« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月の21件の記事

桐生織物の歴史《西の西陣 東の桐生》書評【その2】

 桐生織物の技術と歴史の変遷を描いた続編、《続・西の西陣 東の桐生》(岡田幸夫著、上毛新聞社刊)である。前書に続いて、(続)では、江戸時代末期・幕末から明治維新、明治・大正・昭和の時代をたどっている。構成はつぎのとおりだ。

1 生糸こそ国の繁栄の道でございます     Photo

2 職人たちが切り開いた近代化

3 立ち上がった起業家たち

4 着物ブームの到来

5 伝統の継承と新境地

 続編はまず「ペリー提督」の艦隊が浦賀に姿を見せるところから始まる。例によって、背景となる大きな歴史の流れを押さえ、各論として織物技術に貢献した人物を取り上げていく手法だ。徳川幕府はペリー来訪により大混乱の中、嘉永七年、日米和親条約を締結。さらに安政五年、日米修好通商条約を結ぶ。

もはや「鎖国」ではない。アメリカとの貿易が開始される。当時の日本からの輸出品の79%が「生糸」であり、花形商品となった。この生糸を早くから商っていたのが、横浜に出た上州商人・中居屋重兵衛であった。重兵衛は、外国奉行を訪ね、“「これから諸外国へどしどし生糸を売らねばなりますまい。生糸こそ国の繁栄の道でございます」と説いた。”実際に上州は、横浜に比較的近く、利根川水運を利用し、輸出用生糸シエアの半分を占めたそうだ。

 さらに明治新政府は“蚕糸業(さんしぎょう)を振興することによって外貨を獲得し、富国強兵策の財源にあてようと”する目的で、日本で最初の「富岡製糸場」を建設する。

わが国“最初の近代化事業”の施設としたのである。

この本を読んで、驚いたのが富岡製糸場の様子である。この工場の勤務体制だが、仕事は一日八時間労働、週六日制。工女たちは全員寄宿寮に入ったが、一部屋(六畳)四人、工場内には病院もあり、フランス人の医師もいた。断じて、「あゝ野麦峠」の《女工哀史》の世界ではなかったようだ。

それもそのはず、明治のはじめに富岡で紡績技術を習得した彼女たちは、出身各地に帰り、絹織物の指導者になったそうだ。この富岡製糸場は、明治五年の開業(1872)以後100年余、現役の製糸工場として働き続け、近代日本の曙を担ったのだった。

 二章では、日米修好通商条約批准のために、安政七年(万延元年1860)、日本ではじめてアメリカを公式訪問した「遣米使節団」の話が取り上げられる。一行はアメリカの軍事施設や造船所などを訪問し、度肝を抜かれる。その中に「小栗忠順(おぐりただまさ)=上野介(こうずけのすけ)」がいた。小栗は「もはや攘夷の時代ではない。近代的造船所が日本にも必要である」と強く認識する。帰国後、勘定奉行の任につくと、小栗は反対論の多い中、資金面ではフランス公使と交渉し、「生糸」を輸出する見返りに204万ドルの借款を得て、建設を進めた。だが、しかし徳川幕府の崩壊と共に、追われる身となった小栗は、領地の上州権田村で斬首されてしまう。明治四年(1871)の造船所完成を見ることはできなかった。その後、明治・大正・昭和に渡り、造船王国日本を支えてきたのも、この横須賀造船所であり、“小栗はまぎれもない、時代の先覚者だったのである。”

 ここで著者の筆が冴える。“語る場所も機会も与えられず、歴史に殉じて死んでいった人たちの心に思いをめぐらさなければ、歴史を読み誤るだろう。”とても含蓄あることばである。

 さらに「殖産興業・富国強兵」の道を進む日本。近代化を進める中で、西陣から海を渡り、フランスで修行をした職人(職工)も数人いた。やがて帰国すると、彼らは習得した織物の最先端である「ジャカード機」などの技術を日本へ紹介。さらに国産機械の製作へと進む。桐生で最初に生産した「羽二重」も輸出品となっていった。

 “織物史をひとつの生地にたとえるならば、時代や環境を経糸(たていと)として、横糸は人と人の出会いや運命という赤い糸で、変化に富んだ模様に彩られている思いを強くするのである。思えば人の絆(きずな)という文字も、そうしたことを暗示しているように思えてならない。”この表現が、たまらく好きだ。

 さて本書は「西陣」と「桐生」を対比させながら絹織物の近代史をたどっていく。根本に流れるのは、“日本における織物産地の王者、横綱はやはり西陣である。”といった基本理念だ。“西陣の心ある織元たちは、いつも高い目標を持ち、それに挑戦を続けている。新しい技術の開拓と進歩が西陣を伝承する方策だと信じている。そこから、染み出してきた技法が、西陣織にまた新しい息吹を与えている。”

それは、著者がいうように、いつの日か、西陣を支持してきた「日本人の美意識や本物志向(粋、心意気)」が消えてしまうと、文化の衰退という意味で、西陣も過去のものになってしまうことへの警告でもある。

本書の表題《西の西陣 東の桐生》は、対決の図式ではない。桐生の織物は“少しでも西陣に近づこうと努力してきた。明日は檜(ひのき)になろうとする、いわばあすなろ精神である。”その意味で、この表題は“桐生人たちの心意気”をあらわしている。

桐生における織物の歴史経過を正当に評価し直すために、それぞれに活躍してきた人々を取り上げ、まとめることが、著者・岡田幸夫の執筆意図ではなかろうか。

 過去を見つめ、明日を、未来を、「桐生」という「地方」から考えてみるきっかけになる本である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

桐生織物の歴史《西の西陣 東の桐生》書評【その1】

 群馬県桐生市は、浅草から東武線の特急「りょうもう号」で1時間50分程、伝統的な上州の織物の町である。桐生近辺には渡良瀬川沿いに観光スポットがある。足尾銅山、草木ダムに富弘美術館などへは、何度か足を運んだ。また、やや山奥だが、梨木(なしき)温泉もあり、入浴して名物のキジ鍋を食べた旅もあった。自然な山々と季節に応じた景色が楽しめる場所である。

