《江戸と浅草・その文化》その3〔江戸料理事情 続き〕
③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕
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〔江戸時代の食文化概論 江戸料理事情 続き〕
【江戸の魚のおろし方】
魚のおろし方は、関西と関東(江戸)では、基本的に違う。「江戸のおろし方」は、自分から見て、魚の頭が右、尾が左。手前(下)に魚の背中で、向こう側(上)が腹になるように置く。そして右の頭のつけ根、肩の部分から左に背からさばく。この方法が、江戸のはじめ、日本橋にできた「魚河岸」から始まった。
【魚の向き】
昔は氷も冷蔵庫もなく、運ぶのにも時間がかかる。将軍家への献上などもあった。そこで「表身尊重」といって、内臓のある下側の身は痛みやすいので、上身を尊重したそうだ。これにより、魚を運ぶときの魚の向きが決まっていたそうだ。
たとえば尾頭付きの鯛の塩焼きは、祝いの膳にふさわしく、表身に傷をつけないように、姿をそのまま尊重した。「頭を左、腹を手前にして、魚の進行方向の左側側面を表身として」尊重した。これも江戸時代の始めの頃、日本橋にあった魚河岸で、約束事となった。いまでもこの方法は、踏襲されている。
【鰻のさばき方】
江戸では、鰻は「背開き」で、上方は「腹開き」である。関東は武士の世界だから、切腹を連想する腹開きは嫌われ、背開きにしたという俗説がある。これは間違い。「背中を切られる」というのは、敵から逃げることを意味し、武士にとっては、最大の屈辱。むしろ腹を切ることが、潔(いさぎよ)いとされていた。魚を背中からおろすという決まりは、江戸時代、魚河岸で決められた。
また関西は、江戸に比べ海から遠い位置に消費地があった。そのため、早めに腹を裂き、ワタを抜き、塩で処理をして運んでいたそうだ。かつては、魚のおろし方を見れば、その料理人が関西出身なのか、江戸で修行したのかわかったそうだ。
(参考:『江戸料理事情』2005年キッコーマン「食文化セミナー」柳原一成、『ニッポンの縁起食 なぜ「赤飯」を炊くのか』生活人新書、NHK出版、柳原一成・柳原紀子著)
近茶流宗家の柳原先生は、また【味の音階】という表現も使われた。これは。とくに江戸料理事情ではないが、ご主人の柳原一成氏が多くの口演でも述べているキーワードなので、紹介しておく。
人間の舌は、ある程度の味の経験がないと養われない。舌は、「甘い」、「辛い」、「ちょうどよい」などの【味の音階】を見分ける。音階の見分け方は、人様々だ。大切なのは、各家庭にその家独自の音階がつくれるる必要があるということだ。それには母親が筋の通った「お家(うち)ごはん」をつくり続けてほしい。
(文責・たろべえ)【続く】
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