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2007年11月の15件の記事

【にっぽん 旅の文化史】《浪花講》の看板

11月23日のブログで、【にっぽん 旅の文化史】江戸時代の旅籠・協定看板はいくつあった?と題して《新居宿 紀伊国屋》を取り上げた。

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_2f6d.html

そこで浪花講の看板の画像を掲載し忘れた。神戸市立博物館蔵のものだ。また、看板のイラストは、早稲田大学図書館蔵の「浪花講定宿帳」本文の挿絵をもとに、たろべえが「イラスト」におこしたものだ。

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ご近所グルメ《お食事処なりひら》

 東京の下町、

墨田区

にある、夜は居酒屋だが、昼間のランチタイムがおすすめ。鳥と魚をキャッチフレーズにしているきれいなお店だ。店の名前は、地名から《なりひら》という。素材を活かした「鳥・魚 和定食」と銘打ったランチメニューは、すべて1,000円で、下町としては、やや高めだが、内容がよい。

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 「刺身定食」を注文。頭が大きく目がでかいホウボウの白身、マグロ、タコ、イカ、ハマチに加えて新鮮な鳥の刺身だ。どれも素材が新しいためか、刺身に甘みがある。とくに珍しい「ホウボウ」はお頭つきで出てくるが、歯ごたえがあり、旨みがしっかりしている。これにこんにゃくの白和え小鉢と野菜の煮物(オクラ、にんじん、ごぼう)、漬物は大根。味噌汁には、旬のジュンサイが入る。白いごはんも炊きたてで、決して手を抜いていない。久しぶりに、うまいめしという感じである。

 このほか、「鳥の唐揚げ定食」も人気だ。大きな唐揚げが5、6個に、小鉢と煮物もつく。最近、刺身+唐揚げの「A定食」もできた。これなら両方、食べられる。

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 さてさて、夜だが、やきとりや刺身、煮魚をはじめ、酒の肴がたくさんある。金目鯛の煮付けもうまそうだが、1,600円なり。気の合った仲間と飲めば、一人ご予算で3,000円といったところだろうか。1階はテーブル席とお座敷、2階にもテーブル席があり、

団体なら40名くらいまで予約をとるそうだ。(平成19年夏オープン)

    お食事処 なりひら

   

東京都墨田区業平1-18-9

    TEL03(3624)8910

    営業時間:お問合せください。(休みは原則 日曜日・祝日)

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【にっぽん 旅の文化史】《旅籠の宿泊料金》は、1泊2食付でいくらか?

 旅に出て旅館に泊る。宿泊料金は、やはり関心事である。もちろん宿のランクによってもかなりの差があるのはいうまでもない。はたして、江戸時代の《旅籠》では?

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『江戸の旅文化』神崎宣武著(岩波新書2004年)では、

夕食と朝食付きで200文が相場、現在の8,000円くらい(の金銭感覚だろうか)

夕食は、全体につましい。標準は、飯・汁・香の物以外は、椀と皿が一品ずつ。メニューは、「椀」:大平椀または菓子椀と呼び、「野菜や山菜の炊き合わせの平椀」に「皿」:煮魚か焼魚がつく。(魚はお頭つきではなく切り身)

『伊勢詣と江戸の旅―道中日記に見る旅の値段―』金森敦子(文春新書2006年)では

江戸時代の旅は自分の足が頼り。成人男子1日平均10里、江戸から京都まで126里6丁、12泊13日が基準という行程で、普通の宿場に泊った場合、食事は、例として

夕食:魚の塩焼き、なます(酢の物)、豆腐の汁、麩・蒲鉾・青菜の煮物で

1泊2食付200文で約1,800円、一汁三菜といったところ。

(参考に大工の手間賃1日350文で約3,150円、1両60,000円、1文9円で換算)

『江戸の旅』今野信雄著(岩波新書1986年)によれば、

旅籠代 1泊2食つき、上宿で172文から300文(約1,700円から3,000円)が相場。

米価1両は6貫文で6,000文、江戸後期、1両で買える米は、1石(100升)、一升が60文だから、現代米価で換算すると、一升が約600円として100文は1,000円、1文は10円位の見当)

 それならば、旅行費用は総額でいくらになるのか。旅籠代(宿泊代)のほか、江戸から片道12日の伊勢詣としても、往復で4両、約240,000円が基本ベースであったそうだから、お伊勢さんは一生に一度の大旅行に違いない。細かい話だが、宿屋では、夕食時に飲む酒代1合30文(約300円)。そのほか、昼食茶店:70~80文で約700~800円、

三日に一度(髪の毛を)剃る月代(さかやき)に30文。橋のかかっていない川越も水量次第で高くなるが、基本の大井川は、203文(2,000円)、安倍川は馬賃込みで500文(5,000円)。草鞋(わらじ)代1足16文(160円)、三日に1足が必要だった。道中、

寺社のお守りやお札代、案内料(拝観料?)もかかる。その他:按摩に薬代、それからたくさんの餞別をもらっているため、土産代。したがって、旅行費用については、次の機会に詳しく検証してみたい。

