« 桐生織物の歴史《西の西陣 東の桐生》書評【その1】 | トップページ | ご近所グルメ 浅草《山口家本店》昭和のラーメンがそこにある »

桐生織物の歴史《西の西陣 東の桐生》書評【その2】

 桐生織物の技術と歴史の変遷を描いた続編、《続・西の西陣 東の桐生》(岡田幸夫著、上毛新聞社刊)である。前書に続いて、(続)では、江戸時代末期・幕末から明治維新、明治・大正・昭和の時代をたどっている。構成はつぎのとおりだ。

1 生糸こそ国の繁栄の道でございます     Photo

2 職人たちが切り開いた近代化

3 立ち上がった起業家たち

4 着物ブームの到来

5 伝統の継承と新境地

 続編はまず「ペリー提督」の艦隊が浦賀に姿を見せるところから始まる。例によって、背景となる大きな歴史の流れを押さえ、各論として織物技術に貢献した人物を取り上げていく手法だ。徳川幕府はペリー来訪により大混乱の中、嘉永七年、日米和親条約を締結。さらに安政五年、日米修好通商条約を結ぶ。

もはや「鎖国」ではない。アメリカとの貿易が開始される。当時の日本からの輸出品の79%が「生糸」であり、花形商品となった。この生糸を早くから商っていたのが、横浜に出た上州商人・中居屋重兵衛であった。重兵衛は、外国奉行を訪ね、“「これから諸外国へどしどし生糸を売らねばなりますまい。生糸こそ国の繁栄の道でございます」と説いた。”実際に上州は、横浜に比較的近く、利根川水運を利用し、輸出用生糸シエアの半分を占めたそうだ。

 さらに明治新政府は“蚕糸業(さんしぎょう)を振興することによって外貨を獲得し、富国強兵策の財源にあてようと”する目的で、日本で最初の「富岡製糸場」を建設する。

わが国“最初の近代化事業”の施設としたのである。

この本を読んで、驚いたのが富岡製糸場の様子である。この工場の勤務体制だが、仕事は一日八時間労働、週六日制。工女たちは全員寄宿寮に入ったが、一部屋(六畳)四人、工場内には病院もあり、フランス人の医師もいた。断じて、「あゝ野麦峠」の《女工哀史》の世界ではなかったようだ。

それもそのはず、明治のはじめに富岡で紡績技術を習得した彼女たちは、出身各地に帰り、絹織物の指導者になったそうだ。この富岡製糸場は、明治五年の開業(1872)以後100年余、現役の製糸工場として働き続け、近代日本の曙を担ったのだった。

 二章では、日米修好通商条約批准のために、安政七年(万延元年1860)、日本ではじめてアメリカを公式訪問した「遣米使節団」の話が取り上げられる。一行はアメリカの軍事施設や造船所などを訪問し、度肝を抜かれる。その中に「小栗忠順(おぐりただまさ)=上野介(こうずけのすけ)」がいた。小栗は「もはや攘夷の時代ではない。近代的造船所が日本にも必要である」と強く認識する。帰国後、勘定奉行の任につくと、小栗は反対論の多い中、資金面ではフランス公使と交渉し、「生糸」を輸出する見返りに204万ドルの借款を得て、建設を進めた。だが、しかし徳川幕府の崩壊と共に、追われる身となった小栗は、領地の上州権田村で斬首されてしまう。明治四年(1871)の造船所完成を見ることはできなかった。その後、明治・大正・昭和に渡り、造船王国日本を支えてきたのも、この横須賀造船所であり、“小栗はまぎれもない、時代の先覚者だったのである。”

 ここで著者の筆が冴える。“語る場所も機会も与えられず、歴史に殉じて死んでいった人たちの心に思いをめぐらさなければ、歴史を読み誤るだろう。”とても含蓄あることばである。

 さらに「殖産興業・富国強兵」の道を進む日本。近代化を進める中で、西陣から海を渡り、フランスで修行をした職人(職工)も数人いた。やがて帰国すると、彼らは習得した織物の最先端である「ジャカード機」などの技術を日本へ紹介。さらに国産機械の製作へと進む。桐生で最初に生産した「羽二重」も輸出品となっていった。

 “織物史をひとつの生地にたとえるならば、時代や環境を経糸(たていと)として、横糸は人と人の出会いや運命という赤い糸で、変化に富んだ模様に彩られている思いを強くするのである。思えば人の絆(きずな)という文字も、そうしたことを暗示しているように思えてならない。”この表現が、たまらく好きだ。

 さて本書は「西陣」と「桐生」を対比させながら絹織物の近代史をたどっていく。根本に流れるのは、“日本における織物産地の王者、横綱はやはり西陣である。”といった基本理念だ。“西陣の心ある織元たちは、いつも高い目標を持ち、それに挑戦を続けている。新しい技術の開拓と進歩が西陣を伝承する方策だと信じている。そこから、染み出してきた技法が、西陣織にまた新しい息吹を与えている。”

それは、著者がいうように、いつの日か、西陣を支持してきた「日本人の美意識や本物志向(粋、心意気)」が消えてしまうと、文化の衰退という意味で、西陣も過去のものになってしまうことへの警告でもある。

本書の表題《西の西陣 東の桐生》は、対決の図式ではない。桐生の織物は“少しでも西陣に近づこうと努力してきた。明日は檜(ひのき)になろうとする、いわばあすなろ精神である。”その意味で、この表題は“桐生人たちの心意気”をあらわしている。

桐生における織物の歴史経過を正当に評価し直すために、それぞれに活躍してきた人々を取り上げ、まとめることが、著者・岡田幸夫の執筆意図ではなかろうか。

 過去を見つめ、明日を、未来を、「桐生」という「地方」から考えてみるきっかけになる本である。

|

« 桐生織物の歴史《西の西陣 東の桐生》書評【その1】 | トップページ | ご近所グルメ 浅草《山口家本店》昭和のラーメンがそこにある »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/177442/43258270

この記事へのトラックバック一覧です: 桐生織物の歴史《西の西陣 東の桐生》書評【その2】:

« 桐生織物の歴史《西の西陣 東の桐生》書評【その1】 | トップページ | ご近所グルメ 浅草《山口家本店》昭和のラーメンがそこにある »