« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月の18件の記事

《バリ島で初詣 昼食は日本風お雑煮》大ヒットしたオプショナルツアー

 いまから15年近く前のお話。年末年始に「バリ島」ツアーで、GAの臨時便を飛ばし、毎回1,000名近くを扱っていたことがある。8回もバリに行ったが、忘れない思い出が、「現地催行のオプショナル・ツアー」が大ヒットしたことである。Besakih_temple

 「バリ島で初詣 バリヒンドゥ総本山・ベサキ寺院で初詣(昼食は日本風お雑煮付き、お屠蘇付き)」というタイトル。5,000円で販売した。1月1日から

3日までの募集で、毎日、80名限定だ。

 コースは、10時にサヌ-ル・ビーチ、クタビーチを出発。そのまま、神々の宿る聖なるアグーン山の中腹、「ベサキ寺院」へ。バリ島は、イスラム教のインドネシアにありながら、人口の90%がヒンドウ教徒だ。総本山が「ベサキ寺院」である。地元の人々は、正装して、お供物(果物やお菓子)を山ほど持って、毎日のようにお参りする。

 ツアーは、寺院で約1時間。坂をゆっくり登る。お参りのあとは、サヌールのダナウタンブリングアン通りの和食「喜多レストラン」で、お雑煮の昼食である。(お屠蘇は日本から持ち込んだ「お屠蘇の素」を日本酒に入れたもの)Kita1

 喜多レストランへは、下見のとき、直接交渉に行った。ご主人の梅津幸明さんは、バリではじめて日本食の店を開いた草分け。だから老舗中の老舗だ。

天ぷらやカツ丼は、うまい。インドネシア人の奥さん(梅津シスワティさん)をもらって、バリに骨を埋める覚悟だ。Tシャツに短パン、前掛けをして、角刈りの梅津さんは、実に気さくな人だ。年末・年始にバリへ添乗があると、日本のカレンダーをお土産に、必ず店に顔を出していたものだ。06kita

そこで、お昼に「おせち料理」を出せないかと、お願いしたが、

梅津さんは、板前(コック)がインドネシア人なので、むつかしいという。ならば「お雑煮」はどうか、と訪ねると、材料の餅や三つ葉、椎茸が手に入りにくいそうだ。そこで日本から「サトウの切り餅」を持参することにして、なんとか、お雑煮メニューを了承していただいた。なぜか、天ぷらとライス付きになった。

 「バリ島で初詣 昼食は日本風お雑煮付き」というタイトルが受けたのか、連日満員となった。でも梅津さんのレストランで、最初に出た「お雑煮」も餅が黒コゲなのにはびっくりした。しかもスープ(汁)は、永谷園の「松茸のお吸い物」の味だった。ぜいたくはいえない、バリのお正月。

Besakih_post_card 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

はじめての機内アナウンス《私はこの便を担当しております、たろべえです》

 いまから15年程前の第一次「バリ島ブーム」があった。バリでは、クタビーチにサヌールビーチが有名で、ヌサドゥアビーチに豪華なホテルが続々と建築中だった。

 年末年始になると、インドネシア国営の「ガルーダ・インドネシア航空」は、日本とジャカルタ経由、バリ島間を飛ぶ定期便のほかに、臨時便(エキストラ便)を出して、満員のお客様に応えていた。

 当時、臨時便は定期便のGA873便(日本→インドネシア)に対してGA8731便、帰路は874便(インドネシア→日本)に対して8742便であった。873/874は、成田~ジャカルタ~デンパサール(バリ島)~ジャカルタ~成田の運行経路をとっていた。臨時便は成田~デンパサール~成田の直行であった。

 それでも予約システムに問題があったのか、コンピュータを操作するインドネシア人がいい加減なのか、オーバーブックは日常茶飯事だったので、どれほど臨時便がありがたかったことか。

 年末の12月30日、成田空港で定期便のGA873便(11時発)を見送った後私は100名近くのお客様の手続きをおこなう。GA8731便だが、ジャカルタ経由ではないので、成田12時発でも、定期便よりも先にバリに到着する。いよいよ自分のボーディング・パスを受け取ると、座席番号が入力されていない。確かに8731便でデンパサール行きなのだが、シート・ナンバーが空白で、よく見ると「ジャンプ・シート」と書いてある。ジャンプ・シートは、スチュワーデス

(キャビンアテンダント)の座る席のことで、ギャレー(台所)の後ろ、お客様と向き合う、例の席のことだ。(出発間際までガルーダのカウンターで待ったが、当日のキャンセルが少なく、私の席はそのままだった)

 機内に乗り込む。満席。当然、荷物を上げる棚もなく、添乗用のバックは、スチュワーデスに預ける。仕方なくすわる。乗客と対面するのだ。やはり恥ずかしい。(あの人、パーサーかしら?と不思議な視線を浴びる)それでも離陸の時は、(お仲間の)スチュワーデスさんが隣にすわっているのでよい。さすがに食事の時は困った。「ジャンプ・シート」にテーブルはつかない。したがって食べることができないのだ。Img10486107363

 食事(昼食と軽食)の時は、パーサーに呼ばれ、ビジネスクラスとエコノミークラスの中間のカーテンで仕切った「緩衝地帯」に連れていかれた。そしてワゴンの上にお皿などのセットを置いて立ち食いである。(それでも申し訳ないと思ったのか、ビールやワインに水割りと飲み放題コースだ)

 長時間「ジャンプ」に腰をおろしていると、度胸ができる。だんだん平気になるから不思議だ。しかし、トイレに行くために立ち上がると、いきなりシートは自動的に「ジャンプ」して収納される。飲み放題でもとをとったので眠くなった。約7時間でバリ島デンパサール空港に到着。貴重な体験であった。

 バリ島では、得意のオプショナルツアー売りで活躍。あっという間に4泊が過ぎる。帰りも臨時便で、GA8742だから日本まで直行便だ。今度は滞在中にしっかりリコンファーム(再確認)をしたので、席は大丈夫のはずだ。

 バリ島から帰る便は、ガルーダ・インドネシア航空8742便で午後11時発だ。これも定期便(874便)より1時間出発が遅いが、成田には早く着く。

今度は自分のボーディング・パス(搭乗券)に座席番号があった。(あたり前だ)

 ナイトランなので、軽く食事をして、ビールを飲み、機内へ。添乗員は帰りの機内まで、お客様を案内すれば、とりあえず安心だ。これで「ひと仕事」と思ったのもつかの間だった。離陸前に機内アナウンス(英語)で「ミスターたろべえさん、たろべえさん。お近くの乗務員まで」ときた。

