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2008年9月の24件の記事

ご近所グルメ 浅草《翁そば》カレー南蛮うどんが最高

 浅草の伝法院通りが六区ブロードウエー通りに当たる手間の路地に《翁(おきな)そば》がある。下町の小さなそば屋さんだが、ここがうまい。「カレー南蛮うどん」がおすすめだ。600円。Vfsh0155

 「南蛮」というと、ベトナム、タイ、フィリピンなどの旧インドシナ地域のことだと思えば、江戸時代にはオランダ、ポルトガル、スペインなどのヨーロッパを指すこともあった。(南蛮貿易)しかし、おそば屋さんの世界では、「南蛮」は“唐辛子”や“ねぎ”のことらしい。なんだかよくわからない。しかも「カレー南蛮うどん」には「長ねぎ」を、「カレーうどん」には「玉ねぎ」を使うなんて、定義もあるらしい。これは非常に複雑になってきた。要はおいしいカレー味のうどんなのだ。

 0156《翁そば》の「カレー南蛮うどん」は、絶対に「そば」ではなく、「うどん」がよい。絶妙のカレー汁は、スープとよくマッチする太麺の「うどん」が合う。小麦粉とカレー粉のベースに和風のだしを加え、やわらかい鶏肉を入れて、玉ねぎも入る。最後に「片栗粉」でまとまる。いつまでも冷めないスープである。濃厚でとろみがあり、ぴりりと辛い。薬味の刻み(長)ねぎをのせる。最後までスープを飲み干すことができる。

 

お昼時には、近所で作業をしている職人さんもたくさんやって来る。常連さんも多いようだ。隣の見知らぬ若い衆は、カレー南蛮うどんの大盛に「お餅」を追加で注文していた。これは「カレー南蛮力うどん」という。なんだか病みつきになりそうなお店だ。0157

(※写真:たろべえ撮影)

(この店のマッチが結構クラシックだった。翁の絵)

■翁そば (普通の「もりそば」、「かけそば」は400円)

■東京都台東区浅草2-5-3(浅草駅から徒歩8分)

TEL:03(3841)4641

■営業時間/11:45~19:45(日曜休み)

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ご近所散歩 ちょいと浅草《六芸神》愉快な神様たち

 浅草の「六区」という場所がある。演芸場、映画館、大衆劇場をはじめ、場外馬券売場のJRAにパチンコ屋さんに、多くの飲食店などがあり、かつては日本一の繁華街であった。江戸時代には、浅草寺の繁栄と共に、江戸庶民に娯楽を提供する場として「奥山」と呼ばれた地域がルーツ。大道芸人たちが曲芸を見せたり、見世物小屋が建っていた。そんな奥山は明治期に、浅草寺裏からいまの六区の場所に移ったそうだ。

 さてこの「六区ブロードウエー」に《六芸神(ろくげいしん)》が祀(まつ)られている。芸能に関する6体の神様ということになる。小さな祠(ほこら)に2030cm程度の各神様のブロンズ像が置かれている。これがなかなかユニークでシュールである。(公園六区交番横)

 そのいわれには“興行街としてにぎわう六区には、いつの頃からか六人の芸達者な神様が住みつき、六区周辺で行われるいろいろな見世物に出る様々な芸人達を見守り、芸の知恵を授けてくれるといわれています。六区からは六芸神に見守られた多くの芸人が映画や演劇、音楽等で活躍しています。このため六区ブロードウエーでは、六芸神を通りの守り神として祀っています”(1996年4月)

六体のブロンズ像は、浅草にゆかりのある実在の人物がモデルといわれる。向かって左から、唄神(うたいがみ)、奏神(かなでがみ)、話神(はなしがみ)、戯神(おどけがみ)、演神(えんじがみ)、踊神(おどりがみ)だ。

○唄神(うたいがみ)…モデル東海林太郎。明治31年(1898)~昭和47年(1972)。直立不動の姿勢で歌う「歌手の神様」。明治から戦前戦後まで活躍。私も幼少の頃、『赤城の子守唄』や『旅笠道中』を聴いた記憶はある。

○奏神(かなでがみ)…モデル田谷力三(アコーディオンを弾く姿)。明治32年(1899~昭和63年(1988)。 大正から昭和にかけて、人気オペラ歌手として浅草演芸界の花形であった。晩年、すばらしい歌声をテレビで聴いたことがある。ダンディーだった。

○話神(はなしがみ)…モデル古今亭志ん生。明治23年(1890)~昭和48年(1973)。言わずと知れた五代目志ん生、庶民派の落語家。残念ながら録音で聴いたことしかないが、その軽妙な語り口は、いまでも面白い。

○戯神(おどけがみ)…モデルは名も知れぬ大道芸人で「玉乗り」をしているそうだ。

○演神(えんじがみ)…モデル榎本健一。明治37年(1904)~昭和45年(1970)。通称「エノケン」、日本の喜劇王。子供の頃、再放送で、エノケン主演の時代劇(モノクロ)をテレビでよく観た。猿飛佐助や弥次喜多、森の石松、孫悟空など、軽快な演技だった。声もよく、「渡辺の即席ジュースの素」のCMソングは記憶にある。多才な、すばらしい役者であったと思う。 

○踊神(おどりがみ)…モデル水の江瀧子。大正4年(1915)生まれ。ダンサーの扮装。男装の麗人と呼ばれたそうだ。私は、晩年の「ターキー」さんが、歌番組の審査員やバラエティーの司会をする姿しか知らない。たまに紹介される若い頃の踊り子姿は、美しく華麗である。

 以上の6人をモデルに、愉快な神様たち《六芸神》が、いまでも浅草に鎮座しているのも、浅草の人たちのシャレたセンスだと感心する。必見の価値あり。

(写真:たろべえ撮影)

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ご近所散歩 ちょいと浅草《久米平内堂(くめのへいないどう)》

雷門から一直線に続く仲見世を抜けると、宝蔵門(仁王門)。正面は観音様の本堂である。宝蔵門の手前右手に、浅草寺境内の縁結びの神として知られる久米平内堂がある。

「浅草うまいもの会」さんが緑の“のぼり”を立てているので、すぐ目につく。元来、良縁を望む若い娘さんが、想いを込めた手紙を、この堂にある木々に結びつけたのが始まりだが、いまは絵馬を奉納すると願いがかなうといわれている。

 《久米平内(くめのへいない)》は、江戸時代前期の伝説の武士であった。天和三年(1683)に亡くなった。本名を兵藤長守、通称を平内兵衛という。九州出身の浪人で、江戸赤坂に住み。剣術に秀でており千人斬りを志し、多くの人をあやめてきた。晩年、悔い改め、その供養のため、禅宗・鈴木正三(すずきしようさん)の門に入り、二王禅の法を修めた。また罪のつぐないのため、自分の石像を刻んで、人通りの多い浅草寺仁王門(現宝蔵門)外に置き、通行人に踏み付けさせたという。

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踏み付けが「文付」となり、願掛けの文を奉納する者が多くなり、縁結びも神とされ、平内堂にまつられた。(参考:広辞苑、「浅草寺 今むかし」金龍山浅草寺刊)

今でも縁結びの御利益を求めて、この久米平内堂を訪れる人は多い。まさに浅草寺境内は、観音様の広いご慈悲の心のためか、実に多くの神や仏など、民間信仰の祠(ほこら)やお堂がある。「神仏のデパート」といあわれる由縁だが、時間があればゆっくり散歩をしてみていただきたい。

Vfsh0148 (※写真:たろべえ撮影、カット:江戸名所図会)

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浅草・伝法院通りで《ねずみ小僧》を見た!!

