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2007年5月の11件の記事

風林火山《由布姫》について

このブログで由布姫(ゆうひめ)について、書いたことがあります。大河ドラマ「風林火山」もおもしろくなってきました。由布姫三部作です。Photo_175

タイトルリンクはしていませんので、アドレスをクリックしてください。

1.    風林火山《由布姫》は俗名「梅姫」 - 2006121923
...
諏訪湖に思い入れがあり、「湖衣姫」と名づ け、一方、井上靖は『風林火山』を執筆した九州の由布院(湯布院)温泉にちなんだ「由布姫」を選んだという。なるほど、「梅姫」よりは、湖衣姫や由布姫の方が語呂がよいかもしれない。ちなみに諏訪湖の小坂観音 ..

   http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/index.html

  ※12月19日をみてください。

.2.  長野県 《由布姫》ゆかりの諏訪湖へ行ってきました- 200612131835
...
物語では、「高島城」が諏訪氏の居城と設定され、主役・山本勘助が由布姫と出会う場所もこの地である。さらに由布姫(ゆうひめ)が武田晴信(信玄)の側室として、その子・四郎(勝頼)を産み、諏訪に戻って静かに暮らすのが ...
http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/index.html

  ※12月13日をみてください。

3.    2007年大河ドラマ、主役は山本勘助と《由布姫》 - 2006112208

... 信玄に滅ぼされた「諏訪頼重(すわよりしげ)」の娘・由布姫(ゆうひめ・諏訪御料人)を信玄の側室に推薦する。信玄の正室・三条の方との確執もあるが、甲府と諏訪を往復しながら、勘助は由布姫に無償の「愛」を感じ、信玄と姫の間に生れた四男・勝頼を ...
http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/index.html

  ※11月22日のところをじっくりみてください。

(イラスト:たろべえ)

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《大黒屋光太夫》「紅茶の日」を検証する

 日本紅茶協会が11月1日(ロシア暦10月20日)を「紅茶の日」に制定したことは、このブログに書いた。大黒屋光太夫が、当時のロシアの女帝・エカテリーナ2世により、日本への帰国が許可され、しかも宮殿で茶会に招かれ、日本人として初めて本格的なティーパーティーに出席したことから、この日を「紅茶の日」に決めたというエピソードがある。実際にはどうだったのだろうか。

■まず、江戸時代に幕府へ献上された『北槎聞略』(ほくさぶんりゃく:桂川甫周著、岩波文庫)での10月20日の箇所。(巻之三)

十月二十日宮中にめされ女王より親手(てずから)鼻烟盒(かぎたばこいれ)を給う

10月20日、宮中に召され、エカテリーナ2世から嗅ぎタバコ盆を手渡しで賜った)

■つぎに大御所・井上靖『おろしや国酔夢譚』(おろしやこくすいむたん:徳間文庫)。

 十月二十日に、光太夫は宮中に召され、ラックスマン付添いのもとに参内(さんだい)した。極(ご)く短い拝謁であったが、女帝は手ずから嗅ぎ煙草入れを光太夫に賜り、

「海路つつがなく帰国するように」というお言葉を下された。光太夫はお礼の言葉を申し上げて、すぐ御前を退出した。

※もちろんセリフは、井上靖の創作だろうが、実に自然で無理がない。

■続いて『大黒屋光太夫 帝政ロシア漂流の物語』(山下恒夫著、岩波新書879「第6章帝都サンクト・ペテルブルグ」)より。

 十月二十日、エカテリーナ二世からのお召しがあり、光太夫はキリール・ラクスマンと共に、ネヴァ河の南岸に建つ冬宮へ伺候(しこう)した。光太夫は、なぜか王宮については多くを語っていない。鮮緑石の孔雀石で飾られた孔雀の間など、贅を尽くした宮殿内の偉容に息を呑み、言葉をなくしたのかもしれない。

 玉座に身をおかれた女帝は、心なしか沈んだ表情にみえた。光太夫は、帰国がかなえられた至福を一途にお礼申しあげた。恙(つつが)なく帰国せよ------------そう告げると、女帝はほほ笑まれた。光太夫の掌の上には、宝石箱のように美しい嗅ぎ煙草入れがあった。それはたったいま、

