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2008年1月の19件の記事

幻の《じゃがポックル》

 先日、北海道ツアーに行った。《じゃがポックル》が見つからない。札幌でもなく、函館でもない真冬の「道東」でも売り切れ状態だ。旭川空港、旭山動物園、網走そして女満別空港にもなかった。

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 私は、「観光」、「食事(昼食)」、「買物」が、旅行の三要素と勝手に思っている。もちろん、宿泊の旅館やホテルも重要だが、たとえば格安ツアーであれば、お客さんは、

「この料金なら仕方ないね」とか「安い割には、このホテルはそこそこだね」と、そんなにクレームにならない。ところが、パンフレットでうたった「観光箇所」を、カットすると、必ず「ここに行くのが目的で参加したのに・・・」と騒ぐ人がいる。昼食も手を抜くと大変だ。たぶん団体用レストランで、隣の、筋のグループのメニューより、こちらが良さそうであれば大丈夫なのだ。人間は優越感の生き物だから。

 さて「買物」であるが、おみやげは、本当に旅行の大きな要素である。留守をまもってくれた、愛すべき家族や有給休暇を許してくれた職場の仲間に、何か気の効いたものを買う。(《じゃがポックル》を頼まれている人が実に多い。)

 とくに「北海道限定」商品がよい。ようやく販売を再開した《白い恋人》も人気で、品薄状態であった。それでも置いている売店は、いくつかあった。

ところが、探し求める《じゃがポックル》は、今回、どこにもなかった。サクサクした食感。“オホーツクの焼塩味”は、上品な塩味で、甘さを感じるほどだ。何より安い。18グラムの小袋(タテ13.5㎝、ヨコ10㎝)が10個入って840円。製造・販売元も地域限定でカルビー株式会社千歳工場だ。カルビーのHPをみると、 “(じゃがポックルは)北海道内の空港・駅売店、お土産物産店で販売。品薄のため店頭でもお求めにくくなっています。申し訳ございません。”と、堂々と謝っている。

(もっと増産したらいいのに!!)

 

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実は、たろべえ、お正月に釧路へ帰郷した知り合いの藤田さんからポックルをいただいた。そして食べた。スナック菓子なのにフライド・ポテトなのだ。うまい。ちなみに原材料は、(遺伝子組み換えでない)北海道産じゃがいも、植物油、でん粉?、食塩、こんぶエキスパウダー、酵母エキスパウダー、調味料(アミノ酸等)酸化防止剤(ビタミンC)と書いてある。やはり素材のうまさなのかもしれない。

 《じゃがポックル》を見つけに北海道へ・・・なんてツアーを企画したら売れるかもしれない。(写真:たろべえ撮影、提供:カルビー株式会社)

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冬の動物はお疲れ気味《旭山動物園》に行きました「その2」

 これといって特徴的な観光施設・観光資源のない「旭川」に、日本全国や東南アジアから、たくさんの観光客が来るようになった。当然、地元への経済効果はどうだろうか、と考える。ただし、この《旭山動物園》は、公立(私立)であるがための限界もある。入園料が大人580円、団体30名以上で480円、中学生以下は無料だ。したがって、民間の施設の入園料と比べても各段に安い。

 苦言を呈すると、ドラマのような旭山動物園復活神話をそのまま鵜呑みにしてはならない。入園者数推移と支出・収入の数字を調べた。(資料:『旭山動物園について』「政務調査研究視察報告書」稲垣良美、平成19年7月)

   

最近の年間入園者数推移:(驚異的な伸びだ!)平成1428万人、1582万人、16145万人、17206万人、18304万人

   

最近の動物園歳出(年間支出総計)と歳入(年間収入総計):14131100万円/96500万円、15112100万円/82200万円、168400万円/74900万円、17119000万円/126500万円、18157200万円/147500万円。

歳入から歳出を引くと、1434600万円、1531400万円、165500万円の赤字である。17年は7500万円の黒字だったが、18年はまた、9700万円の赤字だ。支出の多くが、「行動展示」のための設備投資関連とのことだ。しかも最近、市からの補助金が打ち切られる決定が出されたとのニュースもある。

NHKニュース(2008115日)によれば、旭山動物園は「財政危機」に陥っており、14億の収入に対し、支出が18億。過去の設備投資での借入金が28億あり、さらに今後の維持費と計画中のアフリカ生態園をつくるために20億以上の費用が必要とされているそうだ。

 そこで旭川市は、本年4月下旬から《旭山動物園》の市民以外の入園料を580円から800円に値上げする予定だ。入園者の9割が、旭川市以外からの来訪者のため、年間入園者数を250万人と低く見積もっても、3億円近い増収になるそうだ。(これでいいのか?根本的な財政赤字を解消できるのだろうか?)(毎日新聞ニュース、同118日)

 実際に行ってきたが、二年前と比べると、「ほっきょくぐま」は、明らかに疲れていて、水槽の中を右から左へ泳ぎ、つぎに左から戻るだけだった。飛び込んでくれる元気がない。お客様に慣れていきたせいなのか、それとも今年の寒波のせいなのか。(寒いところの動物だから生き生きしていいはずだ)

 

「もうじゅう館」の主役たち、いうまでもなく、トラやライオンは、寒さのため動かない。「あざらし館」のあざらしたちは、丸々と太って、入園者をにらみつけることもなくなった。(気がする)

 このままでは、旭山動物「神話」は、長くは続かないだろう。全国の動物園が、旭山方式の「行動展示」を取り入れてくると、新しさがなくなってしまう。

園内の昼食・休憩施設もおそまつなままでは、入園者もがっかりする。地元の市民ならお弁当を持参するだろうけれど、日本全国や東南アジアからの観光客は、どうしても園内で食事となる。「地産地消」施策で、北海道ならではの食材で調理した、ファーストフードの売店はある。しかし、陳腐(ちんぷ)なラーメンやカレーライスではもの足りない。人気の「あさひかわラーメン村」も車で15分かかる。隣接していない。動物園の出口にある唯一のレストランも地元産の素材を使っている洋食だが、「いまいち」だった。(これだけ人気がある動物園ならば、近くに「ラーメン村」のような昼食施設を誘致したらどうだろうか)現状、園内のいずれのレストランも混雑がすごい。

もちろん、アイデアとバイタリティーあふれる、旭山のスタッフに期待しているのだが・・・。このまま、飽きられて入園者が減っていく状況には、ならないでほしい。(写真:たろべえ撮影)

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冬の動物はお疲れ気味《旭山動物園》に行きました「その1」

 冬場の《旭山動物園》は、二度目である。この動物園の冬のポイントは、大きく三つだ。①ペンギンの散歩(11時と14時)と「ぺんぎん館」、②「ほっきょくぐま館」、

③「あざらし館」だ。11月から4月初旬の冬期開園時間は、10:30から15:30である。

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 旭山動物園の復活物語は、NHKテレビのプロジェクトX(エックス)をはじめ、フジテレビのドラマなど、多くのマスコミに取り上げられており、いうまでもない。旭山の年間入園者数は、平成18年度(4月から19年3月まで)で304万人。これは、上野動物園の350万人に次ぐ全国2位である。記録でいえば、「あざらし館」がオープンした平成16年(2004年)の月間入園者数が7月18万人、8月32万人と上野を抜いて日本一になった。

 1967年に開園した旭山は、当初、年間40万人ほどの入園者があったものの、次第に数を減らし、施設の老朽化とともに、1996年には26万人へと減少した。旭川市立という公立の動物園にとって、この数字は存続の危機であった。そこで立ち上がったのが、園長や副園長に、飼育係などの現場スタッフだ。

 これまでの動物園のように、動物の姿や形を見せる「形態展示」ではなく、動物本来の行動や日頃の生活を見せる「行動展示」をキーワードに“変革”していく。

行動展示の最初は、鳥であった。これまで鳥類は逃げ出さないように羽を切っていた。もちろん自然の姿ではない。そこで羽を切らずに飛び回る自然の鳥の生態を見せるために、巨大な鳥かごをつくり、その中に鳥類を放したという。(平成9年1997、「ととりの村」新設)