イラストは小田原宿の旅籠の食事を再現したもの。飯(ゆかり)、汁、煮物(いんげん、筍、生揚げ)、皿は焼魚・付合せの野菜・梅干、真中に蒲鉾2切れ、手前にはイカの塩辛。(イラスト:たろべえ)

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【にっぽん 旅の文化史】江戸時代の旅籠・協定看板はいくつあった?《新居宿 紀伊国屋》

_edited 東海道の宿場町に新居宿(あらいじゅく)がある。江戸日本橋から271㎞(68里30町)浜名湖、浜松に近い。現在の静岡県浜名郡新居町で、東海道五十三次では、江戸から数えて31番目の宿場。関所もあった。南に太平洋、北には浜名湖がある。そこには「今切の渡し」があり、江戸側の宿場「舞坂」から対岸の新居宿までは、浜名湖を船で渡ることになる。海上約1里。まさに東海道の要所である。ここには、幕府により箱根と同様に「入り鉄砲に出女」で知られる、きびしい関所が設けられ、陸上と海上の交通を監視していた。女連れの旅人は、わざわざ山側の本坂通り(のちの姫街道)のルートに迂回したともいう。

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新居宿には、江戸時代の関所の建物が現存し、史料館となっている。旅籠は25、6軒あったとされるが、一番大きなものが《新居宿 紀伊国屋》で、再建された建物がこれまた資料館として公開されている。

紀伊国屋(きのくにや)は、元禄16年(1703)、徳川御三家の「紀州藩」の御用宿になった老舗で、正徳6年(1716)、紀伊国屋の屋号を掲げました。紀州(和歌山)出身の主人は、代々疋田弥左衛門(ひきたやざえもん)を名乗り、昭和36年(1961)に廃業するまで、260年近く旅館の営業を続けてきたそうだ。

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 新居町教育委員会によれば、この紀伊国屋に伝わる疋田家文書に、江戸後期、紀伊国屋が、どのくらいの《講》の定宿になっていたかがわかる。(「定宿極控帳」)

 それによると、つぎの12件の講に属していたそうだ。

浪花組(浪花講)、伊勢年参講中、大坂身延講、伊勢秋葉月参講、万年講、播州二見秋葉講、江州蒲生郡秋葉山講、表寿講、御社富士山用達、大元講、関東組

全国的に組織されていた「伊勢講」に関するものが多い。また近くの遠州(静岡)の火災除けの「秋葉神社」に参拝する「秋葉講」関連も多い。寺社詣でを名目にした講が数多く組織されていたが、伊勢に詣でると同時に、京や大坂にも足を伸ばす旅人もたくさんいたはずだ。

この講は、現代風にいえば協定旅館の制度だが、12件だから、JTB、knt(近畿日本)、日本旅行、トップツアー、東武トラベル、名鉄観光、読売旅行、クラツー、Nツアー、タビックス、阪急交通社、静鉄観光、と、いったところだろうか。

さて、江戸時代後期の紀伊国屋は、間口五間(約9m)の平屋造りで、部屋数12、裏座敷2、総畳数63、新居宿の旅籠の中では、最大規模。明治7年(1874)、大火により焼失後、建て替えられ2階部分が、一部増築されたが、江戸後期の旅籠建築様式は随所に残され、廃業時まで保存されたそうだ。江戸の旅人気分を体験してみるのも、ロマンだと思う。一度、お出かけくださいまし。

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(写真:新居宿教育委員会提供、地図は「伊勢詣と江戸の旅」文春新書から作図)

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【にっぽん旅の文化史】江戸時代の《浪花講》の看板は旅行会社の協定看板だった

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江戸時代中頃から、各地の神社・寺院へ参拝するため、あるいは霊山への参拝のため、多くの「講」がつくられるようになった。それは、「伊勢講」や「富士講」のような団体組織であった。伊勢詣で(伊勢参宮)などを中心とした、旅行費用の積立型団体旅行のはしりでもあった。必ずしも「団体」で旅に出るわけではなく、多くは多額な旅行代金を積み立てる構成メンバーの中から、毎年数人を選んで、代表者が参拝する「代参」のシステムがあった。

一方では徳川幕府によって、参勤交代の制度化や五街道をはじめ主要道路の整備とともに、各街道には宿駅が置かれ、馬や人足で人や物資を運ぶ「伝馬(てんま)制度」がつくられていた。基本的には、幕府公用のためのものであったが、商人や町人らの利用も増えた。日本全国をつなぐ人や物の交流が発達し、庶民たちも旅に出ることになった。

街道筋に宿(旅籠:はたご)や休憩所が軒を並べていくが、次第に集客の競争が激化してくると、中には飯盛女を使って強引に客引きをする宿屋も出てくる。気の弱いお客は自分の意志に反して、「悪質」旅籠へ連れ込まれ、言葉たくみに誘導され、あやしげな飯盛女に酒でも給仕されれば、ついついその気になって、法外な宿泊代や花代を請求され、多額な支払いをしなくてはならなくなる。

そこで立ち上がったのが、諸国を行商していた大坂商人松屋甚四郎の手代源助。まつや源助は、「安心して泊れる宿屋」を組織化することを思い立つ。宿屋の待遇に差がないように、一人で泊っても安全な旅籠の存在を願った。