女帝が手ずから渡してくださった別離の記念の品だった。日本にないものを所望せよと仰せられたことがあり、光太夫はその品を挙げた。女帝は忘れずに覚えておられたのだ。この日が光太夫にとって、エカテリーナ二世の慈顔を拝する最後の機会となった。

※山下恒夫は、作家ではなく、研究者であるが、大変あたたかい、心がこもった描写になっている。しかし、お茶会の話は出てこない。

■歴史学者の木崎良平の『光太夫とラクスマン 幕末日露交渉史の一側面』(刀水書房、3章光太夫たちの帰国の背景、P62)には、つぎのように記述されている。

 (略)10月20日、光太夫は再び宮中に召され、女帝から鼻烟盒(かぎたばこいれ)を給わり、

慰労の言葉をかけられた。もっとも、このあたりの日付については史料により異同があり、正確なところは分らない。

※歴史学者は、クールにものを見て冷静に描写するもの。

■やはり、吉村昭『大黒屋光太夫』にその記述があった。(新潮文庫、下巻「女帝」)

 (略)

10月20日、女帝エカテリナから参内せよという使者が来て、光太夫はキリロと正装をしてともに馬車で宮殿にむかった。

 (略)宮殿に入ると、広間に外務大臣代行と商務大臣が待っていて、二人に導かれて大理石の幅の広い階段をあがり、広間に入った。(略)やがて侍従、侍女を従えた女帝が広間に入ってきて、装飾をほどこした大きな椅子に腰をおろした。光太夫は、深く頭をさげた。

 進み出た商務大臣が、女帝の帰国を許可する旨の言葉を光太夫に伝えると、光太夫は慈悲深い女帝の御恩を一生忘れぬ、と奏上した。女帝はにこやかにうなずき、光太夫は再び頭を下げた。

(その後、女帝から煙草入れをいただく。略)

 女帝はおもむろに腰をあげ、侍従、侍女を従えて静かに出ていった。

 光太夫は、商務大臣、外務大臣代行、キリロとともに退出し、別室に導かれて、そこで茶を供された。

 大変、引用が長くなってしまったが、「紅茶の日」は吉村昭先生の本によるものであったようだ。ともかく、大作家・井上靖も吉村昭も鬼籍に入ってしまっているので、とやかくいうのも野暮である。この辺でお茶を濁すとしよう。

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日本海外交流史《大黒屋光太夫》その2《女帝エカテリーナ》

 当時のロシアは、女帝エカテリーナ2世が統治していた。都はペテルブルグ(サンクト・ペテルブルグ)であった。大黒屋光太夫は、日本への帰国許可を願い出るため、オホーツクからイルクーツク、そしてペテルブルグに至るシベリアの大雪原を、片道、約8800kmの距離を往復した。その苦難に満ちた行程については、井上靖や吉村昭の小説に譲るが、光太夫の物語の中で、やはりもっとも感銘を与えるのは、当時のロシアを治めていた《女帝エカテリーナ》との出会いである。Photo_172

『おろしや国酔夢譚』(おろしやこくすいむたん、井上靖)によれば、光太夫は博物学者であり、ロシア・アカデミー会員であったキリル・ラクスマンの尽力により、女帝に直訴して故郷への帰国の許しを乞うため、都へ向かった。やがて、女帝が避暑を過ごすための夏の宮殿(エカテリーナ宮殿)にて謁見(えっけん)がかなう。光太夫のそれまでの身の上をきくと、エカテリーナは、いつくしみ、同情する。Vfsh0368_1

 その後、光太夫は帰国を承認されるが、その背景には、ロシアの日本に対する通商条約締結を優位に運ばせる政策が根幹にあったようだ。いずれにせよ、女帝は、王宮にもどり、記念のタバコ盆を下賜するため、再び彼らを呼ぶ。この日は寛政3年(1791年)

ロシア暦で10月20日であった。ひとしきり、記念品の授与式がおこなわれた後、光太夫とラクスマンは、宮殿内でのお茶会に招待されたようだ。

 このロシア暦で10月20日が西暦では、11月1日になる。日本人として初めて本格的な《紅茶》を飲んだ、という逸話から、日本紅茶協会が「11月1日」を「紅茶の日」に決めたそうだ。(参考:日東紅茶)

http://www.nittoh-tea.co.jp/knowledge/knowledge07.html

※写真:エカテリーナ宮殿、エカテリナ2世(サンクトペテルブルグ国立ロシア美術館蔵1782年)、大黒屋光太夫【左】(早稲田大学図書館蔵)