たとえば、トラやライオンなどの「ネコ科」の猛獣は、夜行性のため昼間は寝ているのが普通だ。そこで彼らが好む高所の木の上に居場所をつくる。すると居心地がよいのか、トラは木に登ったり、動きまわる。それを入園者は、下から見上げる。(平成101998、「もうじゅう館」新設)

 「あざらし館」では、あざらしたちが、ただ水平だけでなく、垂直に泳ぐ特性をいかして、水中にガラス製で筒型の通路を設置する。入園者は、水面下で、この筒にへばりつくように、あざらしと対面できる。空飛ぶペンギンを見るのと同様に、入園者の頭上に水槽をつくった。(平成122000、「ぺんぎん館」新設、162004、「あざらし館」新設)Vfsh0004_2

 さらに、冬場、運動不足になる、ペンギンたちを散歩に連れ出し、この行列を入園者に見てもらう。約3040分の散歩後、好物のエサを与える。もちろん、この「ペンギンの散歩」が冬の動物園の目玉となり、平成11年(1999年)から始めた冬季開園も継続されている。厳寒の北海道にあって、この年間営業、通年集客というのが、とても画期的なことだそうだ。(平成142002、「ほっきょくぐま館」新設)

 さらに、いまでは「モグモグタイム」といって、動物にエサを与える時間を公開していて、大変な人気である。しかも「飼育係」の人が、自分で動物の生活ぶりを胸につけたピンマイクで、わかりやすく説明してくれる。見学者とのやりとりもあり、これが面白い。

 ところで19年度(194月から203月)の入園者数は、まだ期の途中のため、わからないが、115日現在で267万人と発表されている。昨年の2月、3月の合計実績が約37万人であったから、今年度も300万人を超えるものと推定される。

(資料:旭川市役所、旭山動物園、写真:たろべえ撮影

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まるで冷凍庫の北海道《旭川と網走》に行ってきました

寒い東京より、もっともっと寒い道東、『“ドーンと北海道”旭山動物園・サロマ・網走2日間』のツアーに参加した。この地区のいまの最低気温は、マイナス22度。最高気温でもマイナス7度前後で、野外はつねに冷凍庫状態である。「寒い」という覚悟と防寒具があれば、結構楽しく旅行できるものだ。金曜出発、3名1室26,800円。Photo_3

予定コースはつぎのとおり。

羽田07:40発→JL1103便→旭川空港09:20着~旭山動物園(約2時間半、昼食:自由食)~層雲峡(氷瀑まつり会場)~温根湯(道の駅)~17:30着サロマ湖(鶴雅リゾート)泊~18:30着網走湖(北天の丘あばしり鶴雅リゾート)泊~かに本陣友愛荘泊

サロマ湖~網走湖~網走~博物館網走監獄(OP)~オホーツク流氷館(OP)~おーろら号乗船~オホーツクバザール(昼食:OP)~女満別空港→JL1186便→羽田

 今回は、3箇所の宿泊施設から選択制だが、昨年6月リニューアル・オープンの「北天の丘あばしり鶴雅リゾート」に宿泊した。ここが最高によかった。以前は、網走グランドホテルといったが、阿寒湖の名門「鶴雅」が買収、全面的に改装。このホテルは、“オホーツク文化の再現”といったコンセプトで、失われていく「アイヌ文化」や広大な自然に育まれた、オホーツクの伝統を表現している。基本的には、高級志向の宿である。あくまでも「個人旅行」、「個人客」にこだわった造りだ。客室は80室ほど、露天風呂付客室が11室。洋室もあるが、我々は和室に泊った。(会社の仲間で参加)

 大浴場は加温だが温泉(アルカリ単純泉)。雪の舞い散る露天は、すばらしい眺めだ。入浴には少し勇気がいる。岩盤浴もある。(無料)畳の湯上りのスペースが広い。

ここ北天の丘あばしり鶴雅リゾートの最大の特徴は、「バイキングレストラン」だ。天井が高く、スペースも広い。地元産の食材にこだわった和食・洋食の数々。酒のオードブルにもなるように、どれも小さめの小皿料理がよい。好みでトッピングを選べる手作りピザもある。野菜も豊富だ。自家製のデザートも多い。かには、共通の中華風XOジャン鍋で食べる。(野菜とタラバの足)

 朝食もバイキングだが、味噌汁は各テーブルに出汁が入った鍋があり、お好みの具材と薬味で調理する。白みそ・赤みそもある。料理は、野菜をはじめ、やはりオホーツクの素材がならぶ。ゆっくり食べたい朝食。久々に旅気分満喫で満点の宿である。

 これからのツアーは、おそらく「団体旅行の中の個人旅行的要素」を大事にしなければならないだろう。観光や送迎のバスは、団体だが、宿は「個人」旅行ベースで、宴会場で夕食ではなく、好きな時間にバイキング形式。ホテルに着いたら干渉されない。部屋や館内施設で自由に楽しむことができる。

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 ただ、残念だったのは、思いのほか、流氷が多く波が高いため、「流氷クルージング」おーろら号(砕氷船)が欠航になってしまったこと。(乗船代2,700円は返金)それでも、気の利いた添乗員が、港までバスを進め、下車。近くに流れ着いた流氷を、見ることができた。白く輝く流氷を見て、貴重な体験だった。

(写真:羽田集合、北紋観光バス、2点共たろべえ撮影、その他、提供:北天の丘あばしり鶴雅リゾート、おーろら号:道東観光開発(株))

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江戸時代の《温泉番付》

庶民の旅が普及してきた江戸時代後期、とくに寛政年間(17891801年)、諸国の温泉番付が、いくつか発表されたそうだ。この番付は『諸国温泉効能鑑(しょこくおんせんこうのうかがみ)』という。温泉の効能の高さ?でランキングされた。

ちなみに相撲で「横綱」が番付最高位として一般的に登場するのは、意外にも遅く、

明治42年以降のことで、それまでは「称号」、「免許」であった。江戸時代は「大関」が最高位であったため、温泉番付も同様に大関が筆頭だ。P

番付のベスト5は、つぎのようになっている。

東)

大関:上州(群馬)・草津の湯、関脇:野州(栃木)・那須の湯、小結:信州(長野)・諏訪の湯、前頭:豆州(静岡)・湯河原の湯、前頭:相州(神奈川)・足の湯(芦の湯)

西)

大関:摂津(兵庫)・有馬の湯、関脇:但馬(兵庫)・城之崎の湯、小結:予州(愛媛)・道後の湯、前頭:加州(石川)・山中の湯、前頭:肥後(熊本)・阿蘇の湯

 ここに紹介した温泉地は、すべて行ったことがある。東の大関「草津温泉」は、群馬県でも標高の高い場所にある。最寄りのJR吾妻線「長野原」駅からバスで約25分。山を登る。なんといっても湯煙の湯畑が有名。いまでも強力な泉質を誇る「草津」は、《泉質主義》onsen ism KUSATSUのキャッチ・フレーズを展開している。“自然湧出泉として湯量日本一、源泉かけ流しの天然温泉、強力な殺菌力を誇る温泉”として、「草津温泉は泉質を大切にしています」とのことだ。番付での効能は「瘡毒」(梅毒)に効く。

 西の大関「有馬温泉」は3度程、行く機会があったが、山間(やまあい)に開けた温泉地だ。日本最古の温泉場で豊臣秀吉が好んで通った。小金色のお湯が印象的である。有馬の宿は、有名な僧・行基が開いた古刹「温泉寺」の宿坊として、始まった。奥の坊など、○○坊という旅館名が示している。お湯は確かによい。番付での効能は「諸病」とある。しかし、なんだか落ち着かないのは、関西文化圏のせいだろうか。(写真:銀水荘別館兆楽、露天風呂)

 

 個人的には、西の関脇の「城崎(きのさき)温泉」が好きだ。しっとりした温泉街で、そぞろ歩きの「外湯めぐり」がある。(とても全部を回ることはないが)七つの外湯は、それぞれに歴史と趣きがある。営業は朝7時から夜は23時まで、入浴料は600円から800円と結構な料金だ。もちろん冬場は、ズワイガニの季節、城崎名物「かに料理」は捨てがたい。(効能は番付では「万病」に効くと紹介)

 それから番付では、《行司》として4箇所。(東:青森県大鰐おおわに温泉、群馬県沢渡さわたり温泉、西:和歌山県龍神温泉と静岡県熱海温泉)《勧進元》つまり、相撲の興行主として、和歌山の熊野本宮の湯、《差添人》後援・協力が和歌山の熊野新宮の湯となっている。(紀州熊野は相撲発祥の地であったか、ともかく由緒ある土地だ)

日本全国「温泉番付」総めぐりツアー・・・商品化したら売れるだろうか?

