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2007年7月の10件の記事

黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその2

日本初の本格的な英和辞典「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」を編纂した堀達之助であったが、蕃書調所(洋学所)に奉職中、頭取の古賀謹一郎から箱館への転勤を命じられる。箱館奉行所での通詞の辞令であった。実際には(ペリー再来航時の森山栄之助、堀達之助に次ぐ第三席通詞・名村五八郎が江戸へ転勤になり)有力な通詞が箱館奉行所に少なくなり、弱体化したための苦肉の策で達之助は呼ばれた。 当時の箱館奉行・小出大和守は、達之助の英語力に期待した。ある時アイヌ人の墓をあばいて骨を掘り出し、標本として盗む事件が続発。犯人はイギリス人と判明し、小出は裁判をおこなうが、その通訳に達之助を指名する。しかしペリー来航後、10年もの間、達之助は英会話の経験がなかった。読み書きはできたが、英語の聞き取りや発言ができない。自分の英会話がすっかりさびついていることに気づき、失望するのだった。 その後、小出は達之助に文書の英訳と和訳の仕事に専念させることにした。仕事はきびしい。江戸の蕃書調書、開成所の教授方で英和辞書を編纂した学者という、輝かしい堀達之助の業績より、裁判の席で十分な通訳ができなかったことで、彼の評価は下がってしまった。  旧幕府軍と新政府軍との箱館戦争をはさみ、達之助は新たに「函館」の開拓使の外国局に採用される。このとき旧幕府軍の指導者として奮戦し、戦死してしまった指導者に中島三郎助もいた。(ペリー来航時に通詞・堀達之助とともに黒船に乗り込んだ、浦賀奉行所の与力である)   やがて明治2年、達之助は47歳になっていたが、「美也」という後妻を娶る。役所に出した届けでは、「妻、34歳」であった。美也には二人の連れ子がいたが、彼はこの子たちも養育する決心であった。町でも評判の美人で気働きのよい妻であった。 しかし幸せは長くは続かない。明治5年、美也は病死。50歳になっていた達之助には、この愛する妻を亡くしたことがかなりこたえたのだろう。老衰を理由に辞職してしまう。G_hori_tatsu  吉村昭は『黒船』の中で堀達之助を見事に描写する。 **********************************************  初来航したペリー艦隊を迎えて主席通詞として働いた頃が頂点で、それ以後は、起伏はあったものの下り坂をくだりつづけてきたような気がする。リュドルフ事件で思わぬ嫌疑をうけて長い牢獄生活を強いられ、釈放後、開成所教授方として「英和対訳袖珍辞書」を編纂したものの、その辞書も自分に無断で改正増補され、いじくりまわされている。  さらに思いもかけぬ箱館詰を命じられて、そこで味わわされたのは、英会話からはなれてしまっていたため無能な通詞として扱われた屈辱感であった。(略)そうした境遇の中で、突然、眼の前に現れた美也は、かれに大きな喜びをあたえ生き甲斐ともなった。 (略)不遇な自分に、短い期間ではあったが、天があたえてくれた宝であったのだ。 ******************************************************************  そして、達之助は生まれ故郷の長崎、次男のいる大阪で静かに静かに晩年を過ごし、72歳で亡くなった。私は思う。恵まれない人生も確かにある。体制や大きな社会の中で、思うように生涯を歩める人は、稀ではないかと。数々の出来事を通じて、堀達之助の生き方をみると、後妻の美也に出会った50歳近い幸せを除けば、大きな時代の潮流に押し流されていったようだ。しかし、日本初の本格的な英和辞書をつくった功績は、永久不滅のものであることは、いうまでもない。 ※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫 ※写真:晩年の堀達之助(『堀達之助とその子孫』より)

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日本初の本格的英和辞書《英和対訳袖珍辞書》

 1862年(文久二年)、堀達之助編纂による、日本初の活字印刷の英和辞典《英和対訳袖珍辞書》が発行された。アルファベットはオランダ製活字を用い、カナと漢字は木版とし、紙は中国から輸入された洋紙を使用した。発行元は「蕃書調所(ばんしょしらべじょ)」。江戸の木版刷り職人を動員して作成したという。(編纂には1年8ヶ月~10ヶ月かかったという)

