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2008年2月の20件の記事

《玉くしげ》を読む【ちょっと寄り道】箱根へ到着

《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたつ・いでゆ・みちのき)は、江戸時代の天保10年(1839)、上州沼田藩の江戸上屋敷詰の武士・原正興(はらまさおき)によって書かれた、「熱海と箱根」への湯治旅行の道中記である。当時、江戸から行く温泉地として、人気の高かった両温泉での滞在日記はもちろん、往復の旅の様子や途中の名所旧跡の記述も多く、紀行文にとどまらず、まさに旅行案内書でもある。東海道の各宿場紹介や帰路の江ノ島・鎌倉そして金沢八景の描写もおもしろい。しかも作者の正興は、「国学者」かもしれないほど、和歌や歴史に詳しく、本書の随所に和歌を散りばめてある。

この旅の同行者は、正興の友人で、おそらく同郷(沼田藩)の武士・神村光興(かみむらみつおき)と彼につかえる下男(供の者)の、合計三人。こちらは、武道にも秀でていて活動的、どうやら釣りが好きなようだ。ところが旅の途中、何度か釣りに行くが成果はない。また、酒好きの正興と違って、まったくの下戸であり、一緒に旅を続ける中、どうも夜のつき合いは悪い。性格は思慮深く理屈っぽい正興に比べ、豪快で男らしいところが見受けられる。

さて、熱海から十国峠、箱根峠を越えて、「箱根」に入った一行は、おおよそつぎのようなルートで旅を続けた。

箱根峠→芦ノ湖(箱根湖)→箱根関所→箱根権現(箱根神社)→元箱根→精進湖→

芦之湯(松坂屋見学)→宮城野→木賀温泉(亀屋に1泊)

木賀温泉→底倉温泉→宮ノ下温泉(奈良屋に9泊)

宮ノ下温泉奈良屋に滞在中、近辺を散策し堂ヶ島温泉や最乗寺(道了権現)にも遠出した。

 このブログでは、現在、準備中だが、江戸時代の箱根七湯の湯治の様子や各温泉場の湯宿についても調査をしている。とくに、箱根町立郷土資料館は、協力的で、すでに絶版になっている資料《七湯の枝折》(ななゆのしおり)や幕末から明治初期の箱根の絵葉書や古い写真を掲載した《箱根彩景》を購入する便宜をはかっていただいた。やはり、観光に生きる町、箱根は行政の部分でも大変、協力的で、さすがに「世界の箱根」だと思う。

何はともあれ、乞うご期待。

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下町の演歌歌手、実はラーメン屋のご主人《有明貴志》

 会社の近くに行きつけの中華料理屋がある。チャンポンや九州ラーメンを得意とする「ありあけ」である。ここのマスターが、有明貴志さん。最近、徳間ジャパンから、新曲《笹川流れ》のCDを出した。つまり、演歌の歌手でもある。Vfsh0016_2

 

私は、この有明さんを実は、何年も前から応援している。普段はラーメン屋のご主人として、中華鍋をふるい、人気のチャンポンや野菜炒めをつくる。上品とか高級ではないけれど、まさに庶民の味がする。そして、下町の歌謡ショーなどのイベントや出張ステージがあると出掛けて行く。

この有明さん、本人にきけば、出身地の熊本県玉名市で、高校卒業後、農協職員を経験し、兄を頼って上京。自動車工場に勤めた後、22歳で料理学校に入学。調理師免許を取得し、数々の有名中華料理店で修行、独立した。商売が軌道に乗った1995年、《夫婦がらす/この街・盛り場》でデビューした。中年になってからの遅咲きの歌手だ。たまたま、店のお客さんだった音楽プロヂューサーと、一緒に行ったカラオケクラブで、彼は、有明さんの歌にほれ込み、歌手の道を勧めたという。

その後、2作目が1997年「夫婦ごころ/浮世舟」。3作目は2000年「スッカラカン節/望郷にごり酒」。4作目は2002年「てんてん流転の渡り鳥/こころ酒」と続く。そして待望の新曲が

2008年2月発売の《笹川流れ》である。

 Photo                     人の噂に 誘われながら 

 

  やって来ました 海府浦(かいふうら)

  今日の湯宿(おやど)は 瀬波に決めた 

  沈む夕日の 素晴らしさ

  ここは新潟 笹川流れ (作詞:北原綜 作曲:富山憲)

 「笹川流れ」は、新潟県の村上に近い日本海の景勝地だ。すくそばには、歌詞にもあるように「夕陽」で有名な瀬波温泉がある。魚もうまい。肌にやさしい温泉もよい。そんな、笹川流れのご当地ソングを歌うことになったのも、有明さんのお兄様が新潟在住の方で、いつかこのすばらしい景色を演歌にしたいという、永年の夢があったからだそうだ。

 人生のせつなさや人の心のわびしさ、男女の恋のはかなさは、やはり有明さんくらいの年齢にならなければ、なかなか歌いこなせないと思う。様々な職業の経験やいままで歩いてきた、浮き沈みの多き道のりが、きっと本当の意味で、きく人の胸を打つのかもしれない。

 有明さんは、また、「歌手」で生計を立てるつもりなど。毛頭ないと、いう。

 「自分はラーメン屋のあるじで結構。機会があれば、大勢の人の前で歌い、お客さんの心をなごませたいだけです」、ともいう。

さらに、いつものマスター(有明貴志)の口癖は、

「たろべえさん、私はね、親が平気で自分の子を殺してしまったり、子も親を刃物で傷つけたりする。こんな殺伐(さつばつ)とした世の中になってしまったのは、親子の絆(きずな)が足りないからだと思う。愛が不足していると思います。だから、そんな気持を大事にする歌を、いつか歌ってみたいと、いつも思っているんですよ」

そんな有明さんを応援しています。(「ありあけ」は東京都墨田区にあります)

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【玉くしげ】箱根編は、しばし休憩

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 江戸を出て、熱海で湯治をした原正興(はらまさおき)と神村光興(かみむらみつおき)の道中記は、いよいよクライマックスの箱根での湯治に入ります。たろべえも一生懸命読んでいますが、まだまだ調べなければならないことがたくさんあります。したがって、この玉くしげについては、少しお時間を頂戴して、改めて続編を発表します。しばしの休息をお許しください。

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《玉くしげ》を読む【その13】熱海から日金山(十国峠)、箱根へ

4月25日Photo

しゝのめに起きて空みれば、いとよく晴れたるに心いさみ、湯あみし、朝がれひ(朝食)たべ、立ちいづるまうけ(もうけ:準備)するに、はや「かごきたれり」といへば、宿をいづ。あるじのうからやから(宿の一家一族全員)、門にいでゝ送る。又のゆあみをちぎりて別れさり、かごに乗り行くに、今井(本陣)の前を通れば山道也。

 明け方、空を見れば、よく晴れていて心が踊る。温泉に入り、朝食。出発の支度をしていると、_edited 早々と駕籠(かご)が来た。宿の見送りを受けて出発。本陣今井家の前を通過すると、山道である。日金山(ひがねさん)を登ぼり、十国峠を越えれば箱根である。この山道には、一丁(約109mごとに道標の石碑が建っている。二十丁で休憩。麓(ふもと)には霧が出ている。

かへり見るあたみのさとはきり(霧)こめぬ 今朝ゆあみしゝ宿をしぞ思ふ

 さらに三十丁には「日金地蔵堂」におまいり。さらに十国峠に到着。

かねてきく、「十国五嶋眺望の地」なりと。かごより下りて見るに、北風つよく吹出て空くもり、其の国々のめあて、さだかにはしらねども、山は千重にかさなり、海は空もひとつになるまで見わたし、絵の道しらば筆とりてうつさまほしきけしき也。

確かにここは、絶景の地である。駕籠を降りて見ると、北風が強く吹き、空はくもりで、諸国の展望は確かではない。山々は重なり、海と空が一つになる。絵の心得があれば、絵筆を取り描きたくなるほど、美しい景色。そういえば、観光バスで行き、ケーブルカーに乗り、レストハウスで昼食をとったことがある。晴れていれば最高である。Photo_2

【伊豆箱根鉄道、十国峠ケーブルカー紹介より】

十国峠ドライブウェーのターミナル十国峠は、箱根と伊豆を結ぶ接点に位置し、十国峠レストハウスなどドライブやバス旅行の休憩にかかせない拠点です。山頂へはケーブルカーが往復し、春にはツツジが満開になり、夏にはここちよい涼風が、秋には波うつススキの穂がなびき、冬には暖かい高原の日差しが心から歓迎してくれます。