(イラスト:たろべえ、温泉番付:提供は岩手県花巻温泉郷 台温泉 松田屋旅館、ズワイガニはイメージ)

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【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》の「熱海特集」続

《旅行用心集》で、「熱海」の湯については、つぎの8箇所が紹介されている。

大湯・清左衛門湯・野中湯・法斎湯・河原湯・水湯・風呂湯・走り湯

 熱海には古くから《熱海七湯》と呼ばれる源泉がある。八隅蘆菴先生が用心集で紹介している8箇所の湯とは微妙に違っている。

 

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 「熱海市観光協会」によれば、「熱海七湯」とは、つぎのとおりである。

①大湯(おおゆ)、②河原湯(かわらゆ)、③小沢(こさわ)の湯:別名:平左衛門の湯、④風呂の湯・水の湯、⑤清左衛門(せいざえもん)の湯、⑥佐治郎(さじろう)の湯

:別名:目の湯、⑦野中の湯(観光協会のマップ)

 「熱海七湯」のうち、用心集に記載がないのは、③と⑥のお湯。逆に用心集に記載のある「法斎湯」は所在不明だ。「走り湯」は、別名「滝の湯」ともいい、“熱海より半里余り、権現の祠の南に位置する”といった記載から、現在の「伊豆山温泉」と推定できる。

 ところで熱海七湯の一つ、源泉「清左衛門の湯」を引く宿が、熱海に残っている。

文化3年((1806)創業の《古屋旅館》で、この地区でする唯一現存する「江戸時代の宿」だ。京風懐石の料理と源泉掛け流しで知られる。客室はわずかに26室だが、近年露天風呂付客室もできた。自慢はやはり、源泉の清左衛門の湯をそのまま汲み上げ、加温・加水はおこなわず、24時間入浴可能な100%温泉であること。露天風呂付で2名1室、1泊2食でお一人32,700円から。一般客室(和室12.5畳)で同25,200円から、

というのもなかなかリーズナブルと思うが、いかがなものか。

(写真:古屋旅館 露天風呂)

    熱海温泉 古屋旅館

    静岡県熱海市東海岸町5024  

   TEL0557-81-0001

 熱海温泉旅館組合によれば、最近の熱海のセールス・ポイントは、こんな感じだ。

“塩化物温泉と硫酸塩温泉が約9割を占める熱海温泉は、1日の総湧出量約26,000トンの実力を誇ります。塩分が皮膚を覆い保温効果にすぐれるので、神経痛をはじめ、冷え性などに適します。また、慢性婦人病、慢性皮膚病に適応しており、最近では肌をひきしめ、痩身効果も期待できると言われているので、ご婦人にも注目されている温泉地です。”

 まだまだ「熱海」は健在である。

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【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》の「熱海特集」

 《旅行用心集》の「諸国温泉紹介」東海道の箇所では、伊豆の最初に「熱海特集」がある。蘆菴先生も力が入っている。

 熱海は、江戸から小田原までが二十里半、小田原から熱海までは七里で合計二十七里半、つまり約110㎞の距離。徒歩で3日だ。ご承知のように、現代では、新幹線

こだまで東京駅

から約50分と近い。用心集では、「熱海」をつぎのように説明している。

熱海(小田原ヨリ七里○江戸ヨリハ根府川御関所、手形入ル。此地(熱海)温泉数多シ。)

 細かい温泉場については・・・

大湯・清左衛門湯・野中湯・法斎湯・河原湯・水湯・風呂湯・走り湯

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蘆菴先生によれば、熱海の温泉は、大変暑い湯で昼夜6回湧き出るという。お湯は塩辛く鏡のように澄んでいる。海辺で潮(しお)がまじるため、お湯がやわらかくなり、熱さも猛烈ではない。様々な病気に効能があり、いわば関東一の名湯である。湯宿は数十軒あり、源泉の「大湯」からすべての宿が引湯をしている。また、熱海周辺には霊場や名勝地が多数あり、とくに「日金山(ひかねさん)」が美しいと述べている。(現代では十国峠・日金山ハイキングコースが人気だ)

温泉の効能については、箇条書きである。

熱海温泉の効能:中風、さしこみ、めまい・たちくらみ、痰づまり、眼病、頭痛、腰痛、脚気、ひきつり、つまずき、打ち身・くじき、虫、さなだ虫、痔ろう、脱肛、できもの、皮膚病、様々な傷、淋病、切り傷、しゃく、つかえ。歯痛は湯を何回も口にふくんでゆすぐとよい。避けた方がよいのは、むくみ、腹膜炎など(腹のふくれる病気)、

らい病、てんかん、黄疸、虚脱(精神的疲労、脱力感か?)

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と記述されている。これらのお湯の説明はともかく、「大湯」がもっとも知られていた。

 用心集では、上記の熱海の温泉紹介に続けて、脈絡もなく伊豆半島の温泉も記載されている。小奈(長岡温泉?)、修善寺温泉(若干の説明あり)、吉奈温泉(若干のコメントあり)、伊藤(伊東温泉)、宇佐美温泉、湯ガ島(湯ヶ島温泉)、蓮台寺温泉、湯ガ野・北湯ガ野(湯ヶ野温泉)とある。

江戸時代に描かれた『熱海温泉湯源沸湧之図(あたみおんせんゆのもとわきだしのず)』がある。説明によれば、大湯は、龍が火を吹くように、間欠泉で熱湯が噴出していた。湯気(ゆげ)はたちのぼる雲のようで、雷のような音が響いいていた。

「大湯沸湧(わきだし)の景、石龍(せきりゅう)熱湯を吐くが如く、湯気雲のごとく昇れり。泉声雷の如し。本朝第一の名湯なり」

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熱海市

観光協会によれば、熱海温泉の起源は、今からおよそ1250年前の天平年間(755765年)頃、箱根権現の万巻上人の発見と伝っている。

熱海の発展に寄与した一人が徳川初代将軍・家康である。慶長91604)年3月、家康は義直、頼宣の2人の子供を連れて、7日間熱海に逗留(東照公記等)し、同年9月、京都伏見城で病気療養中の吉川広家(きっかわひろいえ:毛利家家臣、初代岩国藩主)の見舞いとして熱海のお湯を運ばせた。「有馬の湯」ではなく、「熱海の湯」を運ばせたところに、家康がいかに熱海温泉を気に入ったかがわかるという。

この元祖「温泉宅配便」は、後に「御汲湯(おくみゆ)」として歴代徳川将軍に継承され、 4代将軍家綱公の時(1667年)、《大湯》の温泉を真新しい檜の湯樽に汲み、それを頑強な男数人に担がせ、江戸城まで運ばせていた。いまでも約90度と非常に高温の「大湯」は、江戸城に着く頃には、湯樽の温泉がちょうどいい湯加減を保っていたそうだ。記録では昼夜兼行で熱海から江戸まで、温泉宅配便の所要時間は15時間とのこと。(恐るべきスピード)その後、湯樽は船で運ばれるようになり、8代将軍吉宗公の時が最も盛んで、享保11年から19年までには3,640樽も送ったと伝えられている。(資料参考:熱海温泉旅館組合および