 まさか「オーバーブック」で、また「ジャンプ」?それとも降ろされるのかな?などと疑心暗鬼でキャンビン・アデンタントに申し出る。すると、何やらこの便は臨時便で、機材のやりくりの関係で香港とデンパーサールを飛んでいるクルーの編成のため、日本人乗務員(アテンダント)が乗っていないという。しかし、日本へ向かう飛行機のため、乗客の9割は日本人だ。片言の日本語を話す乗務員はいるが、あなたにぜひ、機内アナウンスをやってほしいという。

(ジャンプ・シートの次は、アナウウンスである。やれやれだ。)

 「機内アナウンス」には台本がある。タバコの箱くらいの大きさの紙(メモ)に、ネタが書いてあるのだ。インドネシア語と英語だ。これを訳して「日本語」でアナウウンスをしてほしいとのこと。

 皆様、本日もガルーダ・インドネシア航空をご利用くださいましてありがとうございます。この便は8742便、(千葉県なのに)東京成田行きでございます。この便の機長はバグース・アハド、私はこの便を(無理やり)担当いたしますパーサー(代理)のたろべえでございます。当機は、まもなく出発いたしますのでシートベルトをしっかりお締めください。(とくにジャンプ・シートは気をつけましょう)新東京成田国際空港までの飛行時間は、8時間45分を予定いたしております。到着地・成田の天候は、晴れ、気温は摂氏10度でございます。

なお、約1時間ほどいたしましてお夕食のサービスをさせていただきます。また、ご到着1時間前に、ご朝食のサービスをさせていただきます。それでは(狭い機内でございますが)ごゆっくりおくつろぎください。(ちなみにこの飛行機には日本人の係りは乗務しておりません。だから面倒なことは言わないで静かに乗っていてください)

 

 これがはじめての機内アナウンスであった。(カッコ内は陰の声)

Bali

| | コメント (2) | トラックバック (0)

《長岳寺》武田信玄終焉の地!?

《長岳寺》武田信玄終焉の地!?

 

元亀3年(1572年)5月、甲斐(山梨)、信濃(長野)、駿河(静岡)と上野

(群馬)の西部、遠江、三河(愛知)、美濃、飛騨(岐阜)を手中にした信玄のもとへ、将軍・足利義昭から書状が届いた。それは織田信長討伐の命であった。同年10月、北条氏の援軍を加えた約3万の大軍勢を率いて、武田信玄は西上作戦を開始する。

 武田軍の出陣は、信玄の発病により、3日遅れたが、「三方ヶ原」では圧倒的な強さをみせ、徳川・織田連合軍を粉砕。しかし信玄の病のため、甲斐へ帰還し、翌・天正元年(1573年)、三河野田城を攻略した帰途、4月12日信州駒場(長野県下伊那郡阿智村)の山中で没したといわれる。死因は肺患(はいかん:肺の病)とされる。持病の労咳(肺結核)、肺炎、あるいは胃がん、もしくは食道癌による病死説が有力だそうだ。享年53歳。Photo_118

 信玄を火葬にしたと伝わる寺が天台宗広拯山(こうじょうさん)《長岳寺》である。「武田信玄公終焉史跡」とする、長岳寺のパンフレットの説明を引用する。

■長岳寺 長野県下伊那郡阿智村駒場 TEL:0265(43)2967

※宝物拝観料:200

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 “長岳寺は、武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺です。信玄公は野田城攻めの最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀四年・天正元年四月十二日信州伊那の里、駒場の山中で落命されました。享年五十三歳。

 当山は、信玄公の義理の兄弟、下条家出身の六世裕教法印が住職を務めていました。その関係で信玄公の遺骸は、当山に運び入れられましたが、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰りました。その後、当山を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下条伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られました。

 昭和四十九年四月、信玄公四百年祭の折、その火葬塚より火葬灰を当山境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立されました。“

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 長岳寺には、信玄が使用していた兜の前立て2種類(鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付と大日の丸練革製朱塗)が保存されている。(写真は長岳寺パンフレットより)

Chougakujikabuto

 ところで昭和6年(1931年)5月29日、長野県佐久郡岩村田町(現佐久市)の曹洞宗大田山「龍雲寺」で境内にある古い墓から、武田信玄と思われる「遺骨」が発見された。(龍雲寺は永禄3年・1560年、信玄が北高禅師を迎えて再興した寺。信玄上洛の際、必勝祈願の千人法要をおこなったことで知られる)その際、遺骨と一緒に出土した「袈裟の環」には

【大檀越信玄公、干時天正元年4月12日於駒場卒、戦時為舎利納○北高和尚頂礼百拝】と記されていた。(意味は、龍雲寺の偉大な檀家の武田信玄公が戦さの折、亡くなったが火葬をしてお骨を、龍雲寺の僧・北高全祝禅師が手厚く葬った)これが、武田信玄終焉の地として「駒場の長岳寺説」の有力な根拠となっているそうだ。

 さらに龍雲寺には、現在、本堂横の信玄公霊廟に武田信玄の遺骨が納められている。(信玄の遺骸は、甲冑姿で諏訪湖に沈められた・・・はずだが)

■龍雲寺 長野県佐久市岩村田 TEL:0267(46)3632

 伝説と歴史のロマンを感じられる。なんだかワクワクしてくる。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

《山本勘助》に出会う 「山本勘助」平山優(講談社現代新書)書評

《山本勘助》に出会う 「山本勘助」平山優(講談社現代新書)書評

 おそらく現在出版されている「山本勘助」関連の一般向書物では至極の出来である。本の帯に“戦国最強、風林火山。その礎を築いた「軍師」が武田信玄に授けた哲学を初めて克明に再現する決定版!”とある。Photo_117

 いままでの先学達の山本勘助研究を丁寧にたどり、それでも『甲陽軍鑑』に拠り所を求め、丹念に調べている姿勢がみえる。おまけに『市川文書(市河文書)』に関する記述も詳細でわかりやすい。何より感心するのは、これまであまり紹介されていなかった「勘助」の兵法や城取り・縄張り(築城術)について、図解を交え、解説している点である。

 さらに『市川文書』については、その当時の武田方の情勢分析や市川藤若の時代的位置までも言及する。

 「市川文書」の発見の衝撃(序章)の項では、市川家の歴史的バックボーンを説明する。市川家の祖先は、信濃国高井郡市川谷(長野県飯山市)に勢力をもっていた国衆(豪族)であり、弘治2年(1556年)武田信玄の誘いに応じ、市川孫三郎が武田方にくだり、領地を拡大した。その後、家督を相続した、市川藤若は、第三次川中島合戦による長尾景虎(上杉謙信)の攻勢により、市川谷、野沢(野沢温泉三浦)などの木島平の領地を失う。しかしながら、武田方の支援のもと、なんとか領域を死守する。

