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2007年3月の11件の記事

《願わくば花の下にて春死なん 花の東京》

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願わくば 花の下にて 春死なん

 そのきさらぎの 望月の頃  

(西行)

 上野公園や隅田川の桜が、ほぼ満開である。漂泊の歌人、西行は、満月(望月)の夜、咲き乱れる桜の花びらが、まさに散っていくその時、静かに息を引き取った。もしできるならば、満開の桜の木の下で、まさに春、死んで行きたいものだ。

 日本人特有の美学、それが、はかなく、せつなく、いままさに散り行く桜なのだ。

散ればこそ いとど 桜はめでたけれ

 桜は日本人にとって、ことほどさように大切な花である。いつまでも永久に存続するものなど、この世にあるのだろうか。決して花は、同じ姿をとどめることはない。

世阿弥の「花伝書」(風姿花伝)には、《秘すれば花》の記述がある。芸の奥義や人生の本質は、文字や言葉で表現できるものではない。花、桜は人の生き様そのものである。

安易に「人生」を語るべからず、と言っているような気がしてならない。

 書を捨て、花見にでかけよう。Vfsh0025 (写真:上野公園)

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《山本勘助》に出会う 「信濃路の風林火山」山本勘助とその舞台(信濃毎日新聞社)書評

 このブログでもたびたび「風林火山」あるいは「山本勘助」関連の書物を紹介してきた。先日、長野で購入した1冊は、至極の出来である。現地にしっかり根をおろす、信濃毎日新聞社の本である。《信濃路の風林火山》というタイトルだ。1,260円。中身は、長野県内の信玄および勘助ゆかりの地の丹念な取材に裏打ちされている。諏訪、上伊那、佐久、小諸そして上田。松本、安曇、木曽ときて、川中島で締めくくる関連史跡の紹介がおもな内容だが、他書にはない詳しい現地の紹介は、すばらしい。Photo_161

 とくに「あとがき」で“ロマンを秘めた人物――山本勘助は何者であったか?”は印象深い。少し長くなるが、この本の本質をついているので引用する。

 

歴史的には謎の人物とされる勘助。(略)江戸時代には有名なヒーローだった。多くの軍記ものにも登場し、伝説も生まれた。(中略)

 『甲陽軍鑑』に描かれる勘助の活躍は、ただ一人の人物に集中される話というより、多くの武将たちの生きざま、活動を集約したような印象を受ける。たくさんの勘助的な人物がいて、武田信玄を支えていた、その代表格として勘助という人物が描かれた、と解釈することも可能である。

 山本勘助は、戦国時代に生きたさまざまな人々に光を当てる、そんなヒントを与えてくれる人物だったのではあるまいか。武田信玄という実在した英雄の活躍を太い縦軸にして、無名の人々が織りなす歴史全体について、不思議なロマンを感じてもらえれば幸いである。(金子万平)

 金子さんの書いてあるとおりだと思う。山本勘助は、確かに平和な江戸時代につくられた英雄だったかもしれない。史実の裏付けが少ないかもしれないけれど、こんなユニークな人物がいても、まったく不思議はない。むしろ太平天国であった江戸の時代には、一見、風貌も悪い、破天荒な勘助的人物が登場する待望論があったのではないか。

 

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川中島の長野市立博物館《「風林火山」特別企画展》に行ってきました

 長野で県主催の信州キャンペーン実行委員会の会合があり、ついでに川中島へ行ってきた。川中島は言わずと知れた古戦場で、ここは八幡原(はちまんばら)史跡公園として、整備されており、長野市の博物館がある。まさにこの地で、「体感!川中島の戦い2007」と題する特別企画展が開催されている。(平成19年3月24日~12月16日)Vfsh0021_1

 この企画展を見学させていただいたが、なかなか、どうして「川中島合戦シアター」という大型スクリーンは、川中島第4回戦の模様をドラマ仕立てで再現し、音響効果もよく、迫力満点だ。しかし座席は50名足らずで、貸切バス1台の人員しかさばけない。もちろん上映時間は8分と短いのだけれど、この企画展では、この映像がメインなので、会場が小さいのは致命的だ。

 山本勘助については、さほど掘り下げた展示内容でないのが残念だ。結局、NHKの大河ドラマの紹介が目立つ内容になってしまった。しかし「風林火山」入門編としては、親切な展示内容である。(少しでも歴史好きな人にきわめて物足りない)

 川中島へは、長野駅から松代行きのアルピコバスで25分、440円。入場料金は高校生以上500円、小中学生が250円。映像も含めて30分もあれば、十分だが、この企画展と同時に、常設展もみてほしい。善光寺の歴史や川中島合戦に至る史実もわかりやすく解説されている。