熱海市

観光協会)Photo_3

この源泉《大湯》を引湯しているのが、熱海ニューフジヤホテルにある露天風呂。「家康の湯」(男性用・女性用)という。

■熱海ニューフジヤホテル

413-0013 

静岡県熱海市銀座町1-16

 TEL:0557-81-0111

JR

熱海駅

より車で約3分、または徒歩で約10

【入浴時間】15:000:00 / 6:0011:00  月曜日のみ12:000006:0011:00

 間欠泉はなくなったが、源泉としの「大湯」は、いまも生き残っているわけだ。なお、熱海はバブルの頃から比べると、廃業したホテルもあるが、現在でも湧出する湯量は減ってはいないそうだ。

確かに新幹線や貸切バスで、私も熱海への社員旅行、職場旅行、招待旅行に随分、添乗した覚えがある。まさに温泉に入って、ぱーっと騒ぐ宴会。芸者さん、コンパニオンさんも呼んでいた。「団体客が減少し、熱海温泉の人気が落ち込んだために、熱海の温泉も枯渇した」、という「うわさ」があるようだ。どうもマスコミがつくり出した「熱海温泉崩壊神話」のようだ。熱海に「温泉」はしっかり存在する。

Photo_4 (写真:熱海ニューフジヤホテル「家康の湯」)

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【にっぽん 旅の文化史】「箱根特集」続

  江戸時代、片道2日から3日ががりの行程(約二十里)であった「箱根」も新宿から小田急ロマンスカーで、わずかに約1時間25分。東京から気軽に「1泊湯治」に行ける場所だ。(日帰りでも行くことが可能だ)

Photo_13 「箱根七湯」は、箱根湯本温泉、塔の沢(塔ノ沢)温泉、宮の下(宮ノ下)温泉、堂ヶ島温泉、底倉温泉、木賀(きが)温泉、芦の湯(芦之湯)温泉の七湯だ。芦之湯を除いて、早川沿いにひらけた温泉場であることは、前述のとおりだが、実は、現在の箱根湯本駅から登って行く「箱根登山電車」沿線の駅が、箱根七湯の場所を行く。

七湯の様子だが、広重が残した江戸末期の浮世絵がある。嘉永5年(1852)発行の《箱根七湯図会》である。湯治場というよりも近世の温泉リゾートといった感じだ。カラー(彩色)版で美しい。

さて、「芦の湯温泉」は、七湯の中ではもっとも標高の高い地にあり、江戸時代には多くの文人墨客が湯治に訪れている。

寛文二年(1662)創業、芦之湯の老舗旅館「松坂屋本店」は、駒ケ岳南東麓の広大な敷地内に、松尾芭蕉や本居宣長などが、夏場の避暑に訪れ、句会を開いたという東光庵があり、由緒ある歴史をいまに伝えている。なお、松坂屋本店(神奈川県足柄下郡箱根町足之湯55番地、TEL:0460(3)6511)の旧パンフレットには、広重の描いた松坂屋の様子や「芦の湯」の湯宿の浮世絵が載っている。(現在は大規模改装中で営業はしていない)

歴史の重み。おそるべし「箱根」なのだ。(下:松坂屋本店パンフレットより)                                                                                    

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【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》の「箱根特集」

江戸時代、庶民が寺社への参詣を名目に、いわゆる「観光」目的でも旅に出るようになった。《旅行用心集》でも全国の温泉地を紹介しているが、著者・八隅蘆菴(やすみろあん)先生、有馬、熱海、箱根、会津天寧寺(東山)、草津・伊香保温泉などの説明に力が入っている。

 「箱根」も「熱海」と並び、大山詣り、富士山詣りなどの帰路、旅人が宿泊する。湯治は普通7日間から10日間を1滞在(1クール)としていた。3週間程度の滞在がポピュラーであったが、東海道を旅する人にとって、小田原の宿には泊らず、足を伸ばして「箱根」の温泉に宿をとる人も多かったようだ。とくに箱根では、長期滞在と違い、「1泊湯治」と呼んで旅人を宿泊させた。

 《旅行用心集》の記述『箱根特集』を紹介しよう。

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“ 相州(相模の国)箱根の温泉は、江戸から二十里余り(約80㎞)で「関所」の手前であり、箱根への道のりは、とりわけ、けわしいわけでもなく、都の老若男女でも湯治に行きやすい。とくに江ノ島、鎌倉、金沢八景あたりは、景色もよく、これらの名勝地を旅の道中に加えれば、気分も晴々として、養生のためにもよい湯治場といえる。

 この箱根七湯は、いずれもすばらしい名湯で、「熱海」と(兄弟のように)肩をならべるほどである。箱根と熱海は、わずか七、八里(約30㎞)離れているだけなのに、どちらも有名なのは、温泉の効能に違いがあるからである。さらに、箱根は(東都)江戸から交通の便がよく、その繁盛ぶりは日本一といえる。“(たろべえ意訳)

 用心集の蘆菴先生の「箱根七湯」案内はつぎのとおり。距離と温泉の効能を紹介している。

〔カッコ内〕は、現代の「箱根町観光協会」の公式な泉質と適応症案内。

      箱根湯本温泉:小田原より一里半余り(約6㎞)、湯宿九軒

効能:いろいろなできもの、性病の類、痔の諸症状、腰痛、さしこみ(胸や腹の急激な痛み)、切り傷

〔単純温泉・アルカリ性単純温泉・ナトリウム-塩化物泉  神経痛、関節痛、慢性消化器痛、冷え性〕

      塔の沢(塔ノ沢)温泉:湯本より十二丁(約1.3㎞)、湯宿十二軒

効能:頭痛、めまい、下半身の冷え性、打ち身、くじき、口・舌の痛み、できもの、喘息、血痰

〔単純温泉・アルカリ性単純温泉 神経痛、関節痛、冷え性〕

      宮の下(宮ノ下)温泉:塔の沢より一里半(約6㎞)、湯宿八軒

効能:痔の諸症状、淋病、皮膚病、さしこみ、サナダ虫(腸に寄生する寄生虫)

〔ナトリウム-塩化物泉  神経痛、関節痛、冷え性、痔疾、慢性皮膚病、慢性婦人病、高血圧症〕

      堂ヶ島温泉:宮の下より谷へ十丁(約1㎞)ばかり下がる、湯宿六軒

効能:宮の下温泉と同じ

〔ナトリウム-塩化物泉 適応症は宮の下温泉と同様〕

      底倉温泉:宮の下のつづきにあり、湯宿四軒

効能:痔の諸症状、脱肛など、すべて肛門の痛みに効く。そのため男娼が、湯治に行く。

〔ナトリウム-塩化物泉 神経痛、関節痛、冷え性〕

      木賀(きが)温泉:底倉より半道(一里の半分、約2㎞)、湯宿三軒

効能:手足の麻痺、筋骨の痙攣(けいれん)、頭痛、痰づまり、打撲、肉離れ、くじき、

痛風など。

〔単純温泉・アルカリ性単純温泉 神経痛、関節痛、冷え性〕

      芦の湯(芦之湯)温泉:底倉より一里十六丁(約5.7㎞)、湯宿五軒

効能:脚気、筋肉の麻痺、結節(皮膚や内臓にできる,小さくてまるいはれもの)、わきが、寝小便、淋病、切り傷、

〔単純硫黄泉(硫化水素型)・単純温泉 神経痛、関節痛、動脈硬化〕

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蘆菴先生がいうように、江戸時代には五街道が整備され、「東海道」に沿った箱根は「箱根七湯」の湯治場として、栄えた。なかでも玄関口にある「箱根湯本」は、賑わいをみせていた。七湯の温泉場は、早川沿いにできた温泉集落であった。

 それにしても蘆菴先生の七湯の効能分析は、ほとんど正しい。参考文献があったのだろうが、当時は、まだ江戸時代である。その情報収集能力や取材姿勢は、尊敬に値する。

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【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》にみる「諸国温泉紹介」続

