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2006年10月の12件の記事

世界遺産 合掌造り集落 白川郷へ行く

 飛騨高山には何度も行ったが、今回はじめて《白川郷》に行ってきた。

1995年、世界遺産(文化遺産)に登録された合掌(がっしょう)造りの集落がある。Photo_77

 岐阜県大野郡白川村荻町に59棟の合掌造りの建物が現存している。ここは人々が生活している村でもある。実は、ユネスコに世界遺産として登録されたのは、《白川郷》だけではなく、同じ庄川の流域の狭い段丘に築かれた《五箇村》の「相倉」と「菅沼」の合掌造り集落も含まれている。(こちらは富山県南砺市)

いまでこそ、高速道路が整備され、高山から白川郷まではマイカーやバスで、

2時間程で行くことができるが、それでもなお、平野部からは遠く離れた山間部にこれらの集落がある。(相倉には24棟、菅沼には9棟の合掌造り集落あり)

 白川郷では、公開されている合掌造りの家のひとつ、最大級の『和田家』を見学。館長の和田正人さんにお話をうかがった。(息子さんである)

(合掌造りと呼ばれるには)

1 茅(カヤ)葺きであること

2 切妻屋根であること

3(伊勢神宮のようにA形の)サス構造であることPhoto_79

 歴史的にはいまから300から400年前、江戸時代につくられたようだ。この地方は、冬は豪雪地帯だ。1981年には積雪が4m50cmにもなった。二層、三層には蚕棚をおき、養蚕をしていた。屋敷の構造から、風通しをよくするためと、陽射しを取り入れるため、表と裏(南北)に大きな窓をつけてある。夏涼しく、冬は暖かく過ごす工夫だそうだ。

 驚いたことに内部は、屋根裏が広い。太い丸太の横棒と縦木にスジカイの木々が組み合わされているが、釘(金具)は使われてはいない。すべて縄と木の皮である。(木の皮はネソ:マンサクと呼ばれる)風や地震にも強い柔軟な構造になっている。むしろ一番怖いのは、火災であるそうだ。(そのためこの地区には、消火栓と放水銃の防火小屋が55もある)Vfsh0180

 屋根は60度の傾斜角度がある。冬場の雪を意識した構造だ。それでも30年から40年に一度、茅を葺き替える必要があるというのも驚く。材料のカヤは、村でも栽培しているが、不足分は富士山の麓から運ぶそうだ。平均的な合掌造りの民家の屋根に必要なカヤは4トントラックで20台分。費用は2000万円もかかる。

 もちろん国の重要文化財であり、世界遺産であるから、国・県・市町村から補助金が出るため、個人の負担は1割程度で済むというが、200万はかかるということだから、決して安くない。カヤ葺きも《結:ゆい》という、共同作業で、必要日数は2日、延べ200人でおこなう。

 和田さんに質問してみた。

「大人300円の入場料収入で食べていけますか」

これは、なんとかなるそうだ。農業や林業で生計を立てていた村も世界遺産登録によって、産業構造も大きく変化し、観光業に移っている。白川郷への観光客は、年間144万人。民宿が21軒あるが、(村内に宿泊するのは5%で)ほとんどが日帰り。

「毎日、朝9時から夕方5時まで、自分の家の中を観光客があがり込むって、あんまりいい気分ではないですよね?」

実際に民家内に寝泊りしているのは、館長さんのご両親だけで、自分たちは近くに家を借りて住んでいるそうだ。そうでなければ子供を育てられないそうだ。

 いずれにせよ、国の重要文化財に指定されているため、家のどこかがこわれても勝手に修理することもできず、すべて申請をしなければならないそうだ。もちろん家を売ったり買ったりすることはできない。こういった生活も大変だ。しかし、歴史ある文化を守り、次の世代にしっかり伝えていく姿勢には好感がもてた。

 白川郷は真冬の1月末から2月中の週末、ライトアップをして幻想的な風景を作り出す。年間でもっとも観光客が少ない時期に旅するのもよいかもしれない。それから、忘れられた世界遺産の《五箇村》にも足を伸ばしたいものだ。

白川郷の全景は、城山展望台(昼食施設『天守閣』)から写したもの。ポスターやパンフレットの画像は、すべてここから撮影したものだ。

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※写真上は白川郷観光協会提供(残り3枚はたろべえ撮影)

