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上野《寛永寺》と36坊

上野の寛永寺は、寛永2年(1625)、三大将軍・徳川家光の開基(創立)、天海大僧正による開山である。江戸時代を通じ、徳川将軍家の菩提寺・祈祷所として、強大な勢力を誇った。最盛期の寺の広さ(寺域)は、30万1,870坪(約996,171㎡)といわれ、現代風の表現をすれば、「東京ドーム」21個分以上だ。

正式には「東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)円頓院(えんどんいん)」という。京都(平安京)の都の、北東方向の「鬼門」を封じる位置に配した「比叡山延暦寺止観院(延暦寺)」をモデルに、江戸の鬼門封じの目的で、同じ天台宗の関東総本山として造営された。山号は東の比叡山で「東叡山」、寺号は延暦寺にならって年号を用いて「寛永寺」、院号は天台密教の奥義「円頓止観」の語句からとったとされる。(裏鬼門の方向には、同様に徳川家の菩提寺・増上寺を置いた)

    円頓:天台宗の教義で、一切を欠くことなくたちどころに備えることができる意。実相をたちまち悟って成仏すること。【大辞泉】

    止観:天台宗で、禅定(ぜんじょう)により心の動揺を払って一つの対象に集中し、正しい智慧を起こして仏法を会得すること。【大辞泉】

広大な寛永寺の境内には《東叡山36坊》と呼ばれた、「子院」があった。(「寛永寺36坊」ともいわれる)

寛永寺に属する寺院のことで、一般的に禅宗では「塔頭(たっちゅう)」とも、「宿坊」とも呼ばれる。僧の居住する僧坊であり、縁者が参詣する際の泊る場所でもあった。

江戸時代の古地図から、36坊を列挙してみる。(順不同)

寿昌院、現龍院泉龍院、宝勝院(寶勝院)、吉祥院、一乗院、修禅院(修善院)、明静院、顕性院、常照院、普門院、東漸院福聚院(福壽院)、青竜院(青龍院)、真如院

見明院、凌雲院、本覚院、明王院、覚成院、涼泉院、寒松院元光院等覚院、東円院(東院)、護国院延壽院(圓珠院)、松林院、羪壽院(ようじゅいん、養寿院)、

大慈院、津梁院、勧善院、浄明院(浄名院、浄名律院)、春松院(春性院)林光院

観成院。(絵図はクリックで拡大)

 幕末の慶応4年(1868)、ここ上野は、大きな歴史の舞台となった。旧幕府軍と新政府軍が戦った「戊辰(ぼしん)戦争」の流れである《上野戦争》があった。旧幕府軍は

「彰義隊(しょうぎたい)」と呼ばれ、新たに寛永寺境内の輪王寺の北白川宮親王を擁立して戦ったが、薩摩・長州藩中心の新政府軍(官軍)は、西洋式の砲撃を加え、結果として、彰義隊は全滅した。この際、寛永寺の伽藍もかなり焼失してしまう。そのため、

子院の大半も被害を受けた。やがて明治政府は、江戸幕府の象徴であった「寛永寺」の寺域を縮小する。宿坊のいくつかは、移転、再建され、いまでは、18坊(上記、赤字で表示)が現存している。国立博物館の東側に多くが存在する。

また「大慈院」は、京都から下った15代徳川慶喜が、しばらく蟄居した寺でもあり、現在の「寛永寺」である。(建物は焼失後、移築されたもの)

      参考:「上野寛永寺 将軍家の葬儀」歴史文化ライブラリー243、浦井正明著(吉川弘文館2007年11月)

      絵図は「東都下谷絵図」文久2年(1862)版より

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コメント

たろべえさん

江戸は上野の寛永寺 さすがですね。そんなに大きくて立派なお寺だとはしりませんでした。しかし今のように美術館や博物館が出来てよかったと思います。上野公園は文化の発信基地です。さなる情報をおねがいします。

投稿: 通りすがりの町人風情 | 2007年11月 7日 (水) 23時33分

通りすがりさん

 寛永寺、江戸時代はほんとうに広大な敷地だったようで驚きです。

しばらくは、「江戸」をさぐってみようと思っています。

投稿: もりたたろべえ | 2007年11月 8日 (木) 23時02分

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