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敵に塩を送る 上杉謙信から武田信玄へ《川中島余話》

永禄3年(1560年)桶狭間での奇襲戦法により、織田信長は今川義元を討ちやぶった。これにより群雄割拠の戦国時代は、大きくその勢力分布を変えた。武田信玄は、今川氏の衰退をみて永禄10年(1567年)、13年間にも及ぶ駿河の国の今川氏との同盟関係を破棄し、駿河(静岡県)への侵攻を決める。

 しかし信玄の長男・武田義信は、信玄の南下戦術に大きく反対した。それもそのはず、義信の母は、今川義元の推薦で京の都から信玄のもとに輿入れした三条の方であり、妻は義元の息子・今川氏真(うじざね)の妹であった。信玄は息子・義信の謀反(反逆)に対し、きびしい姿勢で臨んだ。義信の武田家嫡男の称号を剥奪、東光寺に幽閉し、ついには自刃に追い込む。戦国の世はわが子であっても決して安心はできなかった。(信玄自身、実父・武田信虎を追放して当主となった)

 信玄の駿河侵攻を知った亡き今川義元の子・氏真(10代当主となり、三河・遠江・駿河を統制)は、縁戚関係にあった北条氏康(神奈川県相模の国)と協力し、武田領内・甲斐への「塩」の流通を禁じた。

 この「塩」に関する経済封鎖は、ものが生活必需品であるがため、甲斐・信濃の武田の領民をおおいに苦しめることになった。これを知った越後の上杉謙信は、「義」を重んじ、川中島で雌雄を決した好敵手・信玄のため、苦しむ民衆のため、日本海の塩を送った。越後の糸魚川から松本に至る物資の輸送路は、《塩の道》と呼ばれている。Photo_80

 越後から送られた塩は、永禄11年(1568年)1月11日、松本に到着した。

「敵に塩を送る」とは、敵である相手を尊敬し認めることができて、はじめてとれる行動である。美談である。

 「塩」といえば、武田の領内の信濃(長野県下伊那郡大鹿村)鹿塩では、海水の塩分濃度と同じ塩水が湧出していた。「岩塩」である。ここは鹿塩温泉である。同様に、甲斐にも岩塩の採れる奈良田温泉がある。両方の温泉とも塩分によって、湯冷めもなく、いつまでもポカポカしているそうだ。謙信の心意気もあったかい。

(写真は川中島の信玄・謙信一騎打ちの像:長野コンベンションビューロー)

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