« 上野《寛永寺》と36坊 | トップページ | 《観光都市 江戸》今昔話 »

上野《寛永寺》続編《東叡山36坊》

4_3

 東叡山寛永寺の山主は、初代が開山の天海大僧正、第二代が公家出身の公海(こうかい、久遠寿院)大僧正であった。その後、三代目からは、天皇の皇子(子)か猶子(ゆうし:天皇の養子)が、東叡山の山主となり、《一品法親王:いっぽんほうしんのう》または、《輪王寺宮》と呼ばれ、当時の江戸宗教界のトップに立っていた。

 さて、寛永寺造営にあたり、当時この上野の地に、有力大名の屋敷が3軒あった。津軽藩主《津軽信牧つがるのぶはる》の津軽家と伊勢津藩の藩主《藤堂高虎とうどうたかとら》の藤堂家に、信濃飯山五万石から後に越後村上十万石の大名になった《堀直寄ほりなおより》の堀家であった。

当然、この地が将軍家の「御廟地」(お墓)になるため、代替地への立ち退き(お取り上げ)となるのだが、この三家は、大仏殿やお堂を寄進した。そして「子院」(あるいは塔頭または宿坊)をつくることを許された。

津軽家 → 津梁院(しんりょういん)

藤堂家 → 寒松院(かんしょういん)

堀家  → 凌雲院(りょううんいん)

 

寛永寺は、このように徳川家の庇護を受け、さらに徳川御三家や有力大名たちの寄進によって大きくなっていった。東叡山36坊の中で、格式では「凌雲院」が、なんといってもナンバー1で、凌雲院の住職は、「学頭」といわれ、山内の、天台宗一宗の学問の統括責任者であった。学頭は、また、輪王寺宮の学問の師でもあり、身分としては、宮の名代として、将軍に謁見する資格もあったそうだ。

この「凌雲院」は残念ながらいまはない。現在の文化会館と西洋美術館の場所にあったというから、上野駅公園口を出て、道路を渡ればすぐ近い。

さらに東叡山36坊の中で、別格の扱いとなっていたのが、「別当」という寺であった。

別当とは由緒ある寺社を、管理する寺といったほうがいいかもしれない。実際には、徳川家康の墓所・東照宮別当の「寒松院」、三代将軍家光の墓所・輪王寺大猷院(だいゆういん)別当の「東斬院」、四代家綱の霊廟・厳有院別当の津梁院」である。

 歴代の徳川将軍の何人かの葬儀も、寛永寺で執り行われたそうだ。たとえば四代家綱の葬儀に際しては、「寛永寺トップ5」の子院の住職が、遺骸を引き取りに江戸城へ出向いたようだ。そのトップ5は、凌雲院、 見明院、実成院、護国院、覚成院である。

 徳川将軍の墓所についての話だが、家康は、日光東照宮に神として祀られているのは有名だ。家康を尊敬していた三代家光も家康の近く、日光の輪王寺大猷院に墓所がある。

しかし二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂は、東京増上寺に、葬られた。そして四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓所は上野の寛永寺にある。

 七代家継までは、独立した霊廟がつくられていた。その中には将軍の正室・側室の霊廟もあった。しかし、八代将軍吉宗に至り、享保5年(1720)「御霊屋建立禁止令」を発し、新らしく霊廟を造営されることがなくなった。

 ちなみに最後の十五代将軍・徳川慶喜は、東京の谷中(やなか)霊園に眠っている。徳川幕府の崩壊と共に、将軍の墓所も特別なものではなくなったようだ。(絵:「江戸名所図会」東叡山寛永寺其の四より)

|

« 上野《寛永寺》と36坊 | トップページ | 《観光都市 江戸》今昔話 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/177442/17019598

この記事へのトラックバック一覧です: 上野《寛永寺》続編《東叡山36坊》:

« 上野《寛永寺》と36坊 | トップページ | 《観光都市 江戸》今昔話 »