 武田家滅亡後、上杉景勝に従属し、景勝の転封とともに会津に移住。関が原の戦いの敗北により、上杉家が東北、米沢に移されると、市川家も米沢藩士として江戸時代を過ごす。その後、明治維新の廃藩置県により、身分を失い、市川家は「屯田兵」として、北海道へ渡る。このような関係で釧路の市川家には、武田・上杉両家の古文書が保管されていた。(米沢の本間美術館には、市川文書が多数残されている)

 そんな中で昭和44年、「山本菅助」文書が発見された。上杉方の攻略に対し、市川藤若は(武田方の北の)最前線をなんとか守り抜いた。さもなければ、武田の領地は一気に川中島まで押し戻されてしまっていた。そんな状況下での書簡であった。重要な指示には、必ず「使者」がいた。文字通り、信玄の意図を正確に伝えるための、重要な使者が勘助であった。この本は、歴史を体系的に理解する意味でも、ぜひおすすめである。

| | コメント (1) | トラックバック (3)

山本勘助に出会う《海津城》

山本勘助に出会う《海津城》

_edited_7

 海津城(かいつじょう)は北信濃における武田軍の重要拠点であった。長野駅から松代行きのバスで、約30分。松代駅前で下車、徒歩5分だ。海津城は【松代城】と呼ばれている。

 武田信玄が上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて築かせたといわれる。永禄年間当時は、千曲川が城の北側を流れ、関屋川、神田川の支流と共に外堀をなし、背後の三方を山に囲まれ、地形の利を生かした名城とされた。永禄4年(1561年)の第4次川中島合戦時には、信玄の本陣となった。

 『甲陽軍鑑』には、海津城築城のもようが、つぎのように記されている。

「天文22年8月、川中島(松代)にあった、信玄の家臣・清野清寿軒(信濃先方衆)の屋敷を召し上げ、山本勘助に縄張り(城の設計)を指示した」(甲陽軍鑑品第三十一)とある。築城年代には、諸説があり、天文22年(1553年)説、弘治2年(1556年)説、同3年(1557年)説、永禄3年(1560年)説などがある。

 さらに改築した「海津城」の工事期間について、天文22年8月1日から10月末までの約80日間との記述もある。(『甲陽軍伝解』)

 「海津城」は、長野電鉄「松代駅」の裏手にある。広々とした公園に、最近、復元された。江戸時代には松代藩の真田家の居城として栄えたが、武田信玄の時代には、石垣もなく、天守閣もない平城であった。(最近の発掘により、築城当初の本丸(主郭)は土塁と堀で囲まれていることがわかった。)確かに小高い「天守台」に登ると川中島や謙信が布陣した妻女山など、見晴らしがよい。

 この海津城のほか、山本勘助が関係した城といわれるのが、小諸城、高遠城、松本城であるらしい。(歴史的事実を証明する史料が乏しいそうだ)

 いずれにせよ、海津城から川中島合戦場は、すぐ目の前である。勘助の墓も近い。歴史の足音がきこえてくるようだ。

(※写真:もりたたろべえ撮影)

Photo_115

Photo_116

※松代城(海津城)のパンフレット:クリックで拡大します。

長野市松代町では海津城の築城年代を1560年(永禄3年)説をとっているようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《山本勘助》をめぐる三冊の本 書評

 書店に並ぶ風林火山や山本勘助関連の書籍がふえた。最近、読んだ中で若干コメントをしてみたい。たろべえは、大学時代、文学部哲学科で「日本思想史」を専攻した。机の上の空論ではなく、実証的な学問の仕方を学んだつもりだ。そこで今回、三冊を紹介する。Vfsh0209_edited

○ 『山本勘助』上野晴朗(新人物往来社)

真実の山本勘助を描いた唯一の歴史書と、帯にある。さすがに勘助研究の第一人者といわれる上野先生の基本が「フィールド・ワーク」で、生誕地から墓所まで、勘助の活躍ぶりを『甲陽軍鑑』のエピソードに焦点を当て、実に丹念に現地調査をおこなって、調べて書いている。北杜市蔵原の山本道鬼(勘助)の屋敷墓の発見もある。

「一等史料のほとんど存在しない、伝記的要素の歴史を書くということは、自己自身に対する告白のようなものである。」
「(略)本書は物語ではなく、あくまで歴史書である。歴史をさぐるドキュメントとして書いた。(略)」(あとがきより)読み応えがある。

○ 『山本勘助はいなかった』(「風林火山の真実」)山本七平(ビジネス社)
本の帯に“「M&A時代」のトップリーダーは武田信玄の「乱世の帝王学」に学べ!!”とある。山本七平といえば、キリスト教や聖書にも造詣が深く、独特の歴史観で西洋と日本の文化を比較文化論で分析する手法だ。しかし。この本はタイトルにだまされた。実は、1988年発刊の「山本七平の武田信玄『乱世の帝王学』(徳間文庫)」を焼き直したものだ。しかも本人がことわっているが、信玄の領国経営に関する記述は、上野晴朗氏の各種資料を参考にしたものである。
 山本勘助に関する記載は、第6章のみ。おもな主張はこんなところだ。

「信玄の側近に影のごとく付き添って補佐していた人物がいたとすれば、それは情報、謀略活動の機密要員だったはずである。従って勘助は一人ではなく、五人も十人もいてよいのである。」
 ただし、「武田騎馬軍団」に関する記述は、山本氏の太平洋戦争従軍経験から
(山本氏は大砲を馬にひかせて移動する任務の部隊)実に興味深く、分析されていておもしろい。映画やテレビドラマと違って、鎧兜(よろいかぶと)の重装備の武士を乗せ、馬は走れないそうだ。軍馬の最大の効用は、山間部での兵と物資の輸送であったそうだ。しかも甲斐・信濃には馬の食料「牧」も豊富にあり、兵農分離以前の農民兵士は、短命な馬とのつき合い方も心得えていたそうだ。総合的には「だまされた」が、内容はビジネス書でおもしろい。

○ 『軍師 山本勘助』(語られた英雄像)笹本正治(新人物往来社)
山本勘助を理解する根本史料『甲陽軍鑑』を読み、勘助の実像に迫り、戦国時代の実態をつかむ目的で書かれた。帯には“山本勘助とは何者か 武田氏研究の第一人者による、待望の書き下ろし”とある。『甲陽軍鑑』における勘助の記述に丹念にコメントされていて、読んでいて勉強になった。また上野晴朗氏の説への反論もある。

