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【にっぽん旅の文化史】渡辺崋山《游相日記》を読む「その1」

Kazan5  渡辺崋山(わたなべかざん1793~1841)は、江戸時代後期の画家であり、儒学 者・陽明学者、洋学者即ち思想家であり、三河田原藩の江戸詰め家老(政治家)である。その著作『慎機論(しんきろん)』等で鎖国政策を批判し、「蛮社の獄(ばんしゃの獄)」により、幕府から国許蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、最終的には責任をとって自刃した思想家のイメージが強い。

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 この崋山が、藩命を受け、関東近郊を調査、民情視察などの目的で旅したことはあまり知られていない。しかも彼は、その類稀(たぐいまれ)な絵の才能から、旅行中に目にしたことがらを文章に記し、風景・人物などを筆でスケッチして残している。それらは、公式な報告者や意見書と違って、きわめて私的な日記であり、渡辺崋山の「人となり」が正直に表れていて興味深い。まさに旅する文化人の飾り気のない一面を物語る文献である。

 天保二年(1831)9月、門人の高木梧庵を伴い、相州(神奈川県)厚木に旅をした。その時の旅日記が《游相日記(ゆうそうにっき)》である。日記の原本は大正大震災で焼失してしまったが、初期の写真印刷であるコロタイプによって、複製が残されていた。(写真は、京都大学附属図書館所蔵の谷村文庫より)

 この《游相日記》の旅は、藩の側用人であった崋山にとって、公式には「江戸湾周辺の海防事情視察」が目的であったようだが、実はもっと重大な任務があった。

 渡辺崋山は田原藩十一代藩主・三宅備前守康友(やすとも1792~1809)に仕えていた。康友の二男・三宅対馬守康和(やすかず1798~1823)が十二代、その弟・三宅備前守康明(やすてる1800~1827)が十三代を継ぐ。しかし康明が、在任わずか4年で死去すると、子どもがなかったため藩内には後継者問題が勃発。崋山らは十一代康友と侍女(側室)の「お銀様」との間にできた22歳の三宅友信を推した。だが逼迫(ひっぱく)する藩財政を救うため、藩の重鎮らは、持参金付きで播磨姫路藩主酒井家の九男を迎え、十四代三宅土佐守康直(やすなお1811~1893)とする。本来藩主の血筋であった友信は、文政十一年(1828)、隠居の身となり、田原藩下屋敷(文京区小石川植物園近く、通称は巣鴨別邸)に住んだ。崋山は友信のお世話役担当となった。巣鴨別邸に移った三宅友信は、隠居といっても崋山より13、4歳年下で、文芸や蘭学に理解があり、洋書の収集など、崋山のよきパトロンでもあった。この友信も男子を設け、人の親となったことから、世話役の崋山に「実母・お銀様探し」の旅を申しつける。

 このお銀は、田原藩上屋敷に奉公にあがり康友の寵愛を受け、友信を産むが、実家の母親の、急死のため相模の実家に帰り、その後二度と藩邸に戻ることはなかった。当時、小姓として、康友のもとに仕えていた14、5歳の崋山にとっても、お銀様は思い出深い、憧れの人であったに違いない。渡辺崋山39歳、《游相日記》の旅は始まる。

(《游相日記》は「日本庶民生活史料集成第三巻」三一書房刊、1969年による)Kazan5_2

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