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悠仁親王のお印《高野槇》と栗きんとん

岐阜県でおこなわれた『ぎふDCキャンペーン全国宣伝販売促進会議』に出席した。来年200710月から12月、JR6社を中心に「岐阜キャンペーン」を全国的に展開する。会議終了後の懇親会の会場に中津川のブースがあった。

 今年ご誕生あそばされた秋篠宮様の第一男子、悠仁親王(ひさひとしんのう)のお印(しるし)は、《高野槇》(こうやまき)で、しかも岐阜県中津川市の市の花であった。中津川観光協会は、これを記念して観光パンフレットを入れる紙袋をつくった。(写真)Photo_75

 《高野槇》は大きくなると高さ30mにも成長する常緑針葉樹である。まっすぐに育っていく。木曽五木の一つとして、湯桶や手桶に加工される高級木材だそうだ。

 恥ずかしい話だが、中津川は「長野県」とばかり思っていた。この時期、岐阜の中津川には名物があった。和菓子で「栗きんとん」である。中でも全国的に有名なのが、「川上屋」。国内産の栗を荒く砕いて餡(あん)に炊き上げ、そのまま茶巾で絞る。自然の栗色で香りが豊かだ。食べてみるとほんのりした甘さでやわらかい。栗のツブツブが残り、ひなびた郷愁を誘う。

 10個入りで2,153円。決して安くはないが、おいしい。通信販売もあるが、全国有名百貨店でも売られているようだ。この栗きんとん、実は秋篠宮様の大好物らしい。栗きんとんと《高野槇》の密接な関係である。Photo_76

    御菓子所 川上屋

    岐阜県中津川市本町3-1-8

    TEL:0573(65)2072

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《武田信玄の隠し湯》甲斐の国編

武田信玄の隠し湯 甲斐の国編

 1521年113日武田信玄は、現在の山梨県甲府市上積翠寺町にある、「積翠寺」で生れた。このお寺の本堂裏手に《信玄公産湯の井戸》がある。Sekisuijiidoubuyu

 当時、駿河の今川氏の武将・福島正成が甲斐に侵入し、飯田河原で武田軍(信玄の父・信虎)と激戦を繰り広げた。(飯田河原の合戦)身重であった信虎の正室・大井夫人は、住居であった「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」(現在の甲府市内にある武田神社)から、信虎の居城であった要害山(要害城)へ避難する折、この積翠寺で晴信(信玄)を出産したという。

 

信玄の出生地については、「要害山」の説もある。いずれにせよ、積翠寺温泉の産湯をつかったようだ。「要害」とは、険しい山々に囲まれ、前方は見晴らしがよく、遠くまで視界が開いているため、敵軍の攻撃に対しての防御は固い。その地に武田軍の居城を築き、山麓には傷病の兵を癒す「積翠寺温泉」(鉱泉)があった。

 生れたときから温泉に縁のあった信玄は、とくに温泉好きであったようだ。ほとんど毎日のように戦いの続く戦国時代にあって、傷つき疲労した兵士の治療や休養のため、温泉・鉱泉を探した。また調べてみると、武田家の蓄財のために、多くの金鉱山の採掘をおこない、鉱夫のために温泉療法を施した。強固な武田の城下町を形成したり、武器や人馬を集める費用は、莫大だったに違いない。

《武田信玄の隠し湯》は、調べた限りでは、山梨、長野を中心に25以上30箇所近くもあるようだ。山梨県内が9箇所、長野県内が15箇所、神奈川・静岡・岐阜に各1箇所で合計27箇所。この他にも信玄隠し湯伝説や信玄ゆかりの温泉・鉱泉を加えれば、おそらく30箇所を超えるだろう。 

中でも「武田信玄かくしの湯の源泉始祖」と主張する『下部温泉 古湯坊源泉館』には、信玄をはじめ、武田家からもたらされた書状がいくつか残されていて、もはや伝説ではなく、史実である。Photo_75gensenkansyojo_1 (書状には晴信:信玄の署名と花押がみえる)

下部温泉は信玄公が川中島の戦いの折、上杉謙信からうけた肩の傷を癒したと伝えられて以来《武田信玄の隠し湯》として余りにも有名だが、古湯坊源泉館に伝わる古文書はすばらしい。信玄やその父、信虎の免状が残っている。川中島をはじめ各地の戦さで負傷した多くの武将が下部の温泉で傷を癒した。 

