« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月の22件の記事

【にっぽん 海外交流史】《遣米使節団》の滞在ホテルその1

 アメリカ、ワシントンでの日米修好条約の批准と現地事情を視察する目的で、幕末の安政七年(1860)、日本初の公式な外交使節団が、アメリカ船「ポーハタン号」に乗船して派遣された。世にいう《遣米使節団(けんべいしせつだん)》だが、派遣中の3月に年号が(安政から万延に)かわったため、「万延の使節団」とも呼ばれている。実はこの使節団には同時に護衛船「咸臨丸」が同行した。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎といった有名人が乗っていたため、彼らは遣米使節ではなかったが、本体の使節団より話題性があったようで、歴史に残っている。幕末の外交史上では、本来の《遣米使節団》の歴史的意義をもう少し取り上げてほしいところである。

 安政七年1月22日(1860年2月13日)、横浜港を出発した使節一行は、ハワイ(ホノルル)を経由して、アメリカ・サンフランシスコに到着。その後、パナマを経由で再びアメリカ・ワシントンに到着した。(5月15日)ワシントンでは、当時のブキャナン大統領に謁見、条約の批准書を渡した。

 日本側の使節団は、合計77名。メンバーのナンバー3は、以下のとおりだ。

Photo_2

正使:外国奉行兼神奈川奉行・新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)

副使:箱館奉行兼外国奉行兼神奈川奉行・村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)

監察:目付役・小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ・後の小栗上野介おぐりこうずけのすけ)※イラスト:左)村垣、中)新見、右)小栗

 使節団はワシントンに25日間滞在したが、その当時の宿泊先が《ウィラーズ・ホテル》であった。いまから150年も前の話だが、現在でも5星の最高級ホテルとして残っている。いまはウィラード・インターコンチネンタル・ワシントン(Willard Inter Continental Washington)という。ホワイトハウスにも近い。

Photo_3

 《ウィラーズ・ホテル》は、1850年開業だが現在の12階建ての建物としては、1904年創業になっている。1968年には営業を停止し、1986年に再開、2000年にリューアル・オープンしている。多くの国賓やVIPが宿泊したことで知られている。2008年には金融サミットがおこなわれ、麻生総理も滞在している。現在の部屋数332、そのうちスィートルームは40部屋である。

Photo_4

 幕末の《遣米使節団》一行を迎えたことが、150年のこのホテルの輝かしい歴史の中でいまも語り継げられている。

      The first Japanese delegation to visit the United States stayed at the Willard in 1860. Three ambassadors and their entourage of 74, traveled to Washington to sign the first trade and friendship treaties between the two countries. One of the delegates wrote, “The house of the Secretary of State is not as fine as the hotel.”

      日本で最初のアメリカ合衆国への使節団一行は、1860年ウィラード・ホテルに滞在した。3名の大使(新見・村垣・小栗)と従者たち74名は、日米修好通商条約の批准のためにワシントンへやってきた。一行の一人は、「どんな大名やお殿様の屋敷より、このホテルはすばらしい」と書き残している。

(参考:宮永孝『万延元年のアメリカ報告』新潮社、服部逸郎『77人の侍アメリカへ行く(万延元年遣米使節の記録)』講談社、イラストも2冊から)

H Was

| | コメント (0)

ご近所グルメ 浅草《いさりび》秋の握り

 浅草弁天山の小さなお寿司屋さん《いさりび》で、秋の握りをお好みで食す。

Vfsh0577

 まずは「生カキの昆布しめ」。煮切りしょう油と塩で。牡蠣(かき)は三陸産。うまい。海のミルクとは、よく言ったものだ。

Vfsh0578

 珍しく「中トロ」。アイルランド産の天然本マグロである。北緯65度、水温3~4℃の海で獲れる本マグロは、身がしまり脂の乗りもよく、おいしい。

Vfsh0579

 おなじみ、この時期限定の「生イクラ」ごはん。北海道産。大好きなネタ。

Vfsh0581

 江戸前寿司に欠かせない正統派のネタ「スミイカ」(淡路産)。歯ごたえしっかり、甘みもある。

| | コメント (0)