文化元年(1804)、源助は、主人の松屋甚四郎と鍋屋甚八に相談し、二人に「講元」になってもらい、諸国有志の宿屋に加入してもらい、《浪華組》をつくった。加盟した宿屋には、共通の看板を揚げて、「優良宿屋」であることを一般に宣伝した。

源助は、布団の綿を打ち直す際に使用する、鯨の骨でできた弓を売りあるきながら、主要街道筋にあった、評判のよい優良旅籠を指定していった。加盟宿には目印の看板をかけてもらい、浪華組または浪花組(組合)に加入している旅人には、所定の鑑札を渡して、宿泊の際に提示させるようにした。いまでいう会員組織である。また、ガイドブックともいえる『浪花組道中記』や『浪花講定宿帳』を発行し、宿場ごとに、加盟の旅籠や休憩所の名を掲載した。この冊子には、宿場間の距離やイラスト地図(絵図)を掲載して、旅行中に携帯して役立つ案内本として、各地の情報をのせた。(「浪花組」は、天保12年(1841)には、名称を「浪花講」と変更する。)

現在、各大手旅行会社は、全国的に「協定旅館連盟」を組織している。旅館・ホテル・場所によっては民宿・ペンションなども連盟に加盟している地区もある。昼食施設や土産物屋、寺社や美術館・博物館などの見学施設などで構成する「協定観光施設連盟」も存在する。これらの宿や店頭には、旅行会社の「協定看板」が、かかっている。(おもに美術館・博物館などの公的なものや寺社仏閣などは、協定連盟には加入しないのが普通)

 各施設は、毎年“協定”の会費(看板料)を旅行会社に納める。旅行会社は各地の旅館やドライブインなどを予約手配する際、協定施設を優先的につかう。いわば共存共栄の関係のはずだが、年間の看板料が高く、旅行会社からの「送客」が少ない場合、その費用対効果に見合う収入が稼げなくなると、協定連盟から脱会していくこともある。

 中には、実際に宿泊したお客様から、接客が悪い、料理が悪いなどのクレームが頻繁に発生すると、旅行会社は「協定」からはずすこともある。

 さて《浪花講》の木製看板だが、実際に現物が残っている。(神戸市立博物館蔵)

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そしてガイドブック『浪花講定宿帳』の冒頭には、次のような「口述」(会則のようなもので、浪花講加盟の宿屋についての説明文)がある。

「諸国道中筋定宿并定休所に此通り木の看板つけ置申候、是を目当てに御泊可被成(なさるべし)諸事実直にて御世話申、売女飯盛など御客すすめ不申候 これ当講の規定御安心にて御泊可被成 万一右かんばん通の方にて 粗略なる儀ある者の名前を御記被下(おしたためくだされ) 以書面大阪まつや源助まで 御しらせ可被下早速定宿替可申候 巳上」

    諸国、道中(街道)筋の定宿ならびに休憩所に対して、このとおり木製看板をつけるように申し渡してあります。この看板を目印にご宿泊ください。すべてにわたって実直にお世話していただけます。この看板の宿では、あやしげな売春婦や飯盛女などをお客様にすすめたりしません。それが浪花講に加盟する宿の規定ですので、安心してご宿泊ください。万一、この看板のある宿で粗末な扱いを受けることがありましたら、宿屋名・担当者名を書きとめておいてください。それを書面にて大阪の松屋源助までお送りいただければ、すぐにでも浪花講の看板を取り上げ、定宿を変更します。(結構きつい内容である。訳:たろべえ)

とあり、また、旅人御心得には(お客さんが注意すること)

 一、諸法度の懸勝負被成(かけしょうぶなされ)候御客宿いたし不申候事

禁止されている博打賭博をやった人は泊めない

 一、遊女買被成候御客御宿いたし不申候事

遊女を買った客は泊めない

 一、宿にて酒もりいたし高声にて騒ぎ被成候御客御宿いたし不申候事

宿で酒盛りをして大騒ぎをする人は泊めない(普通に静かに飲むのはよい)

一、     御用向相済不用にて逗留被成候御客御宿いたし不申候事

用が済んだらさっさとチェック・アウトして長く滞在しないこと

一、     定宿の心得は御客御着の節 当主火の用心の為見廻一間一間 夜中行燈の燈火きれざるよう油つぎ方沢山にいたし置事

宿泊客が寝た後、主人が、火の用心のため、各部屋を見回り、夜中に行灯の火を切らさぬように油をつぎたす

以上のような規則があった。想像するに、講元は《浪花講》に加盟する旅籠から、看板料(加盟料)をとっていたかもしれない。送客手数料については、不明だが、『浪花組道中記』や『浪花講定宿帳』の発行により、現在の印税収入があっても不思議ではない。おそらく《浪花講》は、旅人に「鑑札」を販売してものと推定できる。いずれにしても「協定旅館」のシステムや「団体旅行」取り扱いの旅行業の原型が、できあがっていたのはまちがいない。

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西伊豆《堂ヶ島》へ行ってきました

 久しぶりで西伊豆・堂ヶ島へ添乗した。貸切バス2台で東京と埼玉から、1泊2日のゆったりした旅行である。お客様は、一部上場のある香料メーカーのOB会の年に一度の総会と懇親会だ。

