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2008年3月の28件の記事

《日本航空》が台湾へ飛ぶ

 旅行業で働いていると、世界的かつ歴史的な事件や出来事に出くわすことも多々ある。もちろん最近では、湾岸戦争やイラク戦争、9・11同時多発テロなど、日本からの海外旅行者数の激減という事態に陥ることもあった。

 ところで2008年4月1日から、「台湾」へ日本航空が運航する。正確にいえば、36年ぶりに復活である。日本と中国(中華人民共和国)は、1972年国交を樹立した。立役者は田中角栄総理と周恩来だ。これにより、「二つの中国はない」ともいわれた台湾(中華民国)と日本との間の正式な国交は断絶した。(もちろん、日本と台湾との商業的な付き合いは、亜東関係協会を通じ、継続されている)

 この日中国交樹立以降、日本政府は、国策として、台湾への定期便を日本航空系列の「日本アジア航空」を設立して運航させた。一般には、略称JAAだが、業界では

「EG」と呼ばれている。だから旅行会社に働く人は、日本アジア航空というより、この2レターコードで、たとえばEG201便とかEG203便といっていた。これが4月からは、JALになる。

 成田から台北へのフライトは、10時発のJL641便から始まり、毎日4便が往復する。日本航空では、台北運航開始(再開)に合せ、「2008年4月1日より台湾路線はJAL運航に。サービスもさらに充実し、より快適な旅をお届けします。」と銘打ち、

JAL/JAA統合記念JAL台湾通ダブルマイルキャンペーンをおこなう。4月から6月まで台湾線利用で2倍のマイルがたまるという。

 ところで知合いのお客さんが、たまたまこの3月末から台北に行き、帰りは4月のため、この歴史的なEG(日本アジア航空)とJL(日本航空)の両方を経験する。そのチケットを(もちろん若干、加工してプライバシーを保護したが)紹介しよう。Photo_4

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江戸時代にもあった《貸切風呂》

 

 江戸時代に書かれた箱根のガイドブック《七湯の枝折(しおり)》によれば、この時代にも『貸切風呂』があった。混浴があたり前の時代に、《幕湯》といって、「是(これ)は己(おのれ)入らんとする時、幕をはらせて余人をいれざるなり」と解説がある。つまり、浴室の入口に「のれん」のような布をかけ、他人を入れない「貸切」にしたことを意味する。By_2

 このブログでも紹介した「箱根芦之湯」の風呂に「小風呂」として描かれている。

“幕湯の時は此湯口へ のれんをかくるなり”と説明書きがある。これは、温泉場で湯宿の中にある「内湯」にではなく、宿の外にある総湯、つまり「共同浴場」の利用方法であった。たとえば芦之湯の場合、『七湯の枝折』にあるように、温泉場の真中にあった総湯の「小風呂」を貸切にしたい場合、各湯宿に依頼して、その宿の「のれん」を入口にかけ、ある一定の時間、使用したようだ。

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 ところで「貸切風呂」の料金だが、現代の温泉旅館では、おおよそ40~50分で2,500円から3,000円程度だ。もちろんカップルや家族での利用が多い。江戸時代の箱根では

『七湯の枝折 神習文庫本』に「七湯価附」(料金表)が記載されていて、「幕湯」は、

「一廻り(1週間)、金壱分」である。一両を60,000円とした場合、一分は1/4両だから約15,000円となり、1日あたり2,150円程度だ。となると、現代とあまりかわらない。

 参考にこのほかの料金について紹介してみよう。

○旅籠一人前(1泊2食付)・・・弐百文(約2,000円)※布団、浴衣含まず

○同一廻り(1週間)一人前(ただし布団代含む)・・・金壱分弐百文(17,000円)

○夜具代一廻り(1週間) 夜着(浴衣)・・・弐百文(約2,000円)

○  〃         布団・・・百文(約1,000円)

この他、朝夕の食事を自分たちの好きなものを調理する「賄い婦」を頼む場合・・・

一廻り(1週間)・・・四百文(約4,000円)

 江戸後期の旅籠代は、どうやら1泊、弐百文(約2,000円)という協定価格が決まっていたようである。

 さて、「貸切風呂」は他人が入ってこないわけだから、たとえば体にハンディキャップのある人がのんびり入浴したい場合などは、いまも昔も十分、便利であったと思われる。もちろん、高くてもよければ、現代は「露天風呂付客室」もある。

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《玉くしげを読む》【その26】川崎宿からなつかしの江戸へ

 川崎宿の旅籠(茶屋兼業)で、規模が大きいのは、万年屋、新田屋、会津屋、藤屋であった。とくに、万年屋は「奈良茶飯」、新田屋は「ハゼ料理」で人気を集めていたという。正興らは、最初、新田屋に旅装を解いたが、何か支障があり、「藤屋」へ移ったと記載されている。細かい事情は、記されていないが、おそらく自分たちより格上の武士が、あとから宿へやって来たので、仕方なく、一見自主的に部屋を譲ったのかもしれない。

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空よくはれたり。朝日子のひかりほのめくころ、この宿をいでゝ六郷川わたり、大森なる和中散の家、みところを過ぎて、鈴の森八幡のみ前にぬかづき奉り、品川も只いそぎにいそぎ、高輪にてしばしいこひ(憩い)、久かたの月のみさきのみ館のみ門の前にて、光興ぬしに別れ、宿りにかへりつきしは、午のとき(正午)前になん有りける。By

 

旅のラストである。お天気に恵まれ、まず、六郷川(多摩川)を渡る。大森では、漢方薬「和中散」(食あたり、暑気あたりなどに効く万能薬)の店の前を通過。(大森には和中散を売る店が3軒あったそうだ)さらに鈴の森八幡から品川へ。心が踊り、急ぎに急ぐ。そうはいっても「高輪」の茶店で休憩。いよいよ、住み慣れた江戸の町だ。沼田藩江戸上屋敷の門前に到着。同行の光興と別れ、帰宅。正午前であった。(イラスト:『江戸名所図会』「大森和中散」)

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 熱海、箱根、江の島、鎌倉そして金沢八景と回った旅は、終了した。この《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたついでゆ・みちのき)によれば、出発は4月14日であったから、実に25日間だ。宿泊地をふりかえってみると、つぎのようになる。

4月14日戸塚宿、15日小田原宿、16日~24日(9泊10日)熱海温泉、25日箱根木賀温泉、4月26日~5月4日(8泊9日)宮ノ下温泉、5日平塚宿、6日鎌倉、7日金沢八景、8日川崎宿。

 ところで旅の目的でもあった、作者・原正興の持病「気のぼる病」(高血圧、頭痛、糖尿病の類か)の湯治での効き目のほどは、どうだったのだろうか。転地療養ではあるが、どうも見聞や知識を広めるための寺社見物や名所・旧跡の見学、そして和歌の創作が、実際の目的のような気がする。いずれにせよ、二人の武士の機知に富む軽妙なやりとりは、読んでいて楽しくなってきた。

 また、「観光地」をさりげなく紹介する記述は、旅のガイドブックとしても十分に読める。この種の「旅日記」、「道中記」は、読み手が、居ながらにして旅を追体験できるところによさがある。作者の心の息吹が感じられるのだ。だからできれば、原文(古文)で読むことをおすすめする。

(出典:《玉匣両温泉路記》東洋文庫472『江戸温泉紀行』板坂耀子編、平凡社)

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《玉くしげを読む》【その25】金沢八景から川崎宿へ

5月8日

朝とく起きて見るに、雨風やまず。かれ飯たべなどするうちに雨も風もやみぬ。P

 朝早く起きてみたが、外は、まだ風雨であった。だが運の良いことに、朝食をとっているうちに、雨も風もやんだ。そこで、一行は宿の主人に「せっかくだから、八景を見物したいのですが、どなたか案内人を頼めますかな」ときく。「それなら一覧亭にのぼれば、八景はすべて見えます。一箇所づつ行くことはありません。よろしければ、宿の前の瀬戸橋に船を用意しましょう」と、いうことで、船に乗った。

 船岸に着き、展望台「一覧亭」に登る。そこの茶店では、女が八景をあれこれ案内してくれた。ところが、「月、雁、或いは雪など、其のをりに見るならば、けしき(景色)こと(異)ならましを、青葉しげれる時に“雪よし”といふも、ふさはしからぬ心地す」

 確かに、青葉茂れる初夏の時期に、秋や冬の情景を思い浮かべるというのも、どうかと思う。もともと、金沢八景は、もろこし(中国)から来た心越禅師が、この地を見て

(もろこしの)西湖(せいこ)に似ているとして、からうた(漢詩)をつくったことに由来するもの。「平潟の落雁」などは、いってみれば、汐が引いた海で貝を拾う海女のこどもが集まっているのを、雁にたとえたものだ。そうはいっても、よさそうなのは、

「瀬戸の月」くらいなものだ、となかなか手厳しい。

 

 さて、一覧亭をあとに、再び乗船。上げ潮のため、船は早く、巳のときの下り(午前11時)には、東屋へ戻り、早めの昼食をとり、出発した。瀬戸橋を渡り、能見堂に寄り、前へ進んだ。途中、梅の名所で名高い「杉田の里」も見ようかと思ったものの、茶店の主人が「いま杉田の里へ行っても、梅だか桜だかわからない青葉が茂っています。花咲く春においでになったらいかがですかな」と、いわれ納得。やがて保土ヶ谷へ。