ご近所グルメ 浅草《本場 尾道ラーメン 鳶》ランチタイムは500円

 今年(平成21年)8月にオープンした《本場 尾道ラーメン 鳶(とび)》だが、すでに最新のラーメン本やラーメン・サイトにも、都内有数の尾道ラーメンの名店と紹介されている。久しぶりに行ったら、「ランチタイム」限定で看板の尾道ラーメンが、なんと500円で食べられるようになった。(通常は600円)

Vfsh0574

前回の記事

ご近所グルメ 浅草《本場 尾道ラーメン 鳶》新規オープン

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-22ea.html

Vfsh0576

 開店当初より、全般的に50円値下げをした。尾道ラーメンは650円であったし、赤蔦ラーメン(ニラ・もやし・ミンチ・赤唐辛子・ニンニク)は850円→800円、白蔦らメン(ニラ・もやし・ミンチ・ニンニク)も同額。

Vfsh0573

 500円になったが、別段味はかわらない。細い平打ち麺に、万能ネギ、メンマ、チャーシュー2枚が入る。スープは小魚の効いたしょう油味で、完璧な和風でうまい。

※お店のデータは、前回の記事参照。

※閉店しました。

| | コメント (0)

【にっぽん 海外交流史】スフィンクス前、武士の集合写真

 嘉永六年(1853)のアメリカ使節ペリーの来訪、日米和親条約調印、日米修好通商条約調印と幕末から維新まで激動の日本。幕府はこの時期、アメリカやヨーロッパ、ロシア等列強国に使節団を送った。そんな中、攘夷派のほこさきをかわすため、横浜港を閉鎖(鎖港)する目的でフランスをはじめ、西欧諸国との交渉を目的に、1863年、「遣仏使節 池田筑後守一行」が派遣された。

 この使節団は交渉に失敗し結果を出せず、フランスとの外交交渉のみで帰国したため、ほとんど日本の歴史ではふれられることはない。しかし、旅の途中で立ち寄ったエジプトのギザのピラミッド、スフィンクス前で撮影された武士たちの集合写真は、実に興味深いものである。

Photo_4

 使節団一行は、35名。行程はつぎのとおりであった。

文久三年(1863)12月27日、使節団江戸出発、12月29日出航。翌1864年1月6日上海着、7日上陸、1月14日フランス郵船ヘーダスプ号にて上海出帆、1月17日香港着、アルフェー号に乗り換え、18日香港上陸、19日香港出帆。1月23日(仏領)サイゴン着、上陸、25日出帆、26日シンガポール着、上陸、27日出帆、2月3日セイロン島着、上陸、2月12日アデン着、13日上陸、19日スエズ上陸。汽車にてカイロへ。

2月28日ピラミッド見物。スフィンクス前。3月1日国王の招宴。3月3日アレキサンドリア着、4日仏汽船ペルリン号にて出帆、10日マルセーユ着。ホテルドマルセーユ宿泊。11日市長訪問、博物館・公園見物。12日マルセーユ出発。13日パリ着、グランドホテル宿泊。3月20日外務省外相訪問。4月9日交渉。5月17日・20日パリ発、マルセーユへ。26日英船に乗船、27日出帆、6月3日アレキサンドリア着、英船にて、7月18日横浜着。

 スフィンクスを見て、当時の武士の記録。

「石造の大像あり、顔面より乳上まで現れ、以下は土中埋没す、面闊(ひろ)く方五尺程、又此辺土砂中より銅石造りの古仏、銭幣など往々に拾ひ取るものある由なり。思ふに古代の大梵刹の跡なるべし。(欧行記)