<十国峠とは>

火が峰、日が峰、日金、丸山と呼ばれてきた山の一部で、何よりもこの名を高くしているのは、360度の視界をもつ広い展望です。昔から絵筆をもって、この展望を画こうと試みた人達も多かったようですが、この広さと美しさに歯が立たなかったと伝えられています。頂上からは十国五島が展望できるところから、この名がうまれました。

ちなみに<十国五島とは>

十国:伊豆・駿河・遠江・甲斐・信濃・武蔵・上総・下総・安房・相模

五島:大島・三宅島・利島・新島・神津島 という。

さらに進むと、伊豆と相模の国境(くにざかい)だ。熱海から三里(約12㎞)、箱根までは弐里

(約8㎞)である。富士山も真向かいに見える。

 雲をふむ箱根の山のみねにても猶(なお)雲の上に不二(富士)は見えけり

 間近に見る富士山の迫力は、すごい。もうすぐ箱根に到着。

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《玉くしげ》を読む【その12】熱海から箱根への旅立ち前日

 いよいよ熱海滞在も9泊目。そろそろ旅立たなくては・・・。まずは旅立ちの準備、宿の支払いや土産物の購入などもある。

4月24日P

朝雲り、ひるよりをりをり晴。心地すこしあしければ、ひるまでゆあみせず。「空あれば、明日なん、この宿をいでゝ箱根にゆかん」と、あるじにもつげ、遠州屋のもとへも、「しかじかなり。頼みおきたるつとのもの(みやげもの)、持てこよ」と、ひと(人)はし(走)らするに来らず。

 朝はくもり、昼からは時々、晴れ。少し気分が悪く、湯に入らなかった。明日、お天気なら宿を出て箱根に向かう。富士屋の主人に告げ、かねてから注文してあった遠州屋(土産物屋)にも、「つとのもの」を届けるようにと、使いを出した。しかし、遠州屋はやって来ない。

(「つと」は「苞」と書く。つつむといった意味で旅のみやげの意味)

 遠州屋が来たのは、申のとき(午後4時)で、明日、いよいよご出発とのことで、お忙しいのに遅くなってすみません。ちょっと店でトラブルがあったもので・・・。きけば、店に「ゆすり」の侍がきて居座っているという。言いがかりをつけて、小金を要求しているそうだ。うるさいからといって、その場しのぎに金を渡しても、再度、せびってくるだろうから、いっそのこと韮山の代官所へ訴え出ようと思っている。それからご注文の品物は・・・

 「つとのものは、品取りさだめ、帰らざるさきに日本橋万町村田屋と云うは伊豆舟の宿する家なれば、出しおくべし」と(遠州屋は)ちぎりて(約束して)かへる。

 熱海で購入した品物を、正興たちが江戸へ帰る前に、船便で先に江戸・日本橋万町(よろづちょう)の船宿「村田屋」へ送っておくという。宅配だ。この時代から便利なシステムがあったことは画期的である。

 さて、この日は夕方、いつもの魚屋がやってきて、珍しく「鯛」を持ってきた。もともと熱海には鯛が多いときいていたが、このところ海が荒れ時化(しけ)続きで、わずかに宿へ到着した日に小鯛を食べただけである。さっそく鯛を調理して食す。

 「明日なん立つべきといふけふもてきたるこそ、海神のたまものならめ」など興に入りて、少し酒もたべたり。(明日出発しようという今日になって、鯛がとれるとは海の神様のおかげだ。楽しくなってきたので、少し酒を飲んだ)

 そうこうしていると、宿代の清算のために、富士屋の主人がやって来た。いよいよ、あしたお立ちになるとは、お名残惜しい限りでございます。ぜひ、つぎの機会にもお来しください。お待ち申しております。さて、明朝、日金山(十国峠)を越えるとききましたが、おそらく山の霧が深く徒歩では大変かと存じます。よろしければ駕籠(かご)を頼んだらいかがですかな。というわけで、宿に駕籠屋の手配をし、湯あみも今宵ばかりとおもへば、つとめて入る

 立ちかへりまたも結ばんいづの山 あたみのさとのみゆの泉を

 海にきり(霧)山に雲たちいづのゆの あたみの里ぞくもりがちなる

 などと、口ずさみつつ、寝た。(「熱海(日金山)絵図:『旅行用心集』より、たろべえ加筆」

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《玉くしげ》を読む【その11】網引き、鯛網、紙漉(かみすき)見物

4月23日

朝はれたれども又くもり、雨をりをりふる。光興(みつおき)ぬしの、晴ま見て、徒然なるまヽに浜辺に行きて海づらながむるに、海士(あま:漁師)どもつどひきて網引(あびき)まうけするに・・・、B

 あいにく、雨が降ったりやんだりしていたが、晴れ間をみつけて、すぐ近くの浜辺に、光興が出かけていった。漁師たちが、網を引く準備中だ。どんな魚がとれそうなのか、尋ねてみたら、「雑魚」がたくさん群れている。この網引きの様子を正興にも見せようと、漁師のこどもを宿で待つ正興のもとへ知らせに走らせた。すぐにでも出かけたい正興であったが、供の男が出かけていて留守番がいない。やがて男が戻り、浜辺に駆けつけたが、時すでに遅く、網引き終了。収穫のあった雑魚を求めて帰り、宿で調理をした。油っぽい魚なので、煮あがりに「酢」を加えたら、やはり取れたてで、尾ひれも動くほどに新鮮だったためか、思いがけず、おいしかった。

 熱海では、湯治の合間に前浜に出て「鯛網」の漁や海女の鮑とりを見物することも、江戸では評判になっていた。たまたま、正興らは、この「鯛網」に遭遇する。

 播磨の国三草のさとしろしめす殿の母君とやらん、ゆあみに来給ひて、本陣渡辺と云うに旅やりし給ふが、鯛の網引かせ給ふときゝて、浜辺へ行見るに・・・

 本陣・渡辺屋に泊っていた、播磨三草藩主の母君が、有名な「鯛網」を体験した。この播磨三草(兵庫県)藩主は、おそらく第5代・丹羽氏賢(にわ うじまさ)。譜代(大名)で石高は1万石であったが、参勤交代をしない「江戸定府」の大名であった。その母君が、湯治にやってきていて、うわさの鯛網に行った。この「鯛網」は、現在でも広島県の鞆の浦では。「観光鯛網漁」として有名である。5,6艘の船で船団を組み、取り囲んで巻き網を使って「鯛」をとるもの。

Ahoo  しかし、おおがかりな熱海の鯛網は、どうも成果が出なかったようだ。実際に、30人近くの漁師(海士あま)が網を引くと、残念ながら長さが10㎝程度の「たなご」が4、5匹と雑魚」が2,30匹とれただけだ。そこで、正興は光興と、つぎのような会話をして笑う。

 鯛網にてたなご取たるは、鹿待山(鹿のいる山)にて狸得たるよりも本意なからまし

(鯛網で、「たなご」しか取れないのは、鹿のいる山で「たぬき」しか捕まえらとれないのと同様に、思いどおりには、いかないものだ)おそらくそんな意味だ。調べてみると、「たなご」はフナに似た淡水魚(?)で、唐揚げや焼いて食用になるそうだ。(見た目では、あまりおいしそうではない)※写真:Yahooきっず図鑑より

さらに好奇心旺盛な光興にすすめられ、二人は「本陣今井屋」へ出向く。今井家では、「雁皮紙」と呼ばれる高級和紙を作り、販売していた。その「紙漉(かみすき)」の作業工程を見学しに行ったのだった。

《雁皮紙がんぴし》は、落葉樹の低木「ガンピ」の皮の繊維を原料とした和紙。質は密で光沢があり、湿気・虫害にも強く、古来から「紙の王」と呼ばれ、珍重されているそうだ。鳥の子紙も同系統で、別名「斐紙(ひし)」。現代では、古文書などの修復にも使われている。熱海の雁皮紙は、原料に伊豆天城に生えていた「ミツマタ」も入れていたそうだ。

宿へ行きてあるじに逢い、紙もとめ、ものがたりするに、ともし火いだすにおどろき帰る。

和紙を買い求め、今井屋の主と夢中になって、紙談義をしていると、宿では灯火をつけ出した。時のたつのも忘れ、すっかり暗くなってしまったことに気づき、二人は急いで自分たちの宿へ帰るのであった。G

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《玉くしげ》を読む【その10】「熱海賛歌」

4月22日

暁より雨ふりて寒し。もちひ(餅)うる目ざし(こども)の、ふたりみたり、打ちつれて来る。もとめて、江戸よりもて(持て)行きたる茶にて、つれづれをなぐさむに、山水故、茶の味軽し。