 桐生は平成17年6月、近隣の新里村・黒保根村を吸収合併し、人口128,000人の町。江戸時代頃から西の西陣に対し、「東の桐生」という心意気で、織物産業を発展させてきた。そんな桐生の「織物」の歴史や郷土の人々に焦点をあて、丹念に調べ、書き起こした書物に出会った。《西の西陣 東の桐生》(正・続)、岡田幸夫著、2006年上毛新聞社刊である。

 ほとんど一般的ではない地方の歴史や文化を知ることは楽しい。《西の西陣 東の桐生》は、つぎのような構成になっている。

1 新町の創設 

2 天下の西陣

3 昇竜の発展期

4 田舎絹から名産地へ

5 桐生新田屋

6      崋山の見た桐生

大きな日本史の潮流や時代背景をきちんとおさえてから、その地方の「織物」に関わる歴史やポイントとなる人物を取り上げる手法で書き進む。だから本当に読みやすい。ちょうど江戸時代の幕末近くで、二部作の(正)が終わる。とくに各章末のコラム(エッセイ)が親切である。これは絹織物の作業工程をたどるもので、「繭、糸、織、染、文、新」と続く。

「繭」の項では“蚕(かいこ)は桑の葉をどんどん食べて育つ。(略)一月足らずのうちに、体積で千倍、重量で一万倍の大きさに成長する。(略)しかもものすごいスピードで桑を食べ、その音がザワザワと雨音のようだ。”と教えてくれる。

***********************************

内容では「5 桐生新田屋」がおもしろい。吾助という架空の人物(おそらく桐生では何人も実在したであろう事業家の一人)を主人公にしたミニ小説なのだが・・・。

“どのような産業も、優れた製品をつくることだけでは産業にならない。商品に見合った販売があってはじめて成り立つ。桐生の織物においては、販売は買継商(かいつぎしょう)と呼ばれる人たちがあたった。”

桐生新町に育った吾助は、十五歳で買継商に奉公に出る。店の主人の好意で寺子屋にも通わせてもらい、吾助は熱心に勉強もし、もちろんまじめに働く。将来は自分で店を持ち、江戸に出たり日本全国を行商に歩きたいと夢を抱く。奉公して三年を経過したころ、商売で江戸へ行かせてもらった。桐生織物の大きな市場は、花のお江戸である。浅草の雷門から、浅草寺へ行く。お参りが目的ではなく、集まってくる江戸の人たちが、どんな着物を身につけ、はたまた流行はなんだろうと、調べるのだった。大事なことは、消費者の求める着物、売れる商品を織ってもらい、流通にのせることだった。

やがて信用を得て、五年が経過、吾助は主人から京都・西陣へ修行に行くように命じられる。京都の問屋での修行が始まる。少し慣れてくると、桐生と西陣の格の違いに気が付く吾助。“考えてみればそれは無理からぬことであった。西陣には1000年、日本の都で織物を生産してきた長い歴史がある。桐生は、西陣から技術を学び、中級以下の織物を生産しているだけだ。”

“織物の材料や道具は(西陣も桐生も)変わりはしない。違いは人の姿勢であり。”吾助は気づく。その後、桐生に戻った吾助は、独立し、機屋(はたや)を始める。気配りのできる嫁をもらい、益々、事業は伸びていった。“(織物は)製造ありきの発想ではなく、どのような商品がお客に受け入れられるか、いわばマーケットイン型の商品企画が”必要なことは、京都の問屋での経験で知っていた。そして吾助は、“西陣を超えるもの”をつくることになる。帯が、将軍の「お召し」の品となったのである。(御用達というところだろうか)続きは本書でどうぞ。

 著者の筆が、ぐいぐい読者を引き寄せる本である。

Photo_2 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《黒船の晩餐メニュー》その3再現された【ペリー提督饗応料理】

 ペリー一行をもてなした「琉球料理(沖縄料理)」と横浜での「本膳料理」が、再現され、いまでも食することができる。(晩餐とは限らない。午餐もある)

 まずは、【ペリー提督饗応料理】の沖縄版で、ペリーをもてなすために琉球政府が贅を尽くした《御冠船(うかしん)料理》である。中国皇帝からの使者を歓迎する琉球王朝の宮廷料理の最高峰といわれるものだ。再現したのは、「沖縄都ホテル」。沖縄ならではのラフティー(豚バラ肉の角煮)、足てびち(豚足)、イラブ汁(海へび)、貝類、いくら、伊勢えび、あわびの豪華版だ。酢の物、煮物、お造り、炒め物、蒸し物、揚げ物など、料理法も多様で、しかもヘルシーな料理だ。コースでお一人様15,000円(2名から予約制)で、JALツアーズにもこの夕食を組み込んだパッケージ・ツアーがあるようだ。(資料提供:沖縄コンベンションビューロー)

Photo_2 

 一方、横浜の老舗料亭「濱新」(中区吉田町)が提供するのは、《ペリー提督饗応の御重》、おせちである。横浜開港150周年を記念した商品で、江戸幕府がペリー艦隊ご一行をもてなした料理を再現、おせち料理にアレンジしたものだそうだ。こちらも予約制で、そごう横浜店での販売。38,600円。鯛やあわびに、煮物づくしの豪華版だ。

 この「濱新」は、ペリー饗応料理を会席膳でも再現していたことがあり、写真が残っている。確かに献立は残っているものの、調理方法や味付け、調味料の詳細までは書かれていないため、大変再現に苦労したそうだ。(資料提供:ヨコハマ経済新聞)

Photo_3

 さてさて、琉球か横浜か、どちらに軍配が上るか・・・。実はすでに決着がついていて、ペリー自信が書き残した日記等で、確かに見た目はヨコハマの本膳料理かもしれないが肉を食べられた点や油を使った調理法で、琉球料理を彼は、賞賛していた。沖縄に行きますか。それともちょいと横浜へ出かけてみますか。

Hamashin

| | コメント (2) | トラックバック (0)