 さらに用心集では、実用的な温泉入浴方法を示す。〔写真:奥日光高原ホテル露天風呂〕

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一 湯治する人、其の温泉、其の病症にあふとあわぬとをためし見るには、初(はじめ)一両度は入りて後、胸腹すき食物味(あじわ)ひよきは相応したると知べし。若(もし)一両度は入りても胸腹はり食の味ひあしく進まざるは、先(まず)は不相応としるべし。是等の事は、其の土地々々の湯宿へ委細を咄(はな)し、其の上入湯すべし。然(しかれ)どもニ、三日も入りて見れば、おのづから様子しれるものなり。

一 湯治の仕方は、はじめ一日二日の中は、一日に三、四度に限(かぎる)べし。相応する上は、五、七度迄はくるしからず。老人、又は虚弱の人は斟酌(しんしゃく)あるべし。又多年の病は、一ト回、二タ回にては不治(いえざる)ものあり。故に三、四回、又は一、二月も入るべし。

一 湯治中、病人は勿論、無病の人にても禁じ慎むべき物は、飽食、大酒、房事、冷たる食物等也。又湯上(ゆあがり)には惣身(そうしん)毛の孔開くゆへ、外邪をうけやすし。

 

之に依り深山の涼風にあたり、又は清水に足を冷し、或いは風吹にうたたたねなど決而(けっして)すべからず。平生(平静)の外邪よりも、湯上りに受たるは別而甚(べっしてはなはだ)し。慎むべし。

 内容の概略。その温泉が自分の病(やまい)に適合するか、どうかは、12回入浴すればわかる。入浴後、腹が減って食事がおいしければ、その泉質は自分に合っている。逆に食が進まなければ、合っていないと判断できる。いずれにしてもその土地の湯宿の人にきいて、入浴しなさい。もっとも23日入浴すれば、適合度合いは、自然にわかるものだ。 

 湯治における実際の入浴方法だが、温泉に入る回数は、最初の12日は、日に34回が限度。温泉が自分に合っていれば、57回入っても苦しくない。年寄りや虚弱体質の人は、よく考えて回数を少なくすること。長患いの人は、一度や二度の湯治滞在では、治らない。それこそ三度、四度または12ヶ月間の湯治が必要。 

 湯治期間は、食べすぎ、大酒飲み、房事(性行為)や冷たいものを食することは、慎むこと。湯上りには。決して外気にあたらないこと。あついからといって、清水で足を冷やしたり、風にあたってうたた寝したりしないこと。 (まさにご説ごもっとも)

 そして蘆菴先生は、温泉分析法も伝授する。 以下、たろべえ訳。

「温泉は熱くて湯が澄んでいて、鏡のように底まで透き通っているのがベストだ。ぬるくて濁っていたり、色がついている湯はよくない。しかしながら場所によっては、濁り湯で色が変わっていても無害で病気によく効く温泉もあるので一概にはいえない。」 

「源泉はひとつであっても、それぞれの湯宿に引き湯をしているので、場所によっては、温泉の効能も違ってくる。このあたりを宿の人によく問合せをしなさい。」 

「これから諸国の温泉について、細かく紹介する。おおよそ40ケ国、292箇所だが、当然のことながら日本中の温泉すべてを網羅したものではない。漏れている温泉があれば、みなさんで追加していただきたい」と、弁解も忘れない。八隅蘆菴先生は、どうやら医者が本業であったらしいが、「したたかな自己弁護」である。感心。Photo_7

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【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》にみる「諸国温泉紹介」

 江戸時代の「旅文化史」をいろどる伊勢参宮や大山詣でのほかにも、庶民に人気の旅の形があった。「温泉信仰」とも呼べる「湯治」の旅である。

日本の夏は高温多湿。あの蒸し暑さを解消するには、入浴が一番だ。行水やシャワーで汗を流すことができても疲れがとれない。また底冷えのする冬は、湯船に入って、ゆっくり体の芯からあたたまりたい。だからこそ、この日本独特の気象条件により、入浴文化が栄えたのかもしれない。Photo_4

 確かに東南アジアや南の国々でも暑い。しかし湿気がない。だから水浴びで済む。

日本民族の大部分であった農民は日々、農作業に打ち込むが、農閑期の冬場には、まとめて蓄積した疲労をとらなければならない。そこで湯治場へ行く。ほとんどが山間僻地に温泉場があった。医学や薬学など、さほど発達していなかった時代に、人々は温泉の効能を体験的に理解し、体のメンテナンスに利用していた。

《旅行用心集》でも八隅蘆菴(やすみろあん)は、「諸国温泉二百九十二ヶ所」と題して、日本国内の人気温泉地を精力的に紹介する。 〔写真:宮城県秋保(あきう)温泉岩沼屋〕

 夫(それ)我邦(わがくに)の温泉は、神代のむかし未(いまだ)医薬のはじまらざる時、万民疾病夭折(ようせつ)の患(うれ)いを救(すくわ)んがために大巳貴尊(おおまむちのみこと)、宿奈彦那命(すくなひこなのみこと)と同じく諸国を巡行し、温泉を取立玉ひしより巳来(このかた)、諸民病患を平癒(へいゆ)することを得たり。

大巳貴尊つまり大国主(おおくにぬしのみこと)と宿奈彦那命が、神代の昔、民衆が病気で亡くなったり、こどもが早死にする悲しみをなくすため、諸国を行脚して「温泉」をみつけていった。と、いうのもおおげさな出だしだ。             

 然りしより後、上は王侯より下庶民に至迄湯治すること今に盛也(さかんなり)。

 抑(そもそも)温泉は天地の妙効にして、人体肌膚(きふ)を膏沢(うるほ)し、関節経絡を融通して腹蔵表裏に貫徹するが故に、其の症に的中するにおゐては万病を治すること、医薬の及ぶ所に非ず。之に依り(これにより)湯治する人、温泉を尊信せずんば有べからず。

経絡:《「経」は縦の流れ、「絡」は横の流れの意》漢方で、つぼの筋道。気血の循環系で、12の臓腑(ぞうふ)に対応する12の正経と8の奇経(きけい)があり、これに沿って経穴(つぼ)が配置されている。出展【大辞泉】

 上は王様から下は庶民まで、身分の貴賎なく、「湯治」がはやっていた。人間の力の及ばない自然界が授けてくれた「温泉力」は、肌や皮膚、循環器系ばかりか、人体の内臓までも潤し、万病に効くといえる。医者や薬の手を借りなくとも治癒するのだ。この温泉のパワーを信じなさい。

一 左に著す所の諸国の温泉は、唯(ただ)養生の為に湯治する人は勿論、又物参(ものまいり)、遊山ながらに旅立、其もよりよりによって湯治する人の為に、国分(くにわけ)にして見易(やすき)やうに里数を加へ、効験の大略をあく。

之に依り其の順路に随ひ、此書に引合て尋求べし。湯の効能不案内の場所は、其の土地の人に能(よく)聞合(ききあい)て湯治すべし。病症によつて合(あう)と不合(あわざる)とあることゆへ、ゆるがせにすべからず。

Photo_5  ここでは、温泉の一般的な注意を述べる。病気の症状によって効果のあるものと、そうでない温泉(泉質)がある。その土地の人に尋ねるとよい。まさに蘆菴先生のおっしゃるとおりだ。

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【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》その5

 用心集を読んでいると、なかなか興味をひくイラストのページがある。毎度おなじみの「陰陽五行説」に基づく《五岳真形図》である。

中国の道教では、各方位に位置する、つぎの五山が聖山(霊山)とされる。すなわち、自然現象を構成する五大要素に対応する。

木:東岳泰山、火:南岳衡山、土:中岳嵩山、金:西岳華山、水:北岳恒山

これらの図をもつことにより、数々の効用があるそうだ。山岳信仰では、修行のため深山に分け入るが、《五岳真形図》を携帯すれば多くの難を逃れる「霊符」、つまり霊験あらたかなお札(お守り、護符)となるという。修行者が「仙人」になるために修行する霊山には、毒虫や猛獣をはじめ、妖怪、そして天変地異などの様々な危険があった。

 五岳については、つぎのように説明されている。

■東岳泰山:無病長命となる。願望一切が成就する。

■南岳衡山:あらゆる妖魔や鬼神が恐れて近づかず、占星術の悪運を打ち破り、雷、台風、大雨などの天災から逃れる。

■中岳嵩山:地神の祟り(たたり)を受けず、病気や災難を蒙ることがない。運気があがる。

■西岳華山:金銀財宝が集まり、金運に恵まれ、喜びごとが絶えない。

■北岳恒山:龍神の守護のもと海・川など、海難事故や水難事故にあわない。

 《旅行用心集》では、“五岳を尊ぶ思想は、中国の舜典?に始まり、その後の日本や中国で受け継がれてきたという。人が山坂をこえたり海・川を渡るとき、この《五岳真形図》を身に付けていれば、風や波の苦労もなく寿福をもたらす、しるしとなる”と記述されている。したがって、旅の「お守り」と考えてよいと思う。

 中国の道教から日本の神道へ受け継がれていった五岳の思想が、庶民の旅にとっては

わかりやすい「お守り」という、解釈になった。

(作図:たろべえ)

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【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》その4

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 《旅行用心集》は江戸時代の書物らしい箇所もある。旅のお守りとしての記述だが、いまでは迷信とも思われるものもある。中でも興味深いのは、《白澤の図》(はくたくのず)である。

 此(この)白澤(はくたく)の図を懐中すれば、善事をすすめて悪事をしれぞけ(退け)、山海の災難、病患(びょうく病苦)をまぬがれ、開運昇進の祥瑞(しょうずい)あること古今云伝(いいつた)ふる所也。因而(よって)旅中は最尊信(もっともそんしん)あるべし。

Photo  旅にこの図を懐(ふところ)に入れて持ち運べば、良いことを進めて悪いことを退ける。数々の災難や病苦から免れ、開運アップ間違いなし。旅行中は、大切に信心すべきといった内容だ。

 「白澤」は中国から伝わった神獣だそうだ。深山に住み、角(つの)が生え、通常の目のほか、額に1つで顔全体に3つ、胴体に6つと、合計で9つの目を持っている。9つも目を持つのは、世の中を注意深く見守るという意味とのこと。

この白澤は、日光東照宮の拝殿の内部にも描かれている。実際に見たことがあるが、狩野探幽作で、こちらは「龍」のように力強い。

“顔は人間的で、首から顎にかけて白く長い毛が伸び、頭には二本の角がはえ、背中には瘤(こぶ)があり、両脇から炎が出ている。(中略)東照宮の拝殿の左右に、いわば善政のシンボルでもある「麒麟」と「白沢」が描かれた。これらの霊獣のもつ意味は、家康が大名たちにも「麒麟や白沢が出現するような政治を心掛けよ」との政治理念を表したものといえよう。” 『日光東照宮の謎』高藤晴俊(講談社現代新書)

Photo_3 さらに江戸時代の「和漢三才図会」にも、白澤の図が描かれている。この霊獣は、帝が

東海に行った折、現れ、帝は、白澤のアドバイスにしたがって、世のため民のため、害を除いた。白澤は、王の政治に過ちがあれば、これに忠告する。しかし、その忠告に耳を貸さない王の時代には姿を隠してしまうという。

Photo_2

 なんとなくユーモラスな《白澤》。今後は、添乗に出る時には、懐に入れて持っていこうと思う。(参考:『謎と不思議 東照宮再発見』高藤晴俊著)

中:旅行用心集、下左:東照宮、下右:和漢年代記集成より

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【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》その3

 江戸時代のベストセラー・旅行ガイドブック《旅行用心集》の中心は、やはり八隅蘆菴(やすみろあん)先生の「旅行用心六十一ヶ条」である。5

 六十一ヶ条の出だしは

 一 初(はじめ)て旅立ちの日は足を別而(べつして)静かに踏み立て、草鞋(わらじ)の加減等を能試(よくこころみ)、其二、三日が間は所々(ところどころ)にて度々

(たびたび)休み、足の痛ぬやうにすべし。出立の当坐には、人々心はやりておもはず休みもせず、荒く踏み立てるものなり。足を痛めれば、始終の難義になることなり。兎角(とかく)はじめは足を大切にするを肝要とす。

 旅に出たはじめの頃は、まだ新しい草鞋が足に馴染まない。いまでいえば、靴ずれが起きたりするので、最初の2、3日は先を急ごうと、はやる気持ちをおさえて、慎重に静かに歩くこと。もっとも現代では、旅行には「履き慣れた靴」は常識。

 一 道中所持すべき物、懐中物の外、成丈(なりたけ)事少なにすべし。品数多ければ失念物等有りて、却而(かえって)煩はしきものなり。

 旅行の持ち物、荷物は、できるだけ少なめに、という鉄則だ。これもまた、現代でも十分に通用する。荷物が多いと、運ぶのに大変なだけではなく、なくしたり忘れ物をしたりするもの。

 私は添乗に出る時は、極力、必要最小限の荷物に決めている。5泊から1週間位の海外添乗でも、下着や靴下は3組程度で十分。シャワーを浴びる時に洗濯をするのだ。ホテルの部屋は、乾燥しているため、下着や靴下なら一晩で乾く。翌日の出発が早い時などは、洗濯したら手でよく絞り、ヘアドライヤーで乾かすこともある。

 このほか、旅行用心六十一ヶ条では、「朝はせわしいので、身の回りの荷物は、前夜のうちに風呂敷にまとめておく。足袋はすぐにつけられるように枕元に準備しておく」、

「空腹時には酒を飲んではいけない。夏でも冬でも酒は熱燗」、「普通の旅であれば、夜道は歩くな。おしなべて旅では、9日間の行程であれば10日間をかけて行く余裕をもつこと」など、納得することが多い。

 この用心集の中で、おもしろいのが「道中にて草臥(くたびれ)を直す秘伝ならびに奇方(めいほう)」という、箇所。足に豆ができた時の対処法・治療法などと共に、イラストで足を描き、疲労回復のためのお灸をすえるポイント(灸点)まで紹介している。

此図(この)図の外に、草臥、足痛の灸所多し。試み覚えてよき所おもえば(灸を)すえべし。然れ共わらじ、脚半等にてすれる所は用心あるべし。

 ここでは、「三里」、「承山」、「通谷」のツボを紹介している。わかりやすい。

Photo

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【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》その2

《旅行用心集》のまずは、「自序」(序文)を全文、書き下し文で紹介する。著者が読みやすいように、送りかなを加えた箇所やふりがなをつけた。この流れるような文章を味わってほしい。2_2

 夫(それ)人々、家業の暇(いとま)に伊勢参宮に旅立するとて其(その)用意をなし、道連等約束し、いつ何日(いつか)は吉日と定(さだめ)、爰彼(ここかしこ)より餞別物杯(せんべつものなど)到来し、家内も其支度(そのしたく)とりどりに心も浮立(うきたつ)斗(ばかり)いさきよきものはなし。

 殊(こと)に首途(かどいで)の日は親族朋友の徒(ともがら)、其所の町はつれまで送行(おくりゆき)、酒宴を催し、旅中の心得にもと思ふことを面々親切に心付る類は各皆実意にて、脇眼よりも羨敷(うらやましき)もの也。

 其外(そのほか)勤務(つとめ)、渡世の事にて年毎に四方の国々へ旅立するは、老若ともに気のはりありて、是程いさましき物はなし。

 東国の人は伊勢より大和、京、大坂、四国、九州迄も名所、旧跡、神社、仏閣を見回(めぐ)り、西国の人は伊勢より江戸、鹿島、香取、日光、奥州松島、象潟(きさがた)、信州善光寺迄拝み回らんことを願ふなり。

 されば家内息災にて家業繁栄の徒、主人は勿論、家来、眷属(けんぞく)に至迄、伊勢参宮の願は成就する事のならわしは、我神国の有かたきことならずや。

 抑(そもそも)士農工商の徒、日々其家業を正直にして、専ら勤(つとめ)怠らされば、一日として乏きことなく、生涯安穏に暮し楽む事、偏(ひとえ)に神仏の教を守の感応なるべし。