「『甲陽軍鑑』に記された山本勘助は魅力的であるが、描かれた活動の事実については否定的立場に立たざるをえない。一つ一つの事績を当時の歴史事実、社会現象から検討すると、ほとんどが史実と合致していないのである。
 (略)市河藤若宛武田信玄書状に見える「山本菅助」の存在が事実でも、彼を『甲陽軍鑑』の山本勘助と同一人物、あるいはそのモデルだとすることには躊躇を覚える。」(あとがきより)

山本勘助に関する、いい加減な雑誌や文庫本を読むのであれば、この三冊を読み比べていただきたい。(もちろん、まだまだ内容のある関連本は多数あるが)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

信玄の隠し湯 下部温泉《古湯坊源泉館》

信玄の隠し湯 下部温泉《古湯坊源泉館》(こゆぼう・げんせんかん)

 山梨県身延町下部温泉へ行ってきた。言わずと知れた元祖「信玄の隠し湯」である。JR下部温泉駅からは、なだらかな坂を約20分、温泉街の中心にある。

(タクシーなら5分)

 建物は本館と湯治・長期滞在用の別館(神泉)、第二別館。全部でも部屋数は30室なので旅行会社とのつきあいはなく、お客様からの直接予約で(リピーター)が多く、すぐ満室になる人気の宿である。2_9

本館の昭和初期のノスタルジックな玄関を入ると、左上に5枚の額が掛かっている。左から①「穴山梅雪の浴場免許状」、②「温泉神社と石部氏にまつわる歴史・由来書、梅雪署名」、③「馬場美濃守信春の感状(永禄4年・1561年第4次川中島合戦の折、負傷兵を湯治したことに対する感謝状で109貫文を与える)」、④「武田晴信(信玄)の感状佐野文斗宛(上と同様、永禄4年)」、⑤「武田信虎の土地・浴場免許状佐野道晴宛」。これらの古文書は、500年近く前のものなので、保存上コピーを掲示しているそうだ。Menjo1_1 Menjo3

Menjo4_1 Photo_109 

別館(神泉)の裏手に「熊野神社」がある。下部温泉は、平安時代の仁明天皇(833年~850年)の頃、甲斐の国主・藤原正信により、発見されたという。正信は紀州(和歌山)の熊野権現への信仰心が厚く、夢枕に立った権現のお告げにより、社を建立した。その後、熊野神社を現在の地に再興したのが武田二十四将の穴山梅雪である。その際、神社建立のため、土地を提供したのが佐野氏・元湯源泉館の先祖だそうだ。

武田信玄が川中島合戦で受けた肩の刀傷を癒した混浴の「かくし湯大岩風呂」は、別館の地下にある。15畳程の岩盤の亀裂から直接湧出する温泉で、加水・加温はなく源泉掛け流しだ。混浴といっても更衣室は男女別で、女性はバスタオルを巻いて入浴できる。

泉温は31度。源泉は、塩化ナトリウム・硫酸カルシウムを含む弱アルカリ性単純泉。効能は運動機能障害、関節痛、筋肉痛、腰痛、火傷などである。

本館の泊りで、1泊2食付きで13,000円位から、湯治で8,500円(1泊2食付き、相部屋)から受けるとのこと。

また源泉館では湧き出た鉱泉水を「天然鉱泉水 信玄」と名付けて販売している。飲んでみたらクセがなく飲みやすい水だ。地元身延特産の竹炭と温泉水をベースにした「竹炭石鹸」や「温泉化粧水」も販売している。(通信販売可)

Photo_110

■古湯坊源泉館

 山梨県南巨摩郡

  見延町下部45 

TEL:

0556(36)0101

(古文書は③、④、⑤、風呂は源泉館のパンフレットより)

※古文書の掲載については、実際に源泉館に行き、ご主人の了解を得ております。

| | コメント (0) | トラックバック (6)

風林火山《諏訪御料人》は俗名《梅姫》ではなかったか!?

風林火山《諏訪御料人》は俗名《梅姫》ではなかったか!?

 

Vfsh0192_1 大河ドラマの悲劇のヒロイン、「由布姫」(井上靖)が、以前は「湖衣姫」

(新田次郎)と呼ばれていた。このどちらも《諏訪御料人》に対する大作家の命名だ。「御料人(御寮人)ごりょうにん」とは、身分の高い貴人の妻妾を指す言葉だそうだ。武田信玄によって謀殺された父・諏訪頼重と側室・小見夫人の間に生を受け、ひたすら諏訪家の再興を願い、仇敵・信玄の側室となり、勝頼を産んだ。

 生年は享禄3年?(1530年)で、弘治元年(1555年)没といわれる。武田勝頼が一時、城主をしていた、伊那市高遠町の「建福寺」に《諏訪御料人》の墓があり、高野山の武田家過去帳にも没年は、弘治元年(1555年)と記されているという。しかし、実際の名前はわからない。Photo_112

 建福寺に残る《諏訪御料人》の墓石等から、彼女の法名(戒名)は判明している。『乾福院殿梅巌妙香大禅定尼』という。

 この寺は「大宝山 建福寺(けんぷくじ)」が正式名称で、康元元年(1256)鎌倉の建長寺を開山した高僧・蘭溪道隆大覚禅師が、「鉾持山乾福寺」として

開創した。その後、武田勝頼(1546-1582)が高遠城主となり、中興した。そのため勝頼の母《諏訪御料人》の位牌と墓石が安置されている。さらに武田氏滅亡後は、保科正直が同寺を菩提所とし、寺号(山号)を「大宝山建福寺」と改めた。臨済宗妙心寺派の由緒正しい寺である。

 そこで、戒名から生前の名前を類推することにした。Photo_113

臨済宗の戒名配列を調べていくと、つぎの四つに分類される。

乾福院殿 梅巌 妙香 大禅定尼

■院号:「乾福院殿」最上の尊称とされるのが院号または院殿号である。これは当時の寺号の「乾福寺」に由来することは明らかである。

■道号:「梅巌」これは、生前の雅号画家や書家などが本名以外につける風雅な名)や字(あざな)【中国では名の他に字(あざな)をもち、その人を尊敬して呼ぶ場合に字を用いた呼称】を示す。禅宗に始まる。現代語では「梅岩」と表記。

■法号:「妙香」仏弟子になった事をあらわす名前2文字で、多くは仏典からの出典。(妙と香はそれぞれ仏語にあり)

    位号:「大禅定尼」男女の性別や長幼を示すと同時に、院号と同様にその人の信仰の深さあらわす。女子の最高位?