※尾佐竹猛著、『幕末遣外使節物語』講談社学術文庫より

※写真:「スフィンクス前の武士たち」他、エジプト大使館観光局

Photo_2

 いまから140年以上前のスフィンクスは、胸の上までしか地上に出ていなかった。実際に添乗員でエジプトに行く機会があったが、いまは発掘も進み、足の部分まで現れている。周辺の道も整備され、砂漠地帯はほんの少しだ。ピラミッドやスフィンクスのすぐ近くに駐車場や土産屋がたくさんあることは、訪れてみなければわからない。

(参考:別冊歴史読本『世界を見た幕末維新の英雄たち』新人物往来社刊)

Photo_3

| | コメント (2)

【にっぽん海外交流史】日本初サムライの英語教師《マクドナルド》その2

日本初の英語教師であったラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald)の『日本回想記』(“Japan, Story of Adventure of Ranald MacDoanald, First Teacher of English in Japan”)から少し紹介したい。

写真:『日本回想記』から引用) 

松前(北海道)から長崎へ送られたマクドナルドは、不法入国者であったため、名刹崇福(そうふく)寺の支院「大悲庵」の座敷牢に監禁された。しかし決してひどい扱いを受けたわけではない。食事も週に一度は豚肉が供され、1日おきに入浴も許され、当時、出島にあったオランダ商館からはコーヒーや西洋の新聞の差し入れもあった。

まもなく長崎のオランダ通詞(通訳)たちに、マクドナルドは生きた英語を教示することになるが、その14人の生徒たちの名前が『日本回想記』にも記されている。

1        西与一郎

2        植村作七郎

3        森山栄之助

4        西慶太郎

5        小川慶重

6        塩谷種三郎

7        中山兵馬

8        猪俣伝之助

9        志筑辰一郎

10    岩瀬弥四郎

11    堀寿次郎(残念ながら堀達之助ではない)

12    茂鷹之助

13    名村常之助

14    本木昌左衛門

驚いたことに、最近まで「日本英学史」の世界でも11番の堀については、堀達之助

とされていた。これはマクドナルドが“Judgero Hory”、“Inderego Horn”と耳で聞きとり、巻き残したことにより、この時代ならば「堀達之助」に違いないといった推察から、達之助は森山と共に、長崎でマクドナルド先生から英語を習ったと、定説になってしまったようだ。もし、達之助が森山同様に、日本ではじめての英語教師からこの時使える英会話を学んでいれば、その後の数奇な運命もちがったものになったであろうと思う。時代の趨勢は、まちがいなくオランダ語から英語の必要性に動いていた。

(参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂刊)

※稲上譲さんのご指摘により、誤りを訂正しました。

(

Mc_edited_3

| | コメント (2)

【にっぽん 海外交流史】黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその1【再録】

※再録

 1853年(嘉永6年)、世にいう「黒船」ペリー艦隊が浦賀にやってきた。そのとき江戸幕府側の首席通詞(通訳)として、活躍したのが堀達之助30歳であった。達之助は長崎でオランダ通詞の家に生まれ、後に同じ通詞の堀家の養子となった。

アメリカ大統領の親書を携えたペリーは、翌1854年再び艦隊で来訪。しかし今度は、達之助が次席で首席通詞には、長崎でオランダ語はもとより、「英語」を習得した森山栄之助が就任した。(達之助はある程度、英語の読み書きはできたようだが、会話の経験はまったくなかったようだ。その点、アメリカ人捕鯨船員・マクドナルドから会話を習っていた栄之助が首席通詞として抜擢された。)ペリーたちとの交渉の通訳は、栄之助がおこない、達之助はもっぱら外交文書の翻訳(オランダ語からの日本語訳)に従事した。当然のことだが、達之助はエリート・森山栄之助に嫉妬したに違いない。