 浅草を散歩していたら、《ねずみ小僧》(鼠小僧)の人相書きを発見。伝法院通りにある「やまとみ呉服屋」店先に指名手配の高札があった。しばらく行くと、今度は角の今昔着物店「胡蝶(こちょう)」の屋根に、なんと千両箱をかついだ《ねずみ小僧》がいた。あたりは騒然としている。通行人が大騒ぎする中で、ねずみは右手を挙げ、ポーズをとる余裕である。さすがに人気者だ。

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Photo  ねずみは《鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう じろきち》という。寛政九年(1797)生まれ、建具職人の後、鳶(とび)職になったという。江戸の大名屋敷や悪徳商人の屋敷を専門に荒らし、人を傷つけることなく盗んだ大金を貧しい人や長屋に投げ込んだという「うわさ」の義賊(ぎぞく)である。実在の人物だが、実際には、庶民がつくり出したキャラクターが、講談や歌舞伎に芝居そして現代では映画、小説などを通じて出来上がったスターだろうと思う。

 両国の回向院(えこういん)には、しかし本当に《ねずみ小僧》の墓がある。先日、墓参りに行ってきた。戒名は『教覚速善居士』、俗名は「中村次良吉」。天保三年(1832)、日本橋浜町で捕まり、江戸市中引き廻しのうえ、鈴が森で処刑され、さらし首になった。

史実からすると、盗んだ大金は、博打(ばくち)や酒と女性につぎ込んだらしい。

 《ねずみ小僧》の墓石を削り、身に着けていれば、“難関をするりと抜ける”といった意味から、受験生の合格祈願や賭け事のお守りとして、ご利益があるという。そのため、回向院境内の本来の墓石の前には、「削り用」の小さな石が建っている。

(写真:たろべえ撮影)

■やまとみ呉服店 東京都台東区浅草1-37-8 TEL:03(3845)5291

■リサイクル着物・胡蝶 東京都台東区浅草1-39-11 TEL03(3843)7606

■回向院 東京都墨田区両国2-8-10 TEL03(3634)7776

JR総武線・都営地下鉄大江戸線「両国駅」から徒歩5分

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江戸文化と《粋》浅草今昔展記念フォーラムから

 先日の浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》で、竹内誠江戸東京博物館館長が、江戸の《粋(いき)》について、興味深いお話をされていた。

 “江戸文化に表現されている「粋」な美意識とは、社会の中で人に迷惑をかけず、他人に不快感を与えない、他者からみて好ましい言動をとるための生き方のことだ。江戸の人々は、暮らしの中で人間関係の調和を大切にした。”

 そんな含蓄(がんちく)のある言葉をきいての帰り道、都営浅草線「浅草橋駅」で公共広告機構(AC)の「江戸しぐさ」のマナーポスターを見かけた。《江戸しぐさ 肩引き》である。今風の女子高生と和服姿の年配の女性が、道ですれ違う際、お互いにささっと肩を引いて、ぶつからないようにする所作である。

 江戸しぐさ 肩引き

しぐさひとつで都市は、和(なご)やかになる

人ごみですれ違う時、互いに肩をサッと引く。江戸では、マナーをイキに交わすことで、相手を思いやる気持ちを瞬間的に伝え合っていた。

東京にはイキなマナーが似合います。

以上のコメントが書かれている。最近よく耳にする「江戸しぐさ」には、“傘かしげ”、

“こぶし腰あげ”などもある。この種の基本的なマナーをあえてポスターにしなければならないというのも悲しい話である。

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浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》その4

①浦井正明老師(寛永寺執事・東叡山現龍院住職)〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草〕

②長澤利明先生(法政大学講師・国士舘大学講師)〔江戸の民間信仰〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

④竹内誠氏(江戸東京博物館館長)〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕

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〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕江戸東京博物館・竹内誠館長

江戸時代の「盛り場文化」を考えてみる。人が集まる盛り場は、1位が「浅草」で、2位が回向院を含む「両国界隈」であった。「盛り場」の条件とは第一に信仰、つまり聖なる空間に「おまいり」することであった。神仏の百貨店といわれる浅草の観音様におまいりするだけではなく、「食べる」、「買う」、「見る楽しみ」などの条件も満たされていて、人が集まる。

「食べる」点については、柳原先生の江戸料理事情の話に紹介されたように、浅草や両国には食の欲求にこたえるものが十分にあった。「買う」というのは、ブランド品のみやげものを意味する。浅草海苔や餅(大仏餅)、浅草寺の楊枝(当時の歯ブラシ)などである。見る「楽しみ」は、浅草寺裏の「奥山」地域に代表される様々な芸能、大道芸、見世物の類である。大道芸を見せて楊枝を売る手法もあった。とくにコマ回しの松井源水、居合い抜きの長井兵助などが知られている。

「浅草はうそをつかない」場所柄だった。人々が通り過ぎる盛り場ではあるが、そこには、人を迎える心があった。浅草が現代にいたるまで、長く続いて来たのは、住人に「おもてなしの心」があるからである。

「川柳」の先駆者・柄井川柳は、浅草の出身である。いくつか、浅草にまつわる川柳を紹介したい。

風神は 雷門に 居候(いそうろう)

「雷門」は正式には「風雷神門」という。確かに門の左右には、雷神と風神の像が建つが、なぜか「雷」が主役であって、風神は、いそうろうだ。

女房と 雷門で 出っくわして

吉原にでも遊びに行こうとする旦那が、観音様におまいりに来た女房と、ばったり。

ほだらくの 池より(ちより) ごくらく 北に見え

観音様の補陀落浄土にもまさる(新吉原の)極楽は、浅草寺より北の方角にある

救うのも 迷うのも 浅草寺

衆生(しゅじょう:一般民衆)を救うのも、逆に迷わせるのも浅草寺

「盛り場」は、身分の違い、貧富の差を超えて老若男女が、大勢集まる開放的な場として、賑わった。それは大都市江戸の特徴でもあった。浅草両国界隈を中心に、信仰、見世物、祭りをはじめ、様々な要素が「盛り場」を築きあげていった。竹内誠先生は、江戸文化史や日本近世史の専門家。東京教育大学大学院博士課程修了。文学博士。現在は東京学芸大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、徳川林政史研究所所長、日本博物館協会会長、社会経済史学会顧問などを務める。

(文責・たろべえ)

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ご近所グルメ 浅草《ステーキハウス のぶ》絶品オムライス