(日東紅茶、「紅茶の日」から引用)

ペテルブルクを離れる直前の1791年11月1日、光太夫はエカテリーナ2世のお茶会に招かれ、日本人として初めて、本格的な欧風紅茶(ティー・ウィズ・ミルク)を楽しんだといわれています。このことから、日本紅茶協会は、この日を日本における「紅茶の日」と定めました。

決して帰国をあきらめず、仲間を導きシベリアを横断した奮闘ぶりと、ロシアにおける功績を考えれば、皇帝のお茶会に招かれたというエピソードもごく自然なことに思われます。ロシア滞在中想像もつかない苦難を味わった光太夫も、エカテリーナ2世をはじめとするロシアの人々の温かい心に触れ、優雅な宮廷の一室でおいしい紅茶とお菓子を楽しんだひとときは、きっとおだやかな気持ちに満ちていたことでしょう。


11月1日には、そんなエピソードに思いをはせながら紅茶をいれてみませんか? とっておきの茶葉とティーセット、もちろんお菓子も忘れずに。きっと、“ティータイムがある幸せ”を感じられることでしょう。

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日本海外交流史《大黒屋光太夫》

 昭和43年(1968年)、井上靖は『おろしや国酔夢譚』(おろしやこくすいむたん)を発表。1991年には主演・緒方拳により、映画化された。  

1782年、船頭大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう)ら17人の男と、廻米(まわりまい)・木綿等を積んだ神昌丸(しんしょうまる)は、伊勢から江戸へ向かった。狂騰(きょうとう)する波涛(はとう)に弄(もてあそ)ばれ、八ヵ月後、彼らが流れ着いたのは、北の果て、アムチトカ島だった。望郷の思いに、ひたすら故国への途(みち)を求め、彼らは極寒のロシアを転々とし、終(つい)にはペテルブルクへ。出帆から、十年近い歳月が流れていた----------。鎖国の世、異国へ渡った男たちのロマン溢れる冒険譚。大映映画化。(井上靖『おろしや国酔夢譚』徳間文庫1991年刊より)

 大黒屋光太夫については、以前から興味があったため、今回読み直してみた。さらに同じ題材を扱った『大黒屋光太夫』(吉村昭、新潮文庫上下巻、平成17年刊)を読む。  

天明2年(1782)、伊勢白子浦を出帆した回米船・神昌丸は遠州灘で暴風雨に遭遇、舵を失い、七ヵ月後にアリューシャンの小島に漂着した。沖船頭・光太夫ら十七人の一行は、飢えと寒さに次々と倒れる。ロシア政府の意向で呼び寄せられたシベリアのイルクーツクでは、生存者はわずかに五人。熱い望郷の思いと、帰国への不屈の遺志を貫いて、女帝エカテリナに帰国を請願するが-----。(上巻)  光太夫は、ペテルブルクへの苦難の旅路をへて、女帝エカテリナに謁見(えっけん)。日本との通商を求めるロシアの政策転換で、帰国への道も開かれた。改宗した二人を除く光太夫、磯吉、小市は、使節ラクスマンに伴われて、十年ぶりの帰還を果たすが、小市は途中、蝦夷地で病に倒れる。------鎖国日本から広大なロシアの地に漂泊した光太夫らの足跡を、新史料を駆使して活写する漂流記小説の最高峰。(下巻)(吉村昭『大黒屋光太夫』新潮文庫2005年刊より)  

  大黒屋光太夫のたどった道のりは、これらの小説に書かれているとおり、史実である。 1782年、神昌丸で伊勢を出航した時は17名、10年後の1792年蝦夷(北海道)に戻ってきた時は、わずかに光太夫と磯吉の2名。(もう一人小市は上陸後死亡)壮絶な10年。  しかし、井上靖が『おろしや国酔夢譚』を著した頃は、残念なことに一部の史料が発見されていなかった。井上は、江戸幕府の命によって、蘭学者・桂川甫周(かつらがわ・ほしゅう)が光太夫らから当時のロシア事情を聞き書きしてまとめた『北槎聞略(ほっさぶんりゃく)』をおもな史料として、この作品を書き上げた。残念なことに、酔夢譚の中で「光太夫と磯吉は、江戸に幽閉されており、故郷を訪れることはなかった」と断言してしまった。大黒屋光太夫は、ロシアを体験して苦難の末、帰国したが、鎖国政策をとっていた江戸幕府により、監禁生活を余儀なくされた、という悲劇の主人公のような視点であった。  

