こたつ)と丸火鉢のみである。

 

  なぜ、こんな日吉館に何度も通ったのかといえば、そこには「常連」と称する古美術を愛する同好の仲間達がいて、しかも日吉館そのものにかけがえのない歴史があったからだ。 また、この宿を守る名物女将(おかみ)の田村キヨノさんがいたからでもある。この「おばちゃん」は、まったくもって商売っ気がない。一見(いちげん)はお断りで、常連客の紹介がなければいかに部屋が空いていようが、泊めてくれない。当時、早稲田大学の古美術研究会に知合いがいたので紹介で、(違う大学の自分でも)泊めていただいた。それに毎日の夕食には、大量の牛肉と大盛り野菜の「すき焼き」が出た。砂糖をたくさん使う、関西風のものだ。街中(まちなか)でたべれば、すき焼きだけでも3,000円は下らない。しかも食卓は由緒ある特注「二月堂机」(東大寺二月堂で修行僧が使用する、幅1mくらいの黒うるしの座り机)である。朝食は、味噌汁と副菜が一品だが、奈良漬が山盛り。南大門そばの「森漬物店」の酒の効いた、この奈良漬が絶品である。 館内では原則として禁酒。(大学のゼミの先生が一緒のときは、ビールや日本酒が飲める)理由は「勉強するために奈良に来ているから」学生さんは禁酒。それでも日吉館の隣には、酒屋があったのでこっそり缶ビールを持ち込んでいた。

  しみじみ部屋を見渡すと、会津八一(あいづやいち、正しくは會津)の『観仏三昧』の書や杉本健吉の仏画が無造作に架かっている。おばちゃんに宝物の、過去の宿帳を見せてもらうと、そこには何回も登場する八一をはじめ、志賀直哉、「古寺巡礼」の和辻哲郎、亀井勝一郎、広津和郎、哲学者・西田幾多郎、映画監督・小林正樹など、著名な文化人がこれでもかこれでもかと、出てくる。日吉館の玄関先には、大手旅行会社のAizuaki3協定旅館看板ではなく、「文化庁指定の宿」という古い木札がかかっていた。また『旅舎日吉館』の看板は、会津八一(秋艸道人:しゅうそうどうじんと号した)の書である。

 

 奈良に行けば最低でも一週間は滞在したが、たまに二日酔いでお昼近くまで寝ていると、必ずおばちゃんに怒られた。はじめのうちは、母屋には泊れず、離れの増築したプレハブに寝た。おばちゃんに顔を覚えられると、母屋の2階の小部屋に通される。だから不思議な宿だった。日本全国から仏像を愛する若い人やお寺をめでる学生や瓦の研究者や売れない絵描きが、たくさん集まっていた。古美術研究のゼミの学生も多かった。 その中の常連が言う。「一日に、お寺に行くならふたつか多くてみっつ。好きな仏像があれば、まず手を合わせる。そして仏様と向き合う。人生の悩み、苦しいこと、たくさんあるだろう。日がな一日、じっくり考えること。のんびりとのんびりと過ごすこと。」

 

 お昼まで宿にくすぶっているときには、キヨノおばちゃんに追い出される前に、これまた近くの飯屋(めしや)「下下味亭(かがみてい)」へ行き、お昼にかやくごはんを食べる。日替わりの炊き込みごはんに気の効いた惣菜がつく。小さな店はすぐ満席になるため、 11時には並んだ。(現在、下下味亭はしゃれたカフェになり、カレーライスが評判だそうだ) 食後は、腹ごなしに近鉄奈良駅前の商店街へ歩く。喫茶「アカダマ」へ。奈良県ではもっとも歴史の古いお店で、自家焙煎のコーヒーはもとより、本格的な茶葉をそろえた紅茶もうまい。そのあとは、また奈良公園や興福寺あたりをぶらついて、夕方、宿へ帰る。またしても「すき焼き」(またはしゃぶしゃぶ)の夕食である。

 

 日吉館のおばちゃんは、高齢を理由に1982年引退、旅館は1995年廃業した。残念なことに田村キヨノさんは、1998年11月、88歳で天寿をまっとうした。NHKドラマ『あおによし』のモデルになったことでも知られている。(日吉館看板画像は早稲田大学會津八一記念博物館委託のもの。田村キヨノさんのご子息の承諾を得て、掲載しました)

