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【閑話休題】熱海の湯宿《富士屋》とは

 ここまで江戸時代の天保10年に書かれた旅日記、《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたついでゆ・みちのき)を紹介してきた。当時の江戸近郊の人気温泉地、「熱海」と「箱根」に湯治目的で旅する道中の様々な事柄を、時には和歌を入れて、あるいは豊富な歴史知識を彷彿(ほうふつ)させる内容でまとめた興味ある書物だ。

 すでに紹介したように、作者の原正興(はらまさおき)は、熱海では《富士屋》という湯宿に泊った。

 一行が熱海に到着し、宿を訪ねると、「住居の方(本館)は、あいにく湯浴みの人(湯治客)に貸していて満室ですが、向かいの家(宿)もわが家です。どうぞ、行ってみて気に入った部屋にお泊りくださいまし」と主人にいわれた。いうなれば、正興たちは、「別館」に泊っている。

 さらに4月16日から富士屋別館に旅装を解いたが、その日の記述に、「源泉の大湯からこの宿まで50杖(約150m)の距離」であることがわかる。また、同じ日の日記には、この宿の立地条件が推察できる表現が出ている。

B  障子ひらきて見わたすに、この高どの南東向きなれども、右に海を見はらし、正面は越し来る方の山、左は湯涌出るもとよりつゞきて山也。うしろも山なれども、こなたの山は遠し。

 二階からの眺望はというと、南東向き。右手に海(前浜)が見える。左手には、大湯があり、その先には山。おおむね、大湯近くの当時の温泉場の中心地で、前浜からあがる本通りの左側にあったと想像できる。

江戸初期、熱海の大湯を管理する湯宿(湯戸)は27軒であったという。いわば温泉の権利(株)をもつ「大湯温泉旅館共同組合」だ。そして、これらの湯宿のみ、将軍家御用の「御汲湯」がおこなわれていた。武士に近い名字帯刀も認められていたというから、ある意味では特権階級である。さらに、27軒の中には、今井家と渡辺家という、大名の宿となる「本陣」もあった。(参考:『江戸の温泉学』松田忠徳著、新潮社)

 この27軒は、その後、文政3年(1820)には、20軒へと減少。経営不振や買収などもあったのだろう。この文政以降、《富士屋》は、他の3軒の株を手に入れ、さらに他の湯宿を配下におさめていったようだ。

 しかし天保7年(1836)、大湯温泉場の中心部に火災があり、湯宿13軒が類焼した。(玉匣では旅当時の天保10年の3年前に焼けて、再建中とある)

さてさて調べてみると、この旅の時代とほど近い、文政3年(1820)の「熱海の本町通り」の絵図と弘化3年(1845)の温泉街の見取り図が、出ていた。なんと、富士屋を発見。本館は「富士や」、別館は「ふじや」と表記されている。(『熱海市史』白井通行著)※図はたろべえが修正した。

実際に視覚でとらえる《富士屋》の場所は、現在のニューフジヤホテル別館近くである。先祖は富士屋なのだろうか。(ちなみに、いまは買収され伊東園グループのホテル)

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