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2007年6月の12件の記事

《高松凌雲》武士の魂をもった医師

プリンス徳川昭武のパリ万博派遣団の一行に、奥詰め、お抱え医師の高松凌雲(たかまつりょううん32歳)がいた。(1836~1916年)

船は、アラビア半島の突端アデン(イエメン)を出て、紅海、スエズ湾と航海を続け、エジプトのスエズに到着。当時はまだスエズ運河がフランスによって工事中であったため、一行はイギリスが設置した鉄道でスエズからエジプトの海側、アレキサンドリアまで旅することになる。

 もちろんプリンス・徳川昭武にとっても、はじめての汽車旅行になるが、同行の凌雲が残した日記『洋行記事』に、汽車についての記述がある。

「此港(このみなと)に着する前、船中より海岸を望むに、長さ一町許の家屋の如き者の前進するを見て奇異の思を為せしが、上陸して其(その)家屋中に乗る事となれり。是(これ)ぞ即(すなわち)蒸気車なりし」

この港(スエズ港)に着く前に、船から海岸をみた。長さが一町(110m)ほどの家のようなものが、前へ進むのがみえて不思議であった。実際に上陸後、この家に乗ることになった。すなわち、これが蒸気機関車であった。この列車は、夕方、スエズ駅を出発、夜行で砂漠の内陸を走り、カイロを通過、翌朝、アレキサンドリアに到着した。

 日本でも文明開化のころ、新橋から横浜に鉄道(蒸気機関車)が開通したが、列車が出発した後、乗客の草履など、履物がプラットホームに多数残されていたそうである。要するに家の中にあがるのに土足ではまずいと思った人が多かったようだ。まさに列車は家屋のようだ。

 さらに船の旅の終着点は、地中海に面した南フランスのマルセーユである。一行は大変な歓迎を受け、どうやら馬車でマルセーユの名所を案内されたらしい。ここでの高松凌雲のコメントがおもしろい。

「公園、博物館及び市内各所を巡覧し、其(その)荘厳美麗なるには実に一驚を喫せり。友人と戯(たわむれ)に云(いう)、極楽浄土は西の仏(ほとけ)の国に在りと聞けるが、是即(これすなわち)仏国なりとて一笑を発したり」

マルセーユの公園や博物館、教会など、の名所を巡り、その荘厳な美しさに驚嘆した。ほんの冗談で、極楽浄土は西方のほとけ(仏)の国にあるときくが、ここフランスのこの地が、まさに仏国にちがいないと、いって爆笑。おおいにうけたようだ。

 確かにマルセーユは、独特の雰囲気をもった街である。私も一度訪れ、旧港近くのレストランで名物「ブイヤベース」に舌鼓をうったことがある。公園や教会など美しいつくりの街だ。

 さて、今回スポットを当てた、ユーモラスなコメントを残す高松凌雲先生については、つぎの機会に詳しく紹介したいと思う。凌雲は、実のところ、すばらしい業績を残している。医師として人間として、その人格のすばらしさを次回、紹介したい。Photo_195

(参考・引用:『徳川昭武―万博殿様一代記』須見裕著 中央公論社)

(写真:晩年の高松凌雲、函館市立函館博物館蔵)

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海を渡った幕末の徳川プリンス《徳川昭武》洋食との出会い

 慶応3年(1867年)のパリ万国博に将軍・徳川慶喜の名代として出席するため、ヨーロッパに洋行したプリンス、徳川昭武一行だが、フランスのマルセーユまでの合計48日間の旅であった。フランスの郵船の船中では、どのような食事が提供されたのだろうか。

 朝食をとるのは毎朝七時ごろである。紅茶を飲み、豚の塩漬(ベーコン)をおかずに、パンを口にする。パンにはブールla beurre(バター)というものを塗って食べる。

 昼食には肉類(魚、鳥、豚、牛、羊)のほか、果物(オレンジ、ブドウ、ナシ、ビワなど)がでて、銀製のナイフやフォークを用いて食べる。飲物としては、ブドウ酒が供され、それを水で割って飲む。食後には「カッフェという豆を煎じたる湯」(コーヒー)がでて、それに砂糖やミルクをいれて飲む。