 堂ヶ島は風光明媚なところだ。何度も行ったことがあるが、とくに団体で行く場合、東京からなら、朝9時に都内を出て、東名高速を沼津で降り、早目の昼食。(沼津グルメ街道があり、多くのドライブインが立ち並ぶ)土肥で金山を見学して、夕方4時には堂ヶ島温泉ホテルに到着。

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 もちろんここより高級な宿もあるが、料理もそこそこで、従業員の接客マナーもよい。天然温泉は、肌に心地よい。海辺の露天風呂もある。何よりも、ガラス張りのロビーから眺める「夕陽」が美しい。だから今回は、サンセットに間に合わせた。午後6時(18時)からの宴席には、十分ゆっくりできる時間に、着けたかった。部屋はすべて海側だ。

 物見遊山のあちこち駆け足の団体旅行は、もう、はやらない。大分かわってきたが、まだまだ「安く、たくさんの観光地を」飛び回るツアーがなくならない。トラトラビックスやクラブツリツリズムなどにも、たまにみかける。

さて十分な料理と温泉三昧を過ごし、2日目は、堂ヶ島の天窓洞めぐりの遊覧船。風が強いと欠航になるが、この日は大丈夫だ。(万一、欠航になった場合は、「加山雄三ミュージアム」や「らんの里」など代替施設もある)その後は、途中、ひものセンターで買物をして、大仁か韮山で中華料理か手打ちそばの昼食。冬ならイチゴ狩りでもして、東京に夕方、早目に帰ることができる。

 バス車内から見えるが、やはり富士山はきれいだ。日本各地には、美しい場所がたくさんある。自分の専門は海外旅行なのだが、まだまだ伊豆は、捨てたものではない。(写真:たろべえ、料理イメージ:堂ヶ島温泉ホテル提供、夕陽は西伊豆町観光協会・同ホテル提供

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《もりたたろべえ》これからのスタンス

 このブログで記事にするのは、自分の趣味からのネタが多い。多趣味といえばそれまでなのだが、つぎのようなスタンスで書いている。

【題材とするもの】

日本の歴史(戦国時代、江戸時代、幕末)

美術(西欧に絵画、とくに印象派)

スポーツ(自分で少年サッカーの審判をやっている)

音楽(キーボードやギターで作曲。アレンジはパソコン)

グルメというより「食道楽」

旅や旅行に関するもの(職業)、旅にまつわるウンチク

そのほか、日記や思いつき

以上のような視点でこのブログを書いている。

 だから「ブログ」の一貫性はないかもしれない。特定の趣嗜好に絞ったら、きっともっともっと、掘り下げて書けるかもしれない。別に論文を書くわけではない。

それにしても大学時代の「レポート提出」の習慣が役に立った。正直、書くことにはまったく抵抗はない。

 これからも、この種々(朱朱)雑多のブログを続けます。

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《神田明神》名物「天野屋」の《甘酒》

 朝晩めっきり寒くなってきた。と、いうわけで天野屋の《明神甘酒》をつくる。有名百貨店でこの甘酒が売られている。お湯を入れればできあがりなのだ。砂糖や人口甘味料は一切使わず、「米糀(こめこうじ)」だけでつくる。だからほんのり、まろやかに甘い。砂糖のようにべっとりしない。おそらく嫌いな人もいる風味がある。

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 千代田区外神田のこの地に、神田明神が移されたのが、西暦1600年、江戸開府と同時期だ。同じように天野屋さんも江戸時代から商売を続けている。しかも糀は、いまも店の地下のムロでつくっている。

調べておどろいた。甘酒はバランスのよい栄養食品なのだそうだ。糀による発酵過程では、この糀の力により、原料の米のでんぷんはブドウ糖へ、米の表面にあるたんぱく質はアミノ酸に分解される。しかもビタミンB1、B2、B6など豊かな栄養素を含むのだ。

このほか、神田明神名物にが、「芝崎(柴崎)納豆」もある。こちらも有名百貨店で販売している。そう、いまや「天野屋」は、神田明神での商売より、通信販売や外売りで稼いでいるのかもしれない。

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       天野屋 東京都千代田区外神田2-18-15

       TEL:03(3251)7911

       営業/9:00~18:00(月~金、土曜日と祝日は17時まで)

       定休日:日曜日(年末年始は無休)

※なお、お店で甘酒は1400円

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《神田明神へ》その1

JRのお茶の水駅を降りて、聖橋を渡って湯島の聖堂の角から本郷通りを右へ。しばらく歩くと「神田明神下」である。甘酒で有名な「天野屋」が角にある。大きな鳥居が見える。この坂を行くと神田明神。広大な敷地ににぎやかな社殿が目に入る。Vfsh0068_edited

 神田明神は、社伝によれば、天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現・東京都千代田区大手町)に創建された。延慶2年(1309)、東国の英雄で庶民たちに仰がれた平将門公が合祀され、太田道灌・北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く尊敬された。

 慶長5年(1600)の関が原の戦いで、神田明神では徳川家康公の戦勝祈願をし、御守りを授与したところ見事に勝利を得た。これ以降、家康公の合戦勝利にちなみ、縁起の御守り「勝守(かちまもり)」を授与するようになり、現在でも多くの参拝者に授与している。