当時の武田軍は最重要の治療施設であった源泉館の岩風呂に対し、土地浴場の免状を発行して手厚く保護していた。いまでいえば営業許可証である。とくに信玄が、川中島合戦の傷を源泉館の岩風呂で治癒したという言い伝えが残っているが、数々の古文書はこれがただの伝説ではないと思わせる重みがある。

さらに武田家の菩提寺・恵林寺の北、笛吹川渓谷に「川浦温泉」がある。雁坂トンネルを越えれば、すぐ秩父だ。この川浦こそ、信玄が第4回目の川中島合戦に備え、恵林寺の有名な快川国師に命じて湯屋を造営させ、傷病兵の治療に用いた温泉場である。しかもここ川浦温泉の「山県館」は、武田二十四将の一人、山県昌景の子孫が現在も経営している。Photo_77kawauragaikan

400年以上も残る《武田信玄の隠し湯》は、単たる言い伝えや伝説ではなく、歴史のロマンなのかもしれない。次回は隠し湯の宝庫・信濃を探る。Photo_76kawaurafuro

(書状は、下部温泉・古湯坊源泉館、川浦温泉画像は山県館提供)

《信玄の隠し湯》山梨 ※温泉名・所在地・コメント・施設例(旅館など)

たろべえ調べ

下部温泉(しもべ)/山梨県南巨摩郡身延町/JR身延線下部温泉駅から徒歩10分

武田信玄が川中島の戦いで受けた刀傷を癒したと伝わる。切り傷・骨折に効く。

開湯は約1,200年前。毎年5月に信玄公かくし湯まつり(信玄武者行列など)。

下部ホテル0556(36)0311/古湯坊源泉館0556(36)0101

増富温泉(ますとみ)/山梨県北杜市須玉町/JR中央本線韮崎駅から増富温泉行きバス1時間終点下車、徒歩10~15分

武田信玄が金の採掘をした折に鉱泉を発見したといわれる。ラジウム鉱泉。

湯治場。

古湯金泉湯0551(45)0211

湯村温泉(ゆむら)/山梨県甲府市湯村/JR中央本線甲府駅から昇仙峡行きバス10分、湯村温泉入口下車

(甲府市)県庁所在地に湧く温泉。武田信玄が負傷した兵を治療させたという記録が残る。

旅館柳屋055(253)2416

積翠寺温泉(せきすいじ)/山梨県甲府市上積翠寺町/JR中央本線甲府駅北口から

送迎あり

信玄の父・武田信虎が築城した要害山の麓の温泉。信玄が産湯をつかった。兵の傷を癒すのに用いられた。源泉は18度と低温。

(旅館)要害055(253)2611/(旅館)坐忘庵055(252)3211

西山温泉(にしやま)/山梨県南巨摩郡早川町西山温泉/JR身延線身延駅から

奈良田行きバス95分西山温泉下車

1,300年前の慶雲年間の開湯。武田信玄や徳川家康をはじめ、多くの戦国武将が湯治に訪れたという。泉質はナトリウム、カルシウム、硫酸塩で、効能は胃腸病、神経痛、慢性リュウマチ、創傷など。

西山温泉慶雲館0556(48)2111

川浦温泉(かわうら)/山梨県山梨市三冨川浦/JR中央本線塩山駅南口からバス50分川浦温泉下車

笛吹川渓谷にある。武田信玄が、恵林寺の快川国師に川中島の合戦(第4回1561年)に備えて湯屋の造営を命じ、傷病兵を治療させた。武田二十四将の一人、山県三郎右兵衛尉昌景(やまがたさぶろうひょうえのじょうまさかげ)の子孫が経営している。

山県館0553(39)2111

岩下温泉(いわした)/山梨県山梨市上岩下/JR中央本線春日居町駅から徒歩15分

山梨県下最古の温泉。1,700から1,800年以上の歴史をもつ「霊湯」と呼ばれ、武田信玄の隠し湯ともいわれる。源泉は28度と冷たいが加温した湯船もある。

岩下温泉旅館0553(22)2050

橋倉鉱泉(はしくら)/山梨県大月市賑岡町奥山67/JR中央本線大月駅からバス桑西行き20分上真木下車徒歩25分

信玄・勝頼の2代に仕えた武田家臣・小山田信茂が発見したといわれる。近くの杉沼の金鉱採掘に従事した人々を療養させたと伝えられている。

心のふるさと橋倉0554(22)5411

金山鉱泉(かねやま)/山梨県大月市賑岡町奥山1422/JR中央本線大月駅からタクシー20分

武田家の隠し金山で金鉱の採掘に従事した鉱夫たちを療養させたと伝えられている。湯治場。

山口館0554(22)3398

※小さな鉱泉宿もあります。お客様が直接、予約しておでかけください。また、日帰り入浴についてもご確認ください。

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甲斐のくに・山梨の名物は鮑(あわび)という意外性【その2】《中道往還》