Photohori

その後堀達之助は、下田開港に伴い、下田詰(現地駐在)となる。この地でアメリカ商人(実はドイツ人)のリュドルフと知合う。彼が乗船していたのは、米国旗を掲げ、アメリカに雇われたドイツ船・グレタ号であった。ドイツ人船長とリュドルフは、日独通商を要請する奉行宛の書簡を達之助に託す。しかし彼はその書簡を個人の判断で上申することなく、保留していたため、罪にとわれ1855年投獄。4年間の牢獄生活を強いられた。獄中では、死罪となる吉田松陰とも接触があった。

1859年、幸い達之助の通詞としての技量を知っていた「蕃書調所」(東京大学の前身といわれる学問所)の頭取・古賀謹一郎の尽力により、赦免、釈放され、蕃書調所の翻訳方に採用される。ここで達之助は、古賀の命を受け、本格的な“英和辞書”の編纂にたずさわることになった。

Photo

それまで日本初の英和辞典といわれる『諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)』という辞書はあった。掲載されていたのは英単語が6,000語にすぎなかったため、実用には遠かった。さらにこの辞書に附された日本語の発音が、オランダ商館のブロムホフの発音した「オランダ訛りの英語」であったため、基本的な英語の発音とは程遠いものであったそうだ。たとえば、Personns(個人、人ペルソンス=パーソンズ)、summer(夏ソムムル=サマー)、 sugar (砂糖シュガル=シュガー)、drink(飲むデイリンキ=ドリンク)、 war(戦争ワル=ウォー)という具合だ。

 そして18ヵ月の努力の結果、堀達之助は、35,000語にも及ぶ英単語と日本語訳を掲載した『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』を発刊(200部印刷)した。これは日本英学史学会によれば、1862年「日本初の本格的」英和辞書である。ちなみに袖珍(しゅうちん)とは、ポケットの意味で携帯できる字引なのである。その後もこの辞書は改訂や増補を重ねたばかりか、明治期はほとんどの英和辞典の基礎となった。

写真:上/幕末の堀達之助、下/英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書、大阪女子大図書館蔵

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫

********************************************************************************

黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその2

日本初の本格的な英和辞典「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」を編纂した堀達之助であったが、蕃書調所(洋学所)に奉職中、頭取の古賀謹一郎から箱館への転勤を命じられる。箱館奉行所での通詞の辞令であった。実際には(ペリー再来航時の森山栄之助、堀達之助に次ぐ第三席通詞・名村五八郎が江戸へ転勤になり)有力な通詞が箱館奉行所に少なくなり、弱体化したための苦肉の策で達之助は呼ばれた。

当時の箱館奉行・小出大和守は、達之助の英語力に期待した。ある時アイヌ人の墓をあばいて骨を掘り出し、標本として盗む事件が続発。犯人はイギリス人と判明し、小出は裁判をおこなうが、その通訳に達之助を指名する。しかしペリー来航後、10年もの間、達之助は英会話の経験がなかった。読み書きはできたが、英語の聞き取りや発言ができない。自分の英会話がすっかりさびついていることに気づき、失望するのだった。その後、小出は達之助に文書の英訳と和訳の仕事に専念させることにした。仕事はきびしい。江戸の蕃書調書、開成所の教授方で英和辞書を編纂した学者という、輝かしい堀達之助の業績だが、裁判の席で十分な通訳ができなかったことで、彼の評価は著しくさがってしまった。

 旧幕府軍と新政府軍との箱館戦争をはさみ、達之助は新たに「函館」の開拓使の外国局に採用される。このとき旧幕府軍の指導者として奮戦し、戦死してしまった指導者に中島三郎助もいた。(ペリー来航時に通詞・堀達之助とともに黒船に乗り込んだ、浦賀奉行所の与力である)

 やがて明治2年、達之助は47歳になっていたが、「美也」という後妻を娶る。役所に出した届けでは、「妻、34歳」であった。美也には二人の連れ子がいたが、彼はこの子たちも養育する決心であった。町でも評判の美人で気働きのよい妻であった。しかし幸せは長くは続かない。明治5年、美也は病死。50歳になっていた達之助には、この愛する妻を亡くしたことがかなりこたえたのだろう。老衰を理由に辞職してしまう。