《黒船の晩餐メニュー》その2幕府からペリーへ

 1854年3月8日、横浜での幕府側のペリーご一行様への接待の昼食は、会席料理(本膳料理)のフルコースであった。一説によれば、一人前が三両(現代の通説で、江戸後期の換算が、1両3万円として、9万円、さらにその後の幕末換算では9千円となる)で300人前の料理だから、いずれにせよ、大変高価な高級料理である。この料理についてのペリー一行の感想は、『歴史のかげにグルメあり』(黒岩比佐子著、文春文庫)にあった。

Photo

 実はペリー艦隊は、浦賀に入港する以前、1853年5月26日、琉球(那覇)に寄港していた。しかも時の琉球王朝の晩餐会に招かれ、「琉球料理」を満喫していた。その時の献立は、同書によれば「ゆで卵、魚の蒲鉾、油で揚げた魚、冷たい焼魚、豚の肝臓を細く刻んだもの、砂糖菓子、(中略)薄い豚肉の片れを揚げたもの」などであった。この「琉球(沖縄料理)」に、いたく満足した様子だ。

 横浜で提供された本膳料理は、メニューを見る限り、鯛や平目にあわびなどの魚介類に牛蒡、大根、うど、山菜などの日本の伝統的な食材だ。肉類にいたっては、鳥肉で鴨が出された程度で、これではアメリカ人の食欲を満足させることはできなかったに違いない。事実、ペリーに同行したアダムスの記した『ペルリ総督日本遠征記(三)』によれば、この時の饗宴は、「日本人の饗応は、非常に鄭重(丁重)なものではあったが、全体として、料理の技倆(技量)について好ましからざる印象を与へたに過ぎなかった。琉球人は明らかに、日本人よりもよい生活をしてゐた。」

 肉料理中心に育った欧米人には、淡白で薄味の会席膳は、まったく評価されなかったといえる。おそらく、渋々料理に箸をつけ、すすめられるままに酒の盃を重ねたのだろうと思う。そういえば、私もハワイに駐在したばかりの一ヶ月間は、ステーキやロブスターばかり食べたが、そのうちあっさりした日本食ばかり口にしたくなったものだ。食文化は、このようにはっきりと存在する。まさに「歴史のかげにグルメあり」なのだ。1856_3 (ペリー1856年)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【にっぽん 旅の文化史】《黒船の晩餐メニュー》その1幕府からペリーへ

 嘉永六年(1853)、ペリーが軍艦4隻を伴い、浦賀に来航。その後、紆余曲折(うよきょくせつ)があり、幕府は翌嘉永七年(1854)、「日米和親条約」を結ぶことになる。このあたりの事情は、以前ブログに書いた。

《日米和親条約》オランダ語が共通語?黒船「日本海外交流史」 http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_3ab5.html

黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその1

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/1_dc09.html

 さて、今回紹介したいのは、この条約締結前後、日米で、交互に晩餐会が開催され、それぞれの宴に供された食事のメニューである。1854年3月8日、横浜で日本とアメリカの代表団の第一回公式会談が開かれた。その際、江戸幕府は、アメリカ側一行300名を接待したそうだ。もちろん伝統的な会席料理(本膳料理)で、当時の有名料亭、江戸「百川」や浦賀の「岩井屋」が仕出しをしたと伝わる。

一、長熨斗敷紙三賓(ながのししきさんぽう)一、盃内曇土器三ツ組 一、銚子

【酒饌膳】酒宴のための前菜(一之膳)

一、 吸物(鯛、ひれ肉) 一、干肴(松葉するめ、結び昆布) 一、中皿肴(はまぐり、魚目、青山椒)一、猪口(唐草かれい、同防風、山葵線)(二之膳)一、吸物(花子巻鯛、篠大根、粉山椒)

一、 硯蓋 お土産用(紅竹竹輪蒲鉾、伊達巻鮨、うすらい鮨、花形長芋、綿昆布、九年母、河茸線)一、猪口(土佐醤油、いか酒、辛子、味噌)一、刺身(平目生肌身、めじ大作り、鯛小川巻、若紫蘇、花山椒)(三之膳)一、すまし 吸物(ささい、あん掛平貝、富貴の頭線)一、うま煮 丼(車海老、押銀杏、粉松露、目打白魚、しのうど、鶏卵葛引、肉寄串海鼠、六ツ魚小三木)一、大平(生椎茸、細引人参、火取根芋、露山椒)一、鉢肴(鯛筏、友身二色蒸、風干ほうぼう、菜の花、自然生土佐煮、土筆麹漬、酢取生姜)一、茶碗(鴨大身、竹の子、茗荷竹線)

【本膳】〔二汁五菜本膳〕 (一之膳)一、膾なます(鮑笹作り、糸赤貝、白髪大根、塩椎茸、割栗、葉付金柑)一、汁(米摘入、千鳥午房、布袋しめし、二葉菜、花うど)一、煮物(六ツ花子、煮抜豆腐、花菜)一、香の物(奈良瓜、花塩、味噌漬蕪、房山椒、しの葉菜)

(二之膳)一、蓋 (小金洗鯛、よせ海老、白髪長芋、生椎茸、揃三ツ菜)一、猪口(七子いか、鴨麩、しの牛蒡 )一、汁(甘鯛背切、初霜昆布)一、台引(大蒲鉾)一、焼物 (塩鯛)

(三之膳)一、吸物(吉野魚、玉の露)一、中皿肴(平目作り身、花生姜)一、盃一、銚子一、飯鉢一、通ひ一、湯一、水 Img_edited  「酒饌膳しゅせんぜん(酒宴のための酒の肴)」がつき、本膳料理の大変豪華なもの。魚介類が主体で「鯛」や「平目」、「蛤」、「海老」など、祝いの膳である。だがしかし、ペリー一行の口にあったのかどうか、疑問である。(参考:『ヨコハマ洋食事始め』草間俊郎著、雄山閣刊 『なぜ、江戸の庶民は時間に正確だったのか?』山田順子著、実業之日本社 写真イラストは草間氏の同書より)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