 蕃書調所は1856年(安政三年)、儒学者で洋学にも明るい古賀謹一郎を頭取(校長)として開設された。開設の目的は洋書の翻訳と通訳官の養成にあったが、ペリーのアメリカ艦隊の来航後、にわかに緊急課題となった警備の拡充、武力強化のため、欧米の軍事書や科学書を翻訳・読解して参考にする必要性があった。そのために全国から優れた洋学者を招聘したという。(「蕃書」とは、江戸時代に欧米とくにオランダの書籍や文書を意味する言葉である)翻訳業務や教育も当初はオランダ語が、主流であったが、次第に英語に代わり、続いてフランス語、ドイツ語、ロシア語の翻訳・教育も加えられていった。

 なお「蕃書調所」は名称が実態にそぐわなくなり、「洋書調所」と改称、さらに幕府の最も重要な教育機関として「開成所」と改められていった。明治維新には新政府に移管され「開成学校」に再編された。開成学校は、「大学南校」と名をかえ、現在の東京大学文学部・法学部・理学部へと発展していく。

 さて《英和対訳袖珍辞書》は英文“A POCKET DICTIONARY ENGLISH AND JAPANESE” という。「袖珍(しゅうちん)」は「ポケット」といった意味で、携帯に便利な辞書のことであるが、実際にはかなり大きなサイズであったようで、その形から「枕辞書」とも呼ばれていたそうだ。堀達之助は、英蘭辞書(英単語のオランダ語訳辞書)を参考に、オランダ語訳に日本語訳を置き換えて「英和辞典」を作成することとした。Shuchin

 この日本語訳についても、それまでの主流であった権威ある「諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)」の和訳を踏襲することはやめ、見直して一つの英単語に対し、一つの和訳ではなく、複数の日本語が対応する場合には、すべて書き出した。

 たとえば、「語林大成」で「A・・・冠詞 又 一ヒトツ」とあるのに対し、達之助は、

A・・・不定冠辞ニシテ単称名詞ノ前ニ在リテ 一ツ 又ハ或ルノ意ヲ示ス」と訳した。

さらに「語林大成」では「Able・・・有力(チカラアル)又 徳力(タッシテヲル)」と訳していたが、袖珍辞書では「益ニ立ツ。巧ナル。強大ナル。抜きん出る。」などとし、語句としてto be able「得ル(うる)。能フ(あたう)。」とした。英蘭辞書を参考にしたとはいえ、大変地道な労苦の多い仕事であることは間違いない。Shucin2

 ところで、この日本は初の本格的な英和辞書の草稿が、今年発見されたそうだ。

和紙の手書き原稿20枚で、堀達之助の推敲の跡もあるそうだ。新聞記事によれば、この辞書の現物は、内外に18冊確認されているようだ。驚くべきことに最初の発行から150年近くも経過している。

2007317日熊本日日新聞夕刊)

http://diary.jp.aol.com/ufxxej/img/1174127264.jpg

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫

※写真:英和対訳袖珍辞書(上下):京都外語大学附属図書館蔵

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黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその1

 1853年(嘉永6年)、世にいう「黒船」ペリー艦隊が浦賀にやってきた。そのとき江戸幕府側の首席通詞(通訳)として、活躍したのが堀達之助30歳であった。達之助は長崎でオランダ通詞の家に生まれ、後に同じ通詞の堀家の養子となった。

アメリカ大統領の親書を携えたペリーは、翌1854年再び艦隊で来訪。しかし今度は、達之助が次席で首席通詞には、長崎でオランダ語はもとより、「英語」を習得した森山栄之助が就任した。(達之助はある程度、英語の読み書きはできたようだが、会話の経験はまったくなかったようだ。その点、アメリカ人捕鯨船員・マクドナルドから会話を習っていた栄之助が首席通詞として抜擢された。)ペリーたちとの交渉の通訳は、栄之助がおこない、達之助はもっぱら外交文書の翻訳(オランダ語からの日本語訳)に従事した。当然のことだが、達之助はエリート・森山栄之助に嫉妬したに違いない。

その後堀達之助は、下田開港に伴い、下田詰(現地駐在)となる。この地でアメリカ商人(実はドイツ人)のリュドルフと知合う。彼が乗船していたのは、米国旗を掲げ、アメリカに雇われたドイツ船・グレタ号であった。ドイツ人船長とリュドルフは、日独通商を要請する奉行宛の書簡を達之助に託す。しかし彼はその書簡を個人の判断で上申することなく、保留していたため、罪にとわれ1855年投獄。4年間の牢獄生活を強いられた。獄中では、死罪となる吉田松陰とも接触があった。