 然(しかれ)とも其中に、富貴の人にても生得(しょうとく)病身にて心にのみやたけに思ふとも、自ら旅行し珍敷(めずらしき)勝景(けしき)を見て山坂を歩行(あゆみ)、大山(たいさん)霊場に登ることあたはず、偶(たまたま)駕籠にて旅行すれとも病身にては、いかなる金銀財宝にあかしするとも貧者の壮健(すこやか)なる楽みに及ふことあたわざるは無念ならずや。

 しかるに富貴の人は更也、貧賎にても其身壮健にして参宮旅行すること此上なき幸ひなりといふべし。

 扨(さて)旅行する人、発足の日より嗜むべきは、譬(たとえ)家来ある人なりとも股引、草鞋等迄も自ら着し、朝夕の喰事等も心に叶ぬことを堪忍して喰ふことを、面々の能(よき)修行成と知へし。

 されば泊々(とまりどまり)土地、処の風俗によつて、けしからぬ塩梅の違あるものなり。此等の事を兼而心得居(おら)ねば、大に了簡違ふものなり。

 或は風雨に逢(あう)日もあり、又は泊の都合にて早朝より霧の深きに山をこへ、夜は夜具の薄きを纒(まと)ひ、或は道連、仲間に不和を生じ、或は足痛の人ありて道に後れ、又は偏地の寒暖によつて持病発(おこ)りて難義に及ふこともあり。されとも我々か内にて、薬療の手当するやうなることはならず。

 長旅の艱難(かんなん)千辛万苦いふへからず。

 依之(これにより)旅は若輩の能(よき)修行成といひ、又諺にも可愛子には旅をさすべしとかや。実(げ)に貴賎共に旅行せぬ人ハ、件(くだん)の艱難をしらずして、唯旅は楽(たのしみ)、遊山の為にする様に心得居(おる)故、人情に疎(うとく)、人に対して気随(きずい)多く、陰にて人に笑指さゝるゝこと多かるへし。

 既に大名、公家(こうけ)の貴(たっとき)御方といへども譬強風雨成共、河留(かわとめ)の外は定式の御泊迄御出有こと見て知べし。況や平人の旅行に我儘すべけんや。

 是於(それにより)世上の人、其艱難を凌忍(しのぎしのん)で人情に通し、人の上をよく思ひやらば、人に能人(よきひと)と呼れ立身出世もして子孫繁栄ならんこと現然也。故に可愛子には旅をさすべしとは、其教をいふなるべし。

 されば余、若きより旅行を好んで、四方の国々へ杖曳(つえひき)しを知る友人の、春秋旅立する毎に其枝折(しおり)とも成へきふしを乞ける度々、是彼認(したた)め遣(つかわ)しけるが、近頃は年老て其つとつとに筆取も物うく、又其求に応ぜんもほひなく、是迄人々に認め遣したるを集、其上に又旅の助けに成べきくさくさを思ひ出るに任て書つゝり小冊となし、其攻(せめ)を防(ふせが)む為に人のすゝむるに従ひ梓(あづさ)にちりはめて、旅行用心集とハ名つくることしかり。

→「梓に散りばめる」は版木に彫る、すなわち「印刷する」の意味

 やはり「伊勢参り」は人気であったようだ。江戸時代の人気「観光都市」について

八隅芦菴(蘆庵)は、つぎのように分析している。「東国の人」は、伊勢から大和(奈良)、京

(京都)、大坂(大阪)、四国、九州まで足を伸ばす。

「西国の人」は、伊勢から江戸に出て、鹿島神宮、香取神宮、日光、松島、象潟、信州の善光寺まで回る。

 私が好きな箇所は、下線の部分である。江戸の旅行哲学がつかめる。

 いろいろな土地を旅していると、その場所や習慣の違いによって、自分の思うとおりはならないことが多い。「日常の価値観」をそのまま旅に持ち込むことは、決してよいことではないだろう。

 旅に出ると思わぬ雨、風に出会うこともある。宿泊地や宿の都合で、早朝に出発し、まだ夜霧のあけきらない山々を越えなければならないこともある。安宿に泊れば、薄い布団で寒くて熟睡できないこともあるだろう。一緒に旅に同行する相手も重要だ。日頃仲が良くとも、旅するうちに本性が出て、仲違いをしたり、仲間の一人が足を悪くしたり、具合が悪くなり、遅れてしまう。さらに、僻地では、寒暖の差や環境の変化によって、持病を再発したり、思わぬ病に倒れることもあるが、自分の家にいる時のようにホームドクターがいるわけでもなく、満足な治療もおぼつかない。旅行には、そもそもわがままは、通らないものだと、考えていてほしい。まさに添乗員が言いたい文章だ。

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ご近所グルメ《刀削麺荘 祥龍房》

 会社の近くに新規オープンした「刀削麺(とうしょうめん)」の店に行ってきた。刀削麺は、中国の中央より北部に位置する山西省(さんせいしょう)の名物。最近、テレビでもよく取り上げられるが、水で練った小麦粉を直径15㎝くらい、長さ30㎝程度の塊(かたまり)にして手で持ち、くの字に曲がった包丁で、削りながら、煮え立ったお湯の鍋に投げ飛ばすという、作り方である。この店では、実演は残念ながら見ることはできない。うどんよりも山梨の「ほうとう」や「ひもかわうどん」のような食感である。Vfsh0054

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しかしこれはうまい。「海鮮刀削麺」を食べたが、エビ、イカ、ホタテに白菜やネギなどの野菜もたっぷり。あっさりした塩味のスープ。中国の人の胃袋に合わせてあるようで、ボリューム満点だ。麺というより、パスタだ。麺の大きさは、一定していないが、幅2㎝長さが5、6㎝といったところ。しこしこ感がある。この麺が次から次へ出てくる感じだ。

お店は《祥龍房(しょうりゅうぼう》という。外の看板は「刀削麺荘 祥龍房」とある。黒を基調にしたディスプレイで店内も落ち着いている。東京の下町、

墨田区

にある。ランチタイムにはごはんものの定食も各種あるが、やはり刀削麺だろう。

海鮮刀削麺840円/牛バラ薬刀削麺900円/タンタン刀削麺840円/すっぱい辛味刀削麺(激辛)700円/チャーシュー入り刀削麺750円/野菜刀削麺750

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都営浅草線「本所吾妻橋」駅、徒歩2分

    祥龍房(刀削麺荘)

   

東京都墨田区吾妻橋2-2-8

(藤原ビル1階)

    TEL03(3625)1978

    営業時間/11:3014:30 17:3022:00(休みは原則なし)※写真:たろべえ撮影

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【にっぽん 旅の文化史】江戸時代の旅行ガイドブック《旅行用心集》

 いまでも人は旅に出るとき、わくわくしながら書店でガイドブックを求める。写真や観光地のデータ、詳細な現地取材のグルメレポートなど、多くの冊子を見比べながら、まさに旅行出発前から旅は始まっているのかもしれない。東京駅や羽田空港、はたまた国際線の成田空港の売店でも旅行のガイドブックは、飛ぶように売れているそうだ。

 庶民が旅に出ることも一般的になってきた江戸時代、旅行案内書、ガイドブックなるものが出版され、人気を集めることになった。当時の旅行案内の書物では、《道中記》と呼ばれる、各街道筋の宿場や名所・旧跡などの寺社観光案内、各宿場間の距離(里程)や名物・みやげなどを記したものが知られている。

 また携帯用の折りたたみ式地図として、江戸の尾張屋清七の《江戸切絵図》や《江戸砂子》と呼ばれる地誌が人気であった。とくに神田の名主、斉藤幸雄・幸孝・幸成(祖父・子・孫)三代が30余年かけて編集した、《江戸名所図会》は、江戸と近郊の観光名所668景をイラストとコンパクトな説明で紹介、絵師・長谷川雪旦(せったん)作のスケッチがほのぼのと生きていて、目でみる旅行案内になっている。天保7年(1836)発行。