以上の見解から注目すべきは、道号の「梅巌」である。

『梅』は春の花。『巌(いわお)』は、高く大きな岩の意味がある。《諏訪御料人》が生前、詩歌管絃をたしなみ、この号をもっていたわけではないだろうが、おそらく同時代の武田家関係に「菊姫」や「松姫」が存在したことから考えて、《梅姫》が俗名と考えても不思議はない。

長野県諏訪出身の新田次郎は、諏訪湖に思い入れがあり、「湖衣姫」と名づ

け、一方、井上靖は『風林火山』を執筆した九州の由布院(湯布院)温泉にちなんだ「由布姫」を選んだという。なるほど、「梅姫」よりは、湖衣姫や由布姫の方が語呂がよいかもしれない。ちなみに諏訪湖の小坂観音院にある《諏訪御料人》の供養塔の看板には、両方の呼び名が記されている。

        _edited_6            

                                   _edited_5

※写真:(高遠)建福寺と(中)諏訪御料人墓石は「信玄を捜す旅」より、許可を得て掲載
http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/

※その他、小坂観音院の供養塔ほかは、たろべえ撮影

| | コメント (2) | トラックバック (0)

風林火山 史実にみる山本勘助《市河文書》

風林火山 史実にみる山本勘助《市河文書》

 山本勘助研究の第一人者・上野晴朗先生の『山本勘助』(新装版・新人物往来社)によれば、山本勘助の実在を示す重要史料に《市河文書》(市川文書)がある。

昭和44年(1969年)、当時の大河ドラマで『天と地と』が放映されていた。ある日、ドラマの中で武田晴信(信玄)の署名と花押のある古文書がテレビ画面に紹介された。これを見ていた北海道釧路の市川さん。「あれ!我が家に伝えられている古文書にも同じ署名がある。」これが『山本菅助口上』と記述のある武田晴信の書状で、弘治3年(1557年)6月23日、晴信が北信濃の野沢温泉の市河藤若宛のものであった。(釧路市市川家文書)Photo_106_1

『注進の状披見す。よつて景虎野沢の湯に至り陣を進め、その地へ取りかかるべき模様、また武略に入り候と雖も、同意なく、剰(あまつきさ)え備え堅固ゆえ長尾功なくして飯山へ引き退き候よし、誠に心地よく候。いずれも今度その方のはかり頼母敷までに候。なかんづく野沢在陣の砌り(みぎり)、中野筋の後詰の義、飛脚に預り候き、即ち倉賀野へ越し、上原与左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与左衛門尉五百余人、真田へ指し遣し候処、すでに退散の上是非に及ばず候。まつたく無首尾に有るべからず。向後は兼てその旨を存じ、塩田の在城衆へ申しつけ候間、湯本より注進次第当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣き、今日飯富兵部少輔の所へ下知をなし候の条、御心易く有べく候。なお山本菅助口上有るべく候。恐々謹言。

 六月廿三日 晴信(花押)

  市河藤若殿』

上野晴朗先生によれば

“この文書の背景というのは、第三回川中島合戦の最中であり、武田方に味方していた信越国境地帯の豪族、市河藤若あてに、晴信から出した書状である。末尾に【なお山本菅助口上有るべく候・・・】とあって、あの山本勘助がさっそうと登場する。

残念ながら、勘助の文字が【菅助】とやや異なっているけれども、諸書に、勘介・勘助・寛輔などと当てているから、まず同一人物と見て間違いない。“

(上野晴朗『山本勘助』新人物往来社)

 

 山梨県史編纂室の堀内享氏によれば

 この文書の書かれた理由は、“弘治3年6月23日、「山本菅助」は一路信濃の北端へ向かった。同地にあって武田氏に味方し、長尾景虎(上杉謙信)の軍勢と対陣を続ける市河藤若に対し、当主晴信(信玄)の意向を伝えるためである。”また、文書の内容については、“「菅助」が携行した書状からは、武田・長尾両氏の抗争の最前線における緊迫した状況が伝わってくる。晴信は、来襲した長尾勢を前に、これに与(くみ)することなく抵抗を続け、飯山へ押し戻すことに成功した市河藤若の戦功を讃えるとともに、これに先立つ援軍の要請に基づき長尾勢を挟撃すべく上州の与党や塩田城(上田市)の軍勢を差し向けたものの、既に長尾勢は退却していて、残念であったこと、今後は「湯本(藤若が在陣していた野沢温泉)」より要請があったならば、晴信に相談することなく、援兵を送るよう前線の指揮官である飯富虎昌(おぶとらまさ)に命じたことを、それぞれ申し送っている。”

(堀内享『軍師「山本菅助」の登場 「市河文書」が語る第三回川中島合戦前夜』、『謀将 山本勘助と武田軍団』別冊歴史読本47、新人物往来社)

 両氏の意見では、「山本勘助」の実在を示す重要な史料とのこと。確かにこの史料が発見されるまでは、例の武田家を評価する『甲陽軍鑑』などでしか、勘助は表現されていなかったそうだ。少なくとも、山本勘助は、晴信の書状を補足する目的の使者であった。晴信の周辺にいた人物に違いない。

 ところでこの12月にちくま学芸文庫から『甲陽軍鑑』(佐藤正英校訂、訳)が出版され、さっそく購入して読み始めたところ。「品第十一」に勘助の記述が詳しくある。このあたりはまた、つぎの機会に。Photo_107 (「山本勘助」恵林寺蔵、作者は、江戸時代生まれの日本画家で歴史画の大家、天保11年・1840年~大正12年・1923年松本楓湖)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

武田信玄に出会う 《諏訪法性の兜》と八重垣姫

武田信玄に出会う 《諏訪法性の兜》と八重垣姫

 「長野日報」のWeb版を見ていたら、諏訪湖に行ってきたばかりなので興味深いニュースをみつけた。「下諏訪町諏訪湖博物館・赤彦記念館」が、来年4月から武田信玄ゆかりの『諏訪法性兜(すわ・ほっしょう・かぶと)』を特別展示するそうだ。Photo_105

 この諏訪湖博物館では、現在もこのカブトを展示しているはずだと思ったら

旧博物館では1980年頃まで現物を展示していたが、保存状況等の問題で1993年のリニューアル・オープンから「レプリカ」に切り替えていたとのこと。

 《諏訪法性の兜》は、信玄が諏訪明神(諏訪大社)の加護を受け拝戴した兜で、川中島合戦の時代、身に着けていたといわれ、代々武田家に伝わるものだといわれている。下諏訪観光協会の矢嶋営業部長さんからいただいた資料を引用する。(下諏訪観光協会0266-27-1111内351