1859年、幸い達之助の通詞としての技量を知っていた「蕃書調所」(東京大学の前身といわれる学問所)の頭取・古賀謹一郎の尽力により、赦免、釈放され、蕃書調所の翻訳方に採用される。ここで達之助は、古賀の命を受け、本格的な“英和辞書”の編纂にたずさわることになった。Photo

それまで日本初の英和辞典といわれる『諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)』という辞書はあった。掲載されていたのは英単語が6,000語にすぎなかったため、実用には遠かった。さらにこの辞書に附された日本語の発音が、オランダ商館のブロムホフの発音した「オランダ訛りの英語」であったため、基本的な英語の発音とは程遠いものであったそうだ。たとえば、Personns(個人、人ペルソンス=パーソンズ)、summer(夏ソムムル=サマー)、 sugar (砂糖シュガル=シュガー)、drink(飲むデイリンキ=ドリンク)、 war(戦争ワル=ウォー)という具合だ。

 そして1年8ヵ月の努力の結果、堀達之助は、35,000語にも及ぶ英単語と日本語訳を掲載した『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』を発刊(200部印刷)した。これは日本英学史学会によれば、1862年「日本初の本格的」英和辞書である。ちなみに袖珍(しゅうちん)とは、ポケットの意味で携帯できる字引なのである。その後もこの辞書は改訂や増補を重ねたばかりか、明治期はほとんどの英和辞典の基礎となった。4_2

写真:上/幕末の堀達之助、下/英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書、大阪女子大図書館蔵

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫

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《日米和親条約》オランダ語が共通語?黒船「日本海外交流史」

 1853年(嘉永六年)、浦賀沖に巨大な船が4隻(せき)現れた。司令長官ペリー率いるアメリカ艦隊———「黒船」の出現である。

 大きな2隻の蒸気船と2隻の帆船をかき分け、小船が黒船に近づく。船には何人かの役人の内、特筆すべき2人乗っていた。一人は与力(よりき)の中島三郎助、もう一人は「オランダ通詞(つうじ:通訳)」の堀達之助であった。

 達之助は、アメリカ国旗の立つ艦に向かって大声でこういった。

I can speak Dutch!』(拙者はオランダ語を話す

つまり英語はそれほどよくわからないが、オランダ語なら話せる。誰かオランダ語を理解する者はいないか?と、「英語」で述べた。(考えてみればおかしな話だが、鎖国政策の江戸から幕末の時代、当時の日本は、例外として長崎の出島で、オランダと、その他で中国と、のみ交易をしていたためである。堀達之助は蘭学をきわめていた。だが英語はまだまだ片言だった。)

 ペリー艦隊には、やはりオランダ語通訳が乗船していた。ポートマンという。そして堀達之助と中島を船に招き、幕府の、将軍宛の大統領の親書をしかるべき身分の高い人に渡したいという。捕鯨船の水やマキ、食料などの補給基地として、日本の港を開放し、さらに通商を求める交渉をしたいなどと求めてきた。

 浦賀の奉行所はさっそく江戸に出向き、時の老中に上申するものの、この場は、先おくりでなんとか収まった。翌年、ペリーは約束どおり条約の締結に向け、再び浦賀にあらわれる。

1854年3月、紆余曲折があり、《日米和親条約》が日本とアメリカの間に結ばれることになるが、これにより日本は下田と箱館(函館)を開港する。また漂流民の保護の問題やアメリカへの最恵国待遇付与などが合意。後に無能な幕府がアメリカの軍事力の脅威にさらされて不平等な条約を結んだなどと、非難されているが、実際に戦うこともなく、平和裡に条約締結になっている点では、時の応接係りや幕府の見識を評価すべきでもある。

 さてこの《日米和親条約》で興味深いのは、言語である。いうまでもなく、二国の間の共通語は、文章作成では漢文(中国語)であり、口語では「オランダ語」であった。この条約のオリジナルがアメリカ公文書館に現存する。