酒のつまみ《〆鯖》と《釣り鯵》

 秋から冬へ、日本酒や焼酎のお湯割りがおいしい季節になってきた。そこでいきつけの浅草《いさりび》で、大将おすすめの「つまみ」をいただく。Photo

    〆鯖

こちらは、千葉富津産。海は三浦半島の松輪と同じ。絶妙な酢のしめ具合でうまい。つまみもよいが、握りもよい。

    釣り鯵

鯵(あじ)は、網で獲るものより、漁師さんが竿で釣りあげたものが、鮮度も違う。傷もつかず、格段の味だそうだ。タタキでいただく。淡路産。

Photo_4

    生牡蛎(かき)

前回も紹介したが、岩手大船渡「赤崎」産。なんと15㎝もある。身がしまってうまい。大将によれば、このおいしさも1月頃までとのこと。

 このほか、先付には「帆立しんじょう」。ホタテのすり身をすりおろして、小麦粉、片栗粉で練って、茹でたもの。カマボコのような食感だが、ホタテの風味が生きている。

 なんだか、また行きたくなってきた。

Photo_3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

紅葉と雪の《湯西川温泉》

Vfsh0355_2

 栃木県は湯西川(ゆにしがわ)温泉へ出張した。ここは平家の落人(おちうど)伝説の残る山間の温泉である。「八百年の歴史の里」である。“今からおよそ八百有余年前、壇の浦の戦いで敗れた平家は全国に逃れて行きました。湯西川は平家が落ちびた秘境の地として今に伝えられています。秘境の面影は今なお色濃く残っており、野趣あふれる露天風呂、山野の食材から工夫した鷹狩料理など、他では味わえない旅が満喫できることでしょう。(湯西川白雲の宿山城屋パンフレットより)”Vfsh0354_2

  寒波の到来で、本来、紅葉のピークシーズンなのに、なんと紅葉を通り過ぎ、一挙に一面が雪景色の湯西川温泉だった。驚いたのは、この山を下りたら、鬼怒川温泉(龍王峡)などが、まだまだ「紅葉」の真っ盛りであったことである。わずかに湯西川から4、50分の距離なのに。ちょっと前に積雪15㎝で貸切バスがチェーンを巻いて走行していたが、下ると快晴。こんな秋から冬への(この場合は冬から秋への)季節の鼓動を身近に感じられるのも、旅の醍醐味。旅は日常生活からの逃避であると、よく耳にするが、これほどまでに貴重な体験をすると思わなかった。Vfsh0359

※写真/湯西川温泉(山城屋から)、下:龍王峡(鬼怒川温泉)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ご近所グルメ 浅草・札幌ラーメン《えりも》再び

 浅草4丁目、「札幌ラーメン」の《えりも》にまたまた行ってしまった。今度は、もうひとつの、みそラーメン「旭川ラーメン」を食す。お店のご主人にきくと、実はここ浅草で店を開く以前、向島(東京都墨田区)で4年ほど中華の店をやっていて、昭和41年当時、「みそラーメン」として出していたが、自分で満足できず、メニューからはずしたことがあったそうだ。その後、現在の場所へ《えりも》は移転。Erimomise345

 昔の味をなつかしむお客さんの声が強く、かつての「(初代)みそラーメン」の名前を「旭川ラーメン」にして、再登場させたものだ。ちなみに現在の「(二代目)みそラーメン」は、浅草に移ってから始めた。それでも37年前の話。

 《えりも》の「旭川ラーメン」は、信州味噌をベースにしている。具は炒めた挽肉ともやし、キクラゲにコーン。白ゴマを入れ、ポイントの「ラー油」でぴりっとさせる。中太麺との相性もよい。白味噌なのに、なかなかあっさりしている。ファンも多いそうだ。これで650円。

343_edited

 先日いただいた「みそラーメン」は、北海道味噌のブランド品【紅一点赤つぶし】をベースに秘伝のタレを用いているという。こちらは、唐辛子が味の決め手。甘みさえ感じる、昭和40年代から50年代のサッポロラーメン全盛期の味である。(紅一点は甘口の味噌、北海道は岩田醸造)

 《えりも》のラーメンは、人生の大先輩でもある、昭和15年生まれのご主人の、生き方そのものだ。(若く見えるけれど、68歳だそうだ)さて、信州味噌も北海道味噌も原料は、米、大豆、塩に酒精(発酵アルコール分)だが、十分に熟成させてこそ、風味も味も良くなる。

344

自分も昔の友もそれぞれの道を歩いてきた。決して平坦な道ばかりではなく、晴れた日ばかりではなかったに違いない。なんだか、長い間離れていた、そんな幼友達に30年ぶりで再会したような、ほのぼのとした懐かしさを覚える店である。

《えりも》のデータは、前回のブログ参照。

« ご近所グルメ 浅草《えりも》昭和の札幌ラーメンに出会

| | コメント (0) | トラックバック (1)

ご近所グルメ 浅草《味の工房 菜苑 本店》純レバとDXラーメン

 「伝説のDXラーメン」や「純レバ」(純粋レバー炒め)は、浅草・すしや通りの《あづま》が有名だ。ところが実は、こちらが本家の店、というのが、千束通りの《味の工房 菜苑(さいえん) 本店》。やはり「純レバ」や「DXラーメン」に加えて、「餃子」と「タンメン」も売りだ。地元の人によれば《菜苑》が兄で、《あづま》が弟さんの経営。ついでに「純レバ」は、《菜苑》の方がうまいという。では、DXラーメンは?Saienmise340

 《菜苑》でDXラーメンを食べてみた。スープは、昔ながらの中華そば的に鶏ガラや豚バラにカツオ風味の和風だしだ。中細麺に具材は、メンマに刻みネギ、そして大量のチャーシューの角コマである。ここまでは、《あづま》と同じ。しかし、《菜苑》では若いお兄さんが作ったせいか、麺に茹で具合もイマイチだった。(少しのびていた)しかもスープの底のチャシューコマ軍団は、不揃いで、《あづま》のような立方体は少ない。

だから軍配は《あづま》にあげたい。

Saidxramen1341

 《菜苑》のDXもそこそこおいしいラ-メンだが、《あづま》のDXは、進化している感じがする。値段は同じ800円。店の上看板に小さく「長男」と記してあるものの、ほとんど先代(あづまのマスターのお兄様)は、姿を見ることがない。威勢のよいおかみさんが、中華鍋を振って純レバをつくっている。(昼間は娘さんも調理をするとか)