125  東京浅草は、いわゆる下町のおいしい洋食屋の宝庫である。お店の名前をあげればきりがないが、今回は、「なかなかほかではたべられない、絶品オムライス」の登場。ランチタイムには、いつも満席だ。雨もようの日は、観光客も少なく狙い目だ。中に入ると、ウナギの寝床でカウンターに10席程度の小さな店だ。ご夫婦で店を切り盛りしているようだ。とくに愛想がよいわけではないようだが、席につくと、ご主人が「おすすめは、オムライス、ハンバーグ、ステーキです」と、自信のあるコメント。

 ここは迷わず、オムライスを注文する。当然、オープンキッチンだから、「仕事」が見える。小さな使い込まれたフライパンで、ささっとごはんを炒める。あらかじめ溶いてあるタマゴでしっかり覆う。平日のランチタイムには、小さなグラスワイン、漬物そして「牛汁」(牛すじ肉が入ったみそ汁)がつく。840円。

 オムライスは、半熟とか、とろっとしたものではない。昔ながらのしっかりしたタマゴで炒めたライスをカバーしたものだ。上にかかったトマトケチャップも甘すぎず・・・という感じ。食べ進むうちに、やはり驚くのは、オムライスの中に「ビーフシチュー」が入っていることである。さすがにステーキハウスだけあって、結構大きなかたまりでやわらかい牛肉が出てくる。帰りしなに、店の外の看板をしみじみ見たら“じっくり煮込んだビーフシチュー入り「特製オムライス」”と書いてあった。おおげさではなく、食べ応えのあるお店だ。だまされたと思って、一度は「オムライス」を経験していただきたい。

■ステーキハウス浅草のぶ

■東京都台東区浅草1-36-7(浅草駅徒歩3分、伝法院通り)

TEL03(3845)4173

■営業時間/11:0014:30 17:0021:00(火曜お休み)

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《江戸と浅草・その文化》その3〔江戸料理事情 続き〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

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〔江戸時代の食文化概論 江戸料理事情 続き〕

【江戸の魚のおろし方】

魚のおろし方は、関西と関東(江戸)では、基本的に違う。「江戸のおろし方」は、自分から見て、魚の頭が右、尾が左。手前(下)に魚の背中で、向こう側(上)が腹になるように置く。そして右の頭のつけ根、肩の部分から左に背からさばく。この方法が、江戸のはじめ、日本橋にできた「魚河岸」から始まった。

【魚の向き】

昔は氷も冷蔵庫もなく、運ぶのにも時間がかかる。将軍家への献上などもあった。そこで「表身尊重」といって、内臓のある下側の身は痛みやすいので、上身を尊重したそうだ。これにより、魚を運ぶときの魚の向きが決まっていたそうだ。 

たとえば尾頭付きの鯛の塩焼きは、祝いの膳にふさわしく、表身に傷をつけないように、姿をそのまま尊重した。「頭を左、腹を手前にして、魚の進行方向の左側側面を表身として」尊重した。これも江戸時代の始めの頃、日本橋にあった魚河岸で、約束事となった。いまでもこの方法は、踏襲されている。

【鰻のさばき方】

江戸では、鰻は「背開き」で、上方は「腹開き」である。関東は武士の世界だから、切腹を連想する腹開きは嫌われ、背開きにしたという俗説がある。これは間違い。「背中を切られる」というのは、敵から逃げることを意味し、武士にとっては、最大の屈辱。むしろ腹を切ることが、潔(いさぎよ)いとされていた。魚を背中からおろすという決まりは、江戸時代、魚河岸で決められた。 

また関西は、江戸に比べ海から遠い位置に消費地があった。そのため、早めに腹を裂き、ワタを抜き、塩で処理をして運んでいたそうだ。かつては、魚のおろし方を見れば、その料理人が関西出身なのか、江戸で修行したのかわかったそうだ。

(参考:『江戸料理事情』2005年キッコーマン「食文化セミナー」柳原一成、『ニッポンの縁起食 なぜ「赤飯」を炊くのか』生活人新書、NHK出版、柳原一成・柳原紀子著)

近茶流宗家の柳原先生は、また【味の音階】という表現も使われた。これは。とくに江戸料理事情ではないが、ご主人の柳原一成氏が多くの口演でも述べているキーワードなので、紹介しておく。

 人間の舌は、ある程度の味の経験がないと養われない。舌は、「甘い」、「辛い」、「ちょうどよい」などの【味の音階】を見分ける。音階の見分け方は、人様々だ。大切なのは、各家庭にその家独自の音階がつくれるる必要があるということだ。それには母親が筋の通った「お家(うち)ごはん」をつくり続けてほしい。 

(文責・たろべえ)【続く】

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浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》その3

①浦井正明老師(寛永寺執事・東叡山現龍院住職)〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草〕

②長澤利明先生(法政大学講師・国士舘大学講師)〔江戸の民間信仰〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

④竹内誠氏(江戸東京博物館館長)〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕

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〔江戸時代の食文化概論 江戸料理事情〕

講師の柳原紀子先生は、江戸時代から続く日本料理の「近茶流」宗家・柳原一成氏夫人。近茶文庫の文庫長。江戸料理事情についてのお話。

日本料理お特徴と成り立ちについて述べる。現在の「日本料理」の基礎は、江戸時代に「江戸」で形づくられたといえる。

日本料理の特徴を一言でいえば、「水」を多く使って料理する点が、外国の料理と大きく違う。美しい盛付や季節を移す料理であるが、日本料理は、水に支えられたものだ。ゆでる、湯引きする、煮るなど素材を水(湯)で処理をしていく料理で、外国のそれは、バターや油で支えられた料理といえる。

日本料理の基礎が、江戸でととのった背景として、諸大名の「参勤交代」制度がある。諸国から大名の家臣(武士)が大勢、江戸へやって来るようになった。人ばかりではなく、いろいろなものも入って来る。江戸は、様々なもの、人を受け入れる土壌があった。

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【調味料の充実】

もともと上方(関西)から船で運ばれていた醤油(しょう油)があった。「下りしょうゆ」という。それが江戸末期には、紀州の職人を呼び、関東の銚子や野田(いまの千葉県周辺)で生産できるようになった。これが「関東地廻りしょうゆ」である。原料の大豆や小麦を産出する広大な平野があり、温暖な気候条件があり、一大消費地・江戸へ輸送する水路(利根川、江戸川による水運)があったことから、関東でも醤油がつくられるようになった。(ちなみに主原料の塩も江戸川河口や行徳でとれた。江戸末期には赤穂の塩にかわる)

それから、豊かな財力をもつ商人を中心に、高価な「砂糖」も使えるようになる。(砂糖は、徳川吉宗が琉球からサトウキビを取り寄せ、江戸城内で栽培させたことが、江戸での砂糖使用のきっかけだという)さらに「みりん」の発達もはずせない。みりんを醤油や酒と一緒に料理に使えば、魚を煮る際の生臭さをとり、独特の照りを出し、香りもよい。それまでの料理の味付けが、塩と酢に限られていたのに対し、これらの醤油・砂糖・みりんという調味料の充実により、江戸の料理の環境がととのっていった。