ところが1986年、古文書が発見され、光太夫の出身地(三重県鈴鹿市若松)で、日本に帰国してから10年後、故郷に帰り、まだ存命であった母親と再会することができたことが証明された。(磯吉は帰国6年後、里帰りが許され、母親と会うことができた。) ※彼らの出身地・三重県鈴鹿市若松の大黒屋光太夫記念館では、光太夫が母親と再会したことを示す古文書を展示。一方、『大黒屋光太夫史料集』全四巻(2003年日本評論社刊)を編纂した山下恒夫氏の岩波新書では、享和2年(1802年)4月22日から6月3日まで故郷に滞在し、光太夫は、血族でわずかに残っていた甥二人と親類一人の3人に会ったと記されている。(母親や兄弟、姉たちや妻は、すでに亡くなっていたようだ)  

もし、井上靖が原作を書く時分に、光太夫と磯吉がふるさとに一時的にも帰ることができた、このエピソードを知っていれば、もっとクライマックスが盛り上がったものだったに違いない。(参考:山下恒夫著『大黒屋光太夫』岩波新書、2004年刊)

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海外旅行ちょっぴりアドバイス2《パスポートをなくしたら帰国のための渡航書》

 恥ずかしい話だが、ロンドンでパスポートを盗難にあったことがある。英国政府観光庁主催の出席したワークショップ(観光推進会議)が開催された時、私も参加した。現地で各ホテルや地方の観光局との商談会。3日間のワークショップが終わって、打ち上げで、しこたまビールを飲み、酔っぱらった私はセカンド・バックを置き引きにあってしまった。(飲んでいる時、イスの背側に置いておいた)Photo_171


 中身は、パスポートと帰りの航空券。現金やクレジット・カードを入れた財布は、いつも肌身離さずもっていたから不思議である。すぐ、警察に電話。ホテルに、ブロンドで若くてきりっとした女性ポリスがやってきました。事情聴取をされる頃、酔いもさめていた。おまわりさんもきれいだし。しかし、現金は入っていなかったけれど、旅券がなければ日本へ帰国できない。

「仕方がないや、もう夜遅いし・・・」と、仲間と、も一度パブに繰り出すことにした。「あした日本大使館へ行って、帰国のための渡航書とればいいや。」という感じで、飲みなおしである。(英国でもやけ酒があるらしいA drink in frustration)


 深夜、ホテルに帰ってみると、フロント横のガードマーンに呼ばれた。
「隣町の○○警察から連絡があってすぐ来てほしいそうです。パスポートみつかったみたいだね。ミスター・パスポートさん!」と。(英語)

 さっそく、タクシーに飛び乗って、隣町の○○警察署へ。ありました。泥だらけのクラッチバックに、そのままのパスポート。その警察署できかされたのは、「日本のパスポートは40万円(日本円換算)で売れるのに、出てきたのは、まさに奇跡だね。ミスター・パスポートさん!」(英語)
 おそらく、ロンドンで旅券をなくした日本人男性は、みんな「ミスター・パスポート」と呼ばれるらしい。実話。
帰国のための渡航書についてTravel_2
 旅券(パスポート)の再発行まで待てない場合、急ぎの場合には、旅券ではなく、「帰国のための渡航書」と、いって旅券のかわりに発行する、ボール紙の書類が発行される。ロンドンから日本へ帰国することだけができる。帰国したらすぐ、新しい旅券を再発行する手続きが必要だ。これだと1~2日で、できる。

帰国のための渡航書は、英文ではTRAVEL DOCUMENT FOR RETURN TO JAPANと書かれてある。パスポートではない。「日本に帰国するための旅行書類」である。

 何かあった時、あわてないために旅行中は、パスポート用の写真(2枚)を別に持っているとよい。実際に旅券の盗難や紛失に遭ったら気が動転してしまうだろうから、万一に備え、流れだけでも理解しておくと違う。