 さらに、神奈川宿から生麦村を行く。行きしなに見落とした「浦嶋寺」に行ってみたが、誰もいないので見学できない。歩き続けていくと、川崎宿。夕暮れ時になってしまった。はじめは、宿の「新田屋」に入るが、不都合があり、「藤屋」に泊ることにした。

川崎から江戸までは、四里半(約18㎞)と近い。

(参考:楠山永雄氏『ぶらり金沢散歩』、イラスト:広重『江戸名所図会』「瀬戸橋旅亭東屋」より)

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《玉くしげを読む》【番外編】金沢八景

 延宝五年1673)、明(中国)から渡来した僧・心越禅師が、金沢の「能見堂」で、風光明媚なこの地を、『金沢八景』として、漢詩を読んだ。それを紹介しよう。

広重の絵図で見ると。視覚的で美しく理解しやすい。

「hakkei.xls」をダウンロード

州崎の晴嵐(すざきのせいらん)

州崎の松並木が強風・嵐で揺れて音を立てている様子

瀬戸の秋月(せとのしゅうげつ)

瀬戸橋のあたりから秋月を眺めた風景。

小泉の夜雨(こずみのやう)

金沢文庫の南を流れる宮川付近、夜の雨。

乙鮋の帰帆(おっとものきはん)

乙舳海岸に帰ってくる帆掛け舟の景色。金沢あたりの海岸が船の「とも」の形をしていたのでそう呼ばれたという。

平潟の落雁(ひらかたのらくがん)

平潟湾に雁が飛来する様。明治初期まで塩田で塩を焼いていたという。

野島の夕照(のじまのせきしょう)

夕日に映える野島の漁村の風景。

内川の暮雪(うちかわのぼせつ)

内川橋から鷹取山などの連山を取り入れた雪景色。

称名の晩鐘(しょうみょうのばんしょう)

称名寺から聞こえてくる鐘の音。(国の重要文化財)

※広重「金沢八景」は、横浜市金沢区役所提供

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《玉くしげを読む》【その24②】金沢八景の宿

 金沢《金沢八景》は、現在の横浜市金沢区である。江戸時代、寺社詣での旅で、江戸に戻る旅人は、この地で「精進落とし」をしたそうだ。芸子を侍(はべ)らせ、飲めやうたえの大騒ぎ、運がよければ、きれいなお姉さんと・・・といった按配(あんばい)。

 さて、金沢の街に入り、帰り支度の駕籠屋さんに道をきく。風雨が強く、どの家も戸を閉めていて、宿がわからないのだ。

「こっちが千代本で、隣が扇屋、左の家が東屋ですよ」と教えてくれた。東屋の玄関をたたき、店の者が出てきた。

「さあさあ、どうぞ。この雨の中、大変だったでしょう。ゆっくりしてください」

びっしょり濡れた雨具を脱ぎ、熱いお茶をいただくと、やっと人心地がついた。

店の前の水の流れを川と思っていた一行、ここが「入海」(入江)であると説明され驚いた。いまは引き潮なので、こちらへ流れているが、上げ潮には、逆の水の流れに

なるというわけだ。

「けふは朝より時こそしらね。何どきならん」といへば、

「まだ未の下り(午後3時)なれども、このさきは山道なれば、かごならでは越えがたし。其のかごだに、けふはなければ、早くとも泊り給ひて、雨やまば所の八景見て、明日とく程ヶ谷へ越し給へ」といふ。M

 まだ午後3時と早いが、この雨では、駕籠屋も呼べない。明日、雨がやんでいれば早くに金沢八景を見物して、保土ヶ谷へ向かう。ここは宿のすすめに従うことにした。

 ここで登場する「千代本」、「扇屋」そして「東屋」は、当時では有名な料亭(旅亭)で、いうなれば「割烹旅館」であった。『江戸名所図会』には、瀬戸橋と《東屋》を描いたものがある。(ちなみに千代本は「千代本楼」として現在も営業中である)

 此里は、広もの・さもの(大小の魚類)多くして、てうり(調理)も江戸にまされるとて、それがためにとひ(訪ね)来る人多しときけば、後の物語りの種にもなるなれば、

「酒出してよ」といへば、うを(魚)を作りみにして、もてきたれり。

 新鮮な魚が名物の金沢八景は、江戸でも評判であったようだ。話のタネにもなるので、さっそく酒を頼むと、刺身(お造り)が届く。(東屋では「鯛の生き造り」が評判)刺身の三切れ、四切れをつまみに、盃を口に運ぶと、夕刻を告げる「称名寺の鐘」がきこえる。これも、《金沢八景》のひとつだという。

「をりこそよけれ、雨ふる夜、この里に泊りたるは幸いなり。小泉(こずみ)にゆきて、この雨きかんはいかに」といへば、ひとりが、

「ともかくも心にまかせ給へ。我は能因ぬしの白川関にならひ、こゝに寝て小泉の歌よむべし」と笑ふに、「うべなり」とふぃしぬ。

 この「小泉の夜雨」も八景のひとつ。隠居して家にこもってじっとしていた能因(のういん)が、実際には行ってもいないのに、さも訪ねたように「白川の関」の歌を詠んだように、「小泉」にでかけなくとも、歌が詠めますと、笑う二人。それもそうだな、と納得して床に入った。 (幕末の金沢八景・瀬戸橋と東屋)

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《玉くしげを読む》【その24①】鎌倉から金沢八景へ

5月7日

辰巳の荒神の社→寿福寺→英勝寺→景清の土牢→海蔵寺→長寿寺→円覚寺→明月院→建長寺→(再)鶴が岡八幡宮→頼朝の墓→大江広元の墓→荏柄天神→一乗院→宝戒寺→大塔宮→朝比奈の切り通し→金沢八景(泊)

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 夏の夜(よ)の臥(ふ)すかとすれば、暁のかねに驚き、起出て朝がれ飯たべ、案内のをとこをたのみて、「きのふ見残したるかた訪ねん」と別れをつげて出。

 ついつい昨日は、月を見ながら語らい、長歌をつくり、夜更かしをしてしまった。今朝は、夜明けを告げる鐘の音で目が覚め、朝食をとり、案内人を手配して、「昨日、見残した所に行こう」と、宿をチェック・アウトした。

 この日の鎌倉見物は、鎌倉五山の名刹、臨済宗の《円覚寺》と《建長寺》ということになろうか。行ってみると、【秉払(ひんほつ)】という行事の最中で、思うように拝観はできなかった。(「ひんほつ」は、払子(ほっす)を手にとる意。「ひんぽつ」ともいう。禅宗で、住持が払子をとり、法座に上って説法すること。また、住持に代わってその資格のある首座(しゅそ)が説法すること。大辞林より)

 さて、円覚寺では、いまも伝わる国宝の「鐘」の記述がある。

 寺の左の山二十杖(約604m)ほど登りて鐘楼あり。この鐘は世にひゞきたる鐘也。

この鐘は「洪鐘(おおかね)」という。北条貞時が二度の蒙古襲来により、疲労していた国家の安泰と民の幸福を祈り、1301年に鋳造。「風調雨順 国泰民安」との刻印が施されている。通常なら、この鐘をつかせてもらえるが、この日は秉払(ひんほつ)で禁止であった。続いて、建長寺では、直径五尺(約1.5m)の「頼朝の陣太鼓」を見たとの記述があるが、私は見たことがない。現在では、この建長寺にも国宝の鐘がある。

そして再び、鶴が岡八幡宮へ。実朝暗殺の大銀杏を見る。歌を詠む正興。

鎌倉や鶴が岡べに亀がやつ千世栄ゆべき里にこそあれ

星月夜鎌倉のさとはあれにしを露ぞむかしにひかりまされる

 愉快なのが、続いて訪れた《荏柄天神》の別当「一乗院」での出来事。寺の宝物を見たいと頼んだところ、「こがね百疋(ひき)」を払うようにいわれた。正興らは、「宝物の真偽もわからないのに、そんな大金は出せない。たとえ名僧がつくった仏像などを見たところで、幸福になれるわけではない。我々は、刀を見たい。せめて白銀一朱を払うが、見せてはもらえないか」(通貨単位で「百疋」は、一両の1/4、一朱銀は一両の1/16である。一両を5万円とすると、前者は12,500円で後者は3,125円となる)結局、白銀一朱で寺宝の刀類を見せてもらい、主の僧は得意満面である。しかhし、寺を去りnながら、正興が、刀の目利きである光興に、評価をきくと、光興は、一言で片付けた。

「おぼつかなし」

 さて、一行は鎌倉を後に、朝比奈の切り通しを越える。上がったり下がったりのきつい道だ。しかも急に雨風が強くなってきた。ようやく、金沢(かねさわ)である。(広重「金沢八景」)

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《玉くしげを読む》【その23③】江戸への帰途(鎌倉の宿)

 二人は、夕刻から雪ノ下の宿(大沢屋)を出て、すぐ近くの「鶴が岡八幡宮」へ出かけた。三の鳥居を入ると、板橋があった。いまなら太鼓橋が目につくはずだが。さて、池を眺め、二王門、右に若宮八幡、左に愛染堂、鐘楼など。宝物館では、鎧や刀、鏡などを見たが、やはり有名な、束帯姿の「頼朝」肖像画に感心した様子である。Photo_2