 やはりDXラーメンは《あづま》に限る。両方の店の常連である、地元の寿司屋のおねえさんによれば、「DXラーメン」は《あづま》がおいしいのだそうだ。(残念ながら私、レバーは、あの食感が苦手で、あまり食べられないので比較できない)

《菜苑》の麺類は、タンメンか、裏メニューの「もやしそば」がイチオシとのこと。(もやしそばは、なぜかメニューにはないが、注文すれば常連に限り、つくっていただけるそうだ)餃子は、両店共、甲乙つけがたく、うまいそうだ。これらは、次回の楽しみにとっておくことにしよう。

Saidxramen342

        味の工房 菜苑本店

        東京都台東区浅草3-10-6(花屋敷の裏、ひさご通りを抜け、言問通りを渡り、千束通りに入るとすぐ左にある)

        TEL:03(3871)6515

        営業時間/11:30~14:00(月~金)11:30~15:00(土日祝日)

17:00~夜中04:00 ※木曜日は絶対休み

| | コメント (0) | トラックバック (0)

江戸時代の屋台様々《東都名所高輪廿六夜待遊興之図》

 広重の天保12年から13年(18411842)の作といわれる《東都名所高輪廿六夜待遊興之図(とうと・めいしょ・たかなわ・にじゅうろくやまち・ゆうきょうのず》がある。この二十六夜待というのは、江戸時代のお月見のひとつ。中秋の名月とは違って、旧暦の七月二十六日(新暦では8月後半から9月半ば)、深夜から明け方に出る逆さ三日月のことで、庶民は夕方から繰り出し、本来は念仏を唱えながら月に浮かぶ「阿弥陀三尊」を飲めやうたえやで、待ったそうだ。(高輪は、目の前に広大な海が開け、海原から上がる月を眺めるには絶好の場所として、有名な月見の名所であった)

Photo_2

 江戸時代のファーストフード、食物屋の屋台が、たくさん出ている。左から「汁粉(おしるこ屋)」、「ほおずき屋」、「だんご(団子)屋」、「麦湯(麦茶)屋」、「二八そば屋」、「天麩羅(天ぷら)屋」、「イカ焼き屋」、「水売り屋」、「寿し(すし)屋」、「水かし(水菓子)屋」。海に近い屋根付の店は、茶屋である。

 この絵で興味深いのは、庶民の男女が太鼓、鼓(つづみ)、三味線、拍子木を持ち、「宴会」に備えている仕草である。また、だんごの屋台では、串をくわえている男もいれば、「二八蕎麦」の屋台裏では、どんぶりを抱えてソバをすすっている男も。江戸前の新鮮な魚介類を素材にした天ぷらや寿司の屋台は、手づかみで食べる。右端の「水菓子屋」は、くだものを売っている。この当時のフルーツといえば、「マクワウリ」が王様。スイカもあった。

 このように江戸後期になると、屋台は一般的になり庶民の胃袋を満たしていく。とくに天ぷら屋などは、火を使うため、川べりや橋のたもとで商売をすることが多かったそうだ。(画像はクリックで拡大)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

うまい!!武蔵野うどん《涼太郎》所沢

 「武蔵野うどん」の名店、東京東村山の【きくや】直営の《涼太郎》へ行く。所沢駅東口、徒歩5分。11時に開店だが、常に満員でうどんがなくなると店じまいとなる。0328

 LL、肉汁、天つきを注文する。つまり、うどんの量は「LL=4玉」で、つけ麺のつけ汁は「肉汁」で「かき揚天ぷら付き」。これで650円。とにかくうどんの量が多い。最低でもL(3玉)で、Lがふえると玉もふえ50円増しになる。したがって3L(5玉)、4L(6玉)という具合。基本のlは500円、肉汁・天つき・のりは各50円。

 地粉を使う関係で茶色がかった「手打ちうどん」である。のどごしが抜群だ。肉汁は、カツオのだしがきいている。うれしいのは、薬味だ。山盛りの刻みネギ、ゆでホウレン草、すり生姜が付く。3L、4Lでもいけそうだ。

0329

 このほか、ノーマルなつけ汁もあれば、カレー汁もある。込み合っていて、ゆっくり味わって食べるのは、気がひけるが、やっぱり「武蔵野うどん」の王道を行く店であることは間違いない。たくさん理屈を述べるより、一度試していただく価値のあるうどんだ。

        (きくや 所沢店)手打ちうどん 涼太郎

        埼玉県所沢市くすのき台3-14-4

        TEL:04(2993)8877

        営業時間/11:00~14:45(日曜定休)売切次第終了

0330

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ご近所グルメ 浅草《えりも》昭和の札幌ラーメンに出会

 観音様の裏(観音裏)、言問通りの向こう側は、昔から居酒屋、小料理屋、スナック、寿司屋などが、小さな路地にたくさんある。千束通りの浅草3丁目の交差点を右折したところが、浅草4丁目。夜は、赤い灯(ひ)青い灯で大変ネオンがきれいな町となる。ここに札幌ラーメンの《えりも》がある。夕方から深夜まで営業する酔客相手の店だが、いまでも変わらず、昭和40年から50年頃の札幌ラ-メンを出す。Vfsh0327_editedはっきりいって、かなり古い店舗だ。

 カウンターで10席程度の小さな店内。店の中も油にまみれ、決してきれいではないのだけれど、迷わず「味噌ラーメン」を注文する。店主の松島さんは、昭和46年(1971)、開店して37年。その頃からまったく味は変わっていないそうだ。中華鍋にラードをひき、挽肉ともやし、キクラゲに細切りのニンジンをさっと炒める。ラーメンどんぶりには、あらかじめ、秘伝の味噌を入れ、スープを注ぐ。茹で上がった麺を入れ、先程の炒めた具を載せ、コーンでトッピングする。