  駿河湾で採れた「あわび」を醤油樽に詰めて、馬の背に乗せて甲斐まで運んだ話だが、《中道往還:なかみちおうかん》は歴史的な甲斐の古道だそうだ。

少し長くなるが、大変わかりやすいので説明文を引用する。

(山梨県・右左口峠:うばぐちとうげにある中道往還の看板より)

この道は甲斐の古道の一つで若彦路と河内路のちょうど中間を通っていたことから中道往還と呼ばれてきました。

 甲州(山梨県)より駿州(静岡県)吉原、沼津に通じ、文化の交流、価値の高い物資の運搬など、どの道よりも早く往来できましたので「いさば」(魚介類の道)としても多く使われてきました。

 甲州名物の煮鮑の道でもあったこの道は、現在もその様子を残し、石畳や馬頭観音の石像や伝説のある「強清水」など交通の要路であったことを表しています。

 また、中世には武田信玄公、織田信長、徳川家康などの戦国の武将たちも兵を率いてこの道を往来しました。

Photo_74  《中道往還》のルートをたどると、駿河・吉原~厚原~大宮(宿場町)~

北山(ミニ宿場)~上井出(宿場)~人穴~根原~本栖・精進(宿場)~

右左口

(

うばぐち

)

(宿場)~甲府  の全長20里(約80km)であった。商品輸送のための街道としては、駿河と甲州を結ぶ最短路であった。もっとも急いだ例として、静岡の沼津に朝あがった魚は吉原へ届くのが、午後4時頃で、そのまま《中道往還》を人馬が歩き、いくつもの峠や難所を越えて、右左口で夜明けを迎え、甲府には午前7時には着いたそうだ。

このように駿河からは、海産物や塩が運ばれ、甲州からは名産の絹織物(甲斐絹)や竹細工製品が運ばれた。(別名いさばの道、塩の道と呼ばれる)

また、案内看板にあるように戦国時代には「軍用道路」として、武将が兵を率いて通過した。右左口宿は、武田家滅亡後、徳川家康が整備した宿場としても知られている。

《中道往還》の道中には、道祖神や庚申塔をはじめ、旅の途中で急死した馬をともらうために馬方たちが建てた「馬頭観音」(石塔)も見受けられるそうだ。

道端の石を積み上げただけの粗末なものも多かったに違いない。01ubaguchijuku

(地図は富士宮市の観光パンフレットから、右左口宿画像は甲府市観光課提供)

  中道往還(なかみちおうかん)について、つぎの資料を参考にしました。

富士宮市ホームページ「駿河と甲州を結ぶ古道」

http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/e-museum/kodo/kodo1-11.htm

国土交通省甲府河川国道事務所「中道往還」

http://www.ktr.mlit.go.jp/koufu/kai/kai_michi/kodo/ind05.htm

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甲斐のくに・山梨の名物は鮑(あわび)という意外性【その1】

 山梨には海がない。山なしではなく山ばかりだ。これはうまい!と太鼓判を押せるのは《鮑の煮貝:あわびのにがい》である。高価な食品だけに、甲府周辺や石和温泉の旅館の夕食にもせいぜい2、3切れしか出でこない。鮑を醤油で煮た「煮あわび」である。(200グラムで5,000円以上の高級食材)Photo_72

 甲府の“創業400余年、煮貝の元祖”『みな与』によれば、《鮑の煮貝》の由来はつぎのようなお話だ。1860年頃(江戸時代末期)、現代のような交通手段もなく、冷凍・冷蔵の設備もない時代には、山や谷をいくつも越えなければならない甲斐の国に、新鮮な海の幸を運ぶことはできません。せいぜい干物や塩漬けの魚類、乾物に限られていました。当然、豪華な「あわび」など、甲府の人々の口には入りません。そこで『みな与』の6代目が、あわびの産地の駿河や伊豆の網元と加工研究し、「煮貝」の製法を完成させたそうです。Ichiran_nigai2

 駿河湾や伊豆半島で採れた「あわび」を醤油樽に詰めて、馬の背に乗せて甲斐まで運んだところ、程よく揺られ、馬の体温で温められ、甲府に到着する頃には、醤油がよく染み、素材の旨みが加わり、おいしく仕上がったとのこと。