 八幡のみ前より雪の下を見おろし、左に衣張山、右に源氏山など、はるかに見え、夕月のかげほのめくけしき、都のながめにことかはりてをかし。

 草枕結べばこそあれ鎌倉の鶴が岡べに月を見るかなM

 「鶴が岡」は、歌枕(昔から和歌が詠まれたゆかりの場所)になっている。

ここから見る夕月の姿が、美しく、江戸での眺めとは違って心ひかれる。大沢屋の二階からあたりを眺めると、この「雪の下」界隈には「旅人の宿する家」が集中していることがわかる。鎌倉は、江戸時代、伊勢詣や大山参りなどの旅に必ず組み込まれた、人気の観光地であったわけだ。

 宿では、たまたま襖(ふすま)をへだてて隣の部屋にも旅人がおり、月の光を頼りに、寝ることも忘れ、語りあった。正興らも部屋の窓辺の「すだれ」を上げて、美しい月を眺め、長歌を詠んでいる。鎌倉歴史物語といった歌で、「うつせみの人の世にあるなみこえて、さかりなるこそおとろへの初なりけれ」と平家の成立ちから始める。さらに源氏隆盛の話を歌う。江戸の武士たちにとっても、武家社会を築いた鎌倉幕府には、大いに関心があったわけである。さて、月も消え、通りを行き来する人もいなくなり、あたりもすっかり静かになった。「我もひとも夢を結びぬ」長い長い5月6日も終了した。

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《玉くしげを読む》【その23②】江戸への帰途(腰越、七里ガ浜から鎌倉へ)

 一行は、なおも歩き続ける。いまなら江ノ電に乗って、海を眺めながら旅する道だが。

腰越→七里が浜→日蓮のけさかけ松→稲村が崎→極楽寺(切通し)→御霊の社→長谷観音(初瀬観音)→大仏(鎌倉大仏)→若宮大路→段かづら→光明寺→補陀羅久寺→妙法寺→安国寺→常栄寺→妙本寺→雪ノ下 大沢屋(泊)Nn

汀(みぎわ)の波打ち際を、また貝・石などを拾ひつゝ、ゆくともなく腰越へ出たり。このさとは家、軒をならべ賑へども、多く漁をわざとすれば、家々にて鯵・鯖などを干魚にするかをりに、大路ゆく人も鼻をおほふ。満福寺は義経公の旅ゐし給ひし寺也。

腰越のあたりは、漁師町で、アジやサバなどの干物をつくるため、道端で天日にあてていた。このにおいに街道を行く人が、思わず鼻をつまむ。しかし、「腰越」は、源義経ゆかりの地だ。ここで足止めを食い、弁慶の弁明書状(腰越状)も役に立たず、ついに鎌倉へは入れず、都に戻った義経であった。

里はなれより七里が浜也。これは六丁壱里のつもりにて、六七、四十弐丁あり。今の道、壱里六丁也。

Photo 江ノ島のそばの小動岬(こゆるぎみさき)と稲村ガ崎の間にあるのが「七里が浜」である。鎌倉時代には6丁(町)が1里であった。6丁×7=42丁、江戸時代には一里は36丁であったから、「壱里六丁が浜」ということになる。

さて、極楽寺、御霊の社と見て。長谷の観音様を拝む。だが堂の中へ入ってびっくり。確かに大きい。薄暗い堂内では燈籠を二つ、下から釣り上げて、その明るさで十一面観音の尊顔を拝見した。私も実際に見たことがあるが、迫力を感じる。

続いて、いまでも鎌倉を代表する《大仏》である。

大仏へ行き、をがむ(拝む)。堂はなく、礎(いしずえ)斗(ばかり)残れリ。唐銅にて作りたる、座したる阿弥陀の像五丈、膝のさし渡(わたし)六間ありと云ふ。

Img_edited 「一丈」は十尺で約3mだから、大仏の高さは15m。膝の間は、「一間」が約1.8mだから、10.8mになる。鎌倉市観光協会によれば、実際のところ、「台座を含めて高さは13.35m、重さは約121トン」である。正式には高徳院「国宝・阿弥陀如来坐像」という。この当時も、大仏は屋外にあり、吹きさらし状態だった。

ここで一行は、大仏の体内に入った。背中に窓があり、内部は明るい。小さな仏がたくさん入っていたとある。大仏見物の後、近くの茶店で「大仏餅」なるものを食べた。どうも豆の粉が付いた餅で、おいしくなかったとのこと。

その後、(本当にこんなにたくさん行けるかなと思うが)数箇所の寺々を回った。

 

 妙法寺を見て雪ノ下へ出れば、日も山の端へ落れば、大沢屋と云う宿へとまり定めぬ。 湯あみして飯たうべて後、行きて八幡宮をがむ。

 この日は、鎌倉八幡宮のご近所、雪ノ下の大沢屋に宿をとった。さくっと入浴して、ささっと夕食後、定番の鶴岡八幡宮の見学に出かけた。

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※広重「本朝名所・相州七里ヶ浜」、イラスト:たろべえ)

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《玉くしげを読む》【その23①】江戸への帰途(江ノ島)

 江戸時代には「江の嶋」(江ノ島)も一大観光地であった。もちろん名目としては、江島明神への安産や家内安全祈願、江島弁天という琵琶を抱えた弁財天は、芸能、音曲関係者の信仰を集め、人気があった。(現在の江島神社は、明治以降、奥津宮・中津宮・辺津宮の三社からなるが、当時は、「上ノ坊」と「下ノ坊」に「岩本院(江島寺)」があったようだ)

5月6日

夜明けに平塚を出発。藤沢宿を通り、「西行の戻り松」や「日蓮の竜口寺」を過ぎる。やがて《江の嶋》で」ある。そろそろ腹も減ってきたようで、料理屋をさがす。

 左のかたなる恵美須屋と云う高楼にのぼり、昼の飯たうべたるに、広もの・狭もの出(い)だす。「この嶋は、うを(魚)多く、てうり(調理)もよろし」ときゝしにたがはざれば、酒なくてはことたりぬやうにおぼえて、いださせたれども、目あしければ、ひと銚子もつくさゞりけり。

 江ノ島の恵美須屋は、《恵比寿屋》といって、現在も営業中の老舗割烹旅館である。

昼食には、大小様々な魚料理が出た。江ノ島は、魚が多く、調理自慢だという、噂に違わず、おいしいので、思わず酒を頼んだが、あいにく目の具合が悪く、お銚子の1本も飲み尽くせなかったようだ。B

        恵美寿屋

        神奈川県藤沢市江の島1-4-16

        TEL:0466(22)4105

※(写真:恵美寿屋パンフレットから、外観と料理イメージ)

※『富岳三十六景・相州 江ノ島』葛飾北斎

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《玉くしげを読む》【その23①】江戸への帰途(江ノ島続き)

さて、一行は恵美須屋に案内人を頼み島内の見物に出発。「下の坊」、「上の坊」そして江島明神「御本社」へ。途中、貝細工を売る土産物屋が目につく。そして、いまでも名所である「岩屋の宮居(岩屋)」へ行く。ここは、長い年月をへて波の侵食でできた洞窟。興味深いのが、「俎岩(まないたいわ)」の近くでのこと。

 若き海士(あま:海女)の「海に入りて鮑(あわび)取り来らん」と云ふ。銭出せば、波をかづきて入、たちまちに鮑取来る也。

「水底の岩の間に、鮑を籠(かご)に入て隠しおき、銭出す多き少きにて取きたる」とかたる人の有しが、左(さ)も有るべし。

 なるほど、ありそうな話である。海女たちは、あらかじめ海底の岩間にカゴに入れた鮑を隠しておき、お客さんのリクエストで潜り、鮑取りの実演をする。それも金次第。商魂たくましい。おまけに、海女のこどもたちも、波間に泳ぎながら、小銭を要求する。まるで「鵜飼い」の「鵜(う)」のように。

 

さらに、名所「稚児ヶ淵(ちごがふち)」を見物。ここは実らぬ恋(同性愛)に失望した鎌倉相承院の稚児「白菊」が身を投げ、それを悲しんだ建長寺広徳院の僧「自休」も、後追いした場所だ。二人とも歌を残したと伝わる。

 白菊としのぶ里の人(僧)とはば おもひ入江の淵とこたへよ(白菊)

 白菊の花の情のふかき海に ともに入江の嶋ぞうれしき(自休)

 正興も歌を詠んだ。

 浅からぬひとの情けにふかき海のあわときえにし ちごをしぞおもふ

 あげまきの(幼い子の)跡をしのぶのさとびとも この世をうみのあわときえつや

恵美須屋へ戻り、預けていた荷物を取って、出発した。M

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《玉くしげを読む》【その22③】江戸への帰途(小田原から平塚へ)

