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【にっぽん 海外交流史】黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその1【再録】

※再録

 1853年(嘉永6年)、世にいう「黒船」ペリー艦隊が浦賀にやってきた。そのとき江戸幕府側の首席通詞(通訳)として、活躍したのが堀達之助30歳であった。達之助は長崎でオランダ通詞の家に生まれ、後に同じ通詞の堀家の養子となった。

アメリカ大統領の親書を携えたペリーは、翌1854年再び艦隊で来訪。しかし今度は、達之助が次席で首席通詞には、長崎でオランダ語はもとより、「英語」を習得した森山栄之助が就任した。(達之助はある程度、英語の読み書きはできたようだが、会話の経験はまったくなかったようだ。その点、アメリカ人捕鯨船員・マクドナルドから会話を習っていた栄之助が首席通詞として抜擢された。)ペリーたちとの交渉の通訳は、栄之助がおこない、達之助はもっぱら外交文書の翻訳(オランダ語からの日本語訳)に従事した。当然のことだが、達之助はエリート・森山栄之助に嫉妬したに違いない。

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その後堀達之助は、下田開港に伴い、下田詰(現地駐在)となる。この地でアメリカ商人(実はドイツ人)のリュドルフと知合う。彼が乗船していたのは、米国旗を掲げ、アメリカに雇われたドイツ船・グレタ号であった。ドイツ人船長とリュドルフは、日独通商を要請する奉行宛の書簡を達之助に託す。しかし彼はその書簡を個人の判断で上申することなく、保留していたため、罪にとわれ1855年投獄。4年間の牢獄生活を強いられた。獄中では、死罪となる吉田松陰とも接触があった。

1859年、幸い達之助の通詞としての技量を知っていた「蕃書調所」(東京大学の前身といわれる学問所)の頭取・古賀謹一郎の尽力により、赦免、釈放され、蕃書調所の翻訳方に採用される。ここで達之助は、古賀の命を受け、本格的な“英和辞書”の編纂にたずさわることになった。

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それまで日本初の英和辞典といわれる『諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)』という辞書はあった。掲載されていたのは英単語が6,000語にすぎなかったため、実用には遠かった。さらにこの辞書に附された日本語の発音が、オランダ商館のブロムホフの発音した「オランダ訛りの英語」であったため、基本的な英語の発音とは程遠いものであったそうだ。たとえば、Personns(個人、人ペルソンス=パーソンズ)、summer(夏ソムムル=サマー)、 sugar (砂糖シュガル=シュガー)、drink(飲むデイリンキ=ドリンク)、 war(戦争ワル=ウォー)という具合だ。

 そして18ヵ月の努力の結果、堀達之助は、35,000語にも及ぶ英単語と日本語訳を掲載した『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』を発刊(200部印刷)した。これは日本英学史学会によれば、1862年「日本初の本格的」英和辞書である。ちなみに袖珍(しゅうちん)とは、ポケットの意味で携帯できる字引なのである。その後もこの辞書は改訂や増補を重ねたばかりか、明治期はほとんどの英和辞典の基礎となった。

写真:上/幕末の堀達之助、下/英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書、大阪女子大図書館蔵

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫

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黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその2

日本初の本格的な英和辞典「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」を編纂した堀達之助であったが、蕃書調所(洋学所)に奉職中、頭取の古賀謹一郎から箱館への転勤を命じられる。箱館奉行所での通詞の辞令であった。実際には(ペリー再来航時の森山栄之助、堀達之助に次ぐ第三席通詞・名村五八郎が江戸へ転勤になり)有力な通詞が箱館奉行所に少なくなり、弱体化したための苦肉の策で達之助は呼ばれた。

当時の箱館奉行・小出大和守は、達之助の英語力に期待した。ある時アイヌ人の墓をあばいて骨を掘り出し、標本として盗む事件が続発。犯人はイギリス人と判明し、小出は裁判をおこなうが、その通訳に達之助を指名する。しかしペリー来航後、10年もの間、達之助は英会話の経験がなかった。読み書きはできたが、英語の聞き取りや発言ができない。自分の英会話がすっかりさびついていることに気づき、失望するのだった。その後、小出は達之助に文書の英訳と和訳の仕事に専念させることにした。仕事はきびしい。江戸の蕃書調書、開成所の教授方で英和辞書を編纂した学者という、輝かしい堀達之助の業績だが、裁判の席で十分な通訳ができなかったことで、彼の評価は著しくさがってしまった。

 旧幕府軍と新政府軍との箱館戦争をはさみ、達之助は新たに「函館」の開拓使の外国局に採用される。このとき旧幕府軍の指導者として奮戦し、戦死してしまった指導者に中島三郎助もいた。(ペリー来航時に通詞・堀達之助とともに黒船に乗り込んだ、浦賀奉行所の与力である)

 やがて明治2年、達之助は47歳になっていたが、「美也」という後妻を娶る。役所に出した届けでは、「妻、34歳」であった。美也には二人の連れ子がいたが、彼はこの子たちも養育する決心であった。町でも評判の美人で気働きのよい妻であった。しかし幸せは長くは続かない。明治5年、美也は病死。50歳になっていた達之助には、この愛する妻を亡くしたことがかなりこたえたのだろう。老衰を理由に辞職してしまう。

吉村昭は『黒船』の中で堀達之助を見事に描写する。 **********************************************

初来航したペリー艦隊を迎えて主席通詞として働いた頃が頂点で、それ以後は、起伏はあったものの下り坂をくだりつづけてきたような気がする。リュドルフ事件で思わぬ嫌疑をうけて長い牢獄生活を強いられ、釈放後、開成所教授方として「英和対訳袖珍辞書」を編纂したものの、その辞書も自分に無断で改正増補され、いじくりまわされている。

さらに思いもかけぬ箱館詰を命じられて、そこで味わわされたのは、英会話からはなれてしまっていたため無能な通詞として扱われた屈辱感であった。(略)そうした境遇の中で、突然、眼の前に現れた美也は、かれに大きな喜びをあたえ生き甲斐ともなった。(略)不遇な自分に、短い期間ではあったが、天があたえてくれた宝であったのだ。 ******************************************************************

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そして、達之助は生まれ故郷の長崎、次男のいる大阪で静かに静かに晩年を過ごし、72歳で亡くなった。私は思う。恵まれない人生も確かにある。体制や大きな社会の中で、思うように生涯を歩める人は、稀ではないかと。数々の出来事を通じて、堀達之助の生き方をみると、後妻の美也に出会った50歳近い幸せを除けば、大きな時代の潮流に押し流されていったようだ。しかし、日本初の本格的な英和辞書をつくった功績は、永久不滅のものであることは、いうまでもない。

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫 ※写真:晩年の堀達之助(『堀達之助とその子孫』より)

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コメント

幕末の英語教師は大変興味深く拝読しました。幅広いカテゴリーでビックリです。

投稿: いさりび岡ちゃん | 2009年10月26日 (月) 12時33分

いさりび岡ちゃんbottlebeer
コメントありがとうございます。

 大学時代の専門が東洋哲学および近世日本思想史でありましたので、江戸時代についてはいまも勉強中です。

 とくに「江戸時代の旅」や幕末の「海外交流史」は好きなテーマです。

投稿: もりたたろべえ | 2009年10月27日 (火) 12時35分

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