【鰹節と昆布――だし】

 日本の「だし」は世界一といわれる。江戸時代、それまでの鰹節が「削り節」として出てきた。保存や輸送もできるようになった。削り節と同様に昆布もまた、「だし」をとる材料として、利用されるようになる。

【屋台の出現】

 江戸は火事が多く、年中、家を建て直す仕事があり、地方からも職人がたくさんやって来た。職人は力仕事だから、仕事を終えてちょっと小腹がすく。そこで長屋に帰る前に、町なかでちょいと一杯ひっかけて何か気軽につまむ。食べる。「屋台」の出現である。屋台は、店舗と違って火事で類焼することもない。安い値段でものを食べることができた。天ぷら、寿司、うなぎ、どじょう、ソバなど、ファーストフードである。揚げ立て、握り立て、焼き立てなどの作りたてを食べる。職人、町人ばかりでなく、地方からの単身赴任の下級武士も客であった。しかも身銭をきって本音で食べる。およそ、その後の日本料理のメニューは、まさに江戸の屋台から始まった。浅草の町にも、たくさん屋台があったようだ。

(文責・たろべえ)【続く】

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浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》その2

①浦井正明老師(寛永寺執事・東叡山現龍院住職)〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草〕

②長澤利明先生(法政大学講師・国士舘大学講師)〔江戸の民間信仰〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

④竹内誠氏(江戸東京博物館館長)〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕

写真:左から塩入、浦井、長澤、柳原、竹内の各氏

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〔江戸の民間信仰〕

江戸時代の民間信仰とは、庶民・大衆が必要に応じてつくり出したものである。江戸の「神仏まいりのガイドブック」といえる『江戸神仏願懸重寶記(えどしんぶつ・がんかけちょうほうき)』という書物がある。民間信仰の神仏を紹介したもので「庶物崇拝」あるいは「雑信仰」といわれる。

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上野と浅草は、江戸時代は郊外の位置づけにあり、江戸の中心部(江戸城周辺)から半日程度の行程で遊びに行く(息抜きをする)レクリエーションの場であった。春は桜の花見だが、当時、夜桜見物はご法度で、昼間のみである。(落語の長屋の花見、酒のかわりのお茶)秋はもみじ見物、七草をめでる、虫の音を観賞など。冬は雪見。もちろん「寺社まいり」も大きな目的であった。

 「民間信仰」の対象は、浅草・浅草寺の境内にも多数あった。

「仁王門の股くぐり」は子供の麻疹(はしか)が治ると信じられ、「秋葉権現」は火の神様、安産・子宝・婦人病の治癒など女性に関するすべてに霊験のある「淡島神」、武士の神「鹿島神」、大山の火除け「石尊」等の神々は、浅草寺境内に招へいされた。このほか、「久米平内(くめのへいない)」は、自らの悪行を恥じ、死後は土に埋め、民衆に墓を踏みしめてほしいと願ったことから、「踏みつける」→「文つける」(ラブレター)→縁結びの神として、信仰された。さらに伝法院の鎮護堂では、夜毎悪さをするタヌキを保護したところ、商売繁盛・立身出世の神として、崇められるようになったという。

あらゆる神様が境内にまつられおり、浅草寺は「神仏のデパート」としての一大民間信仰センターとなっていた。これらの民間信仰は、ほとんど「現世利益」を目的としていた。農村のような共同体における信仰形態ではなく、あくまで「個人」を対象とし、五穀豊穣を願うのではなく、「立身出世」、「商売繁盛」、「病気治癒」、「安産・子育て」などを願う現実的な庶民信仰であった。

ちなみに長澤利明先生は、その著書『江戸東京の庶民信仰』(三弥井民俗選書)では、江戸から東京へと続く庶民信仰・民間信仰の愚弟的な実例を提示し、民俗学の立場から的確に分析をおこなっている。そして「歴史文化ライブラリー115」の『江戸東京歳時記』(吉川弘文館2001年刊)では、江戸各地の行事や祭りに焦点をあて、それぞれにどんな意味や目的があったのかを追求している。読みやすい本である。(写真はフォーラム資料から)

(文責・たろべえ)【続く】

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浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》その1

2008年9月17日(水)、江戸東京博物館で開催された記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》に、ご招待を受け、行ってきた。主催:「浅草槐(えんじゅ)の会」、共催:江戸東京博物館、後援:台東区・浅草観光連盟。Vfsh0101

 “次に伝える世代に何を残していくか。このせちがらい世の中にあって、浅草だけは違う、おもてなしの心をもった私たちの町であってほしい”という、「浅草槐の会」会長の粋な挨拶で開会した。

フォーラムは3部構成で、1部は同博物館都市歴史研究室長の小澤弘先生による、江戸や浅草の地図・絵図等のスライドによる検証。2部は、浅草寺管財部長で大正大学でも教鞭をとる塩入亮乗先生をコーディネーター(司会進行役)にして、4人のパネリストによる江戸や浅草の文化の解説である。

※フォーラムの内容(要約)をルポする。

①浦井正明老師(寛永寺執事・東叡山現龍院住職)〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草〕

②長澤利明先生(法政大学講師・国士舘大学講師)〔江戸の民間信仰〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

④竹内誠氏(江戸東京博物館館長)〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕

写真:左から塩入、浦井、長澤、柳原、竹内の各氏

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①の浦井老師は、昨年吉川弘文館から『上野寛永寺将軍家の葬儀』(歴史文化ライブラリー)を上梓したご住職。私も読んだが、寛永寺の成り立ちから、将軍家の葬儀にいたるまで実証的に記述された労作だった。

〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草-江戸の名所(などころ)・寛永寺-〕

上野と浅草の特色は、盛り場性と名所性を失わず、今でも存在感があることではないでしょうか。明治維新後でもそれはかわらない。江戸時代から(上野寛永寺と浅草寺が)対になって続いている。とくに私のいる寛永寺について述べる。

 寛永寺は1625年(寛永二年)、天海僧正が家康の命を受け造営した。これは比叡山の延暦寺を江戸に移す「見立て(別のものになぞらえる)」であった。比叡山は京の御所の鬼門であったのに対し、寛永寺(上野)を江戸城の鬼門として、東の叡山、すなわち(山号を)東叡山とした。寺の名も年号に由来する「延暦寺」と同様に、年号の「寛永」から「寛永寺」とした。さらに京都や滋賀(山城や近江の国)の「名所(などころ)」を江戸にもってきた。まだまだ一般庶民が簡単には、京や大坂方面に旅行などできない時代である。琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁天様を「不忍池」に勧請したり、京都五条坂の清水寺を模して「清水観音堂」をつくる。このほか、上野の祇園堂(京都の八坂神社)や根本中堂なども模写した。ご神体やご仏体を江戸にお迎えしたわけだ。

 天海は、いってみれば環境整備をした。公に徳川家の寺を設置したのではなく、山を開いて庶民が集まる「名所」にしていった。春には桜、夏には紅白の蓮華(蓮)の花、秋にはもみじや赤松、冬には寒椿・梅といったように、季節にかかわらず、江戸庶民が四季を楽しむことができるようにしていった。これにより、寛永寺・上野は急速に江戸の「名所」になっていった。(文責・たろべえ)【続く】

