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《野口英世》の左手

 千円札の肖像「野口英世」博士の一生は、まことに立派なものである。英世は明治9年(1876)、猪苗代湖近くの農家で生まれた。いまでもこの生家は、整備され残っている。1歳半の明治11年(1878)、いろりに落ちて、左手に大火傷を負う。Hideyo

 今般伝わる伝記物語では、15歳の時、会津若松の会陽医院の渡辺先生により、左手の手術を受け、火傷によって癒着していた左手にメスが入れられ、少しは指が開くようになったといわれる。しかもこの当時は、麻酔技術もなく、大変な痛みをこらえ、野口英世は手術を受けたそうだ。これにより、いままで拳(こぶし)だけだった左手が、なんとか指も見えるようになったようだ。

 その後、野口は医学の道に目覚め、自分も人を助けようと決心し、勉学に励み、ついには医者の免許も取得する。数々の研究により、京都帝国大学からは医学博士を、東京帝国大学からは理学博士の称号を得る。しかし実際には、野口は左手を自由に動かすことは不可能であり、医者として患者を手術することはできないと悟り、臨床医ではなく、研究者の道を選択せざるを得なかったそうだ。

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 猪苗代の野口英世記念館には、野口の不具な左手を写した写真が、1枚だけ残されている。左手をかばうようにした写真や銅像が基本だが、本当は手術によっても左手は、動くようにはならなかったようだ。火傷により、神経も麻痺し、いくらか指が開くことはできたが、ものをつかむことはなかったらしい。

 1928年、西アフリカで黄熱病のため、惜しくも亡くなる。51歳。しかし、赤ん坊の頃の、左手の事故があってこそ、ここまで名を残す研究者であったのは間違いない。せつないけれど、野口博士のすばらしい業績も「いろり」に落ちて、大火傷を負ったことが、きっかけであった。美談のように語られる伝記も、現実を直視してみなくてはならないこともある。

 記念館で左手が映った写真を見た時、強いショックだった。しかしこれが現実なのである。(中写真の右側が野口の手術直後の撮影、下写真は上野公園内にある銅像、左手は開かない)

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コメント

そうなんですか 野口英世の左手は手術で良くなったと思っていましたが。伝記を読むとそれがきっかけで医学の道を目指したような事でしたね。でもたろべえさんのこの記事で なぜ野口博士が患者を相手にする医者ではなく研究者の道を選んだのかわかりました。偉大な人物ですね。

投稿: 通りすがりの旅人 | 2008年12月12日 (金) 09時55分

通りすがりさん
コメントありがとうございます。
福島県猪苗代湖畔にある「野口英世記念館」は、博士の功績をたたえるものが、展示されています。文中で書いた「左手」を写した写真もあります。いろりに落ちて火傷を負った手は、丸くかたまってしまいました。手術で癒着した指をはがしていったようですが、完全には戻りませんでした。結局、ジャンケンの「グー」の拳が、いくらか「パー」に近くなって程度でした。それにしても野口博士の生き方は、偉大です。

投稿: もりたたろべえ | 2008年12月15日 (月) 11時23分

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