 旅券(または帰国のための渡航書)の再発行の手順はつぎのとおり。

    地元の警察署へ出向き紛失・盗難届を出す(各地の警察署は実に慣れていて混んでなければすぐ終了する。最寄の警察署の所在地は、ホテルできくとよい。)英語がわからなくても、steal(盗む)の過去分詞形でstolen(盗まれた)か、lose(なくす)の過去分詞形のlost(失くした)の二つの単語がわかれば大丈夫だ。

   正確には、現地警察発行の「届出証明書」で、さらに重要なのは受付番号(イベント・ナンバー)である。ちなみに火災等で焼失の場合は、地元消防署の証  明書が必要になる。I had a passport stolen. I lost a passport. 

  

    帰りの航空券(チケット)がないと、旅券の再発行や帰国のための渡航書は受けられない。一緒に盗難にあったり、失くした場合は、日本の旅行会社にメールや電話で問合せをして、チケットのコピーをファックスまたはスキャナーで読み込んでデータで送ってもらう必要がある。時差がある場合は、大変に時間がかかる。そのコピーを現地の同じ航空会社カウンターか空港カウンターへ持参し、再発行してもらわなければならない。(団体ツアーでは通常、添乗員がチケットをもっている。パッケージツアーでもハワイなどは、到着時に現地のエージェントが預かっている場合もある)

「再発行」はreissueという単語さえわかれば通じる。

I want to reissue an airline ticket.

航空券は、エアライン・チケットやエア・チケットで十分通じる。カウンターで再発行の手数料を取られる場合もある。

 お金に余裕のある人は、現地で日本への帰国用のチケットを購入すればよいのだが、日本へ帰国後、「ロスト・チケット」の申請をしても実際に払い戻しになるには最低、半年程度かかる。また格安航空券の場合、ほとんど戻ってこないと考えた方が無難だ。

    ①と②を用意して、写真がなければ現地の写真屋さんで旅券用の写真を撮り、はじめて、日本領事館へ出向く。その土地に日本の領事館や大使館がなければ、鉄道やバスで大都市へ行く必要がある。写真については、領事館で紹介してくれる場合も

あるようだ。

 領事館はもちろん日本語が通じる。所定の「紛失届」と「渡航書申請書」に記入

する。その際、日本の運転免許証など「日本の国籍を証明するもの」が必要だ。

    帰国のための渡航書は、現地空港からそのまま日本へ帰国するまで有効だ。航空機の関係で途中、経由地で宿泊する場合などは、あらかじめ渡航書に経由地が記入されていなければならない。さらに日本に到着時、一般のパスポート・コントロールを通ることは許されない。パイロット用の通用口で係官に申し立てが必要。しかも帰国後、ただちに(新しく)旅券を申請しなければならない。仮にあとから失くしたと思っていた旅券が出てきても、有効ではない。

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日本の旅券第一号《隅田川浪五郎》

   江戸幕府は、老中布告を出し幕末の慶応2年(1866年)4月から、庶民に海外留学生や商人のための海外渡航を許可することとした。徳川幕府は、長く続いた鎖国政策を列強の外圧によって、解かざるをえなかったわけである。(海外渡航差許布告) いまでいう旅券(パスポート)は、当時「印章」、「旅切手」、「免許」、「免状」などと呼ばれていたそうだ。外務省の外交史料館に残る、日本で最初の旅券取得者は、江戸時代の手品師・《隅田川浪五郎:すみだがわなみごろう》である。おそらく浅草あたりで人気の芸人だったのだろう。アメリカ人興行主・リズレーに勧誘され、曲芸師のチーム『日本帝国一座』を組み、アメリカやパリ万博のヨーロッパでの海外公演をするための海外渡航であった。【幕末期の「続通信全覧」に浪五郎に発給された印章の写しが記載されている。正確には「海外行御印章」という。】 Photo_167  この「印章」つまり旅券には、写真がない。いわば人相書のように浪五郎の特徴が記載されている。注目すべきは、真中に『日本政府許航侘邦記』の朱印が押印されている。

■江戸、神田相生町 源蔵店浪五郎(神田相生町、いまの秋葉原周辺に住む)

■年齢 37歳

■身の丈 五尺(身長 151.5cm、江戸時代の平均身長は、男子155~157cm)