 こってりとした味噌ラーメン。生意気な10代の頃、食べた味だ。中太の黄色の平打ち麺もうまい。650円は正直だ。本当に奇抜ではなく、正統派の「札幌味噌ラーメン」に出あった。スープは飲み干した。同じ台東区の《熊さん》と同じような味の系列である。もちろん、醤油ラーメン、塩ラーメンもある。旭川ラーメンもある。餃子もある。「あの頃」に戻ってみたくなったら、《えりも》へ行くべし。

        札幌ラーメン えりも

        東京都台東区浅草4-17-3(東武浅草駅から徒歩10分)

        TEL:03(3875)4316

        営業時間/17:30~深夜2時、3時(状況による)日曜定休

Vfsh0323_edited

Vfsh0324_edited

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ご近所グルメ 浅草《Mr.デンジャー》ステーキハウスの「ハンバーグ」

 プロレスラー大仁田厚と有刺鉄線デスマッチをおこなった男「松永光弘」。世間では、ミスター・デンジャー(危険な男)と呼ぶ。1997年、東京の墨田区にミスター・デンジャーが開店させたのが、ステーキの店《Mr.デンジャー》立花本店だそうだ。自らも厨房に立ち、浮き沈みの激しいレスラー人生の合間に、堅実な飲食店経営を続けているそうだ。この店の暖簾分け(支店)が、錦糸町店と「浅草観音店」である。317

 ランチタイムはお得だ。ステーキは、150g1,300円、200g1,600円、250g1,800円、300g1,950円、400g2,000円でいずれもライスと味噌汁付。ハンバーグは、150g750円、200g850円、300g1,000円で、こちらもライスと味噌汁が付く。

 ハンバーグの200グラムを食べた。粗挽肉で香辛料もたくさん使われている。しっかりした味付けだ。お好みでテーブルの甘口か辛口のソースをかける。付け合せは、にんじん、いんげんにコーンだ。十分に食べ応えがある。

318

 隣のサラリーマンは、300グラムのステーキを食べていた。やわらかそうで、すぐに平らげた。よく見るとメタボの人だ。

 さて、《Mr.デンジャー》「浅草観音店」だが、浅草駅からだと、観音様の裏手、言問通りの浅草寺病院、隣のampmの小道を入る。派手な店のつくりだから、すぐにわかるはずだ。一度、行ってみる価値はある。

■ステーキ&グリル Mr.デンジャー 浅草観音店

■東京都台東区浅草2-28-21

TEL03(5828)6751

■営業時間/11:0014:30 17:3023:00 月曜定休

200319

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ご近所散歩 ちょいと浅草《伝法院》庭園

Vfsh0316

 浅草寺本堂落慶50周年大開帳記念でおこなわれている「大絵馬寺宝展と庭園拝観」を見た。もちろん古くから浅草寺に奉納されてきた大きな絵馬の展示もすばらしいのだが、今回感動したのは、いつも非公開の(浅草寺)本坊の「伝法院」の庭園である。

 伝小堀遠州作の回遊式庭園はすばらしい。また、この庭園から見る五重塔の姿が、意外である。いつもは、門を閉ざしている伝法院からの五重塔は、まさにはじめての体験なのだ。これは、実際に撮影した写真を見れば一目瞭然。

 残念ながら、この特別公開もまもなく終わってしまうのだが・・・。D_edited_2

(浅草寺さんのチラシ参考)

Img_edited

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ご近所グルメ 浅草《いさりび》ちょいと一杯

 何度か紹介した、寿司《いさりび》。ランチタイムもよいが、夜は静かな寿司居酒屋である。気さくな大将に、旬のサカナのうんちくを教わりながら今宵も酒を飲む。

 《いさりび》で一番のお気に入りは「イカの塩辛」である。もちろん自家製でイカのワタに塩でつくる。酒やみりんも使わないそうだ。いまは青森産のスルメイカを細かくさばき、焼酎でぬめりをとる。約一週間熟成する。これが絶品である。日本酒に合う。311_2

 続いて旬は「生牡蛎(かき)」である。岩手県は大船渡、赤崎産だ。ここの牡蛎は、中身で12、3cmはある大粒。実にうまい。《いさりび》の大将によれば、築地でいま、一番のおすすめの牡蛎だそうだ。肉厚で海のミルクそのもの。この牡蛎が2個で600円というのも良心的だ。0309

 次に「握り寿司」の王道の「こはだ」である。こはだは、言ってみれば寿司を握る職人の腕が、そのまま現れる代物(しろもの)だ。手をかけて下ごしらえをしなければ、出来ない。これと同じように、「〆さば」も職人の腕の見せ所だ。《いさりび》では、これを握りで出す。絶妙のうまさだ。

その時期に応じて、旬のサカナを仕入れ、季節でもっともうまい素材を使っている。そして手頃な値段で提供する。お金を出せば、そんな季節の魚介類をふんだんに提供する店は、都内にいくらでもあるだろう。そこんところを抑えて、出してくれる《いさりび》が、いま私のイチオシである。(店の詳細はこのブログで紹介済み。以下)

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-7167.html

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-6eab.html

※追記

《いさりび》で提供している「鯖(さば)」は、三浦半島の南端、「松輪(まつわ)」のサバである。8月から11月にかけて旬だ。魚体に黄色の筋があり、築地では、”松輪の黄金サバ”と呼ばれ人気が高い。なるほど肉厚でトロのようだ。

310

| | コメント (4) | トラックバック (0)

ご近所グルメ 浅草《並木藪蕎麦》

 浅草は雷門を背にして駒形橋西詰方向へ進む並木通りに、老舗のおそばやさん《並木藪蕎麦(なみきやぶそば)》がある。近代的なビルの谷間に木造の建物だ。店内も大正から昭和初期のままの造りで、会計もレジスターではなく、調理場の左に小さな帳場がある。従業員も年配のおばちゃんばっかり。_edited

 店内はいつも込み合っていて、ほとんどが年配の男性や中年の女性。もちろん場所柄からか外国人観光客も器用に箸でそばをすすっている。

 迷わずに「もりそば」(700円)を注文。量が本当に、少ない。つゆがしょっぱい。藪蕎麦の特徴は、この濃厚なそばつゆ。そばをつゆに浸してはいけない。ちょこっと、つけてすするのだ。実際には、土瓶(どびん)に入った「そば湯」で薄めて食べてちょうどよい。(おそらく、もりそばなら3枚くらい楽に食べられる分量)