当然、ペリーの署名の入った「英文版」があり、日本の4名(林大学頭だいがくのかみ、町奉行・井戸対馬守つしまのかみ、目付・鵜殿民部少輔うどのみんぶしょうゆう、浦賀奉行・伊澤政義)の署名と花押の入った「日本語版」がある。さらに翻訳として、通詞・森山栄之助の署名入り「オランダ語版」があり、儒者・松崎満太郎書名の「漢文版」がある。実に4種類。しかもこれらは、それぞれが単独で署名されたもので、日米双方で署名したものはない。さらに共通の「正文」は、何語か決められず、ペリーのアメリカは「英語版」の本編に漢文訳とオランダ語訳をつけた。幕府の場合は、「漢文」を一応、正文としたものの、英文からのオランダ語訳文をさらに文章ことばの漢語に置き換えていたという。

実際の交渉は、オランダ語会話でおこなわれた。(英語⇔オランダ語⇔日本語)

 何がなんだかわからないけれど、開国という歴史の大きな一頁を刻む《日米和親条約》の裏に、特殊な語学事情があったというお話だ。

通訳(通詞)として活躍した堀達之助や森山栄之助については、つぎの機会に書きたい。

(参考:『幕末外交と開国』加藤裕三著、筑摩書房、『黒船』吉村昭著、中公文庫)

Photo_205 (ペリー)

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《岡本太郎》『明日の神話』に出会う

 休みを利用して東京都現代美術館へ行ってきた。東京の江東区の木場公園にある、なかなかステキな建物の美術館だ。目的は最近、修復され話題になった岡本太郎の《明日の神話》が、しばらく常設展示されているからである。

※東京都現代美術館のページ

http://www.mot-art-museum.jp/jyosetu/page6

 岡本太郎については、昨年10月大阪の千里に行った折、「太陽の塔」と出会い、その感想を書いた。

大阪 現在も生き続ける・太陽の塔

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_f7fd.html

 解説によれば、“岡本太郎の「神話」は、原爆、放射能という人類の悲劇を描き出しながらも、その先へと生きる希望を与え続けています。”(現代美術館リーフレット)

 『明日の神話』は、大阪万博の太陽の塔と同時期の1968~9年の作品。メキシコで建設予定であった「オテル・デ・メヒコ」の大きなロビーを飾る壁画であったが、建設資金が行き詰まり、このホテルは完成しなかった。太郎のこの作品もその後、行方不明となり、2003年、メキシコシテイ郊外資材置場で偶然、発見されたもの。作品は雨ざらしのうえ、傷だらけの状態であった。その後、1年をかけ丹念に修復された。

 タテ5.5メートル、幅30メートルの大作だ。原色の赤とオレンジと青。左から右に流れるような力強さを感じる。中央の象徴的な白いドクロは、人類に悲惨な未来を暗示しているのだろうか。ゴムの樹脂を絵の具に混ぜて製作された「ドクロ」の部分は、近くで見ると盛り上がっていて、さらに力量感を与えている。

岡本太郎の作品は、とにかくエネルギーとその強烈な個性だ。これほど好き嫌いがはっきりする画家もいないと思う。現代美術館の3階の広い展示室で、ゆっくりと『明日の神話』に出会うことができる。鮮やかな色彩と大胆な構図は、少なくともみる人に勇気を与えてくれることは確かだ。

東京都現代美術館での公開

http://www.1101.com/asunoshinwa/news.html

(写真は2006年7月、汐留の日本テレビで公開時のもの)

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《高松凌雲》武士の魂を持つ医師その3

大政奉還によって生活の糧を失った、旧幕府の徳川の家臣たちは、明治政府による処遇に不満を抱いていた。彼らは、新天地を求めて蝦夷地に渡り、五稜郭を本拠に新政権を樹立しようと企てていた。

 しかし明治政府がこれを許すはずもなく、官軍・討伐軍が派遣された。現在の北海道道南地域が戦場となり、ここに明治維新最後の戦い「箱館戦争」が始まった。

 パリから戻った医師・高松凌雲は、幕臣である身分をわきまえ、榎本武揚(釜次郎)らに誘われ、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出。榎本軍は仙台で土方歳三等の旧幕府軍を収容して蝦夷地(北海道)に向かい、箱館の五稜郭などの拠点を占領して地域政権を打ち立てた。彼らは北方の開拓とロシアへの防衛を名目として、旧幕臣政権による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府は拒否し派兵した。Photo_203