 正興はいう。B

「おのれは旅路におそろしきこともなく、心のすさびなれども、よせてかへらぬとしの波こそ、中々におそろしけれ」といへば、光興ぬしの、

「そこばかりにはあらず。世の中に在りとあるひと、皆しかり。わきて、仕(つか)へするひとは、いそしき勤めに身をくるしめて、月花のあはれだに、よそに過ぐすもおほかるに、そこには、やど(宿)にありては、ふみのの林、ことばの園に遊び、出ては月花にあくがれて、野山をたどる。たのしとこそいふべけれ。世にいさをし(功)なきは、そこのつみにあらず。人は、おその翁と笑ふとも、何ごとかあらん」

 「自分は旅をしていても、特におそろしいこともなく、心に不安を覚えることもない。だが、自然に歳をとって老いていくことは、おそろしいものだ。」と、正興がいえば、友人の光興が答える。

「あなただけではなく、世の中のあらゆる人も同じです。中でも、お上に仕える人は、忙しい勤めに身をすり減らして働き、四季の変化や自然界の移りかわりの風情さえ、気づかずに、日々を過ごす人も多いものです。でも、あなたは、宿にいる時には、文学の林、ことばの園に遊び、旅に出ては月花など自然にあこがれ、野山をたどっている。それを楽しいというのでは、ありませんか。世の中に功績を残せなかったとしても、それはあなたのせいではありません。他人に『おその翁』(間の抜けたじいさん)と、呼ばれようとも気にすることはありません。」

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私は《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたついでゆ・みちのき)の中で、この部分に一番、共感を覚える。作者の原正興(はらまさおき)に年齢が近いせいもある。友人の神村光興(かみむらみつおき)の正興に対する評価や人生観というものが、この会話を通して素直に表現されていると思う。

別段、「風流人」を気取ることもない。だが、人は生きていて、まわりの四季の動きや花々、木々の色の、移りかわりに、何も感じないというのは、情けない。自分が老いていくと気づき、自らの弱さや限界、そして心の痛みを知ると、たぶん人の痛みもわかってくる。もちろん、毎日は忙しく過ぎて行く。「月花のあはれ」には、無縁なデリカシーのない人も実に多い。そんな中で「自分」は、違うと自覚していればよい。

会社勤めの人が、自分の際立った功績を残せなかったり、自分の能力を正当に評価されていないとしても、それは仕方がないことだ。そこで切り替えて、趣味を生かし、深みのある人生を送る生き方を選ぶことだ。薄ぺらの会社生活などでは、定年退職をしたら何も残らない。どうもこんなメッセージのような気がする。

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さて、この日は、平塚宿の脇本陣・山本屋に宿泊。たまたま平塚は、祭りの最中で、夜中まで街は、大騒ぎであったようだ。(宮ノ下温泉→約6㎞小田原→15.6㎞大磯→2.9㎞平塚)

平塚)

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《玉くしげを読む》【その22②】江戸への帰途(小田原から平塚へ)

 5月5日続き 小田原→酒匂川(川越え)→平塚(泊)

 小田原では、行きしなに買えなかった《外郎(ういろう)》を土産に購入。当時のこの店の模様が「東海道名所図会」にも残っているように、丸薬を売る「本舗虎屋藤右衛門」である。

 さて、小田原の宿場でも、菖蒲の花は見かけない。鯉のぼりは、所々で見た。宮ノ下温泉からここまで、わずかに三里半(約6㎞)の道のりだが、「心の駒のゆくにまかすれば、道はかゆかず」もうすぐお昼である。

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 小田原宿では、昼食場所をさがすが、なかなか営業中の店がなく、「尾張屋」で料理を頼むと、鮑(あわび)を煮て食べさせてくれた。 「この小田原は海辺なので、魚が多いと思っていたが、どうして少ないのですか」と、訊けば、

 「このあたりは、網を引いても、よい魚はとれません。ほかの港からもってくるので、時期によっては魚がないのです。人によっては、精進浦と呼ばれています。今日は端午の節句なのにお出しする魚もなくて、申し訳ありません」と、店の主人は、答えた。

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 続いて《酒匂川(さかわがわ)》を渡る。「川越」では、6人分の渡し賃を払い、正興と光興は二人で「蓮台」に乗り、四人の人足が担ぐ。供の男は、「肩車」で渡る。川を渡る際、右に海が見える。このあたりは、「歌枕」の《こよろぎの磯》と呼ばれる浜である。(小田原市国府津から大磯町)そこで、正興は、紀貫之の『土左日記』を思い出す。(日記の21日の記述)

 「むろの津を舟出しゝころ、波を見て、海ぞく(海賊)のむくいせんといふなる事を思ふうべに、海のまたおそろしければ、かしら(頭)も皆しら(白)けぬ。七十八十は海にあるものなりけり。

  わがかみとゆきと磯べのしら波といづれまされりおきつ嶋もり」

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 海に出れば、海賊に襲われる恐怖をはじめ、多くの困難が待ち受けており、船に乗る者は、心労で白髪になってしまう。すぐに老け、まるで70、80歳のような老人は、海に多い。

(私の髪と雪と磯に打ちつける白波、どれも白い)そんなことを思い出し、正興は自分の髪も白くなり始めていることに気づき、歌を詠む。

 かぞふればわがとし波も こよろぎのいそぢ(磯路、五十路)に近くなるにけるかな

(自分の年齢も五十に近くなってしまった)

 

はじめて自分の年齢を明かした作者の原正興であった。P

※東海道名所図会より、写真:酒匂川(小田原市)、イラスト:たろべえ

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《玉くしげを読む》【その22①】江戸への帰途(塔の沢から湯本)

5月5日

けふも空よく晴れたり。まだほのぐらきに起きて、かれ飯くひ、宿のあるじに別れつげて立ちいづれば、皆々門まで送る。あるじは、さとはなれ(里離れ)まで来たり、別れぬ。Photo

 いいお天気の中、宿の従業員の盛大な見送りを受け、一行は出発。主人は村はずれまで送りに来た。山道を行く。谷は深く、木立が青々と茂り、岩の間にしみ込む川の音がきこえるが、流れはみえな。峰に着くと、古巣に帰りついた鶯(うぐいす)の鳴き声が、春の名残を伝える。あちらこちらと眺めながら、大平台を過ぎる。やがて塔の沢(塔之沢温泉)である。

 塔沢にいたる。温泉ありて賑わふ。宮城野より流れいづる谷川、少し打ちひらけ、みなぎり落つる滝(たきつ)せに柴橋わたせるさま、絵のごとし。

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 塔之沢温泉である。この風景は、絵のように美しい。この橋を渡り、一里下れば、湯本(箱根湯本温泉)だ。湯本は、最近、火災があったらしく、焼失した家並みは、まだ再建されていないようだ。しかし、共同浴場は、大勢のひとで賑わいをみせている。やがて街道へ出た。(広重)

 

筥根(箱根)は石をたゝみたる道にて、ひとも馬もなづむ(馴染む)と聞きしに、野づらの青石敷きならべたれば、ひとつ高ければ、ひとつはひき

(低)く、うべ(諸)こそ行きなづむらめ。

 箱根の「石畳」の道と杉並木は、いまでも残っている。この道は、当初、「箱根竹」と呼ばれる竹を敷いていた。その後、江戸幕府は、雨や雪のあとの「ぬかるみ」で往来する人々が歩きにくいのを防ぐため、石を敷いた。小石と石でつき固めた地面の上に、石と石を組合せて並べ

た。しかも脇には、排水溝までつくった。これで、旅する人も馬も歩きやすくなっていた。

 挽物(ひきもの)の細工うる家にて休み、大路少し下れば、左に早雲寺あり。

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 寄木細工の店で休憩。まもなく北条氏ゆかりの「早雲寺」がある。

江戸後期には、湯本、畑宿など街道の村々では、当時「湯本細工」と呼ばれていた木地(木目)細工の生産が盛んになっていった。往来する旅人が増え、湯本茶屋では、挽物細工として「豆人形、豆独楽(コマ)、十二たまご」などの玩具が土産として好評だった。(参考:『箱根路歴史散策』岩崎宗純著、小田原ライブラリー、夢工房刊)

※『東海道名所図会』より、「伊豆屋」

 山坂下り終われば、程なく小田原の里也。

 まもなく、小田原である。

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《玉くしげ》を読む【その21②】そろそろ帰ろう江戸へ

 さて同じ、明日はチェック・アウトという前夜の出来事。この湯宿・奈良屋で、なんと光興の知人に偶然、遭遇した。江戸尾張町の料理屋「伊勢屋」の主人である。きけば、伊勢神宮に「神楽舞」を奉納する団体(講)の世話人になり、多くの人を連れて参拝した帰り道だという。おまけに隣の部屋に泊ることになっていた。P

 「お互い旅に出て、ふすまひとつ隔てて泊るとは、これも何かの縁ですな。さあさあ、今夜はとことん飲みましょう」ってな具合で、伊勢屋に誘われ、光興は、正興にも「一緒にどうかね」と、誘う。しかし、酒好きの正興ではあるが、患っている目の痛みが激しく、断った。

 「すむさとのおなじければ、わきてなつかしきに、君はなど『むらさきの一もとゆゑに』とはおぼさざる」

とうらみつゝ、別れいでぬ。

「むらさき」は、《玉くしげ》を読む【その19②】道了権現の帰り道 で取り上げた《紫草、むらさき草》である。和歌の道では、なんとしてもおさえておきたいのが、つぎの古今和歌集の一首。