 また別の業者の宣伝文句には、

「鮑と戦国武将といえば、甲斐の武田信玄の煮貝です。こちらは今でも山梨の名産品として残っています。武田信玄が今川領を攻め取り、富士川河口あたりを領地にしていた頃、鮑を駿河湾で採り、醤油に漬けて甲斐に持ち帰ったのが起源です。」と、どうしても信玄に結びつけたいようだが、信憑性はまったくない。(信玄が甲州と駿河間を往来していたのは間違いないが)

 Nigai_history 駿河湾沿いの富士市(吉原)から甲府までの陸路だが、最短距離として、有名な古道《中道往還》が残っている。富士から富士宮、旧上九一色村、精進湖そして右左口峠(うばぐちとうげ)を経て、甲府へ。距離は約80kmだが、険しい峠をいくつも越えなければならない。駿河産の塩や海産物を馬の背に載せて運んだルートだ。ちなみに「馬」の平均体温は、37.5度。しかも大汗をかく。走ったりすれば、すぐに5度位は上昇するという。これが、《鮑の煮貝》の熟成に役立ったようだ。(参考に人間の体温は36度だが、牛・犬・猫は38.5度、ブタが39度、やぎ・羊も39度でニワトリが42度だそうだ。農林水産省提供)

※《中道往還》については次回に取り上げます。

※鮑の煮貝・馬のイラストは《みな与》提供、上画像は石和の慶山提供)

    みな与 山梨県甲府市中央3-11-20 TEL:055(235)3515 

    http://www.minayo.co.jp/ (老舗だが、通販の注文もできる)

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甲州の代表的な郷土料理《ほうとう》 武田信玄の陣中食だった!?

甲州の代表的な郷土料理《ほうとう》 武田信玄の陣中食だった!?

 山梨(甲府周辺)の郷土料理といえば、《ほうとう》鍋だ。小麦粉を練った極太で平たい麺を野菜と共に煮込む。味付けは味噌だ。「野菜入りの味噌煮込みうどん」と表現した方がわかりやすいかもしれないが、甲州人は断じて「うどん」ではないという。とくに味噌仕立てのスープに溶けたトロトロのカボチャが入った「かぼちゃほうとう」が人気である。Photo_71

 具としての野菜は、カボチャのほか、ジャガイモ、里芋、白菜、ネギ、ごぼう、にんじん、椎茸やしめじなど、その時の、旬の野菜でよいとされる。豚肉や鶏肉を入れるのもよい。信玄の陣中食・野戦食といわれる由縁は、戦(いくさ)に小麦粉と味噌を持参して、その地にある野菜を調達すればすぐ調理ができ、栄養価も高く、腹持ちもよいからだ。

 本当に信玄がほうとうを推奨したかどうかの真偽の程は、明らかではないが、確かに甲斐の国(山梨)の甲府盆地は、地理的に山が多く水田は少ない。米は貴重だった。奈良から平安時代に中国の禅宗の僧が、「うどん」と同時に「ほうとう」を日本に伝えたのがルーツらしい。

 《ほうとう》は正式には「饂飩(はくたく)」と記す。「はくたく」→「はうたく」→「はうたう」→「ほうとう」に変化したらしい。俗説の「放蕩」(息子)や(伝家の)「宝刀」に由来するというのは、根拠がないそうだ。

ちなみにうどんも「饂飩」と表記するが、ほうとうは、決して「うどん」ではなく甲州の郷土料理である。また北関東の麺文化では、山梨近郊の群馬県には醤油味の

「おっきりこみ」(やはり幅の広い平打ちの麺に野菜が各種入る)がある。群馬に近い埼玉県北西部や秩父などにも同様な郷土料理が存在する。長ネギで有名な埼玉県北部の深谷市では、同じ田舎料理を「煮ぼうとう」と呼んでいる。

※写真は山梨の志村製麺さん提供(通信販売で申し込める)

http://www.bidders.co.jp/dap/sv/nor1?id=22789312&p=y#body

kome

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大阪 現在も生き続ける・太陽の塔

大阪こぼれ話 現在も生き続ける・太陽の塔Photo_70

 大阪出張で千里へ行った。大阪の中心部から北へ約12km、豊中市と吹田市に広がるニュータウン。千里中央から大阪モノレールに乗り、万博記念公園駅前のホテル阪急エキスポパークを訪れた。ホテルから万博記念公園をみる。そこには、いまもなお、岡本太郎の代表作《太陽の塔》が、ウルトラマンのように力強く立っていた。