 どうもこの日は、夜明け頃から雨が降ってきて、寒い。近くのこどもたちが二、三人、餅菓子を売りに来たので買う。所在なさを慰めるべく、江戸から持参したお茶を飲む。山水を沸かしたためか、どうやら茶の味が軽く感じられた。

 やるべきこともないので、携帯用の「旅硯(たびすずり)」を取り出して、長歌のようなものを書きつらねてみた。(「あたみ賛歌」ともいえる、流れるような長歌である。)

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伊豆の国熱海の里は、少彦名神のみことの、いさをしの今も残りて、草つゝみ病をいやすいでゆある賑ふ里と、風のとの遠どにきゝて行見んと、おもひたちはき、手束(たつか)杖腰にたがねて、小笠さへ手に取り持ちて、千はやぶる神村(光興)の君と、玉くしげふたり携(たずさへ)、草まくら結びてゆけば、武蔵野もいつしか過ぎぬ、相模なる酒匂川わたり、小田原の里よりをれて、しなてるや片浦づたひ、こゝろざすあたみにいたり、雪ふりつもる其の山(富士)を、家の名(富士屋)によび、いや高に作りたてたる高どのを、かり(仮)のやどりとしめおきて、ゆあみこそすれ、此(この)みゆ(御湯)は、あやしきかもよ、(略)

 感傷にふれたのだろうか、いままでの旅を振り返る正興。「ちはやぶる(神)」、「玉くしげ(ふたり)」、「しなてるや(片)」など、和歌の世界の《枕詞(まくらことば)》が多用されていて、リズミカルである。これに続き、「大湯」の有様を表現して、「熱海」の温泉のすばらしさを説く。

(略)朝夕にゆあみし居れば、霜氷る冬さむからず、土もさけ水さへ尽きる、夏の日の暑さもしらず、これやこの死なず老いせぬ仙人(やまびと)の住む里ならん、(略)うべようき世のうきことはしらぬ里かも、をの(斧)の柄(え)をくたし(腐らし)ゝためしおもひ出て、家路をだにもわすらえにけり。

朝夕、温泉に入っていれば、冬の寒さも感じない。灼熱の夏の暑さも気にならない。ここは、不死で年もとらない「仙人」の住む里に違いない。わずらわしいこと、いやなことの多い浮世とは無縁の里である。中国の故事にある、囲碁の対局を夢中になって見ていたら、斧の柄が腐ってしまったことにまったく気づかないほど、すばらしい土地で、自分の家に帰ることさえ、忘れてしまう。まさに「あたみ賛歌」である。P

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《玉くしげ》を読む【その9続き】うなぎ釣れず

 この日(4月21日)は、神社詣でと七湯源泉めぐりでは終わらなかった。

 作者の原正興(はらまさおき)は、帰り際、大湯の前から海に向かって、湯が流れ落ちる川を発見。行ってみると、何やらこどもたちが、この川で釣りをしている。きけば「うなぎ」が獲れるという。器用なこどもなら、二、三匹釣り上げて持ち帰るそうだ。そこで正興、さっそく針と餌を購入し、うなぎ釣りに挑戦した。Photo_5

つれづれのまゝに、はり(針)もとめ、石垣のまにまにさぐり行くに、おもひがけなき横のかたよりくひ付き、餌を失ひたり。又餌さしてやれば、こたびは石の間へ糸引き入れて針まで失せたり。(ほんの暇つぶしに、針と餌を求め、川岸の石積みの間に糸をたらしてみた。すると思いもかけず、ウナギは横から食いつき、まんまとエサを取られてしまった。つぎには、川底の石の間に逃げ込まれ、エサばかりか、針まで食いちぎられてしまった)

「せうと(兄人)の神(海幸彦)のとがめあらば、いかにせん」とたわぶれつゝかへれば、光興ぬしの待ち居りて「さちいかに」といふ。

(針や糸など、釣道具をなくしてしまい、「兄の海幸彦に叱られたらどうしよう」・・・などと、冗談をいいながら宿へ帰ると、光興が待ち構えていて、「山幸彦、釣果(成果)はどうだった?」ときく。「さち」は山幸彦のサチと幸運はどうだった、と掛けている)

しかじかとかたれば、「われも山の幸なければ、(山幸彦に)弓矢かへし奉らん」などわらひて、ともに湯あみし、けふも暮れぬ。

(かくかくしかじか・・・と語れば、光興は「私も山の幸をとってこれなかったから、山幸彦に弓と矢を返さなくてはなりませんな」と、笑った。二人で湯浴みをして、今宵も暮れていった)B

 

これは、日本神話で有名な「海彦、山彦」の話がネタである。

山幸彦が、兄の海幸彦と、お互いの猟に使う道具を交換して、魚釣りに出かけた。山で活躍する山幸彦は、魚の猟は苦手で、釣針を失ってしまう。そこで、針を探し求めるために、塩椎神(しおつちのかみ)に助けを求め、神の指示により龍宮城へ行く。そこで山幸彦は、海神(豊玉彦)の娘・豊玉媛(とよたまひめ)と出会い、結婚。探していた「釣針」ばかりか、「潮盈珠(しおみちのたま)」と「潮乾珠(しおひのたま)」(宝石?)を授かり、兄の海幸彦を屈服させることができたという話である。

 結局、この日は夕食のおかずがなかったのか、食事の記述はない。

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《玉くしげ》を読む【その9】そぞろ歩きの湯の街・熱海

4月21日

空晴れたれども、北風吹きて寒し。遠州屋来り、「例の挽物(ひきもの)の細工買い給へ」と云ふ。このをとこを案内にして、来宮(きのみや)へ行きてをがむ(拝む)。P

 またまた土産物屋の「遠州屋」がやってきた。商売熱心である。正興もこれ幸いとばかり、近くの名所・旧跡のガイドを頼むことにして、《来宮明神》(きのみやみょうじん)へ行った。観光地の土産物屋や物産店では、いまでも近くの寺社仏閣の案内をしてくれる。お伊勢さんや宮島などは、必ず店の従業員が、先導し説明までしてくれる。もちろん、案内後の土産購入が条件。Photo_2

H  来宮はJRの駅がある。高台で、かつては円筒形の「西熱海ホテル」があった。最上階の大浴場からの眺めは最高だったが、実際に泊ってみると、扇形の部屋で妙な気持ちがした。残念ながら2006年、夏に営業停止となった。ここ来宮は、「熱海梅園」にも近い。「あたみ梅ライン」道路は、十国峠(日金山)方向へ通じている。

 《来宮明神》は、現在の「来宮神社」である。ヤモトタケルノミコト、イケタルノミコト、オオナモチノミコトを祭る。本殿裏の楠の大木(国指定天然記念物)が有名だ。玉くしげに正興も書いているが「ひと木は十六抱えありと云う」。「抱え(かかえ)」は、人が両手を広げた長さであろうから、約1.5m。16を掛けて、楠の太さは約24mにもなる。

その後、道を下って現在の熱海市役所近く、《家光の湯治御殿跡》へ行く。熱海は、徳川家康が慶長9年(1604)湯浴みにやってきてから幕府直轄領になった。江戸から手頃な距離でもあり、湯治場として、人気を馳せていたことは、言うを待たない。そこで、寛永16年(1639)、家康を尊敬していた三代将軍・家光(大猷院:だいゆういん)は、熱海に湯治のための「御殿」を造営させた。おまけに馬の調教場も設けた。しかし、多忙のためか、家光がこの御殿に泊ることはなかった。現在の熱海市中央町で、わずかに「御殿稲荷」が残っているそうだ。正興が訪ねた当時は、「其のみ館の跡行きて見るに、畑となり、里人のふせ屋(小さな民家)なども有り。」とさびしい。家光は熱海に行くことはなかったが、以前紹介したように、その後将軍家は、この熱海の湯を江戸城に運ばせ、居ながらにして温泉気分を味わうことができた。

さらに、そぞろ歩きは、「熱海七湯」めぐりである。遠州屋の案内により、一行は「目湯」、「河原湯」、「清左衛門湯」、「甚左衛門湯」を見物。なかでも《清左衛門湯》(せいざえもんのゆ)についての記述というか、作者・正興の分析がおもしろい。

(清左衛門湯の近くにある)其の石をたたきて、「清左衛門ぬるし」といへば涌く也とて、案内のをとこ(即ち遠州屋の男、手代)其の如くするに、ごとごとごとと音して、しばらく有りてやむ。(略)呼びて涌くとはいへども、今涌くば跡(後)より来るひと呼びてもわかずと云ふ。されば、あながち呼びてわくにはあらじかし。をり(折り)ふしに涌く湯なれば、涌く前にをりよく呼ばば、答るごとくに涌くなるべし。