 むらさきのひともとゆゑに武蔵野の 草は みな(皆)がら あはれとぞ見る

むらさき草が1本生えているおかげで、(その高貴な紫色が思い浮かび、おくゆかしく)武蔵野(=江戸)にゆかりのあるすべての草花に心がひかれ、いとおしく思う、こんな意味だろうか。

 したがって、酒の誘いを断った正興に対しての光興のことばは・・・

「箱根ではなく、われわれと同じ江戸に住むゆかりの人なのだから、特別になつかしいとはおもいませんか。(それをむげなく断るとは…)」

と、皮肉をいって光興は出かけていった。Syoubu2_2

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《玉くしげ》を読む【その21①】そろそろ帰ろう江戸へ

 箱根、宮の下(宮ノ下温泉)、奈良屋での滞在も1週間が過ぎた。思いのほか、雨も多かった。おかげでのんびりできた。近くを散策したり、道了権現にもおまいりした。

5月4日

けふも晴。明日は端午の節句にて、蝉の羽のうすき衣きることなれども、深山(みやま)のおく(奥)なれば、綿入たるきぬ(衣)ぬぎすてがたし。「都には菖蒲(あやめ)ひきて軒端(のきば)にさす。この里はいかならん」とおもふに、茅(かや)刈りて軒にさす也。Syoubu

 もう明日は「端午の節句」である。普通なら初夏となり、セミの羽のような薄い着物に衣替えの時期なのだけれど、ここはまだまだ肌寒い山の奥、だから綿の入った着物を脱げない。江戸では、菖蒲(あやめ)を軒の下に飾るのだが、この里は(菖蒲が咲かないためか、代用で)、屋根を葺く「茅(かや)」を飾っている。

 都にてあやめふく日を山ざとは をがや(茅)の軒に をがや(茅)さす也

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 都出て きのふけふとは おもへども あやめふく日になりにける哉(かな)

(江戸の都を出たのは、昨日、今日、つい最近のことだと思っていたが、いつのまにか、あやめを飾る季節になってしまったなあ)旧暦の5月4日は、いまの6月初旬である。

 我もひとも、かにかくに都のことのみおもふ。

 私(原正興)も人(神村光興)も、あれやこれやと都のことばかり考えている。話は違うが、私は、ここで使われた《かにかくに》(「あれこれと」「いろいろと」の意味)という、語句が好きだ。と、いうのも石川啄木の『一握の砂』の中にある、つぎの一節が、なんとなく胸にしみるのだ。

かにかくに渋民村(しぶたみむら)は恋しかり おもひでの山 おもひでの川

 さてさて、箱根は湯宿・奈良屋での一行は、光興の虫歯が急に痛み出し、湯治も滞りがちだ。一方の正興自身も、目の具合が悪い。どうもここの温泉の泉質が合わないのかもしれない。

「さりとて、玉くしげふたたび熱海へゆかんには、関(関所)あれば心にまかせず」

どうしようもないが、せっかく殿様(沼田藩の藩主・土岐氏)からいただいた長期休暇の日数には満たないが、このあたりが、潮時。明日にはこの宿を出発しようと決めた。

 主人に宿代の清算をし、朝と晩に食事の支度をしてくれた「賄い婦」には、世話になったお礼の心づけを渡した。P (イラスト:たろべえ、写真:茅葺き民家イメージ)

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《玉くしげ》を読む【その20】箱根で出会った絶世の美女

5月3日

空ははれ、きのふより時鳥(ほととぎす)しきりになく。この鳥は、くもり雨そぼふる日に、わきてなくなれども、この山は外はれても雨ふるなれば、はれたるこそめづらしく鳴くならめ。

 「ホトトギス」は、くもりや雨がそぼ降る日に、よく鳴く。Photo

 

さて、箱根の湯宿では、《酒匂川》が増水して渡れないため、思いがけずに逗留する人もいた。この川は、富士山の麓、御殿場を源流として、丹沢山地と箱根山の間の谷を抜け、足柄平野を南へ下り、小田原で相模湾へ注いでいる。宿場でいえば、小田原と大磯の間にある。したがって、酒匂川の水かさが増すと、「川止め」になった。帰る人も帰れないが、来る人も来られない。そうこうするうち、「昨日の昼過ぎに川止めが解除され」、今朝、宿を立つ人が多かった。また、やって来る客も多く、宮ノ下の湯宿・奈良屋は、また夕方にはにぎやかになった。

来たれるうちに、小田原の里にて家富栄え、さとの殿へ黄金の用つとむるをとこ(男)、きさらぎ(如月:2月)のころ江戸へ出て、今様うたふ女にちぎりこめて、携(たずさえ)かへりしをつれて、ゆあみにきたれり。G

小田原のお城に出入りする両替商の男が、2月頃、江戸へ出て、今様を歌う女性と恋に落ち、結婚の約束をし、故郷に連れて帰ってきた。そして湯浴みにきた。

「その女といふは、いにしへ、ろく原(六波羅)のみ館(平清盛の屋敷)をうごかし、時とめたる祇王(ぎおう)も寵(寵愛)うばわれたる、仏といひし女(仏御前)にもまさらん。筥根(はこね)の地獄にて、かゝる女菩薩を見ることよ」などかたるをきく。

宿に集う人々の話だが、これは『平家物語』の知識がないとわかりにくい。その昔、世の権力を欲しいがままにした、平清盛が恋をした「白拍子」の《祇王(ぎおう)》がいた。大変な美人であった。白拍子とは、歌い踊る遊女のことだ。やがて、若い白拍子の《仏御前》が、清盛の館へやって来た。当然、仏御前は、門前払いをさせられそうになるが、気のやさしい祇王のはからいで、清盛の邸宅内へ入ることを許され、清盛の前で踊りを見せた。すると、祇王に代わって仏御前が、清盛の寵愛を受けることになり、祇王は追い出されてしまった。屈辱にさいなまれ、祇王は、母と妹と共に嵯峨野へ行き、尼になってしまう。さらに御前も、また、罪の意識から尼になり、清盛のもとを去り、静かに余生をおくってという。_edited

この日、宮の下の奈良屋では、「平家物語の仏御前に、まさるとも劣らない絶世の美女」の話題でもちきり。「地獄で女菩薩に出会った」ようだ。さて、正興らは湯浴みをして、出ようとしたところ、小さなこどもの持つ灯りに案内された、この女が浴場に来た。

「ほら、あの人よ」「うわさの女の人かい?」客たちがささやくが、正興は目が悪く、薄暗い中では、よく見えない。混浴なのだが・・・。そこで光興に、品定めを頼むと、戻ってきた彼が言う。

「小田原のひと也。火かげにては疵(きず)こそ見えね、はこねのうちの玉なるべし」

といへば、

清き湯のそこに ひかりのうつれるは 誰(たが)箱根なる玉の姿たぞ

いたづらに心の駒やくるふらん ひとの結べるわかくさを見て

(自然に心がときめくほどに美しい。いまや人の妻となってしまった若い女性を見た)

 そして男二人、枕を抱いて寂しく寝ることにした。

※白拍子・祇王:北斎戴斗改為一筆

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《玉くしげ》を読む【その19②】道了権現の帰り道

道了権現に参拝した一行は、山道を下った。

 筥根山(はこねやま)木の根岩かどふみこえて のりの花咲く奥をたづねつ

 本当に道了権現(最乗寺)は、山奥にあったと感じたようだ。「のりの花」は、ノリウツギといって、山中で見かける低い草木。和紙を漉くときに「糊」として用いる。

 さらに、来た道を下るのだが、休み休み歩いた。やっと宮城野の里まで戻った。

 この野に紫草あれば、みやぎの(宮城野)の里人、この根を摘み取りて江戸へいだす。

(宮城野の野原には、むらさき草が育っている、里人はこの草の根を掘り出し、江戸で売る)Plateplantmurasaki06

 《紫草(むらさき草)》は、 50~60cmほどの草で、白い花をつける。紫色の根が重宝され、染料として用いられ、染め上がった紫は、とくに江戸では、人気のある「色」であったそうだ。「江戸紫」といい、粋な明るい紫色である。3月の卒業式シーズンに女子大生が、この色の袴(はかま)を着けているのを、最近よく見かける。

 また、「薬草」としても知られ、解熱、はれもの、やけど、凍傷、痔疾などに効能があるという。ところで、この「むらさき草」(単にムラサキともいう)が、和歌の世界では重要な位置を占める。このあたりは、のちほど。

 さて、宮城野の里の茶店で休憩。

Photo 宮城野の里に「きたり、くだものうる家にて又休む。この里の蕎麦(そば)は、信濃国の名ある里より出すよりも、味ひことなるよし。既にこの家にて、そばもうれども、麦かり田うゑするいそしきころなれば、やすめり。あるじの女の、

「前の谷川に山目と云ううを多く住めば、湯あみにきたたまへる都人も、それとらんとて網もてきてなぐさみ給へば、そばもまゐらする也。わどの(和殿)も日をさだめて来給へかし。そば打ちてまゐらせん」と云う。