■眼 中之方(目は中くらい) ■鼻 高き方(鼻は高い) ■口(くち) 中之方

■面 細長方(面長おもなが、細おもて)  

   そしてこの旅券の末尾には、慶應2年10月17日付で外国奉行の幕府の日本外国事務方が、つぎのように記述している。 (写真:上/外交史料館、下/フランス「ル・モンド紙1867年11月23日」、河合勝コレクション)

「書面之者亜国に香具渡世として相越度旨願に因て此証書を与へる間、途中何之国にても無故障通行せしめ、危急之節は相当之保護有之候様、各国官吏へ頼入候)」書面の者・隅田川浪五郎は、亜国に香具渡世(やしとせい)として、あいこしたきむね、願いによりてこの証書を与える間、途中いづくの国にても故障なく通行せしめ、危急の節は相当の保護これあり候よう、各国官吏へ頼み入り候

   この書面の者は、アメリカ合衆国に行き、香具(やし:見世物などの大道芸人)として渡世(とせい:芸人稼業での生活)をおくるため、渡航したいと願い出たので許可書を出す。各国の役人様方、旅行中、支障のないよう、事故のないように保護していただきたい。(実際の旅券の左端には、英文でもこの趣旨が短く手書きさえている)  結局、浪五郎一座は、隅田川一家5名(妻と息子、妹、同居人男性も同行)、足芸の浜碇(はまいかり)定吉一家7名、曲コマ回しの松井菊治郎一家5名に一座のマネージャー役・高野広八の合計18名団体で、横浜から船で西海岸へ渡り、サンフランシスコとニューヨークで公演をおこない大成功。引き続き、ヨーロッパ各地に巡業し、2年4ヶ月半後に帰国した。旅公演の途中、妙な色恋沙汰もあったようだ。このあたりはつぎの機会に。 (参考:外務省外交史料館蔵、『続通信全覧』、『海外行人名表』) Photo_169

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《ララミー牧場》をみたことがありますか?

 テレビ映画の西部劇といえば《ララミー牧場》が好きだった。東京ではNET(いまのテレビ朝日)10チャンネルで1960年(昭和35年)6月23日(木)から放映が始まったようだ。とにかく私は、その頃幼児であったため、詳しく覚えていないが、その後の再放送をみているし、最近、ララミー牧場のことを調べてみた。Jess_harper

 「ララミー牧場」は1860年代のアメリカ西部、ワイオミング州のララミーという町の牧場を舞台にしたテレビドラマだ。父親を殺し、土地をのっとろうとする悪役共から牧場を守ろうとするスリムとアンディーの兄弟。流れ者だが牧場にやって来たガンの名手ジェス。スリムは、父親亡きあと、弟の面倒をみながら牧場を経営し、駅馬車の中継所(停車場)の仕事も始めた。得体の知れないジェスだが、どこかに憂いがある寂しがり屋だが、早撃ちと投げ縄の腕前はすばらしい。ギャングの襲撃にもガンさばきで、すぐに撃退させた。毎回、ピンチの連続にもめげず、牧場と家族を守っていくジェスとスリムの物語なのだ。(アメリカでの原題はLaramieである)Johnsmith

 テレビ放映では、またチンパンジーを起用した「バヤリース・オレンジ」(ジュース)のコマーシャルと毎回西部劇のミニ解説をする淀川長治さんがユニークだった。

 アメリカでは、実に4シリーズが製作された。1959年9月から60年4月が31作、

60年9月から61年6月までが33作でここまでがモノクロ作品。61年9月から62年4月までの28作と同9月から1963年5月までの32作がカラー作品だった。

 主役はスリム・シャーマン(ジョン・スミスJohn Smith1931~1995)と日本でも大人気だったジェス・ハーパー(ロバート・フラーRobert Fuller1934~)の二人。なんといってもジェスがかっこよかった。またシリーズ3作目から登場した「デージーおばさん」(男所帯の家政婦)がよかった。太めだがやさしい笑顔と包容力。ほのぼのとしたドラマになった。

 なお、スリム役のジョン・スミスは。1995年肝硬変と心臓疾患で病死。63歳だった。ジェスことロバート・フラーは、今年73歳だが、2度目の奥様とテキサスの牧場に暮らし健在である。Lalamy2