(岡本太郎:19111996

 万国博覧会の開催は1970(昭和45)年。太陽の塔は、万博のシンボルとして建てられた。高さは70m、横に広げた腕の長さは25m。この塔には3種類の太陽の顔が刻まれている。頭の部分の金色に輝く顔は「未来の太陽」、お腹の部分の機嫌が悪い少しひねた顔が「現在の太陽」で、正面からは見えないないが、うしろのお尻の部分に愛嬌のある「過去の太陽」の顔が描かれている。以前、テレビでみたが、この他に実は塔の地下部分に4番目の「太古の太陽」の顔」があったそうだが、現在は行方不明とのこと。(確か兵庫県内にあるらしい)

Photo_68  この塔は近くでみても迫力があるが、遠くからでもその存在感の大きさに驚く。青い空や付近の緑の林に溶け込むことなく、生き様をさらしている。なんだか勇気をもらった気分だ。(写真はホテル阪急エキスポパークから撮影)

 また「千里ニュータウン」は、日本初の大規模ニュータウンとして、計画人口15万人を目指し、昭和36年から開発が始まった。昭和45年の万博に向け、鉄道網も整備され、道路網も大阪中央環状線をはじめ、近辺には名神高速、中国自動車道、近畿自動車道などが走っている。

 しかしあれから40年。地域住民の高齢化が進み、初期の住宅も古くなった。激しい交通渋滞による大気汚染もひどい。いまモノレールに乗って、ニュータウンを上からながめると、残念ながら「死んだ街」である。活気がない。

そうはいっても、大阪に行く機会があれば、足を伸ばして太陽の塔に会いにいってほしい。それから最近、太陽の塔とほぼ同時期に製作された岡本の巨大壁画《明日の神話》が発見され、修復後一般公開された。こちらは、原水爆の残酷さをアピールした作品だそうだ。Photo_69

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大阪たこ焼きミュージアム

大阪こぼれ話 大阪たこ焼きミュージアム

 大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ行った。駅からUSJのゲート前にはシティウォークという飲食街や土産屋がある。そこに平成18年7月、《大阪たこ焼きニュージアム》がオープンした。「大阪の食文化を代表する」する、たこ焼き店を5店舗集めた。もちろんその場であつあつを食べることもできるし、「おみや」にもできる。Takotako

そこで昼時だったので一番混んでいた「道頓堀くくる たこ家」へ入る。出し汁につけて食べる「明石焼きセット」(ソフトドリンク付き、たこ焼き10個で710円)を注文。なかなかのものだ。

お店の能書きによれば、直径5cmの大きなたこ焼きには、プリップリの旨みたっぷりの大粒タコが使われ、香り、歯ざわりのよい金山寺ネギ、紅生姜、天カスを入れた特性のふんわりした生地を一層おいしくしている。通常のたこ焼きの仕上げは、白ワインをかけている。「ふわっとした焼き上がりで中はジューシー」だ。

ミュージアムには、「くくる」のほか、本家会津屋、アメリカ村甲賀流、十八番、芋蛸の合計5店舗が集結している。またここには、商売繁盛の神様「今宮戎(えびす)」をおまつりした、たこ焼き戎神社」がある。Takomuseum

 さて、たこ焼きだが、昼食には少しものたりない感じだが、生ビールのつまみにはよい。今回は仕事がらみなので、ビールは飲めなかったが次回も行きたくなる雰囲気だ。

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バスガイドさんの涙 九州・西鉄観光バス

バスガイドさんの涙 九州・西鉄観光バス

 いまから20年以上前の話だから実名を出してもいいと思う。忘れないバスガイドさんがいる。西鉄観光バスの『梅津君代さん』という。おそらく結婚されて、よき妻であり、やさしいおかあさんになっていることだろう。

 会社に入って、やがて1年が経とうとする3月末の春休み、《九州満喫グリーン5日間》という、募集もののツアーに添乗した。2回目に「九州」だった。コースは飛行機で羽田から福岡へ飛び、そこから貸切バス。九州内3泊と帰りのフェリーで船中泊という、旅行費は安いけれど、いまでは考えられないハードなコースだった。

福岡~大宰府~柳川~長崎(泊)

長崎市内観光~熊本市内~阿蘇(泊)