 このあたりの里では、「そば」が名物である。信濃のそばより、うまいという人もいる。しかし正興らは、残念なことに食べられなかった。兼業農家の茶店では、この時期、麦刈りや田植えで忙しく、「そば屋」は休業中。女主人がいうには、「この店の谷川では、ヤマメがたくさん釣れます。湯浴みに来る都の人も、おそばを食べますよ。あなた様も日を決めて(予約して)おいでください。おそばを打って、お待ちしていますよ」

そして、この店の庭には《むらさき草》が、数多く干してあった。根を乾燥させるためだ。

宮城野はむらさき生ふる里ときへば 民草さへもあはれとぞ見る

(宮城野は武蔵野にゆかりのむらさき草の生える里だから、そこに住む人(民草)さえも、いとおしく心がひかれるものだ) 

この日は、これで宿に戻った。急いで温泉につかり、夕食をとった。Photo_2 (イラスト:たろべえ)

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《玉くしげ》を読む【その19①】道了権現(最乗寺)へ行く

5月2日

空はれて、ちり雲もなし。B

「明神嶽のあなた表に、最乗寺といふ寺あり。その寺に祭る処の道了権現は、江戸などよりも、と(尋)めくる也。小田原より六里あれども、この山こえゆけば三里あまりなれば、行く見よかし」

と、宿のあるじいへば、けふこそゆかめ。

久しぶりに快晴。宿の主人に近郊の名所《最乗寺》をすすめられ、一行は出かけた。小田原からは六里(約24㎞)もあるが、ここ(宮ノ下温泉)からは「明神岳」を越えれば、三里(約9㎞)ほどだ。そこで宿に案内人を頼み、おにぎりを持って、巳(み)の時(午前10時)に出発である。

 宮城野の里の茶店で休憩後、左に仙石原、姥子そして駿河の国へ抜ける道を左に見ながら、「きこりや狩人」しか通らないほどの大変な山道を登った。「よいしょ、どっこいしょっ」という感じで、片足づつ持ち上げるように登った。峰からの眺めは「小田原のさと(里)はるかに、海は只青く、酒匂川の流れは白く、ぬの(布)引はへたるごとし。」美しい。

かへり行くみやこのおほぢのみゆるにぞ 心の駒がたけもいさまん

(高い峰から、江戸へ帰る街道が見え、いよいよ心がたがぶっていく)

ここでも箱根の有名な「駒ケ岳」を掛けている。さて、この峰を行くと「大山」も近い。山を下っていくと、沢のきれいな水が流れ、手ですくって飲んでみると、冷たくて手が切れるようだ。ここには「山椒魚(サンショウウオ)」がすんでいるはず、と案内の男。水の中の岩の間に手を入れ、ささっと7、8匹捕まえた。「しばしのうちに、汗はうせて鳥はだとなれば、羽ばたきしてとび下りゆけば」道了権現の前に出た。(しばらくすると汗は消え、鳥肌になったようで、鳥のように羽ばたきして下った)

 《道了権現》即ち《最乗寺》は、江戸時代、道了権現信仰の「道了講」として組織され、関東を中心に東海地方にまで講が存在した。「大山講」や「富士講」の聖地とも近く、ここ最乗寺も、セットで旅の目的地とされ、人気を集めていた。旅日記『玉くしげ』では、作者の原正興も、つぎのような趣旨で、道了権現を紹介している。

 道了は最乗寺の僧であったが、人間離れした奇妙で怪しいわざをもつ「天狗」になり、神としてまつられるようになった。いまでも心から願い事を祈れば、必ずかなうとして、お参りする人も多い。そしてご利益を受けた人々が、たくさんの大小の、天狗の面を奉納している。

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 もちろん最乗寺は、いまでも有名な曹洞宗の名刹である。神奈川県南足柄市にある。山号は大雄山(だいゆうざん)、関東三十六不動霊場第2番。深山ゆえに、赤いもみじの紅葉のすばらしさは、たびたび旅行雑誌の巻頭を飾る。さて、何を思ったのか、この寺では、僧に

「どこから来られたのですか」と問われ、実際に住居のある、江戸ではなく、故郷の上州を思い出した正興は「上総の国より来ました」と答えている。どうやら、20年ほど前、上州は沼田の「舒林寺(しょりんじ)」で輪番(交代勤務)をつとめていたことが、脳裏をよぎったためだ。

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《玉くしげ》を読む【その18】堂が嶋へ

5月1日(五月朔日) ※ちなみに、旧暦では4月30日はない

空よくはれて、朝日子ののぼるをみれば、明神嶽のふもとに、ひかりほのめきたり。きのふまで雨ふりて、西東もわかちがたく、「鷹の巣山のかたこそ、日いづ(出る)らめ」とかたりしに、おもはぬ方にて出(いづ)れば、我もひともおどろきぬ。

「けふは堂が嶋へ行みん」と、光興ぬしと携(たづさへ)いで、三丁ばかり谷の細道下りゆけば、家ゐ五軒あり。堂が嶋の湯宿なり。P

 昨日までは、雨が降り続いて方角もわからなかった。やっと晴れ、日の出の方向を見て、明神岳が東であることがわかった。「今日は堂ヶ島へ行ってみよう」

堂が嶋(堂ヶ島温泉)も宮ノ下温泉のすくそばである。「底倉」、「宮の下」、「堂が嶋」は、同じ一里(ひとつの里)だと、正興も書いている。確かに同じ地域に集中している。『七湯の枝折(しおり)』によれば、堂が嶋には湯宿が五軒あった。奈良屋(六郎兵衛)、大和屋、近江屋、丸屋、江戸屋である。現在でも「堂ヶ島温泉」で有名な宿が《晴遊閣 大和屋ホテル》。宮ノ下から専用の「夢のゴンドラ」で旅館へ行くことができる。早川渓谷沿いの源泉掛け流しの和風旅館で、評判がよい。お忍びに最適な隠れ宿という感じだ。

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 さて、堂が嶋には、名所として「白糸の瀧」や「夢想国師の旧居」があるが、ここではふれていない。木賀地域から流れてくる谷川(早川)が、前を流れ、湯宿のうしろは、上から山が続いている狭い地域だ、と記述。

ゆやどのうらに細道のあれば、「こぞのしをりの道かへてまだ見ぬ方の花を訪ねん」などたわむれつゝゆくに、わが住宿の下へでたり。おもひしより近ければ、「里人はとなりと云うもうべなり」と笑ふ。

いわずと知れた《西行》の句である。(新古今集)

「吉野山 こぞのしをりの道かへて まだ見ぬ方の花を訪ん」

今年は、去年(こぞ)通って、木々の枝を折って道しるべ(枝折・案内)にした山道ではなく、まだ行ったことのない未知の場所の花をさがしてみよう、新しい出会いを求めて。

 宿に戻り、光興は案内の人を頼み、渓流釣りに出かけて行った。「故郷の利根(群馬県利根郡片品村)で釣りするのとは、勝手が違って」成果なし。しかし、同行した案内の男が「山目(ヤマメ)を三匹釣ってきた。海の魚より珍しく、さっそく調理をしてもらい食べた。Photo_4 (写真は晴遊閣大和屋ホテル)

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《玉くしげ》を読む【その17】望郷

4月29日

けふも雨ふる。ひる過ぎてやみたれども、雲は猶はれみはれずみ、神無月の空のごとし。つれづれなれば、われも人も歌よむ。G

 むさしのゝかたは雲だに見えざるに 箱根の山はむら雨ぞふる

(武蔵野・江戸の方角には、雲ひとつかかっていない。比べて箱根の山にはむら雨(にわか雨)ばかり降る

 雲かゝりくもはれ日にはいく度も 鷹の巣山(たかのすやま)のかはるけしきや

(雲がかかったり晴れたり、鷹の巣山は、その度に姿をかえるようだ)

 

箱根山雲ゐるみねに旅ねして 雨に泪(なみだ)に袖くたすらん

(箱根山の雲のある峰に旅寝をすると、さびしくて雨や涙で袖を濡らしてしまうもの)

 

箱根山あけくれおもふ都にも 明暮れま(待)たんかへりゆく日を

雨ばかりである。昼過ぎには、雨もやんだが、空はくもっていて、まるで10月の空のようだ。これは、4月29日の記述だが、「旧暦」だから現代では5月末頃だろう。することもなく所在無さに、歌を詠んだ。この4首は、正興と光興でつくったものだろう。

 そろそろ、望郷の念が出始めてきた。早く「湯治」期間が明けて、江戸へ帰りたいと。思うのであった。

 さて、雨上がりの午後、二人は近くの鷹巣山(たかのすやま)の麓(ふもと)にある神社にお参りした。熊野権現であろうか、詳しい記述はない。田畑の細い道を行くと、「底倉温泉」の上へ出た。そこに「挽物(ひきもの)細工」の店があった。寄木細工であろう。店をのぞいて、何か土産にするものはないかと物色してみた。なんと、「熱海」で見たものと同じ細工物だった。

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 この「寄木細工」は、当初《湯本細工》といわれていた。品物には「香盆」、「たばこ盆」、玩具、「茶せん」、「円盆」などがあった。いまでもそうだが、高価なものだ。(大量生産の粗悪品は、寄木模様の薄い木を張り合わせたもの)H0401_1