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ご近所グルメ 浅草《やっこ》ジョン万次郎の「うなぎ屋」その2

ジョン万次郎がご贔屓(ひいき)であった、浅草の「うなぎの蒲焼」《やっこ》である。万次郎の曾孫にあたる中濱博氏が記した『中濱万次郎―「アメリカを初めて伝えた日本人―」(冨山房インターナショナル刊)の中に、つぎのような記述がある。 万次郎はうなぎが好きで江戸ではよく浅草の鰻屋「やっこ」に行った。食事をすると、残ったものは必ず折りに残らず入れてさせて持ち帰った。店では万次郎はけちだというもっぱらの評判であった。 そんなある日、その店の仲居が使いの帰りに夕暮れせまる両国橋の上で、せわしく行き交う人波の中で人力車を止めて降り、橋の下をのぞき込んでいる万次郎を見た。(同書291頁) 万次郎は、橋の下に住む貧しいルンペン達に声を掛けていた。そして折りに包んだ残り物の食物を、親しげに彼らに分け与えていたそうだ。  ジョン万次郎は、江戸末期の嘉永四年(1851)帰国し、土佐藩を経て、幕府に通訳として登用される。江戸では、韮山代官で反射炉を築き、幕府へ海防策を建白した「江川太郎左衛門」の助手となり、江川の江戸屋敷に住んだ。この屋敷は、「本所」という現在の東京都墨田区亀沢1丁目(JR錦糸町駅近く)にあった。その後、江川邸が芝新銭座(東京都港区浜松町1丁目)に移ると、同じく万次郎もその地に移転した。さらに明治二年(1869)から、万次郎は再び土佐藩に登用され、(土佐藩)下屋敷のあった砂村(東京都江東区北砂)に13年ほど住むことになる。  文中にあるように「人力車」で浅草・田原町の《やっこ》に通ったのであれば、明治になってからのことだ。なぜなら人力車が江戸(東京)で営業を開始したのは、明治三年、(東京都中央区)日本橋であったことが知られている。そうなると、浅草・田原町から蔵前を通り、両国橋を渡り、以前の住居(現在の両国駅近辺の「本所」)を過ぎ、現在の錦糸町の南、江東区北砂1丁目まで、人力車で結構な距離である。  ところで、両国橋で万次郎の様子を目撃した仲居は、《やっこ》に戻り、さっそく店のおかみさんに、かくかくしかじか・・・と話したそうだ。「万次郎さんは決してケチな方ではありません。身分の低い貧しい人々に食物を分け与える、やさしい方です」  そういえば、万次郎が暮したアメリカには、いまでも外食をして食べきれないと、残った料理を「ドギーバック」に詰めてもらって持ち帰る習慣がある。 ★doggy-bag:[名詞](レストランの)食べ残しを持ち帰る容器[袋]▼表向きは飼い犬に食べさせるということから(実際には自分たちで食べる)

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「ざるらーめん」《与ろゐ屋》と「つけ麺」《まるごと北海道味噌ラーメン》

 すでに【ご近所グルメ 浅草】で紹介した2店だが、前回と違うメニューに挑戦した。

 浅草は伝法院通りの人気店《与ろゐ屋》は、日曜・祝日の昼食時は、行列である。ゆっくり食べたいときは、平日の夜に限る。看板の「ざるらーめん」に挑戦した。700円。少しかために茹でた麺に、鰹節のだしが、よく効いた和風のスープは、最高だ。

 またこの店は、気分がよい。店員さんの教育が行き届いているためか、「食べていただいてありがとうございます」といった感謝の気持が、感じられる。

 

 

それから《まるごと北海道 味噌ラーメン》に最近登場した「まるごと北海道 つけ麺」(850円)にもチャレンジした。正統派の味噌ラーメンの店だが、この新メニューもなかなかのもの。まず、麺は本場の「西山ラーメン」製で札幌直送の太麺。平皿に盛られた麺の上には、生キャベツと茹でもやしに挽肉が載る。つけ汁は、味噌に加えて相性のよい牛乳やメンマ、細切れチャーシュー、玉ねぎみじん切りに山盛りの白髪ねぎ入りで、マイルドながらピリ辛味である。まじめな「仕事」だと、つくづく思う。

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ご近所グルメ 浅草《やっこ》ジョン万次郎の「うなぎ屋」

 清水(きよみず)の、いや浅草寺の舞台から飛び降りたつもりで、浅草でうなぎを食べた。江戸時代、おそらく文化・文政年間から続く老舗の「うなぎ蒲焼」《やっこ》である。うな重ランチで、小さ目のうな重に、お吸い物と漬物付で1,900円。おおげさかもしれないが、このご時世でサラーマンのお昼としては、少し勇気がいる。58

 《やっこ》は雷門通りに面していて、国際通りの角に近い。店内に入ると、和服のおかみさんが迎えてくれる。(さすがに老舗だ)店は、1階テーブル席と2階お座敷に分かれている。1階は木目の床にテーブル。シャンデリアや壁の絵画、大正ロマンがあふれる調度品だ。やはり着物姿の仲居さんが、てきぱきと注文をとり、料理を運ぶ。客は年配の夫婦連れや中年の女性グループばかりだ。

 ほどなく「うな重」が運ばれてきた。やわらかくてうまい。テーブルに置かれたウンチクを読む。

“のらくらとした奴(やっこ)もあり 田原町”と江戸川柳にもよまれた《やっこ》

“江戸川柳にも詠(よま)れた当店は、発祥を二百年前の江戸時代とし、幕末には勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)なども訪れたと伝えられます。厳選してうなぎを丹念に炭火で焼いた蒲焼ならではの味と香りをお楽しみください”

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 川柳の「奴」は、大名行列(参勤交代)で大きな角ばった半纏(はんてん)を着て、練り歩く姿が有名。のらりくらりとした「うなぎ」と奴をかけたもの。また、現在店のある地番は、「台東区浅草1丁目」だが、古くは「田原町」であったようだ。(どうして由緒ある地名をなくすのだろうか)

        やっこ

        東京都台東区浅草1-10-2(浅草駅徒歩10分、田原町駅徒歩5分)

        TEL:03(3841)9886

        営業時間/11:30~21:00(水曜日休み)

【このブログで取り上げたジョン万次郎関係】

《ジョン万次郎あれこれ1》ジョン万次郎の英語学習法

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/1_79b8.html

《ジョン万次郎あれこれ2》万次郎救助の捕鯨船の航海日誌発見される

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/2_8b4e.html

《ジョン万次郎あれこれ 3》書評『中濱万次郎 -「アメリカ」を初めて伝えた日本人―』

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/3_6957.html

《ジョン万次郎あれこれ 4》書評『中濱万次郎 -「アメリカ」を初めて伝えた日本人―』続

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/4_b226.html

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ジョン万次郎がご贔屓(ひいき)であった、浅草の「うなぎの蒲焼」《やっこ》である。万次郎の曾孫にあたる中濱博氏が記した『中濱万次郎―「アメリカを初めて伝えた日本人―」(冨山房インターナショナル刊)の中に、つぎのような記述がある。