Vfsh0328_2 

 ここ《並木藪蕎麦》は、「かんだやぶそば」と「池之端藪蕎麦」とならんで暖簾(のれん)分けをした「藪蕎麦御三家」だそうだ。老舗というのは、総じて量が少なく、値段も高い。しかし同時に日本の伝統的な食文化を伝える歴史の重みに裏打ちされた「雰囲気」も味わえる。そういう意味では、ほとんど物足りないもりそばを、700円で食べるのも仕方がないわけだ。

『蕎麦屋のしきたり』(藤村和夫著、NHK出版)の「蕎麦屋のつまみ」のところで

興味深い記述があった。

 つきだしの最高傑作は「藪蕎麦」ではじめた「蕎麦味噌」でしょう。「藪御三家(神田連雀町、浅草並木、上野池之端)」でも中身は少し違い、神田では刻み牛蒡が入っていますし、他の三軒では「煎りヌキ」(脱穀した蕎麦の実を煎ったもの)が混ぜられています。これがあまり評判が良いので、ほかの蕎麦屋も真似をしたり商社がこしらえさせて卸したりしましたので、あちらこちらで見られるようになりました。

 次回は、日本酒の熱燗を頼もう。「蕎麦味噌」をつまみにしよう。締めは、物足りないもりそばを。

    並木藪蕎麦

    東京都台東区雷門2-11-9

    TEL:03(3841)1340

    営業時間/11:00~19:30(木休み)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

なつかしの《プラッシー》とか《チェリオ》とか

 昭和30年代から40年代の「清涼飲料水」といえば、《プラッシー》PLUSSYを思い出す。なぜか、酒屋さんや食料品店では手に入らない。お米屋さんでしか売っていなかった。登場したのは昭和32年(1957)だそうで、武田食品工業(現ハウスウェルネスフーズ)が、米穀店にだけ卸して流通させた。当時はお米を米屋さんが、各家庭に配達していたので、かなり重たい20本瓶入りの1カートンも自宅に届けてくれた。

Img_edited_2 

 《プラッシー》は、オレンジジュースである。果汁も少しは入っていたようだが、いわゆる「オレンジ色」ではなく、「黄色」だった。ビタミンCを補給する(プラスする)という意味で、「プラスビタミンC」が「プラスC」→プラッシーと名付けられた。

 飲んでみると、特別おいしい気がしなかったのは、自分だけだろうか。

どうもお米屋さんの店先に並ぶ《プラッシー》を見ると、こども心にも奇妙な思いがしてならなかった。お米が現在のようにどこでも自由に買える時代ではなく、食管法(食糧管理法)の統制下にあり、お米屋さん(米穀商)で買うか、配達してもらうしかなかったから、このジュースも政府の統制品なのかと思った。テレビCMは“お届けします、プラッシー。お米屋さんでね”的なコメントであったと記憶している。なお、ハウスウェルネスフーズでは、現在、「ニュープラッシー」シリーズを販売しているそうだ。

やはり「清涼飲料水」を一番よく飲んだのは、部活で運動をした後、中学高校の帰り道に立寄ったパン屋や駄菓子屋で飲んだ《チェリオ》CHEERIOである。こちらは、オレンジ、グレープが主力で、もちろん310ml入りの瓶だ。果汁は、わずかに1%と記憶している。瓶のまま、するっと引き出す「自動販売機」が、店先にあった。当然、王冠がついたままで、販売機の栓抜き部分に瓶の首を突っ込んで、栓を抜く。

Img_edited_3

グイグイ飲んだが、なぜか舌が赤くなった。かなり合成着色料が使われていたのだろう。しかしうまかった。なお《チェリオ》の登場は、昭和42年(1967)。

この《チェリオ》は、いまも関西地方を中心に「チェリオ・コーポレーション」として存在し続けている有名飲料メーカーだ。「ライフガード」なんて商品は、コンビニの定番になっている。とくに瓶入りのチェリオは、東海地方で、今もなお販売されているという。もちろん、いまのものは飲んでも舌は染まらないはずだ。

(※イラスト:たろべえ 当時の写真を参考にした)

| | コメント (2) | トラックバック (2)

《渡辺のジュースの素》

 昭和の喜劇王「エノケン」こと榎本健一の歌うCMソングが耳に残っている。当時のテレビコマーシャルだが、もちろんモノクロだ。昭和35年から40年頃だと思う。

J

あーら おや まあ ホホイのホーイと もう一杯

渡辺のジュースの素(もと)ですもう一杯

憎いくらいに うまいんだ 不思議なくらいに 安いんだ

ヘヘーン 渡辺のジュースの素ですよ

オレンジ パイン グレープと 三つの味が どれでも一杯分5円

安い うまい ジュース

それに くやしいくらいに便利です

Vfsh0265_edited

 あの頃は、今と違って「清涼飲料水」や「果汁100%ジュース」などない時代。麦茶があったくらいだ。そんなこどもの頃、《渡辺のジュースの素(もと)》は大人気だった。粉末のジュースの素をコップに入れて、上から水道の水を注ぐ。かき混ぜるとジュースになる。家には大きな缶入りのお徳用があった。プラスチックのスプーンで、少し大目に粉末を入れる。濃いめのジュース。なめると、舌が赤く変色したものだ。

昭和40年代になって、そのジュースの粉末の内容が明らかになる。人工甘味料「チクロ」で、発がん性があり、色をつけた合成着色料も体に悪い。しかも無果汁なのだ。

それでもこどもたちにはご馳走だった。若い方には想像もつかないだろうが、粉末ジュースしかなかったのだ。自動販売機もない。コンビニもない。

Vfsh0266_edited

 しかし不思議なことに、昭和30年から40年台頃に、こども時代を過ごし、こんなに体に悪いものを摂取した我々の世代もちゃんと元気に生きている。むしろ最近の若い人達より、「強い」のはなぜだろう?