宿へ戻ると、主(あるじ)が、夕食用に魚を何種類か籠(かご)に入れて、届けてくれた。

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《玉くしげ》を読む【その16】雨ばかりで退屈な日々

P 4月27日

をやみなく雨ふる。午(ひる)どき過ぐるころ、神鳴(雷)、雨わきてつよし。挽物細工うる女、もちひ・くだものなどうる女、をりをりとふ(訪ねてくる)ばかりにて、けふもくれぬ。

 4月27日の全文である。カミナリが鳴って、大雨であったのだろう。のんびりするしかありません。箱根の寄木細工や餅菓子・くだもの売りの女商売人の相手をして、一日過ごしたというわけだ。

 「くだもの」だから、思い浮かぶのは、りんご・みかん・梨・桃・ぶどう・びわ・スイカ・ウリ・柿・栗・ぐみ・いちご・いちじくなどだろうか。(季節的には、春から初夏だから、なんだろうか)

4月28日

雨ふること、きのふのごとし。小田原の役人、宗門の改めとして来たり、この宿に泊るとて、奥の間に居たる湯客の、皆並びの坪(部屋)にきたれば、俄(にわ)かにゆすりみちたり(騒がしくなった)。

 この地域の「宗門(しゅうもん)改め」のため、小田原から寺社奉行が、手下10名ほどを連れて、奈良屋に泊りにやってきた。特段、宿泊客の取り調べではない。湯治客は、部屋を変更させられ、右往左往している。

 《宗門改め》は、いってみれば江戸時代の「戸籍登録」制度。最初は「キリシタン禁制」(キリスト教を禁止)のため、全国的に、幕府や諸藩が始めた。領民は必ず、どこかの寺の檀家となり、B その寺に登録しなければならない。これが「寺請制度」といい、家ごとに全員の名前、年齢、家族構成(続柄)、持高(収入)や牛馬など、家畜の数まで記入し、自分の属する寺の住職に檀家であることを証明してもらう。さらに庄屋、組頭がチェックして、代官、領主にこの届を提出した。どうやら毎年3月が、この登録の更新時期であったそうだ。寺は檀家に、本堂の改築等への寄付を檀家に募ったり、檀家が旅にでる時の「往来手形(通行手形)」を発行する役目があった。

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《玉くしげ》を読む【ちょいと寄り道】歴史の宿・奈良屋

 G 旅日記『玉くしげ』に記載されているように、原正興らは、宮の下(宮ノ下温泉)の湯宿《奈良屋》に滞在した。安永七年(1778)以前の創業と伝わる奈良屋は、江戸時代には、もちろん江戸周辺からの湯治客に人気の宿であり、諸国の大名たちも「本陣」として利用していた。その後、明治時代初期からは、やはり宮ノ下の「富士屋ホテル」と共に、横浜在留の西洋人や皇族にも愛された名旅館である。何よりも明治六年夏、明治天皇・皇后が箱根行幸の際、この奈良屋に24日間、滞在したことで、この宿は評判になった。

 実はこの「奈良屋旅館」は、つい最近まで営業をしていた。残念ながら、2001年5月にこの老舗旅館は、その300年に及ぶ歴史を閉じてしまった。当時のニュースでは、業績は順調であったにもかかわらず、莫大な相続税と財産分与問題で、売却せざるをえなくなったとのことであった。文化財に指定された建物や15,000坪の広大な庭園も消え、現在はリゾート開発の会社が、高級ホテルを建築中だ。

私は、建物の外観しか見たことはない。いま思えば、泊りたかったと、つくづく思う。さて、この宮ノ下温泉だが、いまでは「レトロな散歩道」といったキャッチフレーズが似合う。もちろん木造の洋風建築「富士屋ホテル」をはじめ、ちょっとおしゃれな喫茶店やイタリア料理店なんてのもある。だから、若い女性の二、三人グループを見かける。

しかし、江戸時代から続く老舗の旅館がなくなってしまい、大手リゾート開発の手に渡ってしまったのも時代の流れというしかないのだろうか。国の文化財に指定されると、修理や改築も思うようにはできないときく。それなら旅好きで、エステな女性たちに受ける現代的な施設をつくった方が賢いのだろう。これが現実なのだ。(イラスト:たろべえ 奈良屋旅館の写真からのスケッチ)

(参考:岩崎宗純『惜別 歴史の宿 箱根宮ノ下「奈良屋」旅館』)

 

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《玉くしげ》を読む【その15】宮の下の湯宿へ

4月26日G

雨猶(なお)やまず。ゆあみし、朝がれひたべ、雨ふれども、「宮の下へゆかん。かごやとひてよ」といへば。「宮城野までひと(人)やりてよべば、しばらく手まどる也」と云ふ。「さらば道は近し、かち(徒歩)にて行くべし」と、雨衣打きて、あるじに別れをつげ、立ち出るころは雨もやみぬ。

 またまた雨である。 木賀の湯宿・亀屋は、湯がぬるく、谷川(須川、早川)の流れがうるさく、しかも寝具には蚤(のみ)がいて、快適ではなかったため、1泊で切り上げることにした。

 雨のため、宿に「かご」の手配を頼んだが、宮城野まで人を出して呼びに行くため、時間がかかるといわれた。それなら、近いことだし、歩いて行くか、と雨具をつけて出発しようとしたら、なんと雨がやんだ。

 山道を登って行くと、中腹あたりで湯煙が見える。「底倉」(底倉温泉)である。ここも湯がぬるい。さて、「宮ノ下」まで、わずかに一里だ。

 奈良屋と云う湯宿につきたるは、午(うま)のときには早し(正午前)。此(この)宿は手広にて間数も多く、襖(ふすま)の絵にて「何の間」と云ふ。おのれらは其の続きの端のつかたに有る小座敷をかり、「紅葉間(もみじのま)」と云うに、付たる勝手をかりて、供のをとこはおきぬ。

 宮の下(宮ノ下温泉)では、《奈良屋》に滞在を決めた。到着したのは、まだお昼前である。ここ奈良屋は、当地でも一番、立派な造りで部屋も多いようだ。「紅葉の間」に旅装を解く。お供の男は、部屋付きの勝手(台所)に居させた。箸、薪(たきぎ)、炭などの所帯道具も熱海の湯宿と同様に、不自由なく準備されていた。風呂へ行く。浴室は、建物の棟続き、十間(約18m)ほど先にある。湯舟が二つ、滝湯(打たせ湯)もある。ちょうどいい湯加減だ。

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 この宿は熱海にことかわり、かなたにて義太夫ぶしかたれば、こなたには今様うたひ、耳かしましきまで賑わいぬ。熱海にても見もせぬ鰹(かつお)にて、かれ飯出したり。ひる過ぐるころより雨ふりてやまず。雲、軒端をめぐり、霧のまがき、ひとつの家のうちをもへだてり。

 

  きりをまがき 雲を軒ばのものと見る 箱根の見みゆ(御湯)の宿ぞ住(すも)うき

 熱海とは違って、義太夫や流行の謡いも聞こえ、賑やかな湯宿だ。食事には、海の近くの熱海でも、お目にかからなかった「鰹」が出た。昼過ぎ、また雨が降り出し、やまない。あたりは霧に包まれ、一軒先の家々さえ、(霧の垣根で)見えないほどである。風流である。

Photo (広重作、宮の下、イラスト:たろべえ)

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《玉くしげ》を読む【その14④】木賀温泉

 長い長い一日の4月25日も、なんとか木賀温泉に到着。「亀屋」に投宿した。B

 木賀は、宮城野の里のうちの字(あざ)也。谷の行きどまりにて、湯宿の三軒の外、家はなし。三軒のうち、わきて亀屋は手広なれば、湯客も多くつどへり。奥の八畳のひとまをかりて休むに、火鉢に炭火つみてもてきたれり。

 「亀屋」が一番大きな宿でお客さんも多かった。この時期なのに冷えるだろうか、宿の人が暖をとる火鉢を持ってきた。そのうちに雨が降り出し、やはり寒くなってきたので、火に手をかざした。つぎに湯に入るが、ぬるい。夕食が運ばれてきた。こんな山の中なのに「海のもの」が出た。(興ざめだ)それからこの湯宿の前を谷川が流れていて、雨で増水したのか、川音が非情にうるさい。宿では「マムシ」が出たと大騒ぎ。雨はいよいよ強くなり、谷川の音もひびき、この山里の夕暮が、どうも身にしみてせつなくなってきた。

 日が暮れてきたので、再び湯浴みをする。風呂に行くと、湯船が狭く感じるほど、男も女も入浴していて大混雑だ。話をすれば、ほとんどが江戸からの湯治客であった。

 宮城野や木賀のいでゆの滝の糸にひかれてぞくるよもの国人

 そんな歌を口ずさみ、夢を見ようと寝床に入った。ところが「蚤」が多くて熟睡はできなかった。やれやれ、この宿は、正興一行には、最悪であったようだ。

さて 『旅行用心集』によれば、木賀温泉の効能等はつぎのとおり。Col01_kiga01

効能:手足の麻痺、筋骨の痙攣(けいれん)、頭痛。痰づまり、打撲、肉離れ、くじき、通風など。〔単純温泉・アルカリ性単純温泉 神経痛、関節痛、冷え性〕

 木賀温泉の湯宿三軒には、それぞれ温泉に名前がついていた。須川の橋を渡った奥の亀屋には「上湯」、柏屋には「大湯」と「菖蒲の湯」、そして仙石屋には「岩湯」があった。お湯の熱さは、岩湯が一番熱かったようだ。幕末や明治初頭の木賀温泉の写真から想像し、この湯治場の湯宿の配置をイラストにしてみた。広重の描いた「木賀」の様子とは、かなり違う。(これは広重が、かなりデフォルメしているためだ。)