万次郎はうなぎが好きで江戸ではよく浅草の鰻屋「やっこ」に行った。食事をすると、残ったものは必ず折りに残らず入れてさせて持ち帰った。店では万次郎はけちだというもっぱらの評判であった。

そんなある日、その店の仲居が使いの帰りに夕暮れせまる両国橋の上で、せわしく行き交う人波の中で人力車を止めて降り、橋の下をのぞき込んでいる万次郎を見た。(同書291頁)

万次郎は、橋の下に住む貧しいルンペン達に声を掛けていた。そして折りに包んだ残り物の食物を、親しげに彼らに分け与えていたそうだ。

 ジョン万次郎は、江戸末期の嘉永四年(1851)帰国し、土佐藩を経て、幕府に通訳として登用される。江戸では、韮山代官で反射炉を築き、幕府へ海防策を建白した「江川太郎左衛門」の助手となり、江川の江戸屋敷に住んだ。この屋敷は、「本所」という現在の東京都墨田区亀沢1丁目(JR錦糸町駅近く)にあった。その後、江川邸が芝新銭座(東京都港区浜松町1丁目)に移ると、同じく万次郎もその地に移転した。さらに明治二年(1869)から、万次郎は再び土佐藩に登用され、(土佐藩)下屋敷のあった砂村(東京都江東区北砂)に13年ほど住むことになる。

 文中にあるように「人力車」で浅草・田原町の《やっこ》に通ったのであれば、明治になってからのことだ。なぜなら人力車が江戸(東京)で営業を開始したのは、明治三年、(東京都中央区)日本橋であったことが知られている。そうなると、浅草・田原町から蔵前を通り、両国橋を渡り、以前の住居(現在の両国駅近辺の「本所」)を過ぎ、現在の錦糸町の南、江東区北砂1丁目まで、人力車で結構な距離である。(人力車:浅草 時代屋さんパンフより)

 ところで、両国橋で万次郎の様子を目撃した仲居は、《やっこ》に戻り、さっそく店のおかみさんに、かくかくしかじか・・・と話したそうだ。「万次郎さんは決してケチな方ではありません。身分の低い貧しい人々に食物を分け与える、やさしい方です」

 そういえば、万次郎が暮したアメリカには、いまでも外食をして食べきれないと、残った料理を「ドギーバック」に詰めてもらって持ち帰る習慣がある。

doggy-bag[名詞](レストランの)食べ残しを持ち帰る容器[袋]▼表向きは飼い犬に食べさせるということから(実際には自分たちで食べる)

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《浅草今昔展》江戸東京博物館で始まりました

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 東京両国の「江戸東京博物館」で平成20年(2008)9月14日から、《浅草今昔展》が始まった。初日の「開会式」に出席した。この展覧会は、浅草観光連盟の創立60周年、浅草寺本堂落慶50周年おまけに同博物館開館15周年を記念しての開催とのこと。浅草寺裏で10月から開演の「平成中村座」の関係で、中村勘三郎さんが、来賓として来られていた。歌舞伎役者は、ゆっくりと腰を折っておじきをする。所作が美しいのはさすがである。Vfsh0085

 さて《浅草今昔展》であるが、「浅草のあゆみ」や「浅草のにぎわい」のコーナーでは、江戸時代の浅草がおもしろい。浅草寺に奉納された大相撲の大きな額絵も珍しい。とくに江戸の時代、浅草が娯楽の殿堂であり、人気観光地であったことを証明する資料が、たくさん展示されている。

 「浅草の近代」のコーナーでは、明治、大正から昭和の浅草の大衆文化の様子が、古いパンフレット等で、よくわかる。また昭和に入っての雷門の復活や昭和30年頃の仲見世の写真が紹介されていて興味深い。

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ご近所グルメ 浅草《元祖やきかつ 桃タロー》油で揚げていないトンカツ

 もともと浅草駅北口前(松屋裏)にあったが、2008年ビル建て替えのため、近くに移転した。昭和12年創業、下町の名店。Vfsh0076 

「やきかつ」とは、通常の“とんかつ”のように油で揚げない。お肉にパン粉をつけて、フライパンを用いて両面をバターや少量の油で焼いたものである。フランス料理で「コートレット」coteletteという。ポークカツレツといった方がわかりやすいかもしれない。(前者をフライ式製法、後者をフレンチ製法と呼ぶそうだ)

 以前に比べればかなり狭くなった店内だが、お昼時はすぐ満席になる。定番の「上やきかつ定食」(1,000円)を注文。調理場からは、豚肉をたたいて、伸ばす音が響く。この一手間で、肉がやわらかくなる。ほどなく、主役の「やきかつ」がキャベツ添えと共に皿にのって登場した。とん汁と漬物、ごはんがつく。

 特製の甘口ソースをかけていただく。やきかつは、香ばしい。油っぽさは、ほとんどないので年配の人にも人気だ。テレビのグルメレポーター風に表現すれば、月並みだが「お箸で切れる」とんかつである。付け合せの「とん汁」もうまい。にんじんやタマネギが甘い。(以前、この定食は1,050円であったが、移転後1,000円になった)

 本当に不思議なもので、「たまにはとんかつ食べたいな」という胃袋欲求が、月に一度はやってくる。間違いなく、桃タローはこたえてくれる。おすすめのお店である。

■元祖やきかつ 桃タロー

■東京都台東区花川戸1-10-9(浅草駅北口徒歩3分、浅草小学校手前)

TEL03(3841)0735

■営業時間/11:3014:30 16:3021:00

■定休日:毎週月曜、第2・4火曜(祝祭日は営業で翌日振替休業)

※写真:たろべえ撮影

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ご近所散歩 浅草《招き猫》

 Vfsh0126 東京の下町を歩いていると、多くの店先で「招き猫」に出会う。その由来、歴史については、はっきりしてはいないそうだが、どうやら江戸時代末期、浅草の今戸神社周辺が発祥の地らしい。「今戸神社」に行くと“招き猫発祥の地”と書いてある。このあたりの「今戸焼き」の猫像が有名だ。なんと、創業500年の『今戸焼』(店名)が、わずかに1軒残っている。

http://www.tctv.ne.jp/imado-8/A33_1.htm

 商売繁盛や福を呼ぶことで人気の《招き猫》なのだが、なんと“9月29日”は、招き猫の日だという。「来(9)る 福(29)」の語呂合せである。

 猫の右手(右前脚)を挙げている姿は、お金を招き、左手は人を呼ぶという。もっともこの神社では、「えんむすび」である。(写真:たろべえ撮影)

        今戸神社(浅草駅から徒歩20分)※沖田総司終焉の地

        東京都台東区今戸1-5-22

        TEL:03(3872)2703

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《江戸名所判じもの》浅草・のれん専門店「べんがら」江戸がここにある

 Vfsh0059 浅草は伝法院通りにある“のれんと和風小物の専門店”「べんがら」さんの店先を飾る太鼓のれんがおもしろい。《江戸名所判じもの》と染め抜かれているが、名所当てクイズといったところ。江戸名所と、いっても実はこの周辺の地名なのだ。

39_4 ちょっと下品だが、最上段は「あ・さ」がくさいので浅草。向かって左中は「舌に矢がささって「下谷(したや)」。左下は「肩でこまを回して」駒形(こまがた)。右上は、まったくのダジャレだが、「二本の橋に濁点がつき」日本橋。右中は、よく見ないとわかりにくいが、「矢を火で煎(い)っている」ので入谷(いりや)。右下は「しおれたネギが四本」で根岸

(ねぎし)。まさに遊び心が生きていて、楽しい。

■浅草 のれん専門店 べんがら

■東京都台東区浅草1-35-6(浅草駅徒歩5分)

TEL03(3841)6613

■営業時間/10:0018:00(土日祝日は19:00まで)

※休み:第3木曜

※手作りのれんの通信販売もおこなっている

(写真:たろべえ撮影)

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ご近所グルメ 台東区《麺処 遊》ついにうわさの「煮干ラーメン」に出会った!!