※写真上:ジェス

中:スリム

下:スリム/デイジー/アンディー/ジェス

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西欧美術紀行 南仏アルル ゴッホの《夜のカフェテラス》

南フランス、ゴッホが「あこがれの日本」を夢みて向かった土地がアルル。この地で描いた作品の中では、《夜のカフェ》が有名だ。原題は、「アルル、フォーラム広場の夜のカフェテラス」といい、オランダのオッテルローにある「国立クレラー・ミューラー美術館」に展示されている。この美術館については、ちょっといい話をこのブログに書いたことがある。(2006年9月20日付)

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/1_741a.html#comments

アルルの町の中心にこのカフェはある。フォーラム(フォーロム)広場は、市庁舎前広場となっていて、小さなホテルや、他のカフェも並んでいる。お店はゴッホの好きな黄色で壁や屋根が塗られている。彼がこの作品を描いたのは150年も前の話だがいまは「カフェ・ヴァン・ゴック(カフェ・ヴァン・ゴッホ)」が店名になった。

黄色がポイントだが、青い夜空に描く星も印象的だ。ゴッホにはアルルのローヌ河を題材にした「星月夜」という作品があるが、無数の星の表現は、カフェと同じ手法だ。何より、黄色(あるいはオレンジ)の色彩が、この絵を生き生きさせている。

実際にカフェ・ヴァン・ゴッホに行き、カフェオレを注文したが、普通の味だった。(写真:添乗中に撮影 カフェ・ヴァン・ゴッホにて)

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《ジョン万次郎あれこれ4》

書評『中濱万次郎 -「アメリカ」を初めて伝えた日本人―』続

 他の万次郎の伝記本では、あまり触れられていない「末裔たち」の章も興味深い。

ジョン万次郎こと中濱万次郎は、1827年(文政10年)土佐、いまの高知県土佐清水市中ノ浜で生まれ、1898年(明治31年)、71歳で亡くなった。子孫は、ご健在である。

万次郎の長男、(2代目)中濱東一郎氏は東大医学部で森鴎外と同期。ドイツにも留学し、福島医学校校長、岡山県医学校教授、金沢病院長、初代東京市医師会長などを歴任した。3代目は中濱清氏で、4代目が名古屋大学医学部を出てスペインマドリッド大学に留学した医師。5代目は、女ばかりで中濱圭さん、京さん、文さんの3姉妹。しかもこの3姉妹は、みんなアメリカへ留学している。

さらに、すばらしいことには、いまでも万次郎直系の子孫の方々は、万次郎を救助した捕鯨船船長の助けたホイットフィールド船長直系の子孫や万次郎達をホノルルで援助したデイモン牧師の子孫との交流が続いているそうだ。万次郎から始まったこの歴史は、鎖国もあり、日米が戦った第二次世界大戦もあった。現在まで160年以上5代目にまで及ぶ両家の固い絆、深い絆である。

英語ではあるが、アメリカのManjiro Society(万次郎協会)のホームページをみると、John Manjiroの生涯や偉大な業績を詳しく紹介している。

http://www.manjiro.org/manjiro.html

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《ジョン万次郎あれこれ3》

書評『中濱万次郎 -「アメリカ」を初めて伝えた日本人―』

 ジョン万次郎(中濱万次郎)の伝記の決定版ともいうべき書物を読んだ。万次郎から数えて4代目の中濱博著。2005年冨山房インターナショナル発行。本の帯を引用する。90238508

 今、明かされる ジョン万次郎の新事実!四代目の著者しか知りえない手紙や日記、豊富な資料をもとにその波乱の生涯を描く!!日本の夜明けに大活躍した先覚者の伝記。

万次郎の伝記は私の祖父、中濱東一郎著『中濱萬次郎傳』(冨山房)が定本とされている。昭和11年発行で入手困難である上、70年近い年月が経っている。万次郎の正しい伝記の必要性を感じ、家に残っている資料を含め日記や手紙、公式文書、船の入出港記録などをもとに日時を明確にし、新事実を入れ、歴史を掘り起こすことに努めたつもりである。(本書「はじめに」より抜粋)ISBN4-902385-08-2 C0023 2,940円

