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風林火山 史実にみる山本勘助《市河文書》

風林火山 史実にみる山本勘助《市河文書》

 山本勘助研究の第一人者・上野晴朗先生の『山本勘助』(新装版・新人物往来社)によれば、山本勘助の実在を示す重要史料に《市河文書》(市川文書)がある。

昭和44年(1969年)、当時の大河ドラマで『天と地と』が放映されていた。ある日、ドラマの中で武田晴信(信玄)の署名と花押のある古文書がテレビ画面に紹介された。これを見ていた北海道釧路の市川さん。「あれ!我が家に伝えられている古文書にも同じ署名がある。」これが『山本菅助口上』と記述のある武田晴信の書状で、弘治3年(1557年)6月23日、晴信が北信濃の野沢温泉の市河藤若宛のものであった。(釧路市市川家文書)Photo_106_1

『注進の状披見す。よつて景虎野沢の湯に至り陣を進め、その地へ取りかかるべき模様、また武略に入り候と雖も、同意なく、剰(あまつきさ)え備え堅固ゆえ長尾功なくして飯山へ引き退き候よし、誠に心地よく候。いずれも今度その方のはかり頼母敷までに候。なかんづく野沢在陣の砌り(みぎり)、中野筋の後詰の義、飛脚に預り候き、即ち倉賀野へ越し、上原与左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与左衛門尉五百余人、真田へ指し遣し候処、すでに退散の上是非に及ばず候。まつたく無首尾に有るべからず。向後は兼てその旨を存じ、塩田の在城衆へ申しつけ候間、湯本より注進次第当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣き、今日飯富兵部少輔の所へ下知をなし候の条、御心易く有べく候。なお山本菅助口上有るべく候。恐々謹言。

 六月廿三日 晴信(花押)

  市河藤若殿』

上野晴朗先生によれば

“この文書の背景というのは、第三回川中島合戦の最中であり、武田方に味方していた信越国境地帯の豪族、市河藤若あてに、晴信から出した書状である。末尾に【なお山本菅助口上有るべく候・・・】とあって、あの山本勘助がさっそうと登場する。

残念ながら、勘助の文字が【菅助】とやや異なっているけれども、諸書に、勘介・勘助・寛輔などと当てているから、まず同一人物と見て間違いない。“

(上野晴朗『山本勘助』新人物往来社)

 

 山梨県史編纂室の堀内享氏によれば

 この文書の書かれた理由は、“弘治3年6月23日、「山本菅助」は一路信濃の北端へ向かった。同地にあって武田氏に味方し、長尾景虎(上杉謙信)の軍勢と対陣を続ける市河藤若に対し、当主晴信(信玄)の意向を伝えるためである。”また、文書の内容については、“「菅助」が携行した書状からは、武田・長尾両氏の抗争の最前線における緊迫した状況が伝わってくる。晴信は、来襲した長尾勢を前に、これに与(くみ)することなく抵抗を続け、飯山へ押し戻すことに成功した市河藤若の戦功を讃えるとともに、これに先立つ援軍の要請に基づき長尾勢を挟撃すべく上州の与党や塩田城(上田市)の軍勢を差し向けたものの、既に長尾勢は退却していて、残念であったこと、今後は「湯本(藤若が在陣していた野沢温泉)」より要請があったならば、晴信に相談することなく、援兵を送るよう前線の指揮官である飯富虎昌(おぶとらまさ)に命じたことを、それぞれ申し送っている。”

(堀内享『軍師「山本菅助」の登場 「市河文書」が語る第三回川中島合戦前夜』、『謀将 山本勘助と武田軍団』別冊歴史読本47、新人物往来社)

 両氏の意見では、「山本勘助」の実在を示す重要な史料とのこと。確かにこの史料が発見されるまでは、例の武田家を評価する『甲陽軍鑑』などでしか、勘助は表現されていなかったそうだ。少なくとも、山本勘助は、晴信の書状を補足する目的の使者であった。晴信の周辺にいた人物に違いない。

 ところでこの12月にちくま学芸文庫から『甲陽軍鑑』(佐藤正英校訂、訳)が出版され、さっそく購入して読み始めたところ。「品第十一」に勘助の記述が詳しくある。このあたりはまた、つぎの機会に。Photo_107 (「山本勘助」恵林寺蔵、作者は、江戸時代生まれの日本画家で歴史画の大家、天保11年・1840年~大正12年・1923年松本楓湖)

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