近世風俗史の決定版といわれる書物に《守貞謾稿(もりさだまんこう)》がある。岩波文庫から『近世風俗志(守貞謾稿)』と題して、全五巻本で出版されている。最近の江戸文化を扱う書物には、必ず参考文献として登場するほど、江戸時代(後期)の庶民の文化について詳しく書かれたものだ。天保八年(1837)から30年間を要して書かれた、まさに「百科事典」。喜田川守貞著。
鮓 すしと訓ず。愚按ずるに、鮓は近来の俗字なり。(略)江戸はいつごろよりか押したる筥鮓(はこずし)廃し、握り鮓のみとなる。(略)
江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまゝなり。【寿司のイラスト】
以上。大略、価八文鮓なり。その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添ふるに新生薑(しんしょうが)の酢漬、姫蓼(ひめたで)等なり。また隔て等には熊笹を用ひ、また鮓折詰などには下図のごとく熊笹を斬りて、これを置き飾りとす。(略)
江戸は鮓店はなはだ多く、毎町一、二戸。蕎麦屋一、二町に一戸あり。鮓屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世は専らこれを置く。また屋たいみせのみにて売るも多し。江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の阿武松のすし、上略して松の鮓と云ふ。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す。
東両国元町与兵衛鮓。
へつつい川岸毛抜鮓は、一六文にて各々笹巻にす。巻きて後、桶に積み、石をもつてこれを圧す。
深川横櫓小松鮓。(『近世風俗志五(守貞謾稿)』P岩波文庫107~P110参照)
江戸時代の貨幣価値は、年代によって大差があるようだが、ここは1文=10円として、当時の「握りすし(鮓)」は、おおむね8文(約80円)。ただしタマゴ焼きは高価で16文(約160円)といったところだ。だから庶民がちょいとつまむには手頃であったし、その1個(1貫)の大きさも現代の倍という話もあり、2、3個で事足りた。ガリ(生姜)もある。「姫蓼(ひめたで)」は花をつける植物だが、食用であったらしい。
鮨詰の折箱には、「熊笹」を仕切りに使っていた。これもうなづける。江戸市中には、寿司屋が多く、1町(約3,000坪)に1、2軒あったようだ。屋台の店が非常に多かったが、当時から店舗を構える有名店もあった。
○松の鮓(すし)〔松が鮨・松の鮨・松鮨〕
本所阿武蔵(深川安宅六軒堀:現在の東京都江東区新大橋)に、文政13年(1830)開店。歌川国芳の錦絵『縞揃女弁慶 松の鮨』では握り寿司が描かれている。天保年間には、浅草第六天前(現在の東京都台東区蔵前3丁目榊神社前)に移転。呉服橋(現在の東京都中央区八重洲1丁目)に支店を出した、とある。握り寿司の元祖との説もある。
○与兵衛鮓〔華屋〕※外食チェーンと同名だがまったく無関係
文政7年(1824)頃、東両国の回向院前に「華屋与兵衛(はなやよへい)」が開業したとされる。与兵衛が握り寿司の創業者であるとの説もある。江戸時代の狂歌にもこの店の繁盛ぶりをうたったものがある。(『武総両岸図抄』)
こみあひて待ちくたびれる与兵衛鮨 客ももろてを握りたりけり
○毛抜鮓〔笹巻けぬきすし〕
こちらは「握り」ではなく、「押しすし」の系統で、元禄15年(1702)、現在の東京都中央区日本橋富沢町、竃(へっつい)河岸で創業。『守貞謾稿』に調理方法が記載されているが、すしダネを酢飯にのせて笹で巻き、桶(おけ)に入れて上から重しの石を置くとある。仕込みの段階で、「毛抜き」を使い、魚の小骨を丁ねいに抜いてたことから「毛抜すし」と呼ばれたわけである。熊笹には、殺菌作用があることが知られているが、保存食にもなったようだ。材料には、鯛・コハダ・アジ・サヨリなどの旬の魚やたまご・海老・おぼろなどが使われた。驚くべきことに、このお店は、現在でも東京都千代田区神田小川町2丁目に《笹巻けぬきすし総本店》として、300年続く「江戸の味」を守っているそうだ。
※残念ながら、『守貞謾稿』で紹介された深川横櫓小松鮓(ふかがわ・よこやぐら・こまつすし)については、調べがつかなかった。
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