※ 「二月堂机」については、つぎのホームページ参照

http://www.furniture-direct.co.jp/efds/nigatudo.html

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旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。あること検索していたらこちらのページがヒットしたのですが、検索した目的とは違うことで書き込んでいます。

下下味亭、とても懐かしい名前です。
8年ほど前まで奈良に住んでいましたが、ここのお店には親子でよく行きました。

炊き込みご飯とおかずがおいしくて、しかも値段も安くてびっくりでしたね。
今では有名店になってしまった釜飯屋「志津香」とともに、奈良の名店だと思っています。

奈良もどんどん変わっていきますね・・
手打ち蕎麦の店が増えてきたのは嬉しいですけど。

投稿: koppel | 2007年1月22日 (月) 01時00分

koppel様
 ご来館ありがとうございます。
奈良の下下味亭、なつかしいですね。
先日、大阪出張の折、無理して奈良経由で行き、行きました。日吉館は、いまだに窓や扉は閉鎖されていますが、建物はそのまま残っています。

 下下味亭は、しゃれたカフェレストランになっていて、お店は2階。あまりにも思い出と違うので中に入れませんでした。(有名な名店だそうですね)

koppelさんのブログを拝見しましたが、それにしても写真がきれいですね。感動ものです。

投稿: もりたたろべえ | 2007年1月22日 (月) 12時17分

もりたたろべえ様
はじめまして。
日吉館で検索し、ここにたどりつきました。
私も日吉館によくとまって、毎年二月堂のお水取り、春日大社の万灯篭などに通っていました。懐かしいですね。
私は食事があった頃の最後の時代(昭和50年代)から最後までという期間に出入りしていました。
今考えると日吉館があったことは奇跡でしたね。今でも時折奈良に行きますが、日吉館の前を通るとさびしくて胸がしめつけられるような感じがします。
日吉館についてかかれたHPは案外少ないので、ここを拝見して思わず投稿させていただきました。また遊びにきます。

投稿: 百鬼○ | 2007年11月 9日 (金) 13時41分

百鬼○さん

コメントありがとうございます。
私が日吉館に通っていたのは、昭和48年頃から53年頃だと思います。もしかするとお会いしているかもしれませんね。

 あの頃の日吉館の常連だと、名古屋の石焼きいも屋さんで、焼き物(陶器)をやっていたお兄さんやいつも和服を着ていて小柄な拓本家のおじいさんがいました。

またのおこしをお待ちしています。

投稿: もりたたろべえ | 2007年11月 9日 (金) 18時49分

eyeglassはじめまして もりたたろべえ様
 私は奈良に住むソプラノです。日吉館の前はいつも当たり前のように車で通ります。会津八一の「かすがのに」「おほらかに」に曲を付けて歌いましたところとっても素敵な歌が出来ました。益々会津ファンになりました。奈良のことをもっと知って「奈良」を題材にしたものや短歌俳句を歌うことをライフワークにしていこうと思っています。和の美学ですね。

投稿: まさおかという猫 | 2009年1月 5日 (月) 17時08分

まさおかという猫さん
コメントありがとうございます。houseschool

八一の和歌に曲をつけていらっしゃるとのこと、譜面を見せていただきたいですね。すばらしいと思います。

 私もこのブログで「日吉館」のことを書きましたが、実に多くの方々にコメントをいただき、まさに同時代に奈良に興味をもち、青春?を謳歌していたことをなつかしく、自慢にさえ感じます。

投稿: もりたたろべえ | 2009年1月 5日 (月) 17時42分

4月の潅仏会では奈良のお寺にて境内で「会津八一・奈良を詠う」ソプラノコンサートしますね。昨年クリスマスの日に能楽堂でチェロとピアノと歌で「かすがのにおし照る月のほがらかに秋の夕日となりにけるかも」「おほらかにもろての指を開かせておほき仏はあまたらしたり」に曲を付けて歌いました。
 浜松では昨日、会で薬師寺さんとご一緒して帰りの新幹線も一緒で私は今 「会津八一の歌境」喜多上さんの本を読んでいますと話をして帰ってきました。
 この本はすばらしいです。