    『諏訪法性兜由来』武田家が諏訪明神から授かり家宝としたもので、信玄が川中島合戦の時使用したと伝わる。当時日本一の兜作りといわれた明珍信家の銘がある。(下諏訪町立諏訪湖博物館に展示)

この諏訪法性兜は、江戸時代の浄瑠璃「本朝二十四孝」に登場する。この兜をめぐる武田・上杉家の争いの中、謙信の娘八重垣姫が許婚(いいなずけ)である武田勝頼の危機を救うという筋書き。姫が勝頼に急を告げるため、この兜をかざし、狐火に守られ諏訪湖を渡る場面は有名である。(諏訪市の湖岸に近い湖中にその像が立っている。)

 諏訪湖にある「八重垣姫」像は、あまりよい出来ばいには見えないけれど、

(ホームページ参照:http://miyagaku.sakura.ne.jp/03suwako.htm )

羽子板などにも、八重垣姫は派手なデザインで人気だそうだ。

 ところで諏訪湖は、信玄が「自分が死んだ後、3年間は秘密にして、その後遺骸に甲冑を着せて湖底に沈めよ」と遺言を残した話も有名。

 なんだか伝説やロマンに満ち溢れた信州諏訪である。

        諏訪湖博物館 長野県諏訪郡下諏訪町西高木10616-111

0266(27)1627 9:00~16:00 火曜日定休

(追記)

 諏訪湖博物館(赤彦記念館)に書面で来年の風林火山関連の企画展について、問合せをした。そしたら宮坂館長さんから丁ねいな返信が届いた。

 諏訪周辺の博物館では、「信玄と諏訪 信玄が諏訪に遺したもの」というテーマで企画があるそうだ。以下のとおり。

●下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館
「信玄伝説-人々は信玄をどうみていたか-」
平成19年4月28日~6月24日

●茅野市神長官守矢史料館
「諏訪と武田信玄-武田信玄の諏訪支配-」
4月14日~6月3日

●諏訪市博物館
「武田信玄と諏訪信仰」
4月28日~6月24日

●シンポジウム
テーマ「信玄が諏訪に遺したもの」
笹本正治先生(信州大学教授)
5月6日(土)13:00~16:30
諏訪市文化センター

| | コメント (4) | トラックバック (0)

武田信玄に出会う 諏訪大社

武田信玄に出会う諏訪大社《風林火山 ロマン息づく 信州諏訪》

Photo_102  諏訪大社は「信濃国一之宮」として、日本最古の神社で格式も高い。

上社(前宮・本宮)と下社(春宮・秋宮)に分かれてはいるが、併せてひとつである。

所在地は上社本宮/長野県諏訪市中洲宮山1、前宮/長野県茅野市宮川2030、

および下社 春宮/長野県諏訪郡下諏訪町大門193、秋宮/長野県諏訪郡下諏訪町上久保5828となっている。 11_1

Shingengechijo_1

 

 武田信玄は、この「諏訪明神」(諏訪大社)を深く信仰し、戦(いくさ)のたびに戦勝祈願をしていた。しかも本陣には、《南無諏訪南宮法性上下大明神》と赤地に金泥で書かれた軍旗を用いていた。(なお、この軍旗は山梨県甲府市の武田神社宝物館と甲州市恵林寺宝物館で実物を展示している。風林火山の「孫子の旗」と同様に4m近いサイズだ)Photo_103

 さらに諏訪大社(上社)宝物殿には《信玄十一軸》と呼ばれる、「諏訪上下宮祭礼再興次第」、つまり信玄が出した指示書が、巻物で11巻も展示されている。

これは、戦乱の世で、しばらく中止になっていた諏訪大社の祭事(年間行事)などを大社の最高位の神職「大祝(おおほうり)」や神長官に命じて、細かく調査し、古式の伝統を復活(復興)させた下知状だ。

 展示されている巻物をみると、小さなお祭りから7年に1度の御柱祭に至るまで、配る餅の数量や盃、食器の数まで詳細に記されている。この通達が永禄

8年(1565年)から9年にかけて出された。

 上社の前に「諏訪市博物館」があり、2階の展示室に「大祝(おおほうり)」の説明があった。大邸宅の図面もあり、その権力の大きさに驚く。

『諏訪明神のよりしろ(=現人神あらひとがみ)として、諏訪社の頂点に位置していた役職で、上社大祝は、古代から江戸時代末に至るまで代々世襲され、「諏方家」または「神家」姓を名乗った。中世までは諏訪の領主として、基本的には同家で政治権力も握っていた。江戸時代に入り藩主諏訪家と大祝諏方家ができ、完全な政教分離がなされたが、明治時代を迎え、神官の世襲制度が廃止されるにより大祝職も廃止された。全国でも生き神様が存在し続けた神社は珍しいといわれる。』(諏訪市博物館解説、同博物館2階第1展示室)

(※写真は、たろべえこっそり撮影の諏訪大社宝物殿、内部の信玄十一軸で左/11巻の中身と解説文、右/10巻、軍旗は山梨の雲峰寺パンフレットより)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

長野県 諏訪湖へ行ってきました

長野県 諏訪湖へ行ってきました 《風林火山 ロマン息づく 信州諏訪》

 業界の会議で長野県上諏訪温泉へ行った。来年の大河ドラマ『風林火山』、

井上靖原作本でストリー展開の最大の見せ場は、ここ諏訪である。

1_4

物語では、「高島城」が諏訪氏の居城と設定され、主役・山本勘助が由布姫と出会う場所もこの地である。さらに由布姫(ゆうひめ)が武田晴信(信玄)の側室として、その子・四郎(勝頼)を産み、諏訪に戻って静かに暮らすのが、「小坂観音院(おさかかんのんいん)」である。

 なんだかんだで「高島城」は、12月中はお色直しの真っ最中で、武田信玄や諏訪氏の資料も館内に展示するそうだ。実際には、由布姫の時代には、まだ山城でこの場所にはなかったお城だけれど、雰囲気は十分。赤や黄色の風林火山PRの旗が風になびいている。大型バスの駐車場は、裏の市役所駐車場を解放するそうだ。(現在の高島城は豊臣秀吉の家臣・日根野高吉が築城)1_5