 江戸時代、ベストセラーとなったガイドブックは、文化7年(1810)、八隅芦菴(八隅蘆庵やすみろあん)が出版した《旅行用心集》である。江戸の旅文化を紹介する研究書には必ず登場するこの書物は、最近、現代語訳本も発売されているので、ぜひ読んでいただきたい。(もちろん、原文で読むとさらに興味深いはずだ)Ru03_01067_p0003s

 用心集では、【まえがき】にあたる「自序」がある。そこで八隅芦菴は、執筆の理由を明らかにしている。Photo

『余は若いころから旅が好きで、あちこちの国に行ったもんじゃ。それを知っている知人が旅行に出かける際にやってきては、アドバイスを求めてくる。いままでは、そのたびに注意事項などを書いて渡していたが、最近はめっきり歳をとったせいか、それも面倒になった。そういった要望を断るわけにもいかないので、これまで書き溜めたものを整理して集めたり、新たに書き起こしたりして、旅の助けになるような事柄を小冊子に、まとめることとした。これから旅に出る人の役に立つように、(木版)印刷して『旅行用心集』と名付けることになった次第じゃ。』

 内容は、東海道や木曽路などの街道の宿場や景勝地の紹介や距離などのほか、北国の旅の仕方、船酔いの対処の仕方、有名温泉地の記事など、多岐にわたっている。なかでも興味深いのは、

「道中用心61ヶ条」という、旅の具体的な注意事項の列挙である。いずれ細かく紹介したいが、現代でも十二分に通用する内容で、八隅芦菴先生の経験の豊富さと思慮深さには、感服する次第だ。その興味深い内容は、次回へ。(イラスト:たろべえ)

※参考:『旅行用心集』八隅芦菴著(八坂書房刊)、『現代訳旅行用心集』桜井正信監訳

(八坂書房刊)

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【にっぽん 旅の文化史】江戸時代帰りは楽しい《大山》その2

江戸時代の大山参りが、旧暦の6月27日から7月17日までの20日間に決められていた。2008年では7月29日から8月17日にあたる。実は阿夫利(あふり)神社本社(奥の院)の雨乞いの神様、石尊大権現(しゃくそんだいごんげん)の参詣が許されたのが、夏場のこの時期の「祭礼」期間であったためである。

石尊信仰は、古くから伝承されてきたもので、石尊の呪文を唱えながら、六根の汚れを清めるために山を登った。(六根:ろっこん;仏語。感覚や意識を生じ、またそれによって迷いを起こさせる原因となる六つの器官。眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意)

霊山に登る時に唱える「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」とは、同じく仏語。六根から生じる迷いを断って、清らかな身になること。また、霊山に登る際に、六根の不浄を清めるために唱える語。六根浄。【出典:大辞泉】

さて「大山講」のほかには、江戸時代頃から多くの《講》の存在が知られている。霊験新たかな霊山や神社に詣でるための、団体参拝(団参)、つまり「団体旅行」のための会員組織である。講員全員で参拝の旅に出るというより、順番でその年の参拝者を決め、みんなで積み立てた旅行費用をあてた、「代参」のスタイルをとっていた。

おもな《講》には、伊勢講、富士講(いわずと知れた富士山、浅間神社)、出羽三山講、武州御岳(みたけ)講、秋葉山講、御岳(おんたけ)講(木曽御岳)、三峰講(秩父三峰神社)、古峯原講(古峯神社)、榛名講、成田山講などがあった。

ところで《大山》であるが、江戸からの行き方としては、「矢倉沢往還」(江戸と現在の神奈川県南足柄市の矢倉沢を結ぶ道で青山通り大山道とも呼ばれた)があった。

日本橋(東京都中央区)→赤坂(港区赤坂)→青山→渋谷→多摩川(二子の渡し)→溝口(神奈川県川崎市)→下鶴間(大和市)→国分(海老名市)→相模川(厚木の渡し)→厚木(厚木市)→愛甲→下糟屋(伊勢原市)→上糟屋→子易(こやす)→大山

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通常片道18里、約70kmの距離だ。江戸を明け方の午前4時頃には出発。1泊目はおそらく二子か溝口あたりの宿場だ。2日目も早朝出発して、大山山中の御師の宿坊には夕方から夜到着。宿坊に泊り、翌日も早朝から、参拝したはずだ。帰りは伊勢原から東海道の藤沢へ出て、「精進落とし」。ついでに観光地・江ノ島や鎌倉を回る。もちろん落語のように藤沢ではなく、神奈川宿(横浜)で楽しい夜を過ごした旅人も多かったようだ。風光明媚な金沢八景に寄り道したグループもあった。

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【にっぽん 旅の文化史】江戸時代の人気・《大山》信仰・その1

 神奈川県伊勢原市にある「大山(おおやま)」は、古くから山岳信仰の霊山として、農民たちからは、雨乞いの神様(雨降り神社)である阿夫利(あふり)神社として人気を集めていた。(「石尊大権現」と呼ばれていた)また、大山は相模湾寄りに位置する関係で、農業の神様であると同様に、魚場を確認するため大山を一つの目印としたため、漁師たちからも信仰を集めた。参道の石段道を行くと、魚市場や青果市場の講の名前が刻まれた石柱の囲いをいくつも見ることができる。豊作と安寧秩序を願い、とくに江戸時代から「講」を作り、参拝して来た歴史を伝えている。

江戸時代の旅では、一生に一度の「伊勢参宮(お伊勢詣で)」に比べると、江戸周辺や関東地方から、相模国「大山」は、はるかに近い。江戸からおおよそ18里(72㎞)、片道1泊2日の行程で、旅行日数でも大山での滞在や帰りがけの遊興を加えても、5、6日間程である。しかも関所を通らない。さらに大山への「旅」は「江ノ島」や鎌倉、富士山などともセットで旅することも多かったようだ。もちろん落語で有名な大山詣での帰りに「藤沢」の女郎さんとめくるめく一夜を結ぶ旅人もいた。

新宿から小田急線で約1時間の伊勢原下車。神奈川中央バスで約30分、丹沢山系に属する「大山」は、標高1200m近い。ひっそりとした山間(やまあい)にある。いまでは都内を朝出発すれば、十分に日帰り(登山)が可能な距離であるが、ここ大山には宿坊や旅館が約51軒もある。名物は丹沢の清い水を利用した「とうふ」料理。宿坊のほかにも料理屋や茶店、土産物店(民芸品では大山こまが有名)がたくさんある。それにしてもケーブルカーの駅までは500mも階段を登る。正式には「大山観光電鉄」の「追分駅」が始発で、次が「不動前駅」で終点が「下社駅」。しかし頂上の阿夫利神社(本社)へは、さらに石段と山道を登る。1時間半から2時間はかかるため、本格的な登山靴姿の人が多い。実際に登ったことがあるが、本当につらい道のりだ。

江戸時代の大山参りは、夏場の時期に限られていたそうで旧暦の6月27日から7月17日めでの20日間に決められていたそうだ。白装束に杖をつき、六根清浄と唱えながら、この苦しい山道を登った。もとより、ケーブルカーなどはないため、大山の宿坊に泊っていても、かなりきつい。(本当に昔の人は健脚である)

さて「大山講」は、江戸時代、関東地方を中心に大変な隆盛をみた。それには、山内を案内する御師(おし)の存在を忘れてはならない。彼らは伊勢神宮周辺でもみられるように、寺社の先導案内をして、信者(お客)を自分の経営する宿坊に泊める。春先や冬場は年に1、2ヶ月は、集客の旅に出て、檀家(講員)をふやす。いわばセールスに関東地方を歩き、御札や護摩符を配りながら、「大山詣で」を進めた。この檀家(講中)は、いまの神奈川、千葉、山梨、静岡(伊豆半島も含む)の各県に多い。しかも各地から大山への道は、「大山道」と呼ばれ、現在でも道しるべが残っているケースもある。

お伊勢まいりでも同様だが、セールスをして集客し、自らの宿坊(宿泊施設)に泊め、自ら観光地を案内・先導するという、システムができあがっていた。御師、これこそ総合的な《旅行業》の先駆け的存在であった。

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