 元和2年(1616)、江戸城の表鬼門にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営された。江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇拝されるようになった。(境内の案内より)

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 さて、この神田明神、現在は一の宮「大黒様(おおなむちのみこと)」、二の宮「えびす様(すくなひこなのみこと)」、そして三の宮「平将門(たいらのまさかど)」を祀っているが、もともとは、将門の、それも「胴体」をお祀りしている。除災厄除けの神徳をもつ神様とのこと。

 平将門については、歴史の教科書で《承平・天慶の乱》で、藤原純友とともに「武士」の先駆けとして活躍したことが知られている。結局は、首をはねられて殺されてしまうのだが、権力に立ち向かう姿は、庶民から支持されたようだ。何より、実際に生きた人間が「神様」となったのは、菅原道真(太宰府天満宮・北野天神)や徳川家康(日光東照宮)も同じだが、おそろしいことに、将門の場合、御首(みしるし)を祀った《首塚》(将門塚)が残っている。その場所が、都内千代田区大手町である。「怨霊(おんりょう)」とか、祟り(たたり)とか、いくつかの伝説も残っている。

 将門は、自ら「新しい天皇になる」と宣言して、東国(千葉県茨木県を中心にした関東)で乱を起こし、朝廷に逆らう存在として考えられていたため、明治天皇が神田明神を訪問するにあたり、祭神からはずされた。(明治7年将門神社に遷座)そして再び、神田明神の本殿に祀られたのは、なんと昭和59年のことであった。

 少なくとも甘酒を飲んでうかれている場合ではない。《首塚》に行かなくては・・・。(写真:たろべえ撮影、資料:神田明神発行ガイドブックより)

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《はとバスの新人バスガイドさん》

 添乗員をやっていると、日本全国で実にたくさんの貸切バスに乗る。当然、多くのバスガイドさんに会う。京都のヤサカ観光バスや九州の祐徳バス、宮崎交通などは、ガイドの質がよい。中でも都内の《はとバス》は、接客マナーから車中での観光案内まで群を抜くすばらしさだ。Photo

 毎年何十人かの新人が入社するという。2カ月間の研修を終え、彼女たちははじめのうち、先輩ガイドと一緒にバスに乗り、実際の仕事の流れをおぼえていくのだった。

やがて、東京半日観光、人気の5時間コースが、新人バスガイドとして一人での、最初の業務、デビュー戦となる。

 その日、東京駅丸の内南口。午前9時、山形出身の新人ガイド・まなみさん(20歳)は、緊張の面持ちでお客様を待つ。コンビを組むドライバーは、はとバスのハンドルを握って30年近い、「指導運転手」のベテラン小山さんだ。

《東京半日Aコース》は、都内半日観光の決定版として人気が高い。9時20分に東京駅を出発して、皇居前広場で下車。ガイドはお客様の先頭に立ち、徒歩で坂下門から二重橋前(集合写真撮影)、そして楠正成像の前まで誘導する。

 さらにバスは浅草へ。観音様におまいりして、仲見世にご案内。レインボーブリッジとお台場を車中から見学して、東京タワーへ。お客様を展望台直通のエレベーターまでご案内する。そしてバスで再び東京駅へ。約5時間のコースとなる。

 9時を過ぎる頃からお客様が徐々にやって来た。平日のため、こども連れは少ない。ほとんどが地方からやって来た年配の女性や老夫婦だ。すると、思いもよらず、ニコニコした顔で、おしゃれをした、まなみさんのおかあさんが、乗車券をもってバスの入口にやって来た。他のお客様の手前、ガイドのまなみさんは、驚きを隠しながらも自分の母親に会釈。

おかあさんも

「ごめんね。内緒で予約したの。まなみの初めてのガイドぶりがみたくて。昨日、出てきたの。」

 まなみさんは、まさか自分の母親がお客で乗車するとは思っていない。しかし、仕事は仕事である。皇居に向かう車内で、案内をスタートした。30名のお客様がいる。

 初めての一人業務、極度の緊張。

「おはようございます。本日は、はとバス、東京半日Aコースにご乗車いただきましてまことにありがとうございます。これより、バスは皇居前広場へ進めてまいります。皆様をご案内させていただきます、この車のドライバーは小山。ガイドは私、○○まなみと申します。まだまだ未熟ですので、不行き届きの点もあるかと存じます。本日はどうぞよろしくお願い致します。」(教科書どおりに)

と、こんな感じのことをマイクで言ったはず。

 しかし、あがってしまったため、「江戸城を開いたのは、と、と、とくがわ、いえやす・・」と、どもってしまった。その後も車内の案内は、たどたどしく、間違えたり、つまったりしてしまった。浅草では、お年寄二人の女性が、集合時間に戻って来ないため、走ってさがした。でも無事にみつかった。

 バスが再び、東京駅に向かう車内で、まなみさんは終了のあいさつをした。何を言ったのかは覚えていない。そのうちに、なんとかやり終えた安堵感なのか、母親と目が合ってしまったためか、思わず涙が出てきた。感極まるというあれだ。

 お客様は、みんな好意的だ。バスガイドが新人なのは、見ていればわかるというもの。だが一生懸命にやっている姿はいい。バスが停車すると、ドライバーの小山さんがマイクを手にした。