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《玉くしげ》を読む【その14③】芦の湯

 爰(ここ)を過ぎ行くば、程なく芦の湯也。湯宿六軒有。松坂屋と云う、中にも手広きさま也。湯は硫黄にてくさし。湯の坪をみるに、ゆ桁(けた)に硫黄つき、湯濁りて見ゆ。B

 元済河原(もとさいのかはら)を経て、一行は《芦の湯》(芦ノ湯温泉)に到着。湯宿は、有名な「松坂屋」、「紀伊国屋」をはじめ、伊勢屋、大和屋、亀屋、吉田屋があった。このうち現在でも「松坂屋(松坂屋本店)」と「紀伊国屋(美肌の宿きのくにや)」が営業している。泉質は単純硫黄泉で、正興がいうように硫黄の成分で湯は青緑色だ。

 芦の湯の効能については、以前このブログでも紹介したが、参考に引用しておく。(『旅行用心集』より、カッコ内は箱根町観光協会提供の現在の泉質と効能)

○芦の湯(芦之湯)温泉:底倉より一里十六丁(約5.7㎞)

効能:脚気、筋肉の麻痺、結節(皮膚や内臓にできる,小さくてまるいはれもの)、わきが、寝小便、淋病、切り傷、

〔単純硫黄泉(硫化水素型)・単純温泉 神経痛、関節痛、動脈硬化〕

 この温泉場の「総湯」(共同浴場)の絵図が残されている。《芦の湯風呂内の全図》という。浴室は4つあり、ややぬるめの「底なしの湯」、ふつうの温度の「中の湯」、熱めで、いまでいう貸切風呂になる「小風呂」、そして「大風呂」である。うしろの2つは、加水もしていない「源泉掛け流し」だ。中の湯は、入口に湯宿の「のれん」をかけておくと、他の人は入れない仕組みであった。また、ここ芦の湯は、性病等にも効能があり、芸子さんや花町の女たちも湯治に訪れており、なかなか華やかな雰囲気もあったという。

もともとこの時代の湯は、混浴であったから、手拭い一つで体を隠す「おくゆかしさ」もあった。最近は、テレビの旅番組の影響で、有名温泉地の露天風呂に、若い女性がバスタオルを巻いて入ってくることがあるが、どうも興ざめである。(宿が黙認しているのか、秋田の鶴の湯でこのバスタオル女を何人も見たが、タオル1枚のこちらが恥ずかしくなって、なかなか出られなかった)

 さて、正興らは、ここ足の湯では、持病の「気にののぼる病」には、効力がないと聞かされ、先を急ぐことになった。つまり、芦の湯には泊らないことにしたわけだ。

 急ぎ山道を行く。足もとより雲起こり、雨ふりくべき空となれば、いそふぃ行くに、小鹿壱つ来たり、おのれを見て横ざまに草がくれ(隠れ)ぬ。

 鹿を目にするくらいだから、まだまだ山の中で里は遠いのだろう。雨が降ってきたら大変だ。と、いう調子で宮城野の里へ。それから、なんとか申のときの下り(午後5時頃)、《木賀》(きが)に到着することができた。木賀温泉では《亀屋》に宿をとることにした。

(資料提供:芦之湯、松坂屋本店、参考:『七湯の枝折』箱根町立郷土資料館)

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《玉くしげ》を読む【その14②】箱根権現の大釜

Photo_9  湖畔には有名な《箱根権現》、いまの箱根神社がある。近くの店に案内(ガイド)を頼み、一行は昼なお暗い杉並木を抜け、鳥居の前へ行く。この鳥居前に「さし渡し四尺ばかり」(直径約1.2m)ほどの大きな釜が二つ置いてあった。「この大釜は、源の頼朝公が富士野に狩りにきたときに使ったものです」と、案内の娘は説明する。疑い深い正興、この釜に彫ってある年号を見て、後年の作と判断。江戸の町で、よく見かける防火用の「用心水」を入れる釜だと記している。

 この大釜については、《江戸の枝折》にイラスト付きで詳しく解説されている。

湯釜の説 右湖水の際(きわ)、筥根権現華表の左之方に大釜二口有、つたへいふ源頼朝富士の御狩之時の陣釜と、いつれにも古物と見ゆる

Photo_10 釜の周囲に銘が彫られていて、「文永五年(1268)」とある。(もう一つは後年の調査で制作年代は弘安六年1283)頼朝の巻狩りは、「建久四年(1193)」で、80年近くも年代が違う。さらに一説には、太閤秀吉が小田原征伐に向かう折、陣中で兵糧炊き出しに使った釜と伝わる。しかしながら「小田原の陣」は「天正18年(1590)」で、これも大きく年代が違っている。日本各地でも同様だが、歴史的な事実にかこつけて、おそらく観光客を呼び、一儲けしようという輩(やから)がいるのも事実である。

さて、正興一行は、さらに道すがら《曽我兄弟》の五輪塔を見て、歩き続ける。まず目指すは、《芦之湯》温泉である。

箱根山 関のむらすぎたれど けぶりも見えず 芦の湯の里

駒いそげ 関はこゆとも宿とほし 冠がたけに ひもかたぶきぬ

この一首では、いうまでもなく、「駒ケ岳」と「冠ケ岳」の山を取り入れている。自分たちを、将棋の駒のようにたとえているのもおかしい。さて、途中、湖で採れた山椒魚(サンショウウオ)を串にさして土産で売る店があった。詳しくはわからないが、焼いて食すと珍味であり、漢方薬として、解熱作用があり、小さなこどもの癇癪に効くらしい。そういえば、私も栃木県の湯西川温泉や福島県南会津で、小さな「サンショウウオ」を食べたことがある。あの奇妙な形が苦手で、しかも苦味があったようだ。味は覚えていないが、おいしいものではない。

湖畔からは、坂道が続く。二子山の横、さびしい道が続く。いまでも箱登山鉄道の路線バスで、芦ノ湖から芦之湯、小涌園前、宮ノ下温泉へ行くと、このあたりの景色はものさびしく、おそらく昔とかわっていない。Photo_11

二子山を右に見て、夏草しげる細道わけつゝ行けば、元済河原(もとさいのかはら)と云う所へ出たり。右は二子山、前に生子池(しょうじいけ:精進池)と云うありて、物さびし。

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地蔵堂、源満仲の墓、曽我兄弟の墓などを見て、一行は芦の湯(芦之湯)へ。

(参考:『七湯の枝折』箱根町立郷土資料館)

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《玉くしげ》を読む【その14①】関所、箱根へ到着

4月25日続き

《玉匣両温泉路記》(たまくしげ・ふたつ・いでゆ・みちのき)は、いよいよ箱根での「湯治」に入る。熱海から三里、箱根の宿まで二里の、伊豆と相模の国の「国境」から芦ノ湖を見下ろす。またしても「海」か、と下り坂を行く。湖畔で漁をする小船を見かけ、訪ねると《腹赤》(はらあか)という魚がとれていた。江戸では「ウグイ」といい、沼田では「クキ」という魚だ。Photo_3

下り坂を行くと、箱根の「関所」である。Photo

名のらずしてこえたり。関の定め、出るをばおごそかに改め、手形てふものあらざれば通さず。入るはゆるがせなり。前後に甍(いらか)ふきたる門あり。番所は湖の方にあり、向かいにも小さき番所あり。下司(げす)の住むと見えたり。

箱根から三島に向かう場合には、関所でもきびしい取調べがあったが、今回のような逆ルートで、しかも正興と光興は譜代大名(上州沼田藩土岐氏)江戸上屋敷詰の武士である。往来手形(通行手形)と関所手形を提示するだけで簡単に通過したようだ。

ところで最近、《箱根関所》がリニューアルされ、復元工事が完成し、江戸時代そのままに公開されている。(神奈川県市足柄下郡箱根町箱根1番地)ここ関所の高札を見てみよう。

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一 関所を出入(いでいづ)る輩(やから)笠頭巾をとらせて通すべき事

一 乗物にて出入る輩 戸を開らかせて通すべき事

一 関より外に出(いづ)る女はつぶさに証文に引き合わせ通すべき事

附(つ)いては、乗物にて出る女は番所の女を指し出し相改(あいあらた)むべき事

一 手負い死人並びに不審成るもの証文なくして通すべからざる事

一 常上の人と諸大名の往来かねてより其の聞えあるにおいては沙汰に及ばず

もし不審あるにおいては誰人によらず改むべき事

右の條々相まもりべきもの也

よって達件(たつくだん)の如し (正徳元年(1711)五月 奉行)

とくに武士の場合は、各大名家が、関所手形に押す藩主の角印をあらかじめ番所に届け出ており、各人が持参した手形(和紙に書かれたもの)に押印されているもと照合したそうだ。何はともあれ、無事に箱根宿に到着した一行、心もときめいてきた。(写真:たろべえ撮影)

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