投稿: まさおかという猫 | 2009年1月18日 (日) 18時32分

まさおかさん ありおがとうございます。

会津八一の歌境 ですね。さっそく読んでみます。

投稿: もりたたろべえ | 2009年1月19日 (月) 22時38分

日吉館を検索してこちらに参りました。高校時代古美術研究で泊まらせて頂きそのご縁で社会人になってからキヨノさんに頼まれ屋号入りで藍染の暖簾を染めた事があります。泊まった時寒かったのでこの時期になると思い出します。下下味亭も懐かしい思い出です。入口に子供お断りと書いてありましたね。私もこれから少しずつ旅行がしたいので素敵なブログをお気に入りに入れさせて頂きました、ゆっくり拝読させて下さい、お礼まで。

投稿: うっかり八兵衛 | 2009年2月14日 (土) 01時53分

うっかり八兵衛様

 コメントありがとうございました。
日吉館は、私の青春の思い出です。いまでも当時の建物がそのまま残っているのも驚きです。確かに「お水取り」の頃は、混んでいて寒くて大変でした。なかなかまともな部屋に泊った経験がないですね。

藍染の「のれん」、写真でも残っていれば、見せてください。

投稿: もりたたろべえ | 2009年2月14日 (土) 07時24分

お染したのは1986年頃でした。3つ割れで真中に日吉館という字を絞りで白く染め分けたデザインです。生憎すぐに写真が出て来ません、納品前夜に一枚だけ撮った記憶があります。何でもキヨノさんが子供の頃、絞り染めが憧れだったらしく是非に、という事でお作りしました。申し訳ありません。

投稿: うっかり八兵衛 | 2009年2月15日 (日) 00時41分

うっかり八兵衛様

 ステキな「のれん」、ぜひ拝見したいものです。
それにしても日吉館については、当ブログでも皆様からのアクセスが多くうれしい限りです。時間をみつけて、またネタを書かせていただきます。しかし、意外に当時の写真が手元にないのです。あれだけ泊ったのに、夕食の「すき焼き」や部屋での写真がありません。

投稿: もりたたろべえ | 2009年2月16日 (月) 11時22分

日吉館で検索してこちらへ来ました。

私は1976年早稲田の古美術研究会に入部し、その後ずっとお世話になっていました。

名古屋の焼き芋屋のお兄さん、今陶芸家としてこんな活躍をしています。

http://blogs.yahoo.co.jp/cafe_teida/36264230.html

投稿: kawata | 2012年11月30日 (金) 14時11分

kawata様beerコメントありがとうございます。
あの焼きいも屋のお兄さん(角岡秀行さん)
が、陶芸の道に進んでいあたとは、驚きです。随分、日吉館で話をしましたから。

 実はこの記事、多くの新聞や旅行雑誌に転載されました。反響が大きくてびっくりでした。まだまだみなさんの心に日吉館は残っているのですね。

投稿: もりたたろべえ | 2012年11月30日 (金) 18時36分

日吉館を忘れられない者の一人です。

奈良が好きで、高二の時に知人に伴われて日吉館に止まってからあと
親は女の子の一人旅に反対で、バイトして貯めたお金でよくおばちゃんの処へいきました。78年に最後に訪れてから後 ドイツに来て そのまま居ついた私は、日本を訪れる事も少なく 奈良には2007に行って日吉館がまだ残っているのを嬉しく思いました。取り壊しの事は例の知人(彼は3月に逝きました)にきいていましたが、会津八一の碑のことは今日初めて識りました。ありがとうございます。こちらにきて30年以上経っても
おばちゃんと日吉館の煎餅布団 みんなでつついたすき焼きを おもいだしす。おばちゃんは 私が殆どいつも一人で訪れるので、帰りがおそくなるといつも 待っていてくれました。あのころはうっとおしかった物が、今では良い思い出です。この処こちらで日本の歌を歌う機会が増えてきました (わすれましたが、歌い手です。) 次の機会には おばちゃんを偲んでうたいます。

投稿: ナオミ | 2013年5月 3日 (金) 16時14分

ドイツのナオミさん
コメント感謝します。日吉館を愛する人が多いので驚いています。活躍を期待していまし。

投稿: もりたたろべえ | 2013年5月 3日 (金) 23時03分

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