(エノケンの写真と説明は、浅草六区で)

| | コメント (3) | トラックバック (1)

ご近所グルメ 浅草《ラ・ブラッチョ》本格的なイタリアン

Vfsh0316  浅草駅の松屋デパートから江戸通りをはさんだ向かい、裏は隅田川という場所に、本格的なイタリアンのレストランがある。お店の名前《La Braccio(ラ・ブラッチョ)》である。(イタリア語で腕とか、腕前といった意味)

 30年近くイタリアンの修行を積んできたオーナーシェフが、奥様と二人でやっている。しかし店内は意外に広く、1階と中2階があり、最大で70名もお客さんが入る。おすすめは、ランチ。1,000円、1,250円、1,800円の3種類だ。基本の【1,000円コース】は、サニーレタス・ニンジンの「野菜サラダ」、「本日のパスタ」または「魚料理」または「肉料理」。これにライスかパンが付き、コーヒー・紅茶(ホットまたはアイス)。

1,250円コース】は、1,000円のものに「自家製ケーキ」が付く。【1,800円コース】は、ボリューム満点で「本日のパスタ」が出て、「魚料理」または「肉料理」を選ぶ。その他は同じ。

 ちなみに食べに行った日の具体的なメニューは、つぎのとおり。

○本日のパスタPasta(ABCから選ぶ)

A:ベーコンとナスのオリーブオイル、B:魚介ミンチのトマトソース、C:ツナとパブリカのクリームソース

○魚料理Pesce

カジキマグロのソテー、温野菜添え

○肉料理Carne

豚ロースのグリル、オイルレモン

 で、【1,000円コース】を注文。「本日のパスタ」は迷わず、トマトソース系だ。まず、運ばれて来た「野菜サラダ」も大盛。このシェフ、聞けば“有機栽培”の野菜にこだわっている。確かに新鮮で甘い野菜だ。フレンチ・ドレッシングもしつこくない。パスタもうまい。直輸入のイタリアトマトを使う。「魚介」はイカやカジキ、エビなど、ニンニクとバジルがいい。「ポモドール」のような味わい。もちろん、食後はアイス・コーヒー。さらにサービスで自家製のキャラメルプリンも付いた。

お店の雰囲気も家庭的で“Home made Italian Restaurant”というキャッチフレーズそのままだ。しかも手頃なお値段で、食後のコーヒー(紅茶)まで。実に良心的そのもの。隅田川花火や桜の時期には、特等席の店になるらしい。にぎやかな浅草の一角から少し離れているだけに、味で勝負する、気取らないレストランだ。また行きたい。

        La Braccio(ラ・ブラッチョ)

        東京都台東区花川戸1-2-8(松屋の向かい、マクドナルドの並び)

        TEL:03(3847)6073

        営業時間/11:30~15:00 17:00~22:30(ほぼ年中無休)

Vfsh0322

0321

318

| | コメント (5) | トラックバック (1)

《店でやろう》東京メトロ11月のマナーポスター

 毎月恒例の東京メトロのマナーポスターは、《店でやろう》である。車内で大騒ぎをする若い衆を外から、シュルールな中年のメガネのおじさんが見ている。

コメントはつぎのとおり。

店でやろう

Please do it a pub.(パブ:飲み屋でやろう)

車内での騒ぎすぎにご注意ください。

Please do not make a commotion on the train.

Photo

 現実には、狭い地下の車内で酒を飲んだり、大声で歌う若者を見ることってあんまりない。私は見たことがない。むしろ、長い脚を投げ出して、座席を占領するやからが多い。さて、仮にこんな光景を目にしたとしても、決して注意はしない方がよい。とにかくいまは、危ない時代だ。「逆ぎれ」が怖い。注意したばっかりに、命をとられる可能性すらある。どうか、こんな場合には駅係員か車掌さんに申し出よう。

   

ところでcommotionは、感情の高まりを示す単語。「電車内で興奮しないでね」といった表現だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

なつかしの地下鉄《銀座線》

 いまは亡き私の父は、大正9年(1920)の生まれであった。千葉の銚子、鍛冶屋の長男だった父は、結構裕福な暮らしぶりだったようだ。私がこどもの頃、父がよく話してくれた自慢話を思い出す。

 昭和2年(1927)、「東洋唯一の地下鉄道」のキャッチフレーズで有名になった、日本初の地下鉄《銀座線》が、上野と浅草の間で営業を開始した。開業の年、まだ6歳くらいの父は、母親に連れられ、下の妹と一緒にこの地下鉄に乗ったそうだ。《銀座線》は、上野・浅草間、営業キロ2.2㎞であった。駅はいまと同じで、上野→稲荷町(いなりちょう)→田原町(たわらまち)→浅草。現在の乗車時間は、約6分だ。(東京メトロ)

 詳しく調べてみると、《銀座線》の上野浅草間開通は、昭和2年12月30日。随分年末の忙しい時期に開業したが、なるほど浅草への「初詣」には、間に合わせたわけだ。本当は、もう少し早く開業する予定であったが、首都圏を襲った大正12年(1923)の大正大震災の影響で、昭和にずれ込んだようだ。

Photo_4

 ところで、浅草駅構内には、この開業当時のポスターが、レリーフで残されている。昭和初期のグラフィックデザイナー、「杉浦非水(1876~1965)」の作である。パリのメトロをイメージしたのだろうか、ハイカラな紳士淑女や良家のお子様が、描かれている。

まさに真冬の格好だ。それにしてもこの時代にすばらしい出来栄えのポスターである。この色合いといい、デザインといい、現代でも十分に観賞に耐える。

 また、初期の頃の《銀座線》の車両は、ボディーが黄色で塗られていたそうだ。東西線の葛西(かさい)にある「地下鉄博物館」に、車両が飾られている。

 ちょっと前まで、この《銀座線》に乗ると、直流と交流の切り替えなのか浅草駅の手前で車内の電気が一瞬切れて、非常灯がついた。もちろん車両は、惰性で前に進む。駅に入ると再び電気はついた。これもなつかしい思い出である。

Photo_2

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »