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《玉くしげを読む》【その23②】江戸への帰途(腰越、七里ガ浜から鎌倉へ)

 一行は、なおも歩き続ける。いまなら江ノ電に乗って、海を眺めながら旅する道だが。

腰越→七里が浜→日蓮のけさかけ松→稲村が崎→極楽寺(切通し)→御霊の社→長谷観音(初瀬観音)→大仏(鎌倉大仏)→若宮大路→段かづら→光明寺→補陀羅久寺→妙法寺→安国寺→常栄寺→妙本寺→雪ノ下 大沢屋(泊)Nn

汀(みぎわ)の波打ち際を、また貝・石などを拾ひつゝ、ゆくともなく腰越へ出たり。このさとは家、軒をならべ賑へども、多く漁をわざとすれば、家々にて鯵・鯖などを干魚にするかをりに、大路ゆく人も鼻をおほふ。満福寺は義経公の旅ゐし給ひし寺也。

腰越のあたりは、漁師町で、アジやサバなどの干物をつくるため、道端で天日にあてていた。このにおいに街道を行く人が、思わず鼻をつまむ。しかし、「腰越」は、源義経ゆかりの地だ。ここで足止めを食い、弁慶の弁明書状(腰越状)も役に立たず、ついに鎌倉へは入れず、都に戻った義経であった。

里はなれより七里が浜也。これは六丁壱里のつもりにて、六七、四十弐丁あり。今の道、壱里六丁也。

Photo 江ノ島のそばの小動岬(こゆるぎみさき)と稲村ガ崎の間にあるのが「七里が浜」である。鎌倉時代には6丁(町)が1里であった。6丁×7=42丁、江戸時代には一里は36丁であったから、「壱里六丁が浜」ということになる。

さて、極楽寺、御霊の社と見て。長谷の観音様を拝む。だが堂の中へ入ってびっくり。確かに大きい。薄暗い堂内では燈籠を二つ、下から釣り上げて、その明るさで十一面観音の尊顔を拝見した。私も実際に見たことがあるが、迫力を感じる。

続いて、いまでも鎌倉を代表する《大仏》である。

大仏へ行き、をがむ(拝む)。堂はなく、礎(いしずえ)斗(ばかり)残れリ。唐銅にて作りたる、座したる阿弥陀の像五丈、膝のさし渡(わたし)六間ありと云ふ。

Img_edited 「一丈」は十尺で約3mだから、大仏の高さは15m。膝の間は、「一間」が約1.8mだから、10.8mになる。鎌倉市観光協会によれば、実際のところ、「台座を含めて高さは13.35m、重さは約121トン」である。正式には高徳院「国宝・阿弥陀如来坐像」という。この当時も、大仏は屋外にあり、吹きさらし状態だった。

ここで一行は、大仏の体内に入った。背中に窓があり、内部は明るい。小さな仏がたくさん入っていたとある。大仏見物の後、近くの茶店で「大仏餅」なるものを食べた。どうも豆の粉が付いた餅で、おいしくなかったとのこと。

その後、(本当にこんなにたくさん行けるかなと思うが)数箇所の寺々を回った。

 

 妙法寺を見て雪ノ下へ出れば、日も山の端へ落れば、大沢屋と云う宿へとまり定めぬ。 湯あみして飯たうべて後、行きて八幡宮をがむ。

 この日は、鎌倉八幡宮のご近所、雪ノ下の大沢屋に宿をとった。さくっと入浴して、ささっと夕食後、定番の鶴岡八幡宮の見学に出かけた。

(

※広重「本朝名所・相州七里ヶ浜」、イラスト:たろべえ)

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