確かに、間隔をあけて湧出する温泉であるから、湧き出すタイミングに合えば、「清左衛門ぬるいね」と言えば涌くのである。お説ごもっともだ。

そして、最後は宿に近く、「大湯」の先の《湯前明神》に詣でた。現在の「湯前(ゆぜん)神社」である。ここは、全国の温泉神社の神で、医薬の祖といわれる「少彦名命(スクナヒコノミコト)」を祭神とする。現在では、2月10日と10月10日に「献湯祭」といって、江戸へ湯を運んだ御汲湯が再現されている。(熱海市上宿町4-12)Photo_3

《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたつ・いでゆ・みちのき)では、わざわざ湯前明神境内に建つ「碑文」を書き写して記載している。湯前明神の社伝と熱海の歴史である。

伊豆の国加茂郡葛見郷の地に温泉が湧き出し、海に流れ注いだ。これにより、この地を「熱海」と名付けた。伝わるところでは、天平元年(749年)少彦名命が童(わらべ)にとりついて曰く、「この湯を浴びれば、病は必ず治る」。なるほど、その通りでこの温泉には効果があった。そこで村人たちは、祠(ほこら)を建て、少彦名命を神として、丁重におまつりしたそうだ。

それから1,000有余年、徳川家康の来訪や家光の湯治御殿造営などがあった。自然に噴出する「大湯」源泉についても、そのシステムはすばらしい。この日本の国には、多くの温泉があるが、熱海ほどすばらしい場所は、他に類をみない。将軍をはじめ、諸大名、武士から庶民に至るまで、たくさんの湯治客が来る。かつては、烏や雉やうさぎが住む、こんな辺鄙なところでも、神のご加護のおかげで、すばらしい湯治場となった。

と、おそらく大意はこんな感じである。この碑文で「大湯」については、詳しく書かれているが、以前に紹介したので省かせていただいた。なんと、この碑は、明和七年(1770)、《富士屋》の当時の主人・石渡親由が建立したものであった。おそるべき富士屋。

(イラスト:たろべえ)

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【閑話休題】熱海の湯宿《富士屋》とは

 ここまで江戸時代の天保10年に書かれた旅日記、《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたついでゆ・みちのき)を紹介してきた。当時の江戸近郊の人気温泉地、「熱海」と「箱根」に湯治目的で旅する道中の様々な事柄を、時には和歌を入れて、あるいは豊富な歴史知識を彷彿(ほうふつ)させる内容でまとめた興味ある書物だ。

 すでに紹介したように、作者の原正興(はらまさおき)は、熱海では《富士屋》という湯宿に泊った。

 一行が熱海に到着し、宿を訪ねると、「住居の方(本館)は、あいにく湯浴みの人(湯治客)に貸していて満室ですが、向かいの家(宿)もわが家です。どうぞ、行ってみて気に入った部屋にお泊りくださいまし」と主人にいわれた。いうなれば、正興たちは、「別館」に泊っている。

 さらに4月16日から富士屋別館に旅装を解いたが、その日の記述に、「源泉の大湯からこの宿まで50杖(約150m)の距離」であることがわかる。また、同じ日の日記には、この宿の立地条件が推察できる表現が出ている。

B  障子ひらきて見わたすに、この高どの南東向きなれども、右に海を見はらし、正面は越し来る方の山、左は湯涌出るもとよりつゞきて山也。うしろも山なれども、こなたの山は遠し。

 二階からの眺望はというと、南東向き。右手に海(前浜)が見える。左手には、大湯があり、その先には山。おおむね、大湯近くの当時の温泉場の中心地で、前浜からあがる本通りの左側にあったと想像できる。

江戸初期、熱海の大湯を管理する湯宿(湯戸)は27軒であったという。いわば温泉の権利(株)をもつ「大湯温泉旅館共同組合」だ。そして、これらの湯宿のみ、将軍家御用の「御汲湯」がおこなわれていた。武士に近い名字帯刀も認められていたというから、ある意味では特権階級である。さらに、27軒の中には、今井家と渡辺家という、大名の宿となる「本陣」もあった。(参考:『江戸の温泉学』松田忠徳著、新潮社)

 この27軒は、その後、文政3年(1820)には、20軒へと減少。経営不振や買収などもあったのだろう。この文政以降、《富士屋》は、他の3軒の株を手に入れ、さらに他の湯宿を配下におさめていったようだ。

 しかし天保7年(1836)、大湯温泉場の中心部に火災があり、湯宿13軒が類焼した。(玉匣では旅当時の天保10年の3年前に焼けて、再建中とある)

さてさて調べてみると、この旅の時代とほど近い、文政3年(1820)の「熱海の本町通り」の絵図と弘化3年(1845)の温泉街の見取り図が、出ていた。なんと、富士屋を発見。本館は「富士や」、別館は「ふじや」と表記されている。(『熱海市史』白井通行著)※図はたろべえが修正した。

実際に視覚でとらえる《富士屋》の場所は、現在のニューフジヤホテル別館近くである。先祖は富士屋なのだろうか。(ちなみに、いまは買収され伊東園グループのホテル)

Atami31

Atami41

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《玉匣両温泉路記》を読む【その8】熱海「伊豆権現」と「走り湯」へ

 毎日、宿でうだうだしていても暇である。熱海滞在は湯治目的であるが、神仏におまいりすることも楽しみである。

4月20日

 朝起きて湯に入ること、きのふのごとし。遠州屋と云う、挽(ひき)ものうる家の手代来たりて、「江戸へのつと(土産)買い給へ」といふ。見るに手遊(てあそび:玩具)などには、目馴れざるものあれば、「帰るときにはもとめん」とちぎりて帰しぬ。Photo

 宿へ地元の民芸品を売る土産物屋の(この場合は店の営業担当)手代がやってきた。見本を見ると、こどもの玩具に珍しいものがあった。熱海を出るときに買うからと、約束して帰した。

(商魂たくましい)

さて、今日は晴れ、「伊豆権現(伊豆山神社)」におまいりして、「走り湯」(打たせ湯の滝)に行ってみようと決めた。昼食を早めに食べ、留守番に供の男を残し、出発。伊豆山へは、山道を十八丁(約2㎞)である。

正興と光興は、伊豆権現をさくっと参拝し、お目当ての《走り湯》へ向かう。湯守の老婆の教えに従って、大滝では「足よりうたせて、頭は後にせよ」。するとなんとも心地がよい。頭痛持ちの二人、頭が軽くなった。

「二人の病には、なんともこの打たせ湯は効くねえ・・・」と、言うと

同行の光興は「たった一度だけ、滝に打たせも頭痛を忘れるくらいだから、ここに住んでいる人には頭痛なんてないんだろうね」。

すると老婆が曰く「いやいや、そうでもないですよ。ここに住んで打たせ湯に当たっていても永年、頭痛に苦しんでいますよ」「それをきいたら、湯浴みに来た甲斐がないよ」と笑った。

(写真:「現在の走り湯入口」熱海市観光協会提供)Photo_3

 そのうち雲行きがあやしくなってきた。帰りは海辺の道を行く。このあたりは鮑(あわび)の産地であるが、釣り船の漁師もいる。

 「何か魚はありますか?」「いさきならピチピチの採れたてがありますよ」

と、いうわけで、《いさき》を4、5匹購入。このあたりの地名を「鳴沢(なるさわ)」という。

 いよいよ雲が厚くなり、いまにも雨が降り出しそうだ。急いで宿へ帰らなくては。

 とどろとどろ神の鳴沢うちこえてやどりをいそぐ夕立のそら

(「カミナリが鳴る」と地名の「なる」をかけてある。雷が鳴ってきた、急げや急げ)

この熱海からは、向かいに《初島》が見える。海岸から三里(約12㎞)離れているというが、近くに見える。

 夕立のは嶋にかゝる雲を見てみなはしり湯の宿いそぐ也

(嶋は「初島」のこと。夕立が来そうなので「走る」と「走り湯」をかけている)

 ともかく、なんとか宿に帰り着き、海辺で買った「いさき」を煮て食べた。おいしい。そのうち、雷が鳴り響き、大雨である。軒をつたう雨水は滝のようだし、宿の前の通りも小川になった。

よくよく運が良かったと喜ぶ二人。それにしても、いまにも雨が降り出そうというのに、悠長に歌など二首も詠めるものだろうか。

 夕刻、宿の主人がやって来た。そこで二人は、近郊の観光名所についてきいてみた。やはり、正興も武士である。源頼朝ゆかりの「蛭が小嶋」の場所を尋ねると、ここから山道を三里、北条の里にあるという。さらに、伊豆半島周辺の名所について、主人から教えてもらった。

 やがて。光興が風呂へ行く。ぬるいという。温泉をストックしている溜め湯もぬるい。本館の風呂にも行ってみたが同じこと。P

 「いかなる故ぞ」ととふに、(いったいどうしたんだい?)

 「先の雨強くふりたれば、かけ樋へ水入りて、いづこもいづこも水になりたるなり」

とて、あるじきたり、湯舟はらひ流し、

「酉のとき(午後六時)近ければ、程なく沸くなり。待ちて入り給へ」といふ。

「湯、もとの如くなりたる」と云ふに、光興ねしのゆあみして、

「先の寒さをとりもどしたり」と笑ふ。おのれも入りてふしぬ。

 

 大量に降った雨水が、樋(かけい)即ち、「木や竹など木製の溝形あるいは、筒状の装置」に入り込んだのだから仕方がない。それにしても午後6時ななると、噴出してくれる温泉(大湯)はすごい。「さっきの寒さを取り戻した」光興であった。

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《玉匣両温泉路記》を読む【その7】熱海「のんびり」滞在の日々

 正興にとって、熱海は湯治目的である。湯の里では「のんびり」して、旅日記の《玉匣両温泉路記(たまくしげ・ふたついでゆ・みちのき)にも単調な記載の日もあった。

4月18日

 空よく晴、風もなし。此里人は、朝起出ることをいそがぬにや、日ののぼりころ家ごと起て、朝げのけぶりたつる也。

 湯の里の人々の朝はゆっくりである。お日様が上がる頃になって、ようやく起きて、各家々から朝ごはんの支度をするかまどの煙が立ち昇る。まことにのどかな風景だ。やがて、湯宿の門があくと、12、3歳の少女たちが、泊客相手に、くだものや餅菓子などを売りに来る。

「田舎の習ひに、起ると先(まず)くだもの・餅のたぐひ茶受とてくひ、其の後飯くふ事也と云。」

(このあたりの習慣で、起きるとお茶受けに果物や餅菓子の類を食べて、その後朝食をとるらしい)sun

 今日は朝ごはんを食べて後、入浴した。宿の主人に「この湯は飲むことはできますか」と訊いてみると、「飲めますが、その人に合うかどうか。試しに茶碗に半分くらい飲んでみて様子をみてください」とのこと。実際に試してみると、「にが塩と云うごとくにて、のみにくし。薬ならば何ごとかあらんと、二口みくちのみたり。其時は胸少しあしき様なれども、程過れば腹もちよろし。けふも湯あみするのみにて暮ぬ。

 「飲用泉」の効果はいかに、だが、飲んですぐは、塩からく苦味があり胸がムカムカするが、別におなかの具合が悪くなるわけでもなかったようだ。湯浴みをして一日が過ぎた。

P

4月19日

 けふも空よく晴たり。道のつかれいでたるにや、ものうく、ひるも枕をとり、をりをり湯あみするのみにて暮ぬ。

 まあ、こんな日もあるだろう。どうやら江戸からの長旅の疲れが出たのか、何もやる気がせず、昼間から横になっていた。時々、お湯に入っただけで、特記事項なし。

 ところで、《玉匣》作者の原正興、同行の神村光興そして光興の従者の男の一行が滞在しているのは、湯宿《富士屋》である。この当時の湯治宿は、「自炊」であった。宿は湯治客にお勝手(台所)を提供した。茶碗や箸、調理器具は、無料で使えた。米や野菜、魚に味噌・醤油そして燃料の薪などは、毎回必要なものを「通帳(かよいちょう)」に客が書き込んでおくと、宿が調達してくれた。掛売りで、もちろん代金は、後日清算される仕組み。(参考:『江戸の温泉学』松田忠徳著、新潮選書)

 熱海は海が近く、宿出入りの魚屋がその日入荷したばかりの海産物を売りにきたので、正興らは、新鮮な魚介類を食べることができたようだ。旅にでると、宿はもちろん、昼食・夕食と食べることは、重要な関心事だ。

さて江戸時代、一般的には、朝に一日分の米を炊いたそうだ。朝食は、炊きたての白い飯に味噌汁。具は豆腐、しじみ、納豆など。昼食は冷や飯に、朝の残りの味噌汁をあたため直す。なければお茶や湯をかけて食べる。夜もおかずは、つくが、冷たいごはん。おかずは、野菜のおひたし、イモや大根の煮物または煮さかなといったところ。(参考:『江戸のご飯の食べ方』食文化史研究家・永山久夫「鈴廣刊:江戸時代の食風景」)

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《玉匣両温泉路記》を読む【その6】熱海滞在の日々

原正興らの熱海滞在は、4月16日からの9泊10日であった。上町の湯元《大湯》近くの湯宿「富士屋」に泊った一行の温泉場での日々が、また楽しく綴られている。

4月17日

朝霧ふかく立こめて、海山わきがたし。湯あみして後、飯たべ、辰のとき(午前八時)過ころ霧はれわたり、海のけしき、山のたゝずまへ。おもしろくおぼゆ。Photo

この日は近くの《大湯》見物に出かけた。大湯については、このブログでも1月22日付で紹介した。「熱海七湯」の代表格である。

【にっぽん 旅の文化史】《旅行用心集》の「熱海特集」

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_f3fa.html

 《玉匣たまくしげ》によれば、この大湯から温泉が湧出するのは、昼三回と夜三回で時刻は

卯(う:午前6時)、巳(み:保全10時)、未(ひつじ:午後2時)、酉(とり:午後6時)、亥(い:

午後10時)、丑(うし:午前2時)の刻、計6回だ。「間欠泉」であり、自噴泉であった。

 湯元に行ってみると、十間(約20m)四方が柵で囲まれていて、入口には木戸がある。中には青い小石が敷きつめられていて、湯が湧き出る口には、大きな石が並べられている。この湯の出る口の七八尺(約2m強)程前には、大きな石を積んである。湯のせいか、石は赤く変色したり、欠けているものもある。北側には、石の地蔵像や「南無阿弥陀仏」の石碑(僧・徳本の書)、小さな石燈籠がみえる。そばに高さ四杖(約12m)程の松の木が一本植えてある。湯が噴出して湯煙が立つ時には、このあたり一面見えなくなるほどで、石は欠けたりするが松には影響がないようで、緑の枝ぶりもよい。

 しばらく様子をみていると、そのうち地響きがして、「もうすぐ湯が沸くよ」と人が集まって来る。柵に近づいてみると、地鳴りがして湯が噴出し飛び散る。こどもが遊ぶ水鉄砲のようだが、そのうち湯の勢いが強くなり、湧出口前の石垣に当たる。まさに大筒(大砲)を打つ音のようだ。さらに地響きが強くなり、湯煙は数十杖(30m以上)も立ちのぼる。この情景は、たとえようもないが、「百千の雷一どに落かゝる如し」(たくさんのカミナリが一度に落ちるようだ)。しばらくすると、次第に音も静かになり、湯煙も薄くなり、噴出はとまる。世の中にはこのように不思議なこともあるものだ。

このように正興の描写は細かい。さて、「熱海市観光協会」の資料によれば、《大湯》については、明治中頃から噴出する回数が減り始め、末頃には止まってしまったが、関東大震災のときに再び噴出。しかし、その後も回数は減り続け、残念ながら昭和の始めにとうとう止まってしまった。昭和37年に人工的に整備され、市の文化財として保存し現在に至っている。

Photo_2 (現在の大湯 写真提供:熱海市観光協会)

 そして一行は、

 やどりへかへれば、浜より鮑(あわび)を持きたれり。もとめて、ふくら煮にして飯たべたり。けふも風吹きて、夜までやまず。湯あみしてふしぬ。

 鮑(あわび)の「ふくら煮」とは、身を殻からはずして、味噌、砂糖で煮る。シコシコした歯ごたえを残すため、あまり煮すぎないこと。ちなみに鮑には、グルタミン酸、グリコーゲンをはじめ、ビタミンB1・B2も含まれており、疲労回復、精力増強、動脈硬化、高血圧、視力低下の予防、肝臓機能の向上などによいとさている。なるほど、高価なわけだ。

 

Photo_3

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《玉匣両温泉路記》を読む【その5】小田原から いよいよ熱海へ

《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたついでゆ・みちのき)は、上州沼田藩の江戸上屋敷詰の武士、原正興(はらまさおき)が、残した天保10年(1839)旧暦、4月13日から5月9日までの27日間の旅行記である。二つのいで湯とは、熱海と箱根である。P