吉村昭は『黒船』の中で堀達之助を見事に描写する。 **********************************************

初来航したペリー艦隊を迎えて主席通詞として働いた頃が頂点で、それ以後は、起伏はあったものの下り坂をくだりつづけてきたような気がする。リュドルフ事件で思わぬ嫌疑をうけて長い牢獄生活を強いられ、釈放後、開成所教授方として「英和対訳袖珍辞書」を編纂したものの、その辞書も自分に無断で改正増補され、いじくりまわされている。

さらに思いもかけぬ箱館詰を命じられて、そこで味わわされたのは、英会話からはなれてしまっていたため無能な通詞として扱われた屈辱感であった。(略)そうした境遇の中で、突然、眼の前に現れた美也は、かれに大きな喜びをあたえ生き甲斐ともなった。(略)不遇な自分に、短い期間ではあったが、天があたえてくれた宝であったのだ。 ******************************************************************

G_hori_tatsu

そして、達之助は生まれ故郷の長崎、次男のいる大阪で静かに静かに晩年を過ごし、72歳で亡くなった。私は思う。恵まれない人生も確かにある。体制や大きな社会の中で、思うように生涯を歩める人は、稀ではないかと。数々の出来事を通じて、堀達之助の生き方をみると、後妻の美也に出会った50歳近い幸せを除けば、大きな時代の潮流に押し流されていったようだ。しかし、日本初の本格的な英和辞書をつくった功績は、永久不滅のものであることは、いうまでもない。

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫 ※写真:晩年の堀達之助(『堀達之助とその子孫』より)

| | コメント (2)

ご近所グルメ 浅草《いさりび》晩秋から冬への旬

 だんだん寒くなってきた、晩秋である。そろそろ金目鯛が旬になる。産地は茨城以南の太平洋だ。刺身、煮魚、鍋物もよい。干物もうまい。深海魚のため目が大きい。

Vfsh0566_edited 

 金目鯛の握り。神津島産。脂がのっているが、しつこくない。うまい。

Vfsh0567_edited 

 ヒラメ(平目)の握り。大分産。白身の王様とも呼びたい。シコシコの歯ごたえがある。塩・かぼすと煮切り醤油で。11月から冬場、3月頃までが旬である。

Vfsh0569_edited 

 好物の貝類。赤貝(大分)とホタテ(北海道)の握り。言うことなし。季節を感じる浅草《いさりび》の寿司である。

| | コメント (3)

ご近所グルメ 浅草《いさりび》くるまえび

 江戸の昔からの高級食材「くるまえび」(車蝦、車海老)を、浅草弁天山の小さなお寿司屋さん《いさりび》でいただく。もちろん入荷の具合によって毎回お目にかかるわけではない。活きたままの「くるまえび」は、塩焼きや天ぷらには最高の具材。

Vfsh0562

 本日は屋久島産。ボイルをしてある。長さが15、6㎝の「くるまえび」。天然ものの旬は6月から10月頃だが、産地によっては晩秋から冬のものが、甘みが増すともいわれるそうだ。握り1貫400円。歯ごたえもよく、甘みもある。海老の中では王様だと思う。

(くるまえびイメージ)

Photo

| | コメント (2)

ご近所散歩 ちょいと浅草《仲見世》の「紅葉」?