旧幕府軍は松前、江差などを占領するも、新政府軍に対抗する決め手であった開陽丸を座礁沈没させて失い、宮古湾海戦でも敗れ、新政府軍の蝦夷地への上陸を許す。さらに、五稜郭で土方歳三は戦死。榎本武揚らは新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終結した。これにより、慶応4年(明治元年、1868年)から明治2年(1869年)にわたって続いた動乱のなか、新政府側が旧徳川幕府側の勢力を一掃したといえる。この結果、日本は、薩摩藩・長州藩出身者が明治政府の中心となって、近代化へ進んでいった。

この旧幕府側の最後の抵抗であった箱館での戦いに際し、高松凌雲は野戦病院ともいうべき箱館病院の責任者(頭取・院長)に指名された。

榎本艦隊と官軍との決死の戦闘の最前線において、凌雲は多くの傷病兵の治療を続けるなか、ある時、箱館病院に6名の負傷者が運び込まれる。それも敵方の兵であった。病院内は騒然となり、「戦死した者の仇(かたき)だ。殺せ」という者まで出てくる。

そこで凌雲は、毅然とした態度できっぱりと演説した。「パリで学んだ『神の館』では、富める者にも貧しい者にも同じ治療をほどこし、しかも貧しい者は無料であった。戦争にあっても、敵方の傷病者を味方の傷病者同様、ねんごろに施療する。それが、神の館のみならず西洋諸国の病院の常となっている」

「病院は新しい生命が生まれ、また消えてゆく神の宿る館なのだ」と知り、それまで西洋医学をただ知識だけで学んできた凌雲にとって。医学が神聖なものだという啓示を受けていたからであった。

パリの「神の館」で啓示を受けた「遠い雷鳴」が、日本にまで近づいてきてさかんに轟いて、やがて慈雨を降らせることになる。(書評家・岡崎武志、『遠い雷鳴』書評)

同時に旧幕臣の身で徳川の再興を願ったが、もはや新しい時代の潮流に逆らうことはできなかった。それは古い封建体制を打ち破る、明治維新の新しい「夜明け」を告げる「雷鳴」でもあった。

さらにこの時、五稜郭を警備していた「衝鋒隊(しょうほうたい)」隊長であった実兄・古屋佐久左衛門は官軍の砲弾により、重傷を負い、亡くなった。凌雲は、その責任感から箱館病院を離れることはできず、後に仮に葬られた兄の墓を訪れて涙している。(参考:『五稜郭の兄弟』高橋義夫著、廣済堂出版)Photo_204 

 箱館戦争終結後、凌雲は江戸へ送られ、徳島藩預かりの蟄居処分となるが、やがて新政府からいくつかの役職就任の誘いや各藩から雇用の話がきた。しかし彼はすべてを断り、市井の「医師」として生きることを選択し、東京で開業する。もちろん恩を受けた徳川昭武の水戸家の主治医を勤める。その後、「神の館」で学んだ精神で貧しい患者には無料の治療をおこなうため、「同愛社」という組織をつくる。日本での「赤十字」活動のさきがけといわれている。80歳を超えて亡くなるまで高松凌雲は、パリで啓示を受けた博愛精神をもって、一生を通した。まさに「武士の魂をもった」医師であった。

(参考:『遠い雷鳴』吉村昭著、文春文庫)

※写真/箱館五稜郭本陣(明治元年)、兄:古屋佐久左衛門、弟:高松凌雲)

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《高松凌雲》武士の魂を持つ医師その2

 「医は仁術」という言葉は、まさにこの人のためにある。凌雲は、徳川のプリンス《徳川昭武》のパリ万博派遣使節団に奥詰のプリンスの主治医として同行し、フランス留学を許されたが、大政奉還によって、帰国せざるをえなかった。Photo_198

この人は努力の人である。天保7年(1836年)、九州は(福岡県)小郡で生まれ、安政6年(1859年)22歳の折、医学を志ざし上京。蘭方医(オランダ医)の石川桜所(いしかわおうしょ)の門下生となり勉学に励む。文久元年(1861年)石川の許しを得て、今度は大坂(大阪)の蘭方医の第一人者・緒方洪庵の適塾に入門。オランダ語を自由に読み書きできるばかりでなく、豊富な西洋医学の知識を身につけた。その後、再び江戸に出て、英学(英語)を学ぶ。さらに徳川家茂に随行した師匠・石川桜所について京へ。石川の推挙で一橋家のお抱え医師となる。その後、一橋慶喜の15代将軍継承により、その学才を認められ、凌雲は奥詰医師と出世するに至る。

