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【にっぽん 旅の文化史】《新河岸川舟運》その2

 川越と江戸を結ぶ「舟運(しゅううん)」のはじまりは、寛永15年(1638)、徳川家康ゆかりの川越の仙波東照宮が大火で消失し、その再建のための資材を江戸から【新河岸川(しんがしがわ)】を利用して運んだことによる。その後、松平信綱(1596~1662)が川越藩主になり、領内の新河岸川改修工事をおこない、川に屈曲をつけ、水量を確保し、舟運を発展させた。この新河岸川の水運は、幕末から明治初年まで隆盛を極めたが、川越鉄道、川越電気鉄道、東上鉄道等の開通により、荷物運送は鉄道に代わられ、衰退していったようだ。

 さて、舟運の積荷については、船問屋の資料が残っている。(江戸後期から明治初期)

【下り:川越方面→浅草花川戸】

醤油、綿実、銭片山(ゴザ類)、素麺(そうめん)、大麦、小麦、大豆、小豆、えんどう豆、甘藷(サツマイモ)、里芋、柿樽、木材、杉皮、薪、青梅炭、土釜炭、藍葉、藍玉、箒草(ほうきくさ)など

【上り:浅草花川戸→川越方面】

織物、砂糖、酒、酢、塩魚、荒物、瀬戸物、小間物、鉄類、糟、干鰯、木炭、塩、石、乾物など

 川越周辺から江戸へ運ばれたものは、近在の農作物や木材などが多く、逆に江戸からは、農作物以外の生活必需品というべきものが多い。

 舟運に使われた荷持を運ぶ船は、「高瀬船」は、全長7間(約13m)程度のものであった。現在の大型観光バスが全長12mであるから、決して小さい船ではない。乗客を乗せたのは、屋根をつけた「屋形船」であったそうだ。

 

 乗客を乗せた船については、《早船》といい、斎藤貞夫先生によれば、新河岸(埼玉県川越市)を毎日午後4時頃出帆して、翌朝の午前9時頃に千住大橋(東京都足立区)に到着。千住には遊郭で賑わっていたようで、大方の乗客は下船する。船はさらに正午頃、浅草の花川戸(東京都台東区浅草、現在の吾妻橋)に着いたそうだ。要するに川越から千住まで約17時間、浅草までは20時間かかったことになるが、荷物のことを考えれば、徒歩よりは楽である。

 ところで船中泊となるわけなのだが、新河岸などの船着場、つまり【河岸場(かしば)】には、「船宿」があり、船の中で食する夕食の惣菜、酒の提供にはじまり、布団・枕などの夜具も貸し出していたそうだ。(ちなみに米は、船の中で炊いたそうで、その頃は新河岸川も隅田川もきれいな水であった)そんなこんなで、風流にも、この船は「川越夜船」と呼ばれたそうだ。なかなかロマンのある話である。ちなみに終点の浅草は、観音様でも有名だったが、吉原遊郭も人気であった。

(写真/高瀬船模型:朝霞市立博物館にて、その他:参考文献も たろべえ撮影)

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