 「小坂観音院」は真言宗智山派のお寺で、龍光山観音院という。場所は岡谷になる。諏訪湖を見下ろす高台に建つ、嘉禎4年(1238年)に造営された古い寺だ。由布姫の供養等が建てられている。かなり高台にあるため、湖沿いの駐車場から20分位、坂道をのぼらなければならないのが、問題だ。近くには地元のボランティアの方々が「由布姫の里」という、無料休憩所・売店を開店した。駐車場にトイレの数が少ないのは気になる。Yufukuyoto

おそらく来年、大河がスタートして「諏訪」が登場してくると、たくさんの観光客のみなさんが押し寄せるはずだ。(そう、願う)

        高島城 問合せ先/諏訪市観光課0266(52)4141

        小坂観音院 問合せ先/岡谷市商業観光課0266(23)4811

Vfsh0192

(パンフレットは諏訪地方観光連盟作成のもの。クリックで拡大)_edited_3

2_8

| | コメント (2) | トラックバック (0)

札幌場外市場の穴場《食事処 魚屋の台所》

札幌場外市場の穴場《食事処 魚屋の台所》

 格安、鮮度抜群がキャッチフレーズの場外市場。毎日隣の「中央卸売市場」から仕入れた海の幸を販売している。店舗数は約70軒もある。どう考えても新鮮で安くてうまい。中でもおすすめは「おまかせ海鮮丼」と「海鮮ラーメン」で知られる《食事処 魚屋の台所》だ。Photo_100

 大型駐車場の横、卸売センター2階にあって、確かに場所が悪い。店内もこぎれいだが、イスヤテーブルは古い。ご主人の稲葉さんと奥様の二人で営業。営業時間は朝7時から午後3時まで。はっきり言って観光客は、少ない。場外市場周辺で働く地元のみなさんが、朝食や昼食を食べにやってくる。

 「ウニ」は、生のバフンウニがうまい。ご主人のこだわりで明礬(みょうばん)を使わないから保存ができない。だから新鮮で、甘味がある。また、「ホタテ」も生の殻つきをバターと醤油をたらして焼く。これが絶品なのだ。

 北海道といえば、「タラバ蟹」だが、ご主人に頼んで、市場で仕入れていただく。足が1本少なかったり、片方のハサミがとれていて(商品価値がないが)新鮮なカニをもってくる。大きなタラバが2ハイで6,000円。これを焼いてもらう。焼代を払っても安い。Photo_101

 「ウニ・イクラ丼」も超山盛りのウニとイクラでごはんが見えない。納得の味。ひそかに人気の「海鮮ラーメン」にいたっては、ご主人の趣味でカニやえびや貝類を惜しげもなくつかって、ダシをとるからスープがうまい。これでお値段1,000円なのだ。

 うまい店をさがすのは、口コミが一番だが、地元の人が通う、できるだけ足の便が悪い店も安くてうまいという、鉄則がある。

        食事処 魚屋の台所

        札幌市中央区北11条22丁目-2 卸売センター2階

        TEL:011(644)2006

P1010096

| | コメント (6) | トラックバック (1)

冬の北海道ツアーの人気コース 

冬の北海道ツアーの人気コース 

《旭山動物園と札幌ホワイトイルミネーション》

Vfsh0316

 旅行会社なのに会社の社員旅行で北海道へ行ってきた。羽田から旭川へ。貸切バスに乗り、人気の旭山動物園を見学して、札幌へ。大通り公園の「ホワイトイルミネーション」見学。昼食・夕食はついていないので、行きの機内でお弁当と夜はススキノのしゃれた居酒屋。宿泊は札幌市内または定山渓温泉。(定山渓の方が4,000円高い。私は定宿の札幌東武ホテル泊)

 2日目は、オプショナルツアーで「小樽観光」だが、もう飽きるほど行っているので、お仲間と場外市場と市内の温泉ツアーへ。

 冬の旭山動物園、団体のバスが続々到着する。ほとんどが半球交通社の虎美(トラビックス)と売読旅行の中高年、お年寄りのツアーである。例のダイビング白クマも元気だ。かわいいペンギンパレード、というかヨチヨチ散歩も見学。経営危機に瀕していた動物園も創意工夫で、真冬の観光客を迎えることができるのだからすばらしい。氷点下2度なのでそれほど、おもてにいられないので、見学は2時間がいいところだ。一度は行く価値がある。

Vfsh0312

 さてバスは、雪の中を3時間がかりで札幌へ。午後6時、テレビ塔の展望台に登る。ライトアップのしっとりとしたホワイトイルミネーション。

大通り公園からススキノへ。新鮮な海産物の夕食、刺身、厚岸の生カキ、海鮮鍋だ。少し歩いて、カラオケなど。仕上げはラーメン。

 冬の札幌を満喫すべく、深夜まで飲み会?は続く。さてさてどうなることやら。Vfsh0318

| | コメント (2) | トラックバック (0)

武田信玄に出会う 信玄は太ってなかった!?《信玄像あれこれ》

武田信玄に出会う 信玄は太ってなかった!?《信玄像あれこれ》

Vfsh0286

 

甲府駅の武田信玄像とその原型の恵林寺前「信玄館」の信玄像は、世間で一般的にイメージされる戦国武将の武田信玄なのだ。さらに、太めで丸顔の教科書にもよく登場する信玄は、長谷川等伯作で高野山成慶院蔵のものだが、どうやら信玄ではなく、能登守護職の「畠山義続(はたけやまよしつぐ)」であるとの説が有力だそうだ。そういえば武田の家紋がない。(藤本正行説)

 塩山駅前の信玄像や積翠寺の坊主頭のどっかり腰をおろす像も印象的だ。なんとなく、ワンマンの代表取締役社長タイプ。

 

だが最近、話題になっている、東京世田谷の九品仏・浄真寺に伝わる「吉良頼康(きらよりやす)」像が実は、信玄の弟・武田信廉(のぶかど)後の武田逍遥軒が描いた信玄像と発表された。逍遥軒は画才があり、父・信虎や母・大井夫人の肖像画も残している。これも藤本正行先生の説だ。しかし、現在に伝わっているのは、その逍遥軒の作品を江戸時代に模写したものだというから、話がややっこしい。(詳しくみると武田菱マークが兜にあり。信玄が愛用したスネアテ脚はんゲートルが特徴とか・・・)

 今に伝わる武田信玄像は、そのほとんどが江戸時代以降に描かれたもののようで、真偽のほどが判断しにくい。2_5

どうもこの信玄は、(壮年期?)初老の気の弱いサラリーマンで、職責は万年係長か社史編纂室の窓際課長のような風貌をしている。弱々しい。どうしても甲斐から信濃へ進出していった戦国武将にはみえない。