慶応3年(1867年)、高松凌雲は、その真剣な学究姿勢と豊富な博識、語学力で徳川プリンス昭武のパリ万博使節団の医師として同行の任を受ける。一説には、当時の医師は一般には剃髪(坊主頭)であったが、凌雲は例外的に(武士のように)髷(まげ)を結っていたため、ヨーロッパでも有髪なら奇異に思われないだろうという理由からも、派遣医師に選ばれたともいう。江戸からフランスへ向かう船中から、昭武と共に彼は、随行のフランス語の達人・保科俊太郎(歩兵奉行)や山内文次郎(大砲差図役勤方)から仏語を学び、もともと英語の素養があったことから、フランス文の読解、作文もかなりの段階にあったようだ。Photo_199

徳川昭武のパリ万博参加後の欧州歴訪にも同行し、イギリス公式訪問を終えると、許しが出て、いよいよ凌雲は、フランスでの医学留学を開始する。留学先は、「オテル・デュウ(パリ市民病院)」であった。HOTEL DIEU(神の館)という病院名については、凌雲が病院関係者から「病院は新しい生命が産まれ、また消えてゆく神の宿る館なのである」ときき、「医学はことほどさように神聖なものだ」と気づいたそうだ。この考え方を彼は生涯、忘れることはなかった。

ここオテル・デュウで医学を学ぶうちに、彼は自分の師である石川桜所に教えを受けた西洋医学の知識水準がかなり高いことも再認識したが、日本の医学は、あくまでも「医書による知識」であって、実際の医療(治療)の面では大きく遅れていたことにも気がつく。それは、フランスですでに行われていた麻酔薬を使った「外科手術」であった。クロロフォルムをかがせた患者の腹部をメスで切開し、多くの手術道具を用いて、内蔵の悪い部分を切り出し、糸で縫合する現実をみた。しかもこの「神の館」に付属する「貧民病院」では、貧しい患者にも無料で治療を施す。しかもこれらの費用は、貴族や富豪などからの寄付で経費をまかなっている。まさに「医は仁術」の思想を学ぶことになる。

寸暇を惜しんでの凌雲の医学留学であったが、江戸幕府崩壊の危機に直面し、彼は1868年4月、医業半ばにして帰国せざるをえなかった。もちろん、欧州滞在中に求めた医学書とフランス、イギリスで買い求めた外科手術道具だけは、日本の将来の、医学発展のために持ち帰った。(続きはまたつぎの機会に)

※参考:『夜明けの雷鳴 医師 高松凌雲』吉村昭、文春文庫刊

※参考:『文明開化のあけぼのを見た男たち』松戸市戸定歴史館図録

※写真:武士姿の凌雲(渋沢史料館蔵)、断髪後の凌雲(高橋善七氏蔵)、現在のパリ市立病院、フランス製外科手術道具(市立函館博物館蔵)

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山本勘助に出会う《甲斐の国 風林火山博》に行ってきました

 山梨県甲府で開催中の《甲斐の国 風林火山博》に行った。正直なところ、偏差値の高い私立高校の文化祭の展示のようで、若干、会場が狭いかなと感じた。平日にもかかわらず、観光バスでお年寄りの団体が、わんさかやって来ていた。事務局の入場者目標は30万人だが、スタートして5ヶ月で20万人を突破。なかなかの人気で「おそるべし大河ドラマ」である。Vfsh0007

 会場は、地下一階がシアターやNHKドラマの出演者などを紹介する「風林火山」ゾーン、武田信玄と山本勘助の関係や武田軍の分析をするゾーンがある。勘助の声を再現して聞かせる場所もあるが、あまりの混雑でゆっくりできず、聞くことができなかった。

シアターは、長野県川中島の風林火山企画展の方が迫力も画面も上だ。そのほか1階部分は、「観光物産」と地場の食材を生かした「甲斐の国うまいもの」ゾーンである。ワインやくだものをはじめ、清里の新鮮な牛乳やチーズケーキ、アイスクリームなど、スィーツやデザートの販売も人気だ。まるで物産館だが、山梨県の力の入りようがわかる。

 個人的には、切り絵作家の「百鬼丸」さんの信玄や勘助、由布姫などの創作作品の展示に感動した。繊細でいて大胆で、色使いもよく、実によくできている。また、NHKのコーナーも川中島同様、充実している。(どこでも同じだが出演者のサイン色紙がならんでいる)

 