「ドライバーの小山です。本日は新人ガイド、○○まなみのはじめての乗務でした。しかも田舎から、娘の晴れ姿を見たい一心でおかあさんがお客様として乗っておりました。私も出発まで知りませんでした。まなみは、案内もまだまだです。たくさん失敗もします。でも彼女のバスガイド人生の中で、今日が最初の乗務でした。どうか、激励のあたたかい拍手をお願いします。本当にありがとうございました。」Bus

 指導運転手の小山さんの目もうるんでいた。聞けば、小山さんにも同年代の娘さんがいて、バスガイドではないが、社会人として働き出したところで、まなみさんが自分の娘のような気がして、最後にマイクを握ってしまったそうだ。おかあさんも泣いていた。

なんだか、乗客のおばあちゃんたちもハンカチで目頭を押さえていた。

(ドライバーに実際に聞いた話を再構成しました。名前は仮名です。)

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《観光都市 江戸》今昔話

 「観光」とはなんだろうと、しみじみ考えてみる。神社・仏閣・名所・旧跡に温泉、最近では美術館・博物館にテーマパークを見物したり、「体験」することが、観光だろうか。

江戸時代の「江戸」では、やはり神社やお寺が中心だったに違いない。苦しい時の神頼みは現代でも同じだが、平和な時代であるがこそ、「観光」できるといえる。Bus

 交通手段としては、山手線や地下鉄、バスやタクシーはもちろんない。一般の人々は、ひたすら歩くしかなかった。「江戸」市中とは、どの範囲かといえば、現在の東京二十三区の内側、1日で江戸城から徒歩で往復可能な距離の範囲だったという。遠くておおむね片道で10㎞程度といったところ。

 お城を中心として、文政元年(1818)幕府の出した《文政江戸朱引図》によれば、おおよその目安の観光ポイントは、つぎのとおりになる。御府内つまり江戸市中の範囲を朱色の線を引き囲んだ絵図である。

一番北で、王子稲荷、桜の名所・飛鳥山。北東から東方向で総鎮守・神田明神、寛永寺、娯楽の伝道と神仏のデパート・浅草寺、そして遊興娯楽の吉原。隅田川に吾妻橋、亀戸天神。東に行くと両国橋に人気の回向院(えこういん)。

 南方向は、東に永代橋、富岡八幡宮。南端には、やはり桜と紅葉の品川・御殿山、ヒーロー達の眠る泉岳寺。

南西に、江戸五色の目黒不動。近場では、裏鬼門・増上寺、愛宕山、山王権現社(日枝神社)。

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 これらの地が、「徒歩」による日帰りなのだから昔の人の健脚ぶりには、驚く。しかし旅に出れば、1日に東海道を40㎞も歩いたそうだから、足が丈夫だ。ほとんどが神社仏閣であり、それぞれの門前には、茶屋をはじめ、名物を売る店や見世物小屋なども軒を連ねていただろう。

 現代の東京、はとバスのコース。“東京観光の決定版”人気の「東京半日コース」では、東京駅を朝9時20分に出発。皇居前広場(坂下門→二重橋前→楠正成像)~浅草観音と仲見世~(レインボーブリッジ)~東京タワー~東京駅に14:30着。所要時間は約5時間、昼食なしで5,800円。皇居、浅草、東京タワーの三大観光地は、いまでも変わらず人気なのだとか。(タワーはなかったが、皇居は江戸城と置き換えてよい)

      《文政江戸朱引図》をイメージして作成。

      http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html 参考:ビバ!江戸コム

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上野《寛永寺》続編《東叡山36坊》

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 東叡山寛永寺の山主は、初代が開山の天海大僧正、第二代が公家出身の公海(こうかい、久遠寿院)大僧正であった。その後、三代目からは、天皇の皇子(子)か猶子(ゆうし:天皇の養子)が、東叡山の山主となり、《一品法親王:いっぽんほうしんのう》または、《輪王寺宮》と呼ばれ、当時の江戸宗教界のトップに立っていた。

 さて、寛永寺造営にあたり、当時この上野の地に、有力大名の屋敷が3軒あった。津軽藩主《津軽信牧つがるのぶはる》の津軽家と伊勢津藩の藩主《藤堂高虎とうどうたかとら》の藤堂家に、信濃飯山五万石から後に越後村上十万石の大名になった《堀直寄ほりなおより》の堀家であった。

当然、この地が将軍家の「御廟地」(お墓)になるため、代替地への立ち退き(お取り上げ)となるのだが、この三家は、大仏殿やお堂を寄進した。そして「子院」(あるいは塔頭または宿坊)をつくることを許された。

津軽家 → 津梁院(しんりょういん)

藤堂家 → 寒松院(かんしょういん)

堀家  → 凌雲院(りょううんいん)

 

寛永寺は、このように徳川家の庇護を受け、さらに徳川御三家や有力大名たちの寄進によって大きくなっていった。東叡山36坊の中で、格式では「凌雲院」が、なんといってもナンバー1で、凌雲院の住職は、「学頭」といわれ、山内の、天台宗一宗の学問の統括責任者であった。学頭は、また、輪王寺宮の学問の師でもあり、身分としては、宮の名代として、将軍に謁見する資格もあったそうだ。