 とにかくラーメン通の間でも、最近注目のラーメン店だそうだ。JR鶯谷駅南口から橋を渡って、すぐ左の場所にあるのだが、注意深く見ていないと通り過ぎてしまう。夕方なら隣の、にぎやかな「もつ焼き」の立ち飲み屋さんが目印だ。民家の店先に青い小さなのれんの《麺処 遊(めんどころ・ゆう》が、その店である。

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会社帰りに寄ってみた。実は三度目の正直である。八月は、お店の長い休みがあり、閉まっていた。九月にも一度、会社帰りに行ったが、急遽、連休になっていた。そんなわけで、三度目にして、やっとうわさの「煮干ラーメン」に出会った。

《麺処 遊》には「中華そば」しか、ない。券売機でチケットを購入。600円。店の中には、イスが5席の小さな店内だ。中華そばが出てきた。「煮干」の香(こう)ばしい香りが漂う。少しかための中太麺だ。具はシンプルに、やたらとやわらくおいしいチャーシュー厚切り1枚と刻みネギだけだ。スープは、煮干を中心に、おそらく昆布、鰹節、鯖節に鶏ガラのようだ。ここ「遊」のラーメン(中華そば)は、飾りのない「麺」と「スープ」で勝負する。しかし、うまい。自家製の麺は、煮干のスープをよく吸い、少なめである。ちなみに「スープ増量」は100円増しだ。

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さて「煮干」のラーメンだが、浅草では、やはりこのブログでも取り上げた《つし馬》が名高い。「煮干」についてのウンチクは、その頁を参照してほしい。

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_0019.html

■麺処 遊

■東京都台東区根岸1-3-20JR鶯谷駅徒歩1分)

TEL080-6672-7111

■営業時間/平日 11:3020:30 土・日・祝日 11:3018:00

(材料が完売すると閉店)※お休みは不定期だが、結構多い(文中参照)

51 ※写真:たろべえ撮影 

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ご近所グルメ 浅草【ラーメン食べ歩記総集編】

 このブログで紹介した《浅草》のラーメン関連記事です。

 ここに記載のないお店も10軒近くあります。勝手ながら評価に

値(あたい)しないお店は、除外してあります。

営業時間、お休み等は変更の場合がございます。

あしからず、ご了承ください。

ご近所グルメ《弁慶浅草本店》東京とんこつラーンの名店

ご近所グルメ《与ろゐ屋》浅草和風ラーメンならここだ!!

ご近所グルメ浅草《うりんぼ》本格的博多ラーメンが食べられる!!

ご近所グルメ《大江戸浅草らーめん とおりやんせ》

ご近所グルメ《中華そば つし馬》煮干らーめん本格派

ご近所グルメ 浅草《横浜家系らーめん 潤家

ご近所グルメ 浅草《来集軒》昭和のレトロな中華そば(リンクしない場合は下記URL)

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_57aa.html

ご近所グルメ《ハッスルラーメン ホンマ》浅草店 熾烈なラー

ご近所グルメ 浅草 東京ラーメン正統派《元祖恵比寿ラーメン》

ご近所グルメ 浅草《札幌みそラーメン》絶対おすすめ!!

ご近所グルメ 浅草《麺家はっかい》

ご近所グルメ 浅草《あづま》伝説のDXラーメン

ご近所グルメ 浅草《江戸豊》人情の味中華そば

ご近所グルメ 浅草《ラーメ じゃん腹》東京とんこつ

ご近所グルメ 浅草《柳麺 おいでや》『うんちくと能書の多い ...

ご近所グルメ 浅草《ら麺亭》東京ラーメン発祥の地

ご近所グルメ 浅草《サワダ》いなり寿司と庶民の味ラーメン

ご近所グルメ 浅草《コント浅草本店》塩ラーメンはクリスマ ...

ご近所グルメ 浅草《つけ麺屋 利平》その2「看板のつけ麺食 ...(リンクしない場合は下記URL)

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_eb62.html

ご近所グルメ 浅草《博多らーめん いのうえ》

ご近所グルメ 浅草《馬賊 浅草本店》その2「担々麺」を食べた

ご近所グルメ 浅草《ばんゆう》浅草名物を目指す「岩のりラ ...

ご近所グルメ 浅草《浅草製麺所》その2「炎のつけ麺」!!

ご近所グルメ 浅草《大勝館》で大勝軒の「つけ麺」を

ご近所グルメ 浅草《浅草坦坦亭》おいしい担担麺食べた

ご近所グルメ 浅草《コント浅草本店》塩ラーメンはクリスマ ...

ご近所グルメ 浅草《麺屋武蔵江戸きん》楽しくなるラーメン屋

ご近所グルメ 浅草《つけ麺屋 利平》その2「看板のつけ麺食 ...

ご近所グルメ 浅草《四川ハウス》激辛!!「坦々麺」

ご近所グルメ 浅草《つけめん処 むらさき》昼はつけ麺、夜は ...

ご近所グルメ 浅草《蒼龍唐玉堂 浅草店》

ご近所グルメ 浅草《馬賊 浅草本店》その2「担々麺」を食べた

ご近所グルメ 浅草《札幌ラーメン 熊さん》なつかしい味噌ラ ...