 ともかく、信玄と謙信の一騎打ち像のあるあたりは(屋外だが)以前と比べ。格段に整備された。「のぼり」も多い。風林火山ファンには欠かせないポイントであることは間違いない。Vfsh0022_1 (写真:たろべえ撮影)

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《熊野古道を歩くその2・日本の旅行業のルーツは熊野詣》

 熊野古道は「世界遺産」に登録されている。詳しくは、「紀伊山地の霊場と参詣道」といい、和歌山・三重・奈良の三県にまたがっている。紀伊半島(紀伊山地)のけわしい自然の中に成立した山岳霊場と参詣道、そして周囲を取り巻く山や森林、河川、温泉などの「文化的景観」が評価され、2004年に登録された。(和歌山県企画部計画局地域振興課作成のリーフレット参照)

 もとは山伏や修験者たちの修行の場であり、山岳宗教のメッカであった熊野だが、平安時代以後、神仏習合あるいは本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想の潮流の中、熊野三山の本宮は阿弥陀仏(極楽浄土・西方浄土)、新宮は薬師如来(東方瑠璃浄土)、那智は千手観音(観音菩薩の住む補陀落ふだらく浄土)と考えられた。平安から鎌倉、室町時代には、(天皇を引退した)上皇や(出家した上皇の)法皇をはじめ、貴族たちや、庶民にいたるまで、熊野に詣でることが、病や世の不安を逃れ、浄土を目指す流行になった。

 15世紀後半には、熊野詣は最盛期を迎えたそうだ。京の都から熊野往復は、22日間から一ヶ月近くかかった。けわしい山道には、案内人(先達せんだつ)が必要だった。熊野に詣でる団体も多かったに違いない。そこには、「旦那」と呼ばれる「主催者」がいて、現地に同行するエスコート(添乗員)の「先達」がいた。受入側は「御師(おし)」と呼ばれる熊野の社寺の住職がいて、宿坊として宿や料理の提供などを生業(なりわい)としていた。いまの旅館業のはしりである。熊野には、温泉もある。食材は海のものも山のものもある。

 しかも御師は、営業権のような既得権益をもっており、晩年には、その権利を売り買いしたようだ。大勢の参詣客を受け入れるためには、旦那・先達・御師の旅行の手配ルートが確立していた。

 また、この熊野参詣ツアーには、全国に散っていた、女性営業マンがいた。《熊野比丘尼びくに》という。熊野比丘尼たちは、各大社の公認セールスマンとして、全国津々浦々でお客を集める。熊野権現参詣のご利益を説明するため、(密教でいう宇宙観、世界観を絵に描いた)「熊野観心十界曼荼羅」と、実際に参詣する現地の風景を案内する

「那智参詣曼荼羅」をセットで持ち歩き、熊野三山へのお参りをすすめた。

 同時にその年(新年)に熊野で発行された《熊野午王宝印くまのごおうほういん》を売って回り、庶民から寄付(お布施)を集め、本山へ奉納した。午王は、お守りや証文(起請文の用紙に使う権威あるもの)として、売られた。(なお熊野午王は、現在でも三社で手に入る。1枚500円。)

 この比丘尼の所属した寺が、新宮に残っている。妙心寺という。速玉大社に近いが、いまでは廃寺になっていて寂しい限りだ。16世紀には、国民的なツアーであった熊野詣も交通網の整備等の点で、「伊勢詣」が人気となり、衰退していく。熊野比丘尼たちも生活の術を失い、近世には、井原西鶴の『好色一代女』に出てくるように、場合によっては遊女に身を落としていった。現代でも優秀な女性の添乗員や営業ウーマンはたくさんいる。だがたまに、水商売に転職していく人もいる。

(那智勝浦町観光協会提供のチラシ:クリックで拡大)

Kumano

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熊野古道《中辺路》を行く

 平安時代から中世にかけて、熊野は信仰の地であった。本宮・新宮・那智の三山は、阿弥陀様の極楽浄土に行くための、聖地だ。上皇や貴族、そして庶民にいたるまで多くの人々が熊野に参詣した。Vfsh0040_1

 今年三月、和歌山県の主催する首都圏旅行エージェントの現地研修に参加し、熊野古道を歩いた。コースはもっとも有名な《中辺路なかへじ》の滝尻王子から、急な山道を行く高原熊野神社までの、ほんの4㎞弱、約1時間半ほどだったが、結構きつい。まだ寒い日であったが、うっすらと汗をかく。

 うれしいことに県の招聘事業のためか、「語り部」という現地ガイドが同行し、植物や山の花の説明をしていただける。平安から鎌倉・室町時代頃の面影を残す古道もあるが、世界遺産に登録されて以来、整備され、新しく植林された杉や桧の林は、道も固く歩きにくい。昔からの道は、木々の落ち葉が腐葉土となり、やわらかく足にやさしい。Vfsh0051_2

 『熊野詣』は平安時代、京の都の上皇や貴族達によって始まったそうだ。熊野三山へ向かう経路は、大きく分けて「紀伊路」と「伊勢路」があった。さらに紀伊路は、「大辺路」、「中辺路」、「小辺路」と別れ、和歌山県の田辺から東の山中を進むルートが、中辺路である。

 都から熊野まで途中には、道しるべのように『九十九王子』があった。いまも残る「王子」とは、熊野権現の子神や地元の鎮守様をはじめ、あらゆる神仏をまつる祠(ほこら)である。平安後期の正式な上皇の熊野詣ででは、この王子で、神様へのお供えをしたり、経をよんだりした。また、神楽をはじめ、舞も奉納。和歌の歌会も開いた。場所によっては、宿泊(仮泊)することもあった。実際には、王子は80箇所以上はあったようだが、「九十九」とは、数が多いことをいう。

 今回の『滝尻王子』は、しっかりした社(やしろ)が建つ、由緒ある場所だ。もちろん歩いたあとは、温泉である。苦行の果てに現世利益だ。湯の峰温泉はおすすめである。小栗判官ゆかりの「つぼ湯」も残る。また近くの川湯もよい。雰囲気がある。

 今回、我々が宿泊したのは、温泉情緒はないが、西日本最大の露天風呂をもつ「わたらせ温泉」。料理もよし、従業員のマナーもよい。もちろん、大きな大きな露天風呂は忘れられない。本宮大社もすぐ近い。

(※写真:滝尻王子、高原熊野神社 たろべえ撮影)

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《高野山を歩く》

 高野山は、いわずと知れた真言宗の大本山・金剛峯寺(こんごうぶじ)や大伽藍が有名だ。それから奥の院(弘法大師御廟)に通じる参道には、中世から江戸時代に日本全国の大名が建てた武将の墓や供養塔が集中している。

 一の橋から奥の院までの焼く2キロの平坦な道だが、武田信玄と勝頼の供養塔が、参道をはさんで上杉謙信の墓廟(びょう)と対面しているのも、まさに川中島のようだ。

 これらの供養塔は、「五輪塔」が多い。古来インド思想では、すべての源、宇宙を構成する五大要素(元素)の考え方があった。五輪の上部から下部への五つとは、つぎのような意味をもつ。Vfsh0026_1

宝珠形:空輪

半月形:風輪

笠・屋根形:火輪

円形:水輪

方形:地輪

 このインド思想が、密教に受け継がれている。とくに鎌倉時代以降、江戸時代まで、この五輪塔を墓石や供養塔として、その人の生きた宇宙観をあらわすもとして、表現したようだ。

 ちなみに、五つの石は、それぞれ梵語(ぼんご)での発音がある。

空輪:キャ

風輪:カ

火輪:ラ

水輪:バ

地輪:ア

(写真:たろべえ撮影、苔むした五輪塔、高野山にて)

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宇宙の心を生きる《真言瞑想法 阿字観あじかん》

 高野山の道場(研修場)で、真言宗に伝わる、瞑想の儀式・真言瞑想法の阿字観を体験したことがある。昔、弘法大師・空海が京都での公務に疲れたとき、高野山に帰り、英気を養うために生み出した呼吸法であり、瞑想の方法だ。Ajikan_2

 宇宙と呼吸を通わせ、コミュニケーションの手段として、心を通わせる方法だが、体験してみると、座禅のように足を組み、腹式呼吸でゆっくりと息を吐き、ゆっくりと吸う。肩の力を抜き、おなかの前で手を組む。大日如来をあらわす「あ」の音を念じながら、静かに瞑想する。

 30分から40分も続けると、心身の疲れが取れていく。きわめて不思議な体験だ。禅宗の座禅とは違う。脇息で背中をたたかれることもない。

 実際に高野山では、予約制であるが、この阿字観(教室)は、若い僧が、丁寧に足や手の組み方から、呼吸法を親切に指導してくれる。終わると、なぜだが、すーっと体から邪気が抜けていた。楽になっていた。理由はまったくわからないが、1200年も続く真言の瞑想法は、いまも生き続けている。(写真:恵光院)

ありがたや 高野の山の岩陰に

大師はいまだ おわしますなる

■高野山観光協会 0736(56)2616

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私の日曜日

私の日曜日は、少年サッカーのコーチと試合の時は、審判をする。当然

JFA日本サッカー協会の公認審判員である。したがってサッカー好きである。

実は熊野(和歌山県)の本宮大社、速玉大社、那智大社には、JFAのシンボルマーク「咫烏(やたがらす)」のルーツがある。世間でよく知られる三本足のカラスだが、神武天皇の東征のとき、那智海岸に上陸され、熊野から大和に入る険しい山や谷を先導したと伝えられる鳥が、やたがらすだ。熊野の守り神として、今にわっている。三社には、この三本足のカラスを祀(まつ)ってある。お守りも人気だ。

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日本における現在のサッカースタイルの起源は、明治時代の東京高等師範学校(東京教育大学・現筑波大学)であったそうだ。学校で学んだ学生たちが、教員として日本全国にサッカーを普及していった。その生みの親といわれる人物が、(和歌山県)那智勝浦町浜ノ宮出身で同師範学校の

中村覚之助だ。

 そして、この八咫烏を図案化したのが、中村の後輩であった東京高等師範学校の内野教授であったそうだ。昭和6年には東京高等師範のシンボルとしてのサッカーのマークをデザインしたと伝わる。

日本サッカー協会のマークとして使われたのは、どうやら八咫烏(やたがらす)が神武天皇の導きも神であったことから、ゴールへボールを導くようにと採用されたようだ。

(写真はたろべえの審判グッズ、レフリーワッペンにはカラスがデザイン)

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あこがれの《オリエント急行》

 添乗員をやっていて印象に残っていることがある。旅行会社に入ってよかったと思うことのトップは、あこがれのORIENT EXPRESS(オリエント急行)に乗車した思い出である。添乗員として、イタリアのベニス(ベネチア)からパリまでの約22時間の列車の旅であった。Vsoeextsce33

 ベニスのサンタルチア駅を午前11時に発車。車両は完全なコンパートメント形式でツイン(2名1室)が基本で、添乗員はシングルの一人個室だ。昼間はゆったりとした座席だが、夜間は快適なベッドになる。夕食(ディナー)と朝食(ルームサービス)がつく。ベニス~パリ間の運賃料金は、239,000円。これに個室(シングル)料金が115,000円加算されるから、決して安いものではない。確かイタリアとパリを回るツアーで約70万の旅行費で10日間程度の行程であった。参加者は8名ほどの豪華な旅行だった。ちなみに参加者は、私以外は女性ばかり。

 オリエント急行のディナーは定評がある。夕方6時と夜8時に2部交代だが、ゆっくり食事がサーブされる。もちろんディナータイムには、「ドレスコード」があり、男性なら上着(ジャケット、スーツ)にネクタイ着用。女性もイブニング・ドレスが必要だ。

 たっぷりと着飾ったメンバーで食事に行く。当然、ワインも頼む。パリの3星レストランの鴨料理がメインだ。こんな時、日本人は居合わせた外国人と英語で会話のひとつも楽しみたいものだが、シャイなお客様ばかりで困った。Meals_photo1

 たっぷりとディナーを堪能して、5、6人のお客様と「バーカーBAR CAR」へ繰り出す。この車両は、ピアノが置いてある。弾き語りをバックにカクテルを頼む。日本人だとみるや、さっそく「さくらさくら」や「上を向いて歩こう」などを演奏してくれた。とくに「ここに幸あり」の曲は、バラードに編曲され、心に響く音色である。ピアノ弾きの初老の男性にチップをはずむ。

 列車は、まもなくイタリアからスイスに入る。外は暗いがバー車両は盛り上がる。

夜も更けてきた。ピアノ弾きにきいてみた。(英語)Vsoebar25

 「すみません、何時まで営業ですか?」

 「営業時間は決まっていません。お客様がお帰りになるまでです。」

ステキな言葉に感動。満足してキャビンに戻った。

快適な眠りだった。

(写真はオリエントエクスプレス提供)

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《庄内ひな街道》

 2005年文化庁の肝いりで、『わたしの旅~日本の歴史と文化をたずねて~2005』というタイトルで全国から旅の企画を募集した。文化事業の一環である。なかなか斬新なアイデアあふれる100選が選ばれたが、旅行業として商売になりそうなものは、少なかった。なかでも東京都の山崎セツ子さんの「ひな街道を行く 山形県・新潟県2泊3日」について、昨年3月に日本旅行業会(JATA)で検証ツアーをおこなうことになり、私も参加した。