この「凌雲院」は残念ながらいまはない。現在の文化会館と西洋美術館の場所にあったというから、上野駅公園口を出て、道路を渡ればすぐ近い。

さらに東叡山36坊の中で、別格の扱いとなっていたのが、「別当」という寺であった。

別当とは由緒ある寺社を、管理する寺といったほうがいいかもしれない。実際には、徳川家康の墓所・東照宮別当の「寒松院」、三代将軍家光の墓所・輪王寺大猷院(だいゆういん)別当の「東斬院」、四代家綱の霊廟・厳有院別当の津梁院」である。

 歴代の徳川将軍の何人かの葬儀も、寛永寺で執り行われたそうだ。たとえば四代家綱の葬儀に際しては、「寛永寺トップ5」の子院の住職が、遺骸を引き取りに江戸城へ出向いたようだ。そのトップ5は、凌雲院、 見明院、実成院、護国院、覚成院である。

 徳川将軍の墓所についての話だが、家康は、日光東照宮に神として祀られているのは有名だ。家康を尊敬していた三代家光も家康の近く、日光の輪王寺大猷院に墓所がある。

しかし二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂は、東京増上寺に、葬られた。そして四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓所は上野の寛永寺にある。

 七代家継までは、独立した霊廟がつくられていた。その中には将軍の正室・側室の霊廟もあった。しかし、八代将軍吉宗に至り、享保5年(1720)「御霊屋建立禁止令」を発し、新らしく霊廟を造営されることがなくなった。

 ちなみに最後の十五代将軍・徳川慶喜は、東京の谷中(やなか)霊園に眠っている。徳川幕府の崩壊と共に、将軍の墓所も特別なものではなくなったようだ。(絵:「江戸名所図会」東叡山寛永寺其の四より)

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上野《寛永寺》と36坊

上野の寛永寺は、寛永2年(1625)、三大将軍・徳川家光の開基(創立)、天海大僧正による開山である。江戸時代を通じ、徳川将軍家の菩提寺・祈祷所として、強大な勢力を誇った。最盛期の寺の広さ(寺域)は、30万1,870坪(約996,171㎡)といわれ、現代風の表現をすれば、「東京ドーム」21個分以上だ。

正式には「東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)円頓院(えんどんいん)」という。京都(平安京)の都の、北東方向の「鬼門」を封じる位置に配した「比叡山延暦寺止観院(延暦寺)」をモデルに、江戸の鬼門封じの目的で、同じ天台宗の関東総本山として造営された。山号は東の比叡山で「東叡山」、寺号は延暦寺にならって年号を用いて「寛永寺」、院号は天台密教の奥義「円頓止観」の語句からとったとされる。(裏鬼門の方向には、同様に徳川家の菩提寺・増上寺を置いた)

    円頓:天台宗の教義で、一切を欠くことなくたちどころに備えることができる意。実相をたちまち悟って成仏すること。【大辞泉】

    止観:天台宗で、禅定(ぜんじょう)により心の動揺を払って一つの対象に集中し、正しい智慧を起こして仏法を会得すること。【大辞泉】

広大な寛永寺の境内には《東叡山36坊》と呼ばれた、「子院」があった。(「寛永寺36坊」ともいわれる)

寛永寺に属する寺院のことで、一般的に禅宗では「塔頭(たっちゅう)」とも、「宿坊」とも呼ばれる。僧の居住する僧坊であり、縁者が参詣する際の泊る場所でもあった。

江戸時代の古地図から、36坊を列挙してみる。(順不同)

寿昌院、現龍院泉龍院、宝勝院(寶勝院)、吉祥院、一乗院、修禅院(修善院)、明静院、顕性院、常照院、普門院、東漸院福聚院(福壽院)、青竜院(青龍院)、真如院

見明院、凌雲院、本覚院、明王院、覚成院、涼泉院、寒松院元光院等覚院、東円院(東院)、護国院延壽院(圓珠院)、松林院、羪壽院(ようじゅいん、養寿院)、

大慈院、津梁院、勧善院、浄明院(浄名院、浄名律院)、春松院(春性院)林光院

観成院。(絵図はクリックで拡大)

 幕末の慶応4年(1868)、ここ上野は、大きな歴史の舞台となった。旧幕府軍と新政府軍が戦った「戊辰(ぼしん)戦争」の流れである《上野戦争》があった。旧幕府軍は

「彰義隊(しょうぎたい)」と呼ばれ、新たに寛永寺境内の輪王寺の北白川宮親王を擁立して戦ったが、薩摩・長州藩中心の新政府軍(官軍)は、西洋式の砲撃を加え、結果として、彰義隊は全滅した。この際、寛永寺の伽藍もかなり焼失してしまう。そのため、

子院の大半も被害を受けた。やがて明治政府は、江戸幕府の象徴であった「寛永寺」の寺域を縮小する。宿坊のいくつかは、移転、再建され、いまでは、18坊(上記、赤字で表示)が現存している。国立博物館の東側に多くが存在する。

また「大慈院」は、京都から下った15代徳川慶喜が、しばらく蟄居した寺でもあり、現在の「寛永寺」である。(建物は焼失後、移築されたもの)