 入場料は600円(15名以上の団体は500円)だが、高いか安いかは見る人の趣味や興味によって違ってくるところだ。風林火山好きな方は、ぜひ見学してほしい。

(小中学生は300円)

    住所:山梨県甲府市丸の内一丁目、山梨県民情報プラザ特設会場(1階・地下1階)

(甲府駅より徒歩5分)   

    TEL:055-223-7751

     年中無休 営業時間/10:00~18:00(平成20年1月20日まで)

     地下有料ゾーンの入場は17:30まで、1階無料ゾーンは19:00まで)

Vfsh0008_1         Vfsh0010          

(※写真:甲斐の国・風林火山博外観、百鬼丸さんの由布姫と信玄、

いずれもたろべえこっそり撮影)

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山本勘助に出会う《風林火山館》に行ってきました

 大河ドラマ「風林火山」の撮影に使われている《風林火山館》にも行ってきた。山梨県の小淵沢に近い北杜(ほくと)市にある。広大な敷地に再現された大手門や主殿は、さすがによくできている。武田信虎や信玄、勝頼の居城「つつじヶ崎館」を時代考証により忠実に再現したらしい。確かに色彩も落ち着いていて、古く見える。Vfsh0004_1

 撮影用なのか館の前の堀には、手前側しか水が張っていないが、信玄や武田軍の武将たちが馬に乗って出陣するシーンを思い出す。主殿を大写しにする場面もよくテレビに登場する。敷地内にボランティアのガイドさんが何人かいて、お願いすると大河ドラマの撮影秘話などを面白おかしく紹介してくれる。こちらも平日だというのに、大型観光バスが何十台も駐車しており、年配のお客様ばかりである。

 長屋造りのお土産屋さんが立ち並び、どこでもかなりの買い物客であふれていたが、大河ドラマが終了すれば、このロケ地につくられたつつじヶ崎館も取り壊される運命にあり、また、もとの緑あふれる草原に戻っていく。少しさびしい気もするが、とくに夏場は小淵沢のこの高原は、下界よりも涼しく、ドライブがてらでかけるには、よい場所である。もちろんJR利用では、小淵沢駅からタクシーで約15分だが、帰りの足がほとんどない。(マイカー利用では、中央自動車道「小淵沢IC」から八ヶ岳横断道の小荒間交差点を右折)

風林火山館

    山梨県北杜市長坂町小荒間2112(県営八ヶ岳牧場内)

    TEL:0551-21-1000

    開館/09:30~17:30(11月~3月は16:30まで)

    観覧料金:大人300円、小中学生100円

    平成20年1月7日まで開館(ただしテレビ等の撮影日は観覧不可)

※問合せ:北杜市観光課0551-42-1351

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《徳川昭武》に出会う『松戸市戸定歴史館』に行ってきました

 休日を利用して念願の『松戸市戸定(とじょう)歴史館』へ行く。松戸駅南口から徒歩約10分。戸定地区は、高台のいまや閑静な住宅地である。戸定が丘歴史公園として、2.3haに及ぶ広大な敷地がきれいに整備されている。歴史館では「徳川昭武(あきたけ)が歩んだ幕末・明治」の企画展が開催中である。(平成19年4月21日~7月8日)Vfsh0384

 プリンス昭武が、パリ万博派遣使節でヨーロッパに赴いたときに着用した陣羽織やマルセーユのホテルでの集合写真、スイス大統領から頂戴した金の懐中時計などが展示されている。また、晩年、昭武が趣味で撮影した明治の松戸の風景や子供たちの写真が飾られているが、これがなかなか見事な腕前である。(ちょっと展示数が少ない気がしないでもない)

 さらにこの歴史公園には、昭武が明治17年から住居とした邸宅が残されていて、見学できる。(戸定邸)大名屋敷の名残を伝える住宅で昨年、国の重要文化財に指定された。広い庭に面した表座敷の客間は、身分の高い来客・徳川慶喜や大正天皇の皇太子時代に使われた。書斎は晩年の昭武が、毎日、富士山を眺めながらフランス語の学習を続けた部屋とのこと。ロマンだ。見学するだけでも価値がある。Vfsh0381

   

■松戸市戸定歴史館

   

千葉県松戸市松戸714-1 TEL047-362-2050

    入館/09:3017:00(月曜休館、祝日は開館)

    入場料:歴史館・戸定邸セットで一般240

(写真:たろべえ)

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