 午後三時ごろ、紅茶の時間となり、菓子類やベーコン、漬物などが添えられる。

 夕食は。五時または六時ごろからはじまる。ブイヨンとよばれるスープにはじまり、魚肉を食材とする各種料理や果物などがテーブルにならべられ、食事のデザートには、カステラや“グラス”とよばれるアイスクリームがでる。熱帯の地にいたると、水に氷をいれて飲む。夜の八時から九時にかけて、また紅茶を飲む。

 またパリのホテルに滞在中は、いかにヨーロッパとはいえ、用意してあった米も口にしたようだ。

 そもそも日本人は、獣(けもの)の肉は食べる習慣がなかった。また牛乳も一般的には、開国前後の1863年、横浜で前田留吉がオランダ人から牛の飼育法や搾乳法を学んで牛乳販売を開始したそうだ。バターについても、上流階級の間に明治維新以後広まっていったという。もちろん、日本には大化の改新のころ、645年頃には日本最古の乳製品では、「酪(らく):ヨーグルト」、「蘇(そ):バター」、「醍醐(だいご):チーズ」があったことが知られている。

 (マルセーユのホテルでは)日に二度だされる洋食を食べるのだが、昼食だけは和食を口にした。ランチのメニューの一部としては、刺身・スープ・米飯などを食べた、と

ある。

※引用は『プリンス昭武の欧州旅行―慶応3年パリ万博使節』P40~P44宮永孝著山川出版社

※写真:洋装のプリンス昭武(慶応3年パリ)

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《海を渡った幕末の徳川プリンス》徳川昭武の旅程と費用

徳川プリンス《徳川昭武》のヨーロッパ滞在のおもな旅程をたどってみる。

(西暦)1867年2月7日、フランス郵船「アルフェ号」で横浜出帆。パリ万博出席とヨーロッパ各国親善巡歴のメンバーは、外国奉行や通弁(通訳)、お伴の水戸藩士ら、総勢33名に及ぶ。28歳の渋沢栄一も勘定方として庶務担当で同行した。

2/19上海着、2/24香港着、3/1サイゴン着、3/3シンガポール着、3/12セイロン島着、

3/21アラビア半島(アデン)着、3/26スエズ着、陸路アレクサンドリアへ、3/28アレクサンドリアよりフランス郵船「サイド号」乗船、4/3マルセーユ着

4/11パリ着、「グラントテル・ド・パリ」(ル・グラン)に宿泊滞在。

4/28フランス皇帝ナポレオン3世に謁見、6/13ホテル「グラントテル・ド・パリ」を引き払い、パリ市内のロシア貴族の館に引越、7/29帝国芸人一座(高野広八一座)の曲芸・奇術を見学。

9/3パリ出発、ヨーロッパ各国巡歴へ、9/4スイスの首都ベルン着、9/5スイス大統領に謁見。9/8ジュネーブ着、「ホテル メトロポール」に宿泊、9/10ベルンに戻る。

9/14プロシア(ドイツ)のダルムシュタット、マインツを経てボン着。「エトヴァルトホテル」に宿泊、9/15オランダ、ハーグ着。「ベルヴューホテル」に宿泊。

9/17オランダ国王ウィレム3世に謁見。9/20ライデン、アムステルダム、9/24ハーグをたち、ベルギー、ブルッセル着。「オテル・ベルヴュー・エ・ド・フランドル」に宿泊。9/25ベルギー国王レオポール2世に謁見。9/27アンヴェルス(アントワープ)、9/30リエージェ、10/9ブリュッセルをたち、パリ着。10/17パリをたち、イタリアへ、途中南仏サン・ミッシェル着。

10/19イタリア、トリノ着。「オテル・ドゥロップ」に宿泊。10/21フィレンツェ着。

10/24イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエル2世に謁見。10/27ミラノ着、10/29フィレンツェ、10/31ピサ、11/2リヴォルノ着。

11/3イギリス艦「エンディミオン号」に乗船、(イギリス領)マルタ島へ。11/6マルタ島。ヴァレッタ着。11/11ヴァレッタ出帆、マルセーユへ。11/16マルセーユ着。11/18パリ着。

12/1パリをたち、カレーへ、12/2英国船「メイド・オブ・ケント号」でドーバー海峡を渡り、ロンドン着。「クラリッジ・ホテル」に宿泊。12/4イギリス国王ヴィクトリア女王に謁見。12/11ポーツマス泊。12/16ドーバー泊。12/17パリ帰着。

 この後、昭武は留学生活に入るが、翌1868年、7月には明治政府から帰国命令が届く。8/2帰国を決意した昭武は、フランス国内旅行に出発。パリ、シェルブール、ノルマンディー、ル・マン、ブレスト、ナント、サン・ナゼール、アンドル、トゥール、ルーアン、ル・アーブルなどの地方都市を回る。8/27パリへ帰着。

いよいよ帰国へ。10/15パリからボルードー、トゥールーズを経て10/18マルセーユ着。10/25アレキサンドリア着。10/26スエズ着、11/12ポイント・デ・ガール着、11/30香港着、12/9上海着、12/6横浜着。

 まさに片道、約2ヶ月の船旅。Photo_190

 しかしこの「大名旅行」は、かなり費用がかかりすぎ、日本から運んだ275,000フラン(約2億2,000万円)の渡航費用も危うくなる。それもそのはず、パリのル・グランでの約2ヶ月の宿泊費で70,000フラン(約5,600万円)も使い、これでは不経済であると、ホテルを引き払って、借りたロシア貴族の邸宅の家賃も9年契約で年間40,000フラン(3,200万円)、使用人や召使いを16人雇ったり、家財道具の購入で準備金、26万フラン(2億800万円)も使った。もちろん同行の渋沢たちも金の工面をするため、走りまわり、オランダやイギリスの商社から幕府の名前で融資を受けていたそうだ。

1両=40,000円、50両=200万円、50両=2,500フランで1フラン=800円計算)

明治維新なるが故に昭武の留学生生活は、中断されたが、そのまま3年ないし5年間パリに滞在していたら、いったい「徳川プリンス御一行」は、いくらお金をつかったのだろうか。Photo_191 (写真/上:パリのル・グランホテル、中:スイスから送られた時計、下:マルセーユでの集合写真 中下は松戸戸定歴史館蔵)

(参考文献:『徳川昭武 万博殿様一代記』須見裕著 中公新書、『プリンス昭武の欧州旅行―慶応3年パリ万博使節』宮永孝著 山川出版社)

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《海を渡った幕末のプリンス》徳川昭武の滞在ホテル

 当時としては、最高級のホテルに昭武は滞在した。パリでは「ルグラン」であり、ロンドンでは「クラリッジ」であった。

インターコンチネンタル・パリ・ルグランINTERCONTINENTAL PARIS LE GRAND

オペラ座の正面に建つ「ルグラン」は、花の都パリの中心にある。ナポレオン3世が統治していた第二帝政時代の1862年、建築された。パリでは1867年万国博覧会が開催さることもあり、世界中からの招待客のために皇帝ナポレオンが賓客をもてなす目的で建設の指示を出したといわれる。それから140年後の2002年、二年の年月をかけ大改装工事がおこなわれたが創業当時の姿を今に残している。5星の最高級ホテルである。個人で宿泊する場合、最低でも1泊500ユーロ(約78,400円)、ジュニア・スィートでは1000ユーロ(約16万円)。470室。Photo_189

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 私は泊ったことはないが、館内を見学したことがある。シャンデリアと豪華なじゅうたんのロビーは、息をのむ。パリを代表するレストラン「カフェドラペ」の店内は、天井画、柱、壁画など第二帝政時代のものがそのまま残されており、驚く。

クラリッジCLARIDGE’S

ロンドンのメイフェア地区に建つ最高級ホテル。世界各国の国家元首やVIP、イギリスの王室御用達である。貴族の館風の優雅な内装や伝統的な英国調の客室など、重厚さがある。個人料金では1泊479ポンド(約12万円)からスィートで同1500ポンド(約37.5万円)だが、オフ・シーズンなら5万円から7万円のグループレートがあるようだ。 地下鉄「ボンドストリート」徒歩2分でハイドパークやOxford Street、Bond Streetにも近く、ショッピングにも便利。197室。

 クラリッジホテルの前身は、1812年開業のミルバート・アパートメントであった。ジェイムス・マイバート       (James Mivart)が長期滞在者用に建てたホテル(アパート)が起源となる。1838年頃、マイバートはロンドン市内ブルックストリートの5軒の家屋のある土地を買い集め、大きなホテルを建設するための敷地を確保した。1851年第一回万国博覧会がロンドンで開催され、マイバートのホテルは、ロシア皇帝アエレキサンダーやオランダ王・ウィリアム3世をはじめ、各国の貴賓たちの宿舎となった。やがて1854年、70歳台となったマイバートはホテル業から引退し、ウィリアム・クラリッジ、マリアンヌ・クラリッジ夫妻にホテルを売却。1881年、健康上の理由からクラリッジはホテルを手放すが、リニューアルされ、近代的な設備を備えた「クラリッジホテル」は1898年、再オープン。その後、高級ホテルの「サボイホテル」配下に入るが、各国元首や上流階級専用のホテルとして、質の高いサービスを提供する姿勢は、いまもかわらない。外装は創業当時のものに手を加え、レンガ造りになっている。(上:ルグラン」、下:クラリッジ)Claridges

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海を渡った幕末の徳川プリンス《徳川昭武》

 徳川時代の最後を飾る、第15代将軍は徳川慶喜である。慶喜の16歳下の弟(異母弟)に徳川昭武がいた。幕末、パリ万博に将軍・慶喜の名代として海を渡った徳川のプリンスである。万博開催後はヨーロッパ各国を親善大使として巡歴した。その後は慶喜の意向もあり、近代国家建設の目的で、フランスの近代的な学問や文化を学ぶために、パリで留学に入る。しかし歴史の流れは残酷そのものであった。

徳川昭武(とくがわあきたけ:1853~1910)

最後の水戸藩主。徳川斉昭(なりあき)の18男で、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の実弟。幼名は松平余八麻呂(よはちまろ)。母は側室の万里小路睦子(までのこうじちかこ)。元治元年(1864年)正月、上京し、同年7月の禁門の変では、兄一橋慶喜とともに御所を守った。

慶応2年(1866年)12月、清水徳川家を継承して、翌3年(1867年)のパリ万国博に将軍名代として参加(13歳)。ヨーロッパ各国を巡歴し、フランス皇帝はじめ各国元首と会見する。その後、パリで留学生活をおくるが明治維新により帰国。最後の水戸藩主となるが、明治16年(1883年)、29歳にして水戸徳川家当主の座を退き、千葉県松戸に隠居。明治43年(1910年)58歳で病死。

この「プリンス昭武」に興味をもった。わずかに残る、数えで14歳頃の写真。弱々しい感じさえするが、伝統的な装束で撮影した姿は、なかなか、かくしゃくたるものだ。しばらくは、このプリンスのヨーロッパ旅行のもようを調べてみたいと思う。(左:衣冠束帯の写真は1867年パリで、右:1866年京都で撮影)

(参考:『徳川昭武―松戸に住んだ幻の将軍』松戸市観光協会発行、『松戸市戸定歴史館』パンフレット、『プリンス昭武の欧州旅行―慶応3年パリ万博使節』宮永孝著山川出版社)

※戸定(とじょう)歴史館の所在地は千葉県松戸市松戸714-1(TEL:047-362-2050)

昭武の邸宅であったが、歴史公園・歴史館として公開されている。

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《海を渡った幕末の曲芸団(高野広八の米欧漫遊記)》

以前このブログで“日本の旅券第一号《隅田川浪五郎》2007年5月16日 (水)”を書いた。http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_e496.html

改めて紹介すると、一座は、慶応2年10月29日(1866年12月5日)横浜を出航し、約2年余りアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどを巡業し、18名の内、団員の半分が明治2年(1869年)春、帰国した。足芸の浜碇一座4名、日本公式旅券第一号の隅田川浪五郎一座5名の計9名は、帰国せずさらに欧米巡業を続けたそうだ。

 「帝国日本芸人一座」のマネージャー役(後見人)の高野広八の日記が残っており、これを題材にして、安岡章太郎が『大世紀サーカス』を書いた。少し脱線が多いが、一座が遭遇した事件や広八の色好みなど、興味深く読める作品だ。さらに幕末から明治の日欧・日米交流史の研究家・宮永先生の本は、もっとおもしろい。

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※『大世紀サーカス』(安岡章太郎、朝日新聞社刊1984年、朝日文庫1988年)

※『海を渡った幕末の曲芸団(高野広八の米欧漫遊記)』(宮永孝、中公新書1999年)

  宮永本を参考に「広八日記」から一座のエピソードや興味深い記述をピックアップしてみよう。

 一座の給料は2年契約で年棒はつぎのとおりであった。(1両40,000円として)

浜碇定吉一座:年棒3,500両(1億4,000万円)

隅田川浪五郎一座:1,100両(4,400万円)

松井菊五郎一座:700両(2,800万円)

 かなりの高額のギャラだと思う。(幕末の貨幣価値については諸説ある。1両8万円ともいわれる)

さて、一行は、横浜を出航してサンフランシスコまで、船旅は28日間かかった。さらに公演後、サンフランシスコから東部のニューヨークまでは、大陸横断鉄道が開通前であったため、サンフランシスコから船で太平洋を南下、パナマを経由してカリブ海、大西洋を北上する船旅で24日間かかっている。その反面、ヨーロッパに渡るには、ニューヨークから英仏まで約14日間である。

ニューヨークでは、浪五郎の妹・「とう」が現地で出会った日本人一座「鉄わり福松一家」の和太夫と密会している場をみつかり、浜碇と隅田川一家が殴り込みをかえようとするところ、マネージャー・広八が仲介に入り、福松一家が詫びを入れ解決した。

首都・ワシントンでは、時の第十七代大統領・アンドリュー・ジョンソンに謁見。

ボストンのホテルの客室では大金の盗難に遭う。140両と米ドル30両相当の計170両(1両40,000円として680万円)。しかし広八は、「まことに残念なれどもせひなし(しょうがない)」と日記に書く。

パリでは万国博覧会に江戸幕府の名代として来ていた徳川昭武(慶喜の弟)一行が、曲芸を見物。金五十両のご祝儀をいただいた。(1両40,000円として200万円)

「帝国日本芸人一座」の人気者は、浜碇梅吉(12歳)。どんな芸なのか。

浜碇定吉は自分の肩の上に一丈五尺(3m50cm)の竹竿(さお)を立てると、梅吉が竿をのぼっていく。梅吉が竹竿の先に達したとき。竹は大きくしなり、曲がってしまうが、下にいる定吉が体でバランスをとると、梅吉はしなった竹の上で体を水平に保ち、扇をぱっと開いて「オール・ライト」と発する。これにより、梅吉は”オール・ライト”と呼ばれていた。Img_edited

このほか、ロンドンの娼婦にださまれ、大金をくすねられるが、当時の警察に掛け合い、犯人を逮捕してもらう。(お金は戻らない)

宮永孝は、この本を執筆するにあたり、欧米をかなり細かく取材している。とくに各地に残る当時の新聞で一座の広告や記事をさがし、公演期間をはじめ、公演先の劇場や入場料なども調べた。これにより、「広八日記」の史実を補足し、米欧巡業の日時を追った。また、宮永の功績は、日記にも出てくる、イギリスで病死した「松井菊五郎」の墓をロンドン郊外のブルックウッド墓地で実際に発見したことだろう。また、研究論文や専門書と違い、わかりやすく書かれている『海を渡った幕末の・・・』は、リズムもよく、楽しく読めた。

(写真:同書より、梅吉ことオール・ライト)

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《ハワイの歴史と文化》矢口祐人著(中公新書)

 東京から人気のハワイ・ホノルルまで6,216km、飛行機なら約7時間で行く。時差があり、ハワイは日本より19時間遅れである。夕方から夜、成田を出発しても時差の関係でホノルルに到着するのは、「同じ日」の朝になる。なんだか得をしたような気分になるが、帰りは逆に日付変更線を通過するため、午後1時頃ホノルルを出発すると、約8時間のフライトだが、成田到着は翌日の午後4時過ぎとなる。

 いまや第一級のリゾート地として、南国の楽園の代表格のハワイだが、実は私たちの知らないハワイの実像がある。観光ガイドブックでしか、知りえなかった「ハワイ」について、いうなれば「ハワイ学」といった新しい切り口を示唆してくれる本がある。Photo_185

 《ハワイの歴史と文化》(2002年刊)は、「悲劇と誇りのモザイクの中で」というサブタイトルがついている。著者は、この本を執筆するにあたり、“バカンスを楽しむリゾート地というイメージばかりが強調され、ハワイ社会をより広い意味で知ろうとする努力はあまりされていないのが現状だ。”といった“問題意識に立ち、ハワイ社会の歴史と文化に焦点をあてる”本書の趣旨は“世界の政治・経済の流れから無縁の、浮世離れした「楽園」というイメージとは異なる”ハワイ像を提供することにあると、著者はいう。(同書プロローグより)

 論の進め方としては、“ハワイを主に日本との関係のうえで考え、19世紀以降のハワイの歴史を移民戦争観光という三つの流れのなかで捉える”という手法だ。なぜなら“これら(三つの流れ)は過去150年ほどのあいだ、ハワイにもっとも大きな影響を与えてきた事項”であるからである。これらを“時系列的に”論じ、最後に“ネイティヴ・ハワイアンの歴史と文化”について、取り上げている。

 内容は前述のように四つの章で展開されている。

第1章 移民たちのハワイ(サトウキビとピクチャーブライド、移民到来、日本人移民の生活、戦後の日系アメリカ人)ハワイ移民史全般の紹介をしている。

第2章 リメンバー・パール・ハーバー(パール・ハーバー攻撃の日、戒厳令下のハワイ社会、戦時下の日系人、戦争の言説)加害者側の行為とその意味、ハワイにとっての第二次大戦の意味、ハワイと軍事の関係について考える。

第3章 「憧れのハワイ航路」(日本からのハワイ観光、ハワイ観光団、バブルとハワイ観光、観光王国ハワイ)観光地としてのハワイがどのように形成されてきたか。観光がハワイにもたらす影響と今後のハワイ観光について考える。

第4章 これからのハワイ(南の島のハメハメハ大王、ハワイ小史、;あらたな「伝統」)

ネイティブ・ハワイアンの歴史を概観しながら、変容していくハワイ社会を考える。

(※各章のコメントはたろべえ要約)

 

 なかなか読み応えのある本である。とくに、移民史は私も興味をもっていた映画

「ピクチャー・ブライド」を軸に取り上げ、話をすすめていくあたりは、わかりやすかった。(しかし映画をみていない人にとっては、理解しにくいかもしれない)

 さらに新書版のため、内容も凝縮されてしまうのだろうが、白檀貿易、捕鯨、砂糖きび産業、パイナップル産業、軍需産業、観光産業といった19世紀以後の「ハワイ産業史」が、もう少し整理されていれば、よかったと思う。これからのハワイといった視点の将来展望についても具体的な提言がされていれば、なおよかったのだが、このあたりはわれわれ観光業にたずさわる者の使命かもしれない。おすすめの1冊である。

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《エスカレーターの話 続編》

 確か4月頃、「エスカレーターでは左に立ち、右側は追い越しのためにあける」のが、東京のマナーである・・・なんてことを書いた。

4月13日《エスカレーター》は右に立つか左に立つか?

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_fdb3.html

 今日のお昼、たまたま入った下町の食堂で新聞を読んでいたら、コラムにエスカレーターのことが載っていた。(産経新聞、「お江戸単身ぐらし90」6月14日朝刊)

曰く・・・

 仙台では、大阪と同様に(東京とは反対に)エスカレーターでは右側に立ち、左側をあけるそうだ。だから東京から出張で行ったビジネスマンは、驚くという。(残念ながら私は、仙台にも行ったことがあるが、記憶がない。)どうしてだか、理由は書いていない。

 コラムによると、関西では大阪万博の頃、阪急電鉄が欧米に習って、右立ちで左あけ方式を広めたのが始まりとある。

関東では昔、武士は「刀の鞘(さや)」が当たってけんかになるため、左側通行が主流だった。もちろん道路交通法ができてからは、人は右側通行になった。関西、大阪は商人の町で大事な「そろばん」を左手でさっと差し出すために、右側通行だったようだ。

PHP研究所『関東と関西こんなに違う』)

 ともかくいろいろ理屈をつければきりがない。真相はいかに!?

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《日系人の知恵が生んだアロハシャツ》

 1885年(明治18年)、最初の官約移民船「東京丸」でハワイに向かった940人の日本人移民の中に、東京出身のシャツ職人「宮本長太郎」がいた。

宮本は1904年頃、ワイキキからダウンタウン方向へ向かい、チャイナタウンを過ぎたあたり、「ノース・キング通り330番地」に店を開いた。MUSA-SHIYA(ムサシヤ商店)という。日本人移民が故郷から持ち込んだ和服・着物や布団(ふとん)の生地からシャツをつくり販売し、人気を博したそうだ。農園で働いていた労働者が着ていた、木綿のチェック地の開襟半袖シャツ「パラカ」のスタイルをもとにしたようだ。パラカはヨーロッパの船員が着ていたシャツが元になったともいわれるが、日系一世たちが郷里の村で夏場に着ていた浴衣の格子模様をなつかしみ、シャツに仕立てたという、アロハシャツの原型説が有力だ。和服や布団の生地からつくるアロハシャツを和柄と呼ぶ。Ph006palaka

宮本長太郎が1915年他界後、日本に留学していた息子・孝一郎がハワイに戻り、店を継ぐ。店の名は《ムサシヤ・ショーテン》(日本語では武蔵屋呉服店)と改めた。さらにこの店は人手に渡るが、1936年には、ワイキキの「カラカウア通り2152番地」に、Musashiya Storeの店舗があった。その頃、ムサシヤのブランドで、「アロハシャツ」の広告を地元の新聞「ホノルル・アドバタイザー」に出し、大変な売れ行きであったようだ。おもにアメリカ本土からの旅行者に、おみやげとして、この和柄のアロハシャツは大人気だったとのこと。(宮本家はシャツのメーカーであった)

ムサシヤブランドの和柄のアロハは、現在、「サンサーフ」(東洋エンタープライズ社)によって復刻されている。1着2万円近くするが、確かにすばらしいデザインである。Photo_183

私はハワイで暮らしていた時、仕事用、遊び用、パーティー用など、アロハシャツを20着近くもっていた。日本では、かなりおとなしい柄でないと着ることができない。それも夏だけである。タンスのこやしになってしまった。

(写真:パラカ ハワイ、ムサシヤラベル・復刻版、ムサシヤブランド・サンサーフの和柄アロハシャツ)Sunsurfss33560s1

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《日本ハワイ移民資料館》

 山口県の東部、

大島郡大島町

(周防すおう大島)に《日本ハワイ移民史料館》がある。1885年(明治18年)、第一回から1894年(明治27年)の第二十六回の官約移民では

実に「大島郡」出身者が3,913人を占めている土地柄である。これはこの間の全移民数29,084人の13.5%にあたる。もとより、ハワイへ渡った移民の人々は、広島県、山口県、熊本県などの出身者が多いが、周防大島出身者は群を抜いていた。

 これは「官約移民」を国策として推進した、初代外務大臣・井上馨(かおる)の存在が大きい。井上は長州藩(山口県)出身であった。また、江戸時代中期以降、人口増加が著しかった「山口県大島郡」では、島の限られた土地では生活が苦しく、大工、石工、船乗りなどの出稼に出る者が多かったそうだ。ハワイ移民の話が持ち上がったころには、全国的な不況に自然災害が重なり、ここ大島郡では餓死寸前まで追い込まれていたようだ。こうした事情を知った山口県は、移民の募集に力を入れ、郡役所や村役場の努力の結果、大勢の民が応募し、周防大島は「ハワイ移民の島」と呼ばれた。

 館内は、「官約移民の歴史」、「移民達の労働と生活」、「ハワイとの交流」などのコーナーに分れ、写真や移民の人々の生活用具が展示されている。シアタールームもあり、現地の日系人の方々のインタビュー映像が流れている。また、大島郡は1963年(昭和38年)カウアイ島と姉妹都市(島)となり、現在に至るまで交流が続いている。

 この資料館のパンフレットやホームページに使われている写真がよい。味があるというのか、カウボーイ・ハット移民の三人の男の人が写っている。コマーシャル写真的ではあるが、笑顔がよい。(資料提供:日本ハワイ移民資料館)

日本ハワイ移民資料館   http://www.town.oshima.yamaguchi.jp/hawaii/

      