 この本は一章漂流から始まり、外国、帰国、開国、国内(前編)、咸臨丸、国内(後編)、老後の八つの章から成り、末裔たちの章を加えている。万次郎の伝記を史実の資料をもとに再構築している。中には、最初に漂流した「鳥島」についてもかなり詳しく書かれている。

 アメリカで万次郎が教育を受けるところや、帰国して、琉球や薩摩、長崎で時の各地の奉行や藩主から取り調べを受ける場面は、とくに詳しい。そして何より、万次郎の英語についての記述も大変、興味深く感じた。

 万次郎が帰国後、表した本で、『亜墨利幹詞(アメリカことば)』やベストセラーにもなった『英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい)で紹介された「耳で覚える生きた英会話・米会話」の話だ。その一部を紹介する。

○地震earthquake(アースクエークを早口で言うと)アアサコエ

○足袋(靴下)stockings(ストキッングを早口で言うと) シタキ

 

英語をカタカナで表記するのは、本当は困難なことだが、「d」を「リー」と表現した。

    wood ウウリ

    12月December リイセンバ

興味のある方は、ぜひこの一冊を読んでほしい。

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海外旅行ちょっぴりアドバイス1

海外ホテル事情

ベッドタイプ

2人1部屋の通常ツイン・ルームでも「ツイン」(ベッドが2台)と「ダブル」(キングサイズまたはクィーンサイズのやや大型ベッドが1台)の2種類がある。

 ツインベッドであっても、ベッドマットが1つの枠の中に入っているものもあり、ベッド自体を離すことができないものある。欧米では、たとえ年配の夫婦であってもカップルの場合、ダブル・ルーム利用が一般的である。さらに1台のキングサイズ・ベッドに2台目としてソファーベッドを入れた部屋もあり、日本人の常識で考えるツイン・ルームとは事情が違うことがあると認識すべきだ。

3名1室の場合

ツインまたはダブル・ルームに「エキストラ・ベッド」(簡易ベッド)を入れて、トリプル・ルームにする場合がある。はじめから部屋に備え付けの「ソファーベッド」や外部から運ぶ「ローラーウエイ・ベッド」(タテに半分にたたんだキャスター付き)を利用する。おおむね、ホテル側では、この種のベッドの搬入やセットは、夜遅くなる場合が多い。さらに、あらかじめ3名部屋を予約していても、タオルやアメニティー・グッズが2名分しか用意されていないことがある。腹を立てずに、客室係やフロントに電話して確認した方がよい。

1名1室、シングルユースの場合

1名参加で、高い個室差額料金(シングル・サプルメント)を払ったのに、狭い部屋でおまけに眺めの悪い裏部屋だと、随分、クレームをきいた。大都市のビジネスホテルでもない限り、一人参加(一人部屋)は、歓迎されてはいないと理解すべきである。そもそもホテルの部屋は、2名1室なのであると心得ることが肝要。日本では、昔から相部屋という発想があるが、個人社会の西欧では、他人と同じ部屋に泊る発想がない。最低限の単位が、カップルであり、それは恋人同士や夫婦なのだから。だから一人部屋は、条件が悪い。いろいろな理屈はあるだろうが、一人で団体旅行に参加すること自体、まだまだ市民権がないといったところだろう。

ヨーロッパ式ホテルとアメリカン・ホテル

伝統と格式で勝負の「ヨーロピアンスタイル」のホテルは、部屋タイプもバラバラでとかく、平等な造りではない。比べて「アメリカン・スタイル」のホテルは、ほとんどの部屋が同じタイプである。したがって団体旅行において、部屋割をする場合、アメリカン・スタイルのホテルが楽である。また、この2種類のホテルでは、大きな特徴があって、ヨーロピアンのそれは、ほとんどが、旧市街地の中心に建っている。アメリカン・スタイルのホテルは、町はずれか、郊外に建っていることが多い。ヒルトンやシェラトンをみればわかる。しかし、レストランやコーヒーショップ、売店など、設備面ではどうしたってアメリカン・スタイルのホテルチェーンが上である。中庭があり、落ち着いた雰囲気は、ヨーロピアン・スタイルのホテルだ。大きな重い鍵をドアに差し込むのか、近代的なカード式のキーを差し込むのかの違いだ。このあたりも十分に認識して、ホテルを選ぶべきである。Bed

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