S_singen_1 Photo_98

※写真は、甲府駅前信玄像(たろべえ撮影)/塩山駅前信玄像(住正徳氏撮影)/教科書の信玄(高野山成慶院蔵)/『鎧(よろい)をまとう人びと』藤本正行2000年/信玄館(塩山)信玄像(たろべえ撮影)

Shingenyakata

| | コメント (2) | トラックバック (0)

武田信玄に会う 山梨 恵林寺

武田信玄に会う 山梨 恵林寺

 山梨に出張した。今回は三度目の《恵林寺》へ。武田信玄の菩提寺で「えりんじ」という。乾徳山恵林寺は、臨済宗の寺で1330年、有名な夢窓国師によって開かれ、武田の時代には高僧・快川国師(かいせんこくし)によって歴史の舞台に登場する。Ph_156_s

 恵林寺は。四脚門や開山堂、庭園や信玄の墓など、実に堂々とした立派なお寺で格式を感じられる。それ以上に興味深いのが、併設されている「武田信玄公宝物館」である。なかなかすばらしい史料が残っている。

 世間によく知られている、武田軍旗・「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」

【疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし】(孫子の旗)は、

快川国師の筆になるもので、紫の布に金色の文字の現存するのは7本しかないうちの1本だそうだ。Vfsh0306

 さらに信玄が諏訪大社(上社・下社両方)に必勝を祈願したもので、赤字の絹に金泥の文字で書かれた「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗(諏訪明神旗)は現物とされる。

 また、ここ恵林寺は武田信玄・勝頼が滅亡後、織田信長の軍により、焼き討ちにあう。その時、快川国師は百余人の僧兵たちと「三門」にこもり、燃え狂う大火の中、焼き殺されてしまうが、以下のような有名な言葉を残している。

「安禅不必須山水 滅却心頭火自凉」

【あんぜん 必ずしもさんすいを用いず、しんとうめっきゃくすれば、火もおのずからすずし】

心安らかに座禅を組めば、たとえ三門を燃え尽くす火の勢いがあっても、山から湧き出る水は必要ない。心から無の境地になれば、燃え盛る炎は、自然と涼しくなり、熱さなど感じえない。そんな意味だろうか。

 たとえこれが後世の作り話であっても、快川国師の立派な姿勢を汚すものではないようだ。甲府周辺には、武田信玄関連の史跡が多く残されている。恵林寺と宝物館は、はずせない。Vfsh0292 ※写真:恵林寺(山梨県観光物産連盟)/孫子の旗ミニュチュア/山梨大型観光キャンペーンの風林火山)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

長野県志賀高原の麓にある小さな酒蔵 蔵元縁喜 玉村本店

 長野の小さな蔵元を訪ねた。「縁喜(えんぎ)」という銘柄で、しっかり品評会にも名を連ねている。

平成14-15年全国新酒鑑評会『金賞』受賞(2年連続)
平成13-17年関東信越国税局酒類鑑評会『優秀賞』(5年連続)
平成15-18年 長野県清酒品評会『知事賞』受賞(4年連続)Photo_96

 専務の佐藤栄吾さんに案内をしていただき、蔵元を見学した。ここでは、大規模・均質・安定・効率的な工業化された「平均点の高い」酒はつくれない。非効率ながら、小さいが故にできる「うまい酒」を楽しみながらつくりたいそうだ。目の届く範囲で身の丈(たけ)にあった販売をしたいとのこと。試飲をさせていただいたが、なるほど、ていねいにつくったやさしい酒である。

 銘柄「縁喜」は“縁を喜ぶ”という意味だそうだ。10種類を越える試飲の中では、《ひやおろし吟醸生詰》が気にいった。すきっりした辛口だ。720mlをお土産に購入。1,400円。

 十年酒という、長期熟成酒もいただいた。本醸造のまじりっけなしの原酒を常温で10年以上熟成したもので、実にまろやかなお酒だ。どんな料理にも負けないだろう。

 驚いたことに佐藤専務さんは、自分でホップまでつくって、地ビールにも挑戦している。絶対に手抜きをしない、手づくりの「志賀高原ビール」だ。エールの種類を味見したが、奥深い味でうまいビールである。

        株式会社 玉村本店

        長野県下高井郡山ノ内町平穏1163

        TEL:0269(33)2155

        ホームページhttp://www.tamamura-honten.co.jp/frame-hotnws.htm

Photo_97 Engihiyaorosi1         

| | コメント (0) | トラックバック (1)

長野県 渋温泉 信玄かま風呂 温泉寺

 長野県の「湯田中渋温泉郷」へ行った。渋温泉旅館組合のパンフレットには、

ノスタルジックな石畳の温泉街

時が止まったような

懐かしさがここにあります

Photo_93

 渋温泉はいまから1300年前、日本全国の温泉開湯請負人・僧行基が発見したといわれる。(ちなみに行基はスーパーマンだから、作並・東山・芦ノ牧・草津・藪塚・野沢・渋・湯田中・山代・山中・有馬に湯河原温泉など、まだまだたくさんの開湯にたずさわった)

 確かに街を歩いてみると、大正時代の湯治場風情で、ほとんどが小さな木造の旅館だ。中でも重要文化財の老舗・「歴史の宿 金具屋」は、建物をみるだけでもノスタルジーに浸ることができる。

 しかし細い石畳の通りには、多くの違法駐車があり、車1台通るのに苦労する。射的やスマートボールの店がある。35軒の旅館のうち、金具屋29室(136名定員)が最大で、ほとんどが12、3室のお宿で、それぞれに露天風呂や貸切風呂を目玉にしている。

 目下、渋温泉の最大のセールスポイントは、旅館の宿泊者限定の9つの外湯めぐりである。無料だ。もちろん地元の皆さんも入浴できる。外湯にはすべて鍵が掛けてあり、宿泊客は旅館で「鍵」を渡される。最近、9番「渋 大湯」だけは外来日帰り入浴ができるようになったそうだ。(大人500円、小人300円、駐車場500円)ただし15名以上の団体は不可。

 外湯めぐりの番外に温泉寺の「信玄かま風呂」がある。和式サウナである。

武田信玄が永禄7年(1564年)に寄進をして開基したのが、この温泉寺で、川中島合戦で傷ついた兵士の治療に、この地の温泉を利用したという。かま風呂は京都の東福寺のものを模してつくったもの。(永禄7年は川中島第5回戦の年)

Kamaburo1 Kamaburo2 

※写真:渋温泉旅館組合提供

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »