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浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》その1

2008年9月17日(水)、江戸東京博物館で開催された記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》に、ご招待を受け、行ってきた。主催:「浅草槐(えんじゅ)の会」、共催:江戸東京博物館、後援:台東区・浅草観光連盟。Vfsh0101

 “次に伝える世代に何を残していくか。このせちがらい世の中にあって、浅草だけは違う、おもてなしの心をもった私たちの町であってほしい”という、「浅草槐の会」会長の粋な挨拶で開会した。

フォーラムは3部構成で、1部は同博物館都市歴史研究室長の小澤弘先生による、江戸や浅草の地図・絵図等のスライドによる検証。2部は、浅草寺管財部長で大正大学でも教鞭をとる塩入亮乗先生をコーディネーター(司会進行役)にして、4人のパネリストによる江戸や浅草の文化の解説である。

※フォーラムの内容(要約)をルポする。

①浦井正明老師(寛永寺執事・東叡山現龍院住職)〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草〕

②長澤利明先生(法政大学講師・国士舘大学講師)〔江戸の民間信仰〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

④竹内誠氏(江戸東京博物館館長)〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕

写真:左から塩入、浦井、長澤、柳原、竹内の各氏

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①の浦井老師は、昨年吉川弘文館から『上野寛永寺将軍家の葬儀』(歴史文化ライブラリー)を上梓したご住職。私も読んだが、寛永寺の成り立ちから、将軍家の葬儀にいたるまで実証的に記述された労作だった。

〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草-江戸の名所(などころ)・寛永寺-〕

上野と浅草の特色は、盛り場性と名所性を失わず、今でも存在感があることではないでしょうか。明治維新後でもそれはかわらない。江戸時代から(上野寛永寺と浅草寺が)対になって続いている。とくに私のいる寛永寺について述べる。

 寛永寺は1625年(寛永二年)、天海僧正が家康の命を受け造営した。これは比叡山の延暦寺を江戸に移す「見立て(別のものになぞらえる)」であった。比叡山は京の御所の鬼門であったのに対し、寛永寺(上野)を江戸城の鬼門として、東の叡山、すなわち(山号を)東叡山とした。寺の名も年号に由来する「延暦寺」と同様に、年号の「寛永」から「寛永寺」とした。さらに京都や滋賀(山城や近江の国)の「名所(などころ)」を江戸にもってきた。まだまだ一般庶民が簡単には、京や大坂方面に旅行などできない時代である。琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁天様を「不忍池」に勧請したり、京都五条坂の清水寺を模して「清水観音堂」をつくる。このほか、上野の祇園堂(京都の八坂神社)や根本中堂なども模写した。ご神体やご仏体を江戸にお迎えしたわけだ。

 天海は、いってみれば環境整備をした。公に徳川家の寺を設置したのではなく、山を開いて庶民が集まる「名所」にしていった。春には桜、夏には紅白の蓮華(蓮)の花、秋にはもみじや赤松、冬には寒椿・梅といったように、季節にかかわらず、江戸庶民が四季を楽しむことができるようにしていった。これにより、寛永寺・上野は急速に江戸の「名所」になっていった。(文責・たろべえ)【続く】

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