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ご近所グルメ 浅草《インドカリー夢屋》

 浅草駅からすぐ近くの馬道通りと伝法院通りの入口、角に《インドカリー夢屋》がある。各種グルメ本にも登場する「カレー」の名店であるらしい。

 メニューは、大きく「カリー」と「マサラ」に分かれている。

カリー:スパイスライスに合うサラリとしたカリー(スープ状でさらっとタイプ)

マサラ:ナンかライスで選ぶカリー(どっちかといえばドロっとタイプ)

 で、人気があるのは「チキン」と「マトン」だそうだ。えっ!?(マ、マトン?)という感じがしないでもないが、そこは、定番の「チキンカリー」を注文。880円。ランチタイムなので、インド風揚げギョーザの「サモサ」2個付。「辛さ」が4段階から選べることになっている。中辛(ふつう)→やや辛→辛口→激辛の4つ。そこで、「やや辛」にした。

 骨つきチキンは、じっくり煮込んであってやわらかい。カリーは、スープ状、野菜もとけていて、なかなかスパイシーである。テーブルには、薬味として福神漬、生タマネギのみじん切、大根の梅酢漬の3種類だ。もちろん、そこそこおいしいのだけれど、個人的には家庭でおかあさんがつくる、大きな野菜がゴロゴロしている「ライスカレー」が好きなのだけれど。

■インドカリー夢屋

■東京都台東区浅草1-35-8(浅草駅徒歩2分)

TEL:03(3841)1681

■営業時間/11:3015:00(ランチタイム 平日のみ)16:3020:00

 土・日・祝日は、11:3020:00

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《山でやろう。》東京メトロ、9月のマナーポスター

 まったく人騒がせのポスターが、地下鉄(東京メトロ)構内に貼られている。毎月更新されるので楽しみなのだが・・・。さて、9月は《山でやろう。》大きなリュックを背負って、おまけにクーラーボックスもあり、しかも床にはさらにリュックがあって、座席にすわっている女性は、おにぎりを広げてお茶を飲む。毎回登場する大好きなメガネの中年男性は、この大きなリュックが邪魔で、文庫本が読めない。実にシュール。

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 まさかこんな傍若無人な乗客もいないが、ここまでいかなくても「思いやり」の気持が、だんだん薄らいでいるのも事実だ。ちなみに、このポスターの下の部分のコメントと英文は、つぎのように書かれている。

山でやろう。

Please do it on the mountain.

大きな荷物の取り扱いには、ご配慮ください。

Please be considerate of others when holding bulky belongings.

(大きくてかさばる荷物をお持ちのときは、回りの人への思いやりを忘れずに)

 車内マナーについて、いまさらとやかく言うつもりもない。そういえば、海外駐在を終えて帰ったとき、ラッシュ時の混雑した電車に乗ることができなくて困った。地下鉄などは、3本くらい見送ることもあった。そうはいっても会社に遅刻しても困るので、勇気を出して乗り込む。込み合っているから仕方がないのだが、他の人の体(腕、手、腰など)が、当たるのが苦痛だった。ペタペタ肌がくっつく。女性の長い髪の端っこが風に揺れて目の前を泳ぐ。

 最近は、「リュックサック」が、混雑時に迷惑である。車内放送では「リュックは、前にかかえるか、網棚にお上げください」と、アナウンスしているものの、他人に迷惑をかけるのが普通の人は、そんなことをきく耳をもっていないだろう。

 リュックといえば、フジテレビで毎週土曜の朝の番組「目覚まし土曜日」に出てくる、レポーターの山縣苑子(やまがたそのこ)さんは、旅先で、いつもかわいいリュックをもっている。私、お気に入りの番組だ。(蛇足)

http://www.centforce.com/profile/t_profile/yamagata.html

http://ameblo.jp/yamagata-sonoko/ (山縣苑子さん本人のブログ)

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ご近所グルメ 浅草《寿司いさりび》新規開店

 浅草寺近く、伝法院通りのレストラン大宮の角を曲がって、すぐ《寿司 いさりび》がある。先月(2008年8月)オープンしたばかりの、小さなお寿司屋さんだ。なかなか良心的なお店なので紹介したい。おすすめは、ランチタイム。4種類のラインナップ。Photo

海鮮丼980円)※写真参照(たろべえ撮影)

山盛りの新鮮な魚介類のちらし寿司だ。青のりの吸い物(汁物)、野菜サラダ、デザードには一口草だんごがつくという豪華版だ。店からすれば、おそらくこの値段では、元がとれないだろう。

ランチにぎり1,280円)

 新線なネタのにぎりが7カンと小鉢、野菜サラダ、汁もの、デザートがつく。

サーモンとイクラの親子丼980円)

 新鮮なサーモンは、わかるが、イクラの量が多い。汁物、野菜サラダ、デザート。

○【限定5食】まぐろユッケ丼(980円)

Vfsh0021 こちらは、まだ未体験。おいしそうだ。

 浅草寺の真ん前なので、参拝する観光客もやってくるだろう。もちろん地元の人にも人気が出そうな店だ。板前さんが、いい男で清潔感がある。本当にネコの額ほどの小さな店だが、おそらく味といい、良心的な料金といい、よい店に違いない。

なお、夜はおまかせで、一人5,000円か7,000円のコースがあり、おいしいサカナにありつける、断っておくが、ここは世界の観光地・浅草。他の店で「寿司」を食べるなら、最低一人1万円は覚悟しなければならない土地柄だ。

■寿司 いさりび

■東京都台東区浅草2-1-5(浅草駅徒歩5分)

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■営業時間/11:3021:00(水曜休み) 

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※(追記)サーモンとイクラの親子丼980円)食べました。これは絶品です。新鮮なネタは、間違いありません。

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浅草にもあった芭蕉ゆかりの《象潟(きさがた)》

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 先日、浅草三丁目近辺を歩いていたら、松尾芭蕉が『奥の細道』でよんだ一句が、刻まれた碑を発見して驚いた。実は、私はこの句が気に入っていて、芭蕉が実際に尋ねたその土地、現在の秋田県象潟に行ったことがある。

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 象潟や 雨に西施が ねぶの花(きさがたや あめにせいしが ねむのはな)

 「象潟」(地名)は、古来から「松島」と並んで、和歌の題材として取り上げられることが多い“歌枕”の地で、風光明媚な、いまでいえば観光スポットであった。西行法師や能因法師らが、象潟で歌を詠み、この地を芭蕉もたどり、追体験をした。

名勝地や歌枕で名高い「きさがた」の雨に煙る景色の美しさは、まるで(中国春秋時代の絶世の美女、薄倖な)西施(せいし)の姿を連想させる、妖艶な(あやしくつやっぽい)「ねむ(合歓)の花」のようだ・・・、たぶんこんな意味だと思う。

ねむ(合歓)の花は、俳句では夏の季語である。写真を見ていただくと、お化粧をする際の刷毛(はけ)のようで、夜になると静かに花を閉じるところから「ねむ(眠る)」花ともいわれる。

実際の「象潟」は、現在、秋田県にかほ市(旧秋田県由利郡象潟町)のことで、Photo_2 日本海沿いで山形の県境に近い。蚶満寺(かんまんじ)というお寺が、残る。実は、江戸時代の文化元年(1804)、マグニチュード7規模の大地震により、象潟近辺の名勝地「八十八潟(やそはちがた)、九十九島(つくもしま)」も土地が隆起した関係で、陸や沼となってしまい、風景もかわってしまったようだ。現在は、このお寺がひっそり残っていて、松尾芭蕉の先の句碑と芭蕉像が当時の面影を伝えるのみである。なお、JR羽越本線には「きさがた」駅が残っている。

さて、いまの浅草三丁目あたりは、かつて「浅草象潟町」であったそうだ。江戸時代、出羽本荘藩の11代藩主・六郷政鑑(ろくごうまさかね)の下屋敷が、浅草のこのあたりにあったことから、地名になった。(出羽の国だが、山形に近い秋田県である)

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