 庄内の酒田や鶴岡では、藩主や裕福な商家に、いまでも豪華なひな人形が残っている。江戸時代の北前船で京の都や上方から高価なひな人形が運ばれたり、大名家の越し入れにより、江戸の人形文化が伝わった。「ひな街道を行く」ツアーは、新潟から羽越線で酒田に入り、酒田市内の本間美術館や本間家そして商家・旧鐙屋(あぶみや)や料亭・相馬楼でひな人形をみる。泊りは、酒田駅前の酒田東急イン。館内のル・ポトフというフランス料理がおいしい。Photo_160

 2日目は、庄内の中心地・鶴岡へ。メインは到道博物館で、庄内藩主・酒井家に代々伝わる豪華なひな人形や雛道具を見学。ここで館内案内と説明をいただいたのは、学芸員の酒井賀世さん。藩主・酒井家18代酒井忠久氏の長女である。世が世であれば、お姫様。なるほど美しく品がある。(山形県の広報誌に賀世さんの紹介がある)

http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/mm_bk_data/s/img_mm_series_woman/no_104/sakai.html

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※山形県広報誌「いきいきWOMAN No.104」より

 

 ツアーは、その後各地でひな人形をみて、湯野浜温泉に泊り、新潟の村上へ。ここで町屋(商店)に伝わる数々の人形を拝見した。

 「ひな人形」のルーツは、人間の形につくった草木を川や海に流して、幼い子の無事な成長を願った《形代かたしろ》だ。その後、紙雛がつくられた。ひな人形としては、寛永雛→享保雛→次郎左衛門雛→有職雛→古今雛と変容してきた。現代のひな人形は、江戸時代につくられた「古今雛」の流れである。庄内ひな街道をたどると、本間美術館や到道博物館で、この歴史を学ぶことができる。

 私は、男なのでどうも「ひな人形」ばかりでは食傷気味になったが、酒田の旧商家で料亭(旧鐙屋)でみた《傘福かさふく》には感動した。つるし雛で、番傘に手づくりの小さな人形や野菜やくだものなどをつるす。やはりこどもが無事の大きく育つようにと祈願して、神社に奉納されたものだ。子を思う親の心は、いつの世もかわらない。Vfsh0161

(写真:到道博物館提供、傘福その他はたろべえ撮影)Vfsh0159_1

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《蔵の町 川越》《さつまいもの川越》に行ってきました

 埼玉県川越に仕事で行ってきた。「蔵の町」、「小江戸・川越」である。江戸時代、宿場町として栄えた名残で、多くの商家が残る街並み。町のシンボルマーク「時の鐘」も残っている。Vfsh0115_2

 蔵の町は、街道筋に残るため、交通量が激しい。東武と西武の路線バスもひんぱんに行き来するし、トラックも通るので、決してよい環境ではない。歩道すれすれにバスが往来する。したがってゆっくり建物を見学できない。「菓子屋横丁」は大通りから中に入った小道にあるので交通の心配はない。

 ところでこの蔵造りの町で気になるのが、お土産屋さんだ。地元の特産物を売ったり、昔からの和菓子屋さんがあるのはわかる。ところが、京都や鎌倉にあるしゃれた漬物屋やお煎餅屋のチェーン店があるというのはどうか。もちろん町の雰囲気をこわさないように店のディスプレイなどは、ひとむかし前の時代風だ。しかし、置いてある品物は、京都の店と同じで、「なぜ川越なのか」わからない。

 最近はやりの言葉に「地産地消(地元の特産品をつかってその土地で消費する、販売する)」がある。川越は、漬物やお煎餅ではない。断然《さつまいも》である。Vfsh0116

 寛政年間1789~1801年)、江戸に「焼きいも屋」が出現。庶民の人気を博した。さつまいもの産地は、千葉と埼玉の川越周辺であったそうだ。詳しくは、川越の南の武蔵野台地に広がる所沢、狭山、三芳地区が、「川越いも」ブランドの収穫地であったようである。川越のいもは、「金時(紅赤いも)」といわれ、トップクラスのおいしさだった。

 江戸っ子に人気の川越のいもは、新河岸川を船で江戸に運んだ。

 この「いも」で有名な店が、川越の《いも膳》。いまや名物郷土料理である。「いも懐石」5,500円がおすすめ。(要予約)いもの和え物、揚げ物のいもしん薯(じょ)、いもめん、甘味では、いもくずきりにいもアイスという具合。しかもうれしいのは、「サツマイモ資料館」があり、全国から取り寄せたサツマイモの商品を展示したり、サツマイモの歴史や文化を紹介している。

 こんなふうに川越もおもしろい。

        小江戸川越 いも膳

        埼玉県川越市小室15-1 TEL:049-243-8551 FAX:049-241-7050

        営業時間/11:30~21:00(火曜日定休)

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