阿蘇~鹿児島~霧島(泊)

霧島~桜島~宇土神宮~宮崎~日向~(日本カーフェリー船中泊)~川崎

梅津君代さんは、新人ガイドだった。その年の3月に地元の短大を卒業して、バスガイドになった。まだ新人研修が終了したばかりで、ほとんど博多近郊の定期観光バスか日帰りしか乗務していなかった。九州満喫グリーン5日間が、はじめての長い仕事だったようだ。Photo_66

添乗員はドライブインでの昼食時などは、お客様とは離れて、「乗務員控え室」で食事をする。お客様と同じメニューとはいかない。簡単な定食ものになる。そしてバスの運転手さんとガイドさんと一緒だ。それは、コースの打合せも兼ねている。君代さんは、最初から

「はじめの乗務なので、よろしくお願いします」と謙虚だった。小柄で丸顔でチャーミングだった。私も去年の新入社員だ。ドライバーは、君代さんの父親位の、年齢のやさしい人だ。

 何日か過ぎていくうちに、バスの車内では、君ちゃんの「なぞなぞ」や「クイズ」そして生の歌もお客様を盛立てていく。つたない観光地の説明でも、一生懸命な姿に、お客様は好感をもつ。私もまんざらではない気持ちになっていく。

 最終日、宮崎県の日向に到着。車中でのあいさつで君ちゃんは、涙でぼろぼろである。もちろん、30人近いお客様ももらい泣き。バスを降りるときにも、みんなが君代さんと握手をして、涙の別れである。私も抜け目なく、彼女の手を握って・・・。

これから20時間の船旅である。西鉄バスはフェリー乗り場に停まっている。甲板からカラフルな紙テープを見送る君ちゃんに投げる。赤、ピンク、青のテープは届かなかった。最後の黄色のテープを彼女は受け取ってくれた。まだ泣いている。

ちぎれるほど、手を振ってくれる。紙テープは、非情にも君代さんと私を引き裂いていく。Photo_67

長時間のフェリーの中では、お土産の焼酎を1びん飲み干した。淡い思い出である。(写真は現在の西鉄観光バス:HPから/いまはなき日本カーフェリー)

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NYC近代美術館、この1枚はワイエス

西欧(アメリカ)美術紀行 NYC近代美術館、この1枚はワイエス

 ニュヨークの近代美術館(MOMA)には、数々のすばらしい作品があるのはいうまでもない。ゴッホやマティスにピカソ、アンディー・ウォフォールもある。中でも1枚を選ぶといえば、アンドリュー・ワイエスの《クリスティーナの世界》だと思う。

Photo_65

 Andrew Wyeth〔1917~〕はアメリカ生まれの「アメリカン・リアリズム」の代表的画家で現在もご存命のはずだ。日本でも人気がある。

 この《クリスティーナの世界》は、別荘の近くに住む、足の不自由な少女・クリスティーナが草原に座り込んで遠くをながめる作品だ。彼女はポリオ(小児麻痺)で歩くことにも不自由であったけれど、そんな肉体のハンディーにめげず、真剣に生きていた。何不自由なく育ったワイエスにとってクリスティーナの存在は、ある意味で脅威であった。

 この作品は『テンペラ画』である。顔料を卵やにかわや樹脂で練った不透明な絵の具を使う。15世紀に西洋で「油絵の具」が発明されるまで、西洋絵画の主流をなす技法であった。写実をつらぬき、質感を重んじるワイエスの作品には、なくてはならない技法だ。

 またワイエスは、クリスティーナを少女時代から30年にわたって描き続けた。そのクリスティーナが亡くなると、今度はやはり近所に住む、ドイツ移民の女性「ヘルガ」を実に240点、15年間にわたって描いた。もちろん肖像画もある。室内でも裸体画もある。いずれもリアルに描写されたものばかりだ。

 夏から初秋の草原で、遠くの家をみつめるクリスティーナ。まともに歩くことはできないけれど、しっかり先をみつめている彼女の生きざまを見事に伝える、1枚である。

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甲斐と信濃 風林火山 出陣

甲斐と信濃 風林火山 出陣

 先日の長野に続き、山梨は石和温泉で開かれた『風林火山キャンペーン商品会議』に出席した。大河ドラマにあわせ、甲府市では《風林火山博》が開催される。武田神社や恵林寺をはじめ、この周辺には武田信玄関連の史跡が多い。首都圏(東京)や中京圏(名古屋)からも交通の便がよく、日帰りから1泊まで有力な観光素材だ。Photo_63