      参考:「上野寛永寺 将軍家の葬儀」歴史文化ライブラリー243、浦井正明著(吉川弘文館2007年11月)

      絵図は「東都下谷絵図」文久2年(1862)版より

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韓国冬ソナのロケ地《江原道》観光説明会

韓国の《江原道カン・ウォン・ド》の観光説明会が開催された。江原道の金振ソン知事も同行し、かなり気合の入った説明会となった。開会は、韓国の伝統楽器の横笛と二胡による「冬のソナタ」のテーマ演奏。ビデオ説明や伝統民謡「アリラン」の披露など、テンポよく進行した。出席者は、現地からの観光ミッションに加え、日本の旅行業界、航空会社、観光関連マスコミなど約150名で、新橋の第一ホテル東京にて開かれた。Vfsh0010_2

《江原道カン・ウォン・ド》は、首都ソウルの北西部に位置し、なんといっても韓流ブームの先駆け「冬のソナタ」のロケ地として有名だ。ドラマでもたびたび登場した春川(チュンチョン)、とくに南怡島(ナミソム)の杉並木やドラゴンバレー・竜平(ヨンピョン)のスキー場などがある。このブームのおかげで江原道への日本人観光客が、(とくに中年のご婦人と若い女性が)飛躍的にふえたことは、ご承知のとおりである。

たとえば春川(チュンチョン)までは、ソウル市内から約89㎞、車で1時間半程の距離だ。スキー場の竜平(ヨンピョン)リゾートまでは、約222㎞、約2時間半から3時間程だ。韓国でももっとも北に位置し、北朝鮮との国境も近い。

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金知事によると、現在、江原道への日本人観光客は、年間37万人程度だが、これを2、3年で60万人に伸ばしたいそうだ。韓国ドラマや映画のロケ地に多く使われるほど、この地域は四季の風景が美しい。雪岳山(ソラクサン)は以前から有名だ。また秋には、松茸の採れる襄陽(ヤンヤン)もある。目下、江原道は、2018年の冬季オリンピックを誘致しようという計画がある。スキーリゾートもたくさんあるのだ。

九州の高校の数校が「スキー修学旅行」を江原道で実施しているとのこと、やはり信越や東北・北海道へ行くより、近いからだろう。

観光説明会だが、驚いたことに、5ディッシュのコース料理が供された。

さて、魅力ある江原道だが、このところのウォン高・円安が気がかりである。これはかなりネックになる問題で、このままの状態なら、韓国への日本人観光客が、伸び悩むことは間違いない。(勝手だが、早く円高に推移しないかと思う)

    問合せ 日本 江原観光事務所(福岡)TEL092(481)8177

※資料・画像提供:江原道庁観光マーケティング部(韓国)、写真:たろべえ撮影)

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やめられない?《優先席での携帯電話》と、もっとアピール《おなかに赤ちゃんがいます》

 先日の朝日新聞「天声人語」(19年10月22日)に、つぎのような記事があった。

 ▼電車の優先席では携帯電話が野放しの状態だ。電磁波は約20㌢の距離で心臓ペースメーカーを狂わせる恐れがある。外出のたび、逃げ場のない車内で「凶器」に囲まれ、心で悲鳴をあげている人もいるだろう。▼(中略)車中の飲食や化粧も見苦しいが、優先席の携帯電話は人様の体調にかかわる。迷惑が見えないからといって、罪悪感まで消えていいはずがない。鉄道会社は実効ある対策を講じる時だ。▼優先席で携帯を切る習慣を機内並みの「常識」にするまで、何人が心で悲鳴をあげ、何人が殴られるのか。弱者や善人に勇気を強いていては、豊かな情報社会の離陸はおぼつかない。

 「鉄道会社の対策」ってなんだろうか。優先席の窓にバリアをはめ込んで、携帯電話の電磁波を感じると、大きな音を出して反応するとか、の工夫かもしれない。そんなことより、マナーを育てることが必要だと思う。

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 このブログで韓国ソウルの地下鉄に乗った経験で、優先席のことを書いた。

(平成19年9月26日付)

《ソウルの地下鉄》優先席に若い人はすわらないという常識

 ソウルの地下鉄では、そもそもお年寄や体の不自由な方以外の人は、優先席にはすわらないのが「常識」になっているようで、東京の事情とはかなり違う。もちろん、自分でも営業で歩き疲れたてぐったりした時に、思わず「ラッキー」という気持で、たまたま空いていた優先席にすわり、寝たふりをしたこともある。しかし、携帯電話の使用はまずい。通話ではなく、優先席を占領するほとんどの若い人が、メールの利用だが、電磁波の影響を考えれば、恐ろしい限りだ。

 それから最近、気になっているのが、「おなかに赤ちゃんがいます」バッジだ。なかなかつけている女性を見ない。恥ずかしいのかもしれないが、まだおなかが目立つ前の妊娠初期でも体調がすぐれず、すわりたい人もいると思う。ほとんどの場合、赤ちゃんが出来て、おめでたいことなのだから、もっと胸を張って、バッジをつけ、席を譲ってもらおう。

Photo_2 (写真:たろべえ撮影)

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