4月16日

空よく晴れ、風邪の心地もよければ、朝飯たべ、日出る前に此宿立出て行(く)に、彼の(かの)外郎(ういろう)うる家の前を過て

 本日は晴、昨夜の風邪もよくなったようだ。例によって日の出前に出発である。小田原宿でも有名な「外郎(ういろう)」の店の前を通った。(本舗虎屋)まだ開店前なのだ。ちなみに、この「ういろう」は、名古屋の有名なお菓子とは違い、別名「透頂香(とうちんこう)」といい、痰を切り、のどの渇きや口の中をさわやかにする漢方薬だそうだ。仁丹のような丸薬だ。(前日に買っておけばよかったのに)旅人の土産に人気であったという。

Photo

 小田原から熱海までは、海沿いの道だが、途中、山坂を登り下りで八里半(約33.6㎞)の道のりだ。いまなら熱海ビーチラインで海沿いの快適なドライブだが。さて小田原から早川を過ぎると、険しい山道に入る。話によれば、この山中、「山蛭(やまひる)」という虫が多く、木の上や地面にもいて、人が通ると吸い付いてきて血を吸う。

 「小田原にてかごやとひたらば、このうれひなからんものを」などつぶやきゆくに、見ぐるしき家よりひとりいできて、

「山けわしく蛭多し。かごに乗りて行給へ」と云。(山道は険しいし、蛭もいるよ。)

 小田原で駕籠(かご)屋を頼んでいればよかったのに、などと話していると、近くの民家から七十がらみの老婆が出てきて、なんとか駕籠を1台手配してくれた。正興らは、途中で交代しようと、光興を先に乗せ出発。自分は杖をつきつつ、草々を払いながら登っていく。すると、この駕籠かつぎの男がいう。

 「そんなに山蛭を恐れることはありませんよ。お天気が続いて道が乾いていれば、その虫も出やしませんよ」(老婆にだまされた。おそらく駕籠屋から紹介賃をもらうのだろう )

「さらば先に虫多しといひたるは、かご雇はせんためのはかりごとにて有けん」と、笑いあった。やがて「根府川(ねぶがわ)」の関所である。

 根府川は、箱根の関所の「脇関所」ともいわれ、小田原藩の管轄。しかし一行は武士であり、往来手形・関所手形を提示して、難なく通過し、吉浜で煮魚の昼食。山道を登り下りして、なんとか、「伊豆権現」を経て、「心いなみ、ことに下り坂なれば、足にまかせて行くに、ほどなく

熱海のさと(里)にいたる」(わくわくして、まして下り坂。足任せである)

 いよいよ、あこがれの熱海。湯宿《富士屋》に到着。本館はすでに湯治客で満室のため、向かいの別館へ案内される。この地は、おととし火災があり家々も数多く消失し、改築中で、富士屋も外装は、きれいになってはいるが、内装が途中で大工さんが作業中だ。

 さて「別館」は、二階建てで2階には、上部屋(10畳)・中部屋(8畳)・下部屋(8畳)があり、1階に調理のできる勝手(台所)がある。正興らは、中部屋を選んで旅装を解いた。

 いまでも旅館にチェック・インしたら(とりあえず、部屋でお茶でも一杯飲んで、浴衣に着替えて)まずは大浴場、温泉である。ここ富士屋の「湯殿」は・・・

 (湯)は七尺四方の箱にたゝへり。溜湯(ためゆ)と云は、九尺に三尺の箱也。湯場の中を仕切て、ひとつは五尺に四尺の箱なり。溜湯は仕切の下を通ひてひとつ也。沸出るもとより、この宿まで、五十杖も有べし。かけ樋にて引也。水もかけひにて椽先(たるさき)へ引、桶にたゝへたれば、清くいさぎよし。

Photo_2  湯船は2m四方の箱型。(一尺は約30㎝)「溜湯(ためゆ)」は、源泉の湯を樋(かけい)即ち、木や竹など木製の溝形あるいは、筒状の装置を通じて、満たしておく浴槽である。この溜湯の大きさは、2.7m×0.9m程で、二つに仕切ってある。源泉からは、五十杖(1杖は約3m)とあるので、150mほど引いている。この富士屋は、《大湯》源泉で90℃近い高温の湯であったはずだ。したがって熱いときには加水をし、ぬるくなれば、大きな柄杓(ひしゃく)で溜湯から湯を湯船に入れ、温度調節をする。(今風にいえば源泉掛け流し、天然温泉)

 主人に時間を尋ねると、「もうすぐ湯が湧き出るころで、未(ひつじ)の刻(午後2時)ですよ。

今朝、小田原から出発してお越しになったにしては、随分早いお着きですな。まあまあ、ひと風呂浴びて、お疲れをとってくださいまし」(社交辞令でも悪い気はしないもの。さあ風呂だ)

 風呂から出て、従業員にきく。「このあたりは、魚が多く獲れるときくが、どうなんだい?」

「海が凪(なぎ)で静かなときは、たくさん魚も獲れますが、このところ時化(しけ)が続いていますので少ないんですよ。でも、もうすぐ出入りの魚屋さんが来ますよ」

と、いうわけで魚屋から、無事熱海に到着記念日のお祝いにと「小鯛」を買う。光興が味よく煮てくれた。ごはんも出てきたが、何かもの足りない・・・そこで正興・・・

 「酒なからんはあまりに興なし。少しのみてよ」と光興ぬしの供の男にものすれば、燗して持来たれり。

 随分、早く酒の燗ができたねと、驚く正興。供の男いわく、宿の人に「酒かんするには、溜湯に徳利入れてものせよ」と教えられたそうだ。なるほど、「湯の徳は病をいやすばかりにはあらざりけり」

思いもかけない納得の、温泉の効用を笑う一行であった。

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《玉匣両温泉路記》を読む【その4】戸塚宿から小田原宿へ

4月15日

戸塚→(1里30丁・約7.8㎞)藤沢→(3里半・13.7㎞)平塚→(26丁・2.9㎞)大磯→(4里・15.6㎞)小田原(泊)Photo_2

この日は、戸塚の宿から小田原まで、距離で約10里(約40㎞)の道のりである。

まだ夜が明けきれない暁の「七ツ」(午前4時)に目が覚めた。いずこも寝静まっていて物音ひとつしない。

宵より暖かりしが雨ふり出したと見えて、軒端をつたふ玉水の音きこゆ。をりふし時鳥(ほととぎす)のなくをきゝて、ひとりごとに

 草枕雨おちそゝぐ暁にものおもへとやなくほとゝぎす

 夜が明けると、雨はやんだが霧が深く立ち込めている。朝食をとっているうちに、その霧も少しは晴れてきたようだ。そんなこんなで、うだうだしていると、「辰の時」(午前8時)になってしまった。驚いて出発する。チェック・アウトに際しては、宿賃のほかに心付けを主人に渡そうとするが、「受け取れません」というので、同行の光興(みつおき)が機転を利かして、「帰りがけに寄るから預かっておいてくださいな」と取り成して一件落着。また霧が出て、雨でも降られたら大変と、主人に駕籠を呼んでもらい、ようやく出発した。

 藤沢では、《遊行寺ゆぎょうじ》をみる。鎌倉時代に各地を放浪し、「踊り念仏」で知られる一遍上人が開いた寺だ。いうまでもなく時宗の総本山。正式には「藤沢山無量光院清浄光寺」 (とうたくさん・むりょうこういん・しょうじょうこうじ)というのだそうだ。正興は寺の伽藍や観音堂、鐘楼の立派さに感心すると共に、ここで出会った僧たちに驚く。

Photo

 上人はじめ僧たちのみ仏のみ前に念仏唱へて居つどひたり。いづれも木綿藤色の衣きて、僧のうちにも僧めきたる姿也。

 続いて一行は、平塚から大磯へ。曽我兄弟の仇討ち伝説にかかわる《虎御石》を見学。正興いわく、『曽我物語』には、この石のことは書かれていないそうだ。

 大磯の宿を行くと松の並木があり、《鴫立沢しぎたつさわ》と《西行庵》があった。もとより和歌に造詣の深い正興のこと、古来より伝わる「歌枕」の地は、はずさない。ここで、一行は西行の旅姿の木像に出会う。文覚上人(もんがくしょうにん)が鉈(ナタ)一本で作ったと伝わるが、「覚束なし」(どうもあてにならない)と切り捨てる。

  あはれさは秋よりさきにしられけり鴫たつ沢のむかし訪ねて(飛鳥井雅章卿)

 (もののあわれ、はかなさは、秋にならなくともわかるもの。西行法師が、その昔この地で感じたさびしさを想う)

 この卿も此庵訪(と)ひ給ひしと見えたり。西行ぬしの歌あればこそ、皆人の尋(たづぬる)ところとはなりけれ。(江戸時代前期の公家・歌人、飛鳥井卿も西行の庵を訪ねていた。西行法師の有名な歌があればこそ、歌枕の地として、風流人たちがやってくる)

 心ある人こそとはめ鴫たちしむかしの沢の跡をたづねて(正興)

(心ある人はどうか訪ねてほしい。西行が心を震わせた地、鴫が飛び立っていた昔の沢を)

かくなん読みけると光興ぬしにかたる。

 玉匣の本文には、これらの元となる「西行」の歌は書かれていない。詩歌に長ずる教養人の常識であったためか、正興は、あえて奥ゆかしく、載せなかったようだ。その一首とは・・・

 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)

 なんとなく人生に疲れ、特別に頼る人もなく、心もとないこの身でも、世の中のはかなさは、わかるもの。さびしそうに鳴いていた鴫が、飛び去っていってしまった、川のほとり。一層さびしさを増す、まさに秋の夕暮れ時。(たぶんこんな意味だと思う)

 正興の歌は、いうまでもなく飛鳥井卿と西行の一首を踏まえた「反歌」である。

【参考】

鴫(しぎ):チドリ目シギ科、およびその近縁の科の鳥の総称。海・干潟・川などの水辺にすみ、くちばしが長く、貝・カニ・ゴカイなどを食べる。約90種が南極を除く全世界に分布。シギ科の大部分は北半球北部で繁殖し、熱帯地方や南半球で冬を過ごす。日本では渡りの途中の春と秋にみられる。イソシギ・ダイシャクシギ・タシギなど。

《秋の季語》

(しぎの絵を紹介しているサントリーのHP)

http://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/1.html

 とんだ寄り道をしてしまった。さてさて一行は、共の男にせきたてられ、大磯を後にして、酒匂川(さかわがわ)を渡る。この川越は、人足の肩車に乗り、銭六拾弐文(62文だから約800~900円)だった。そして足の疲れもあり、休みやすみでようやく、この日の宿、小田原へ到着。まだ時間的には早いが、申のとき(午後4時)前には、《内田屋》に草鞋(わらじ)を脱いだ。疲れもあり、またいささか風邪気味で、宿に着くと、すぐ横になった。やがて夕食の膳が運ばれてきた。箸など食器も清潔で心地よい。(すぐ寝てしまった)

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《玉匣両温泉路記》を読む【その3】出発から戸塚宿まで

4月14日

江戸→高輪→大森→六郷川→川崎→鶴見→生麦→神奈川(横浜)→程ヶ谷(保土ヶ谷)→

戸塚(泊)

Photo  寅の刻(午前4時)起床。日の出前に上屋敷を出発した。高輪あたりまで、知人・弟子たちの見送りがあった。途中、鶴見では、沼田藩の先々代藩主・土岐頼布(よりのぶ)、「観国院君」が帰依していた《子生山東福寺》に寄り、観音様を拝む。

 かねてより、神奈川台にて休むと、光興ぬしとちぎりたることなれば、ひる過るころまでもの食わで、神奈川にいたる。

 あらかじめ、原正興(はらまさおき)は、同行の神村光興(かみむらみつおき)と、昼食は、たとえ遅くなっても有名な「神奈川台」の料理屋と決めていた。おそらく広重の《東海道五拾三次之内神奈川台ノ景》を見て、軒をならべる料理屋と船の浮かぶ美しい海の風景にあこがれていたものと思われる。ここ神奈川台の「桜屋」の二階で昼食休憩。魚を食べる。眼下には、白い帆船がいくつも行き交い、本牧の岬も見える。さて、正興は、酒を飲むが、光興は、まったく飲めない。仕方なく、彼は「光興ぬしの露ばかりものまざれば、おのれも酔うほどにもあらず。」

 程ヶ谷(保土ヶ谷)から権太坂を登り、戸塚へは下り坂だ。しかし、朝早くから歩き続ける一行。かなり疲れ気味だ。

 此坂にては光興ぬしもおのれも、きのふは宿に人々つどひ、馬のはなむけせんとて酒のみ、夜いたくふけていね、今朝とく起きて、九里あまりの道を来たりたることなれば、足つかれ眠けいで、いかにせんとおもふをりこそあれ、「戻り馬なれば、のりて行給へ」といふ。

 昨夜は遅くまで、壮行会をして寝不足気味。しかも江戸から9里(約36㎞)も歩いてきた。足が疲れ眠気も出てきたとろで、どうしょうかと思っていたところ、戸塚方面へ帰る馬方に会う。まさに渡りに船という感じで、「幸いなり」と、馬に乗るが、下り坂のため、馬のスピードも速く、揺れるため、落馬しそうになり、しがみつく。睡魔も襲ってきたが、なんとか戸塚の宿へ到着。

 東海道「戸塚の宿」は、江戸日本橋から10里(約40㎞)。通常、江戸から距離的にも1日の行程を終える宿場町であった。当時は旅籠が約75軒もある大きな宿場であり、山から下り、再び山への登り坂になるという地理的条件もあって、旅人はここ戸塚宿で、最初の宿をとることが多かったという。

 戸塚宿では、主人が松本十郎左衛門の《松本屋》に宿泊。まだ、日没前で日が高かったが、

こころよく迎えてくれた。快適な宿であったようだ。

 「足のべて労(つかれ)を休め給へ」と茶・くだものなどいだす。「湯もいできぬ」といふに、かはるがはる湯あみし、足の労もうせてこゝちよく、旅宿めづらしくこゝかしこ見るに、旅人の宿する家なれば、同じほどの間四ま五間ありて、見ぐるしからず。表方高どのも、旅人のまうけに作ると見えたり。

 まあまあ、足を伸ばして、お疲れでしょうからゆっくりお休みください。お風呂の準備もできました。替わりばんこで入浴すれば、足の疲れも消えて心地がよい。この旅籠は、見回してみると、同じくらいの部屋が4、5室もありて、なかなかよい。外観や建物も旅人を受け入れるようによくできていた。この《松本屋》は、現在も「酒屋」として、戸塚駅側に面して店を開いているそうだ。醤油の醸造業と旅籠を兼ねていた松本屋には、江戸時代に醸造に使った蔵が残っているそうだ。(参考:『決定版東海道五十三次ガイド』講談社)

 この戸塚の宿では、酒をすすめられるが、同行の光興(みつおき)は、下戸である。自分しか飲まないが、この旅に出るにあたり、「旅にては盃に五ツ六ツを定めとしたれば、酔うまでにはあらねども断りのばへ、盃はおさまりめし(飯)たう(食)べ、」まだ、日も暮れないうちに寝てしまった。

 旅行中、深酒はせず、(盃の大きさにもよるけれど)五、六杯でとどめるとは、よい心がけである。酒好きの正興(まさおき)、さて、いつまで続くか。それにしても、この時代の旅は早朝出発で早めに宿に着くのが常識。早寝、早起きの日々である。

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《玉匣両温泉路記》を読む【その2】旅立ち前夜

旅に出る前夜には、《馬のはなむけ》といって、旅立つ人の乗る馬の鼻を目的地に向け、道中の安全を祈る儀式があった。また農村・漁村・山村では、《サカオクリ》といって、旅の前夜に親戚・知人を招いて、水杯の宴を催し、無事を祈願した。出発当日は、家族や隣近所の者が村境まで送ってきて、酒をくみかわして別れを惜しむ風習があった。(参考:『江戸の旅』今野信雄著、岩波新書)

《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたついでゆ・みちのき)でも、旅立ち前夜からの「別れの宴」の様子が描かれている。作者の原正興(はらまさおき)は、50歳近くの武士であった。教養にあふれ、和歌に通じ、おそらく沼田藩上屋敷では、歌を教授していたようだ。Photo

う月13日(4月13日)

あすなん旅立んとちぎりたる日なれば、朝とく江戸見阪のみ館にゆきて、み掟(おきて)のまゝにことはり述ばへ、むつびたるかぎりしばしの別れをつげて、ひる過るころ家にかへれば、馬のはなむけせんと人々つどへり。江戸見阪のみ館よりも、をしへ子(略)きたりて、歌よみて別を惜しむ。

文中の「江戸見阪のみ館(やかた)」とは、正興が奉職していた「沼田藩藩主・土岐家上屋敷」で現在の東京都港区虎ノ門にあった。4,512坪という、広大な敷地であった。朝早く、上屋敷に赴き、仕事の引継ぎや長期休暇のあいさつをして、昼頃、自宅へ戻ったところ、餞別のため、人々が集まってきていた。その中には、上屋敷から和歌の道の教え子たちも来ていて、歌を詠んで別れを惜しんだ。

いづの湯のわきてしるしのありてふをとくかへりきてかたりませ君(包以)

箱根山こえゆく君の跡とめて心ばかりを我もやらまし(成房)

 伊豆の温泉の様子を早く帰ってきて教えてください。この他にも、無事に旅を終えて、お帰りくださいと歌うものが多い。確かに徒歩が中心の旅では、山や峠、川を越えて行く。言ってみれば命がけの旅である。おおげさな別れの宴会だと思うが、わずかに一ヶ月であっても、現代人の尺度とは違う。

 宴会が進み、酒の杯も回る。酔いにまかせて、誰かが、言った。紀貫之の『土佐日記』のように、和歌を認めて道中の日記を書いてほしい。今後の旅の参考にすると共に、何年か後に見て思い出となるように、と。そこで、みなに約束をし、《玉匣両温泉路記》を書くことになった。

 草枕結ばぬさきに草まくら結びてをゆく夢むすびけり

 まだ旅に出る前だが、これから旅に出る夢をみて旅心地だ、といったような意味だろうか。

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【にっぽん 旅の文化史】《玉匣両温泉路記》を読む

 江戸時代の旅日記で、《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたついでゆ・みちのき)という書物がある。東洋文庫の「江戸温泉紀行」に所収されているが、現在絶版のため、図書館以外では、あまり見ることができない。大変興味深い内容なのでここで紹介したい。

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 書名の《玉匣両温泉路記》は、漢文調でとっつきにくいが、当時、江戸からの湯治目的の旅行先で人気の「熱海」と「箱根」へ旅した日記でありながら、道中の観光案内書にもなっている。(両温泉:ふたついでゆは、熱海地区および箱根地区の温泉場のこと)

「玉匣」(たまくしげ)は、ここでは本居宣長が著した国学書ではない。和歌などに用いられる「枕詞(まくらことば)」である。玉匣そのものは、櫛などの化粧道具を入れる蓋(ふた)付きの玉手箱のような「箱」を意味する。したがって、この箱のフタと本体にかけて、玉匣とくれば、「二つ」とか「ふたり」、「ふた」にかかる(修飾する)。作者の旅立ちにあたって、趣味の歌仲間が、つぎのような一首を送ってきたことに、書名は由来するようだ。

玉くしげ箱根でふたり御全快またもゆあみのぎりの残らん(青木安総)

作者は、上州沼田藩(群馬県)の江戸上屋敷に勤める武士の原正興(はらまさおき)。当然ながら古今の書物や和歌にも造詣が深く、文章には教養やウィットがあふれている。

天保10年(1839)旧暦、4月13日から5月9日までの27日間の旅行記だ。(現代の暦に当てはめれば、5月17日から6月12日となる)

正興は、お殿様(譜代大名の沼田藩第9代藩主・土岐頼功:といよりかつ)に、湯治目的で30日間の休暇を申し出、許可される。この旅には、おそらく同郷の武士であった神村光興(かみむらみつおき)が同行する。(実際には、作者の原正興に光興と彼の従者の男の3名で旅立つ)、この旅の目的や記録を残す経緯について、書かれている本文の冒頭を紹介する。

■おのれ気にのぼる病ありて、頭いたみ眼に煩ふこと年久し。ある人、

「そこの病には、温泉に浴し、滝に頭うたするならば、たちまちにいゆべし。伊豆国なる水島の加茂郡 熱海の温泉、相模国箱根山の七処の温泉は世人のしる処なり。そが中に宮の下てふ温泉は、わきて気ののぼる病にいさおし有」

 原正興には、持病で「気にのぼる病」があった。頭痛がして視力が落ちてくる。長患いだ。おそらく高血圧症か糖尿病の類と思われる。この病には、熱海と箱根七湯の宮下の温泉が効くという。正興はこの頭痛に長い間、悩まされており、この年も「梅咲し睦月(一月)の末のころより例の病発(おこ)り」花々が咲き乱れる春の季節さえも、外出が億劫で家の中にこもりがちであった。いつしか木々の梢も若葉となり、暖かくなってきたので旅立ちを決めた。

 出発を4月に決めたのは、「橘(たちばな)かをる五月とならば、をりからの雨ふりすさびて、道行もわづらはしからん」と、雨の多い梅雨を避けたのだが・・・。(実は旅の間、雨が多い)

 旅の目的は、病気治療、「湯治」で、期間は「三廻り(三週間)」と決め、往復の日数を加え、30日間の休暇だ。しかし、旅に出たい本音は、「こたびは私の旅なれば、道すがらのおほみ神ををがみ、古き寺などをも見まほしくおもへば、」と、湯治に向かう途中で、神社・仏閣などの名所・旧跡を訪ねることも明言している。

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博物館《網走監獄》のおみやげ

 網走へ行ったら、以前の「網走刑務所」の建物を移築・復元した博物館《網走監獄》は、定番の観光スポットである。もちろん、北海道開拓のため、明治初年頃から、囚人たちが道路建設や飛行場建設のため、使役され、現在の礎(いしずえ)を築いたことは歴史の事実だ。

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 脱獄犯の興味深い話もここ網走監獄では、ボランティア・ガイドさんによって、おもしろおかしく語られる。見学者たちの「興味本位」は、別に否定するべきではないが、ことに真冬の旧刑務所を歩くと、満足に暖房もなかった、極寒の中で、長い冬をふるえながら過ごした長期受刑者の苦難を思う。もちろん、罪を犯した者たちにしては、当然の報いかもしれない、と大多数の人はいうだろう。

 そんな網走監獄のお土産屋(売店)で、ティーシャツが飛ぶように売れていた。黒いシャツには、「模範囚」、「指名手配中」、「執行猶予」などのロゴが大きく染め抜かれている。考えた人の発想には、感心するが、この刑務所ブランドのティーシャツを「軽く」

身に着けるひとの気が知れない。街を歩いている人の中にも、執行猶予中の人がいるかもしれない。家族に服役中の人がいるかもしれない。

 表現の自由かもしれない。でもどこかおかしい気がしてならない。

Vfsh0161 (写真:たろべえ)

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《旭山動物園》について考える

 旭山動物園は確かに魅力がある。東京から、全国から高い航空運賃を払ってでも、行きたい施設になった。大人が、行っても十分に楽しめる。しかも真冬の氷点下でも行きたいと思う。

 この動物園の「復活物語」は、ここ数年、テレビや雑誌で嫌というほど、宣伝されているから、知らない人はいないほど、人気動物園になった。

 自分自身でも二度、入園した。前にも書いたが、2年前に行った時の方が、園内で誘導するボランティア職員の方々が、親切だった。いまは、入園者が飛躍的に増加したためか、人をさばくので精一杯の様子。なんとなく動物たちも同じように、以前より人間たちに、観光客に「慣れた」ような気がした。

 この動物園に関する書物をいくつか読んだ。最初に手にしたのが、小菅園長の書いた『<旭山動物園>革命』(角川書店)。この本は、「夢を実現した復活プロジェクト」とサブタイトルがついている。どん底の状況から、アイデアを出し合い、「行動展示」の新しい動物園をつくっていく過程が熱意をもって描かかれている。一般社会にも参考になるようなビジネスモデルとして読んでもよい。

 『旭山動物園の奇跡』(扶桑社)は、「日本最北の弱小動物園が日本一になった感動秘話」とある。いまや『あらしのよるに』など、絵本作家と人気のあべ弘士(あべひろし)さんが、旭山の飼育係であった時に残した、動物園の未来像をかいた「14枚のスケッチ」の話も載っている。本書は、エピローグで「地道な努力を続けてきた旭山動物園の理念は、本物志向の現代になって、ようやく時代が追いついたのかもしれない。旭山動物園の奇跡は、まだ終わらない。」と結論する。写真もふんだんにあり、や各施設の紹介も丁ねいな本だ。

 いま読んでいるのが、『戦う動物園』(中公新書)で、旭山の小菅正夫園長と北九州の到津(いとうづ)の森公園(動物園)の岩野俊郎園長の口演や対談を、サル学者の島泰三がまとめたものだ。二つの動物園の「復活」への歴史が語られる。

 以上、最近のブログのコメントにお答えする形で、今回は書いたつもりだ。決して単純な思いつきで《旭山動物園》について語ったわけではない。実は、2年以上前から気になっていたネタである。

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