 今回の大河ドラマの主役・山本勘助については、諸説が多く、ほとんどが江戸時代の『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん:江戸初期の軍学書で全20巻。武田信玄の臣下である高坂昌信の著述といわれている。小幡景憲[おばたかげのり]編纂。信玄を中心とし、甲州武士の事績・心構え・理想を述べたもの。)や講談によって、英雄視された。

 勘助の墓(供養塔を含む)は、5,6箇所あるようだ。先日、長野県の川中島近く、松代の千曲川堤防(更埴橋)にある勘助の墓に詣でたばかりだが、調べてみたらつぎの場所にある。

《山本勘助の墓》

    長野県長野市松代(川中島近く、長野電鉄松代駅からタクシー5分)

    愛知県豊川市『長谷寺ちょうこくじ』(JR牛久保駅から徒歩15分)

    静岡県富士市『医王寺』(岳南鉄道比奈駅から徒歩15分)

    山梨県北杜市高根町蔵原『山本家(勘助の号・道鬼の無縫塔)』

(JR日野原駅からタクシー30分)

    山梨県韮崎市『宗泉院(勘助供養塔)』(JR韮崎駅からタクシー20分)

②と③は共に「出生地」の説がある。

いまでいえば分骨もあるが、豊川の長谷寺には「遺髪」が収められているという。

また松代では、勘助の墓が千曲川の増水で流され、江戸時代(1739年)に現在の地にまつられたときいた。Photo_64

 ともあれ勘助ゆかりの地となれば、山梨・長野(川中島と高島城の上諏訪)以外では、豊川市と冨士市にも広がる。さてさて、どこを取り上げたら旅行商品になるのだろうか。(写真上:JR東日本、下:県と各市町村パンフレット)

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甲斐と信濃 いざ風林火山

甲斐と信濃 いざ風林火山

 来年、平成191月スタートのNHK大河ドラマ『風林火山』に向けて、山梨県と長野県が動き始めている。大河ドラマといえば、ご当地もので舞台になった歴史の地は、かならずや、一大観光ブームとなっている。

最近では、2000年の《葵 徳川三代》の静岡、2002年の《利家とまつ 加賀百万石物語》の金沢、2004年の《新撰組!》での京都。放送中の《功名が辻》では、期待に反して四国の高知ではなく、滋賀が人気だ。当然、地元では数々のイベントを催し、登場人物にちなんだ博覧会を計画する。観光客がふえる。1年間続く大河ドラマの集客力は、おそるべしだ。

先日、長野県庁でおこなわれた『2007年信州キャンペーン』会議(説明会)に出席した。長野はいわずと知れた「川中島古戦場」がある。武田信玄が上杉謙信と覇権を争い、12年間、5回も大きな戦(いくさ)を繰り広げた場所だ。結局、決着がつかなかったが、日本の歴史に太く刻まれた戦国武将の足跡だ。この千載一遇のチャンスに県では、キャンペーンの目玉として、首都圏や中京圏をおもなターゲットにして、団塊の世代や中高年層を信州へ呼び込む作戦だ。当然、それ相応の予算も立ててあるようだ。

Kawanakajima 時間があったので、こんどの『風林火山』のツアーの企画のために、川中島を訪ねた。

現在、この合戦の地は「八幡原史跡公園」となっている。川中島4回戦目に謙信が馬上から信玄に切りつけ、すんでのところで、信玄は軍扇で太刀をはねつけたという、伝説の像が残る。また、井上靖原作の『風林火山』では、武田軍の軍師で策略家の「山本勘助」にスポットを当ててドラマをつくるという。

 松代近くの勘助のお墓にも行った。千曲川沿いの堤防近くにある古い墓だ。そして信玄が命じて築城させた松代の「海津城」も見た。確かに交通の要所にあり、見晴らしがよい。最近、石垣や表門が復元され整備されていた。

 旅行会社各社は、いま企画を練っている。長野、川中島や松代だけでは観光スポットに乏しい。「善光寺」をいれようか。しかし、どうみても武田信玄なら甲州ははずせないだろう。武田神社や恵林寺に甲斐善光寺。山本勘助ゆかりの地は、山梨に限らず、南長野の諏訪周辺にもあるようだ。まだまだ調べなければ、商品はつくれない。これからしばらく、企画担当者は、歴史物と首っ引きだ。(ながの観光コンベンションビューロー提供)

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