山口県大島郡大島町大字西屋代2144

       TEL08207-4-4082

       開館/9:3016:30(月曜日、年末年始休館)、大人400

※問合せは

大島町

教育委員会 08207-4-5396

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《海外移住資料館》横浜

 横浜にJICA(独立行政法人国際協力機構)の《海外移住資料館》がある。明治時代以降、ハワイをはじめ、南米やアメリカに渡っていった日本人やその子孫である日系人たちの歴史や生活ぶりを当時の貴重な資料や映像、再現したジオラマで伝える。

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訪れた時は、ちょうどブラジルから来た日系人の団体と一緒だった。スタッフの方が親切にも一緒に説明をおききくださいと、すすめてくれた。案内する職員の方は、日本語で時折、ポルトガル語を話す。日系人のみなさんは、おおむね日本語を理解されているようだが、4世くらいの若いブラジル人は、同行の年配者が通訳していた。

 それにしても熱心に説明をきき、展示物も真剣に見学している。なるほど、自分達のルーツを知る旅なのだ。

 日本では1885年(明治18年)2月に第一回目の「官約移民船」がハワイに渡った。国策としての移民は、1924年頃まで続き、総勢30,000人近くの日本人が、ハワイへ出向いたそうだ。もちろん、砂糖きびのプランテーションでの労働である。骨の折れる重労働と低賃金、慣れない気候の中で大変な苦労をされた。

 この海外移住資料館には、古いパスポート(旅券)の展示や生活用品を詰め込んだ、トランクや茶箱もある。「よろずや」(コンビニ)も再現されている。久々に勉強になった博物館である。

           神奈川県横浜市中区新港2-3-1(赤レンガ国際館)

           TEL:045-663-3257

           みなとみらい駅から徒歩10分、桜木町駅から徒歩15分

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DVDおろしや国酔夢譚

 念願のDVD《おろしや国酔夢譚》を観た。2時間を越える大作だが、ストーリー展開の速さと迫力ある厳寒のシベリアの風景描写など、息つく暇もない。なかなかおもしろい。Photo_176

 どうしても、ドラマチックな真冬のシベリア草原を旅するシーンやイルークーツクでの生活の模様そしてペテルブルグでの女帝・エカテリーナ2世との謁見の場面を中心に展開していく。制作費45億円、1991年制作、1993年公開の映画である。

 大黒屋光太夫一行は、嵐のためアリューシャン列島のアムチカ島に漂着するが、このあたりのロケは、北海道の奥尻島でおこなわれた。ロケの翌年、1993年(平成5年)7月12日、奥尻は「北海道南西沖地震」が発生し、青苗地区を中心に津波による壊滅的な被害を受けた。また、ロシア(映画製作当時はソビエト連邦の崩壊時)の政変の真っ只中で撮影がおこなわれたそうである。

 原作本を先に読んでいたのでわかるが、映画では、佐藤純弥監督もいっているように、かなり演出を加えている部分もあった。

 気になったのは、ラストの場面。ロシアから船で当時の日本の蝦夷地へ送られ、大黒屋光太夫と磯吉は、故国の土を踏むが、二人は縛られたうえ、樽のような容器に入れられ、罪人のように護送されているシーンが映る。確かに鎖国の禁を破ったには違いないが、原作者の井上靖が小説を書き上げた当時(1968年)には、まだ古文書が発見されておらず、日本へ帰国した光太夫らは、軟禁生活を強いられたことになっていた。

実際には、(以前、ブログでも紹介したが、)磯吉、光太夫共、故郷の伊勢に一時帰国を許されている。彼らが肉親との久振りの再会という、あたたかいエピソードがラストシーンを飾っていれば、さらに感動的な映画になっていたように思う。

 それにしても主演の緒方拳のロシア語は、すばらしい。あれほどたくさんのセリフをよく覚えたものだ。

(略年表)

    1782年(天明2年)大黒屋光太夫、神昌丸にて出港、暴風雨に遭い漂流。

    1791年(寛政3年)エカテリーナ2世に謁見、帰国許可を受ける。

    1793年(寛政5年)光太夫ら日本側に引渡される。

    1798年(寛政10年)磯吉が16年ぶりに江戸から故郷、伊勢へ一時帰国。

    1802年(享和2年)光太夫が20年ぶりに一時的に帰郷。

(DVD/おろしや国酔夢譚、井上靖原作、佐藤純弥監督作品、角川映画2005年)

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