Vfsh0549

 浅草の仲見世は、さすがに紅葉しません。イミテーションの赤や黄色のもみじでアーケードを飾っています。外国人や修学旅行生、お年寄りの参拝客など、いつもながらの人出です。

Vfsh0551

| | コメント (0)

ご近所グルメ 浅草《福ちゃん》新メニュー「スジ焼きそば」

 浅草B級グルメの代表格は、このブログでも何回か紹介した《福ちゃん》だろう。地下鉄銀座線改札横、昭和のレトロな地下商店街にある「ソース焼きそば」(350円)の老舗だ。なんと最近、「スジ焼きそば」(500円)という新メニューが登場した。

Vfsh0556_edited Vfsh0554_edited

 牛スジの煮込みが焼きそばに入っている。一見ミスマッチのようだが、やわらかい牛のスジ肉やコンニャクとソース味のそば、キャベツ、揚げ玉と合うから不思議だ。そもそもここの牛スジ(400円)はうまい

 《福ちゃん》では、ディープな「カレー焼きそば」も好きだが、ドリンクなら生ビールばかりではなく、「ホッピー」もぴったりだ。ホッピーは麦芽発酵飲料、麦酒様清涼飲料という。キャッチフレーズは、「低カロリー」、「低糖質」、「プリン体ゼロ」だ。

なお、ホッピーはセット400円、中身の焼酎・氷は250円、外身のホッピー瓶300円。

Vfsh0555_edited

通常、生ビール(400円)とレギュラーの焼きそば(350円)なら、1,000円以下で1杯飲める庶民に強い味方のお店だ。

Vfsh0557_edited

| | コメント (2)

【にっぽん海外交流史】日本初サムライの英語教師《マクドナルド》

 幕末の黒船来訪時、江戸時代の唯一の海外窓口であった長崎に配置された通詞(通訳)がいた。当時は日本とアメリカの交渉事では「オランダ語」が共通語であった。日本→オランダ語→英語、英語→オランダ語→日本といった複雑な翻訳システムであった。しかしペリーが二度目に浦賀に現れた時点では、日本語と英語で直接的に交渉することができた。その時活躍したのが、森山栄之助である。長く続いた鎖国の中で、森山はどのようにして「英会話」を学ぶことができたのだろうか。調べてみると日本の英語史・英語教育史には、驚くべき事実があった。

Photo_2_2 

 実は長崎にいた森山は、ネイティブ・アメリカンのラナルド・マクドナルドRanald MacDonald)から直接、英会話を学んでいた。マクドナルドには『日本回想記』という書物がある。“Japan, Story of Adventure of Ranald MacDoanald, First Teacher of English in Japan”が原題である。マクドナルドは嘉永元年(1848)、日本近海で操業していた捕鯨船の乗組員であったが、密かに北海道の焼尻島から利尻島に渡り、身柄を拘束される。幕府によって、利尻島、宗谷、松前と送られ、最終的には長崎に送還。長崎では監禁生活を強いられた。

 利尻に漂着後の約十カ月、長崎に拘留された約七カ月の間、江戸時代の唯一の海外窓口であった長崎に配置された通詞に英語を教えた史実があった。マクドナルド自身の回想によれば、彼の教え子となった通詞は、14名いた。通詞たちは、それまで書物でしか知らなかった英語をマクドナルドの前で、音読する。発音のおかしいい個所があれば訂正してもらう。当時の「英語」は、いうまでもなくオランダ人から教えられたオランダ訛りのものであったようだ。したがって生きた英語に接する機会が、マクドナルドであった。

 その後、サムライ達に日本で初めて英語を教えたマクドナルドは、長崎からアメリカ船で送還され、紆余曲折を経て、アメリカへ帰る。別れる際、彼は「SAYONARA MY DEAR SAYONARA」と語ったそうだ。(さようなら 私の親愛なる仲間たちよ さようなら)あまり歴史の表舞台には登場しないが、心あたたまる英語教師がいたのだ。

Photo_3

(参考:マクドナルド『日本回想記』、刀水書房)

 また、森山栄之助については、次の機会に紹介したいと思う。

※10月24日、マクドナルドの利尻島上陸や滞在期間を訂正しました。

※学会の定説で読み方は「ラナルド・マクドナルド」です。

 

| | コメント (2)

ご近所グルメ 浅草《いさりび》「牡蠣(かき)の握り」

 秋。これから北の生牡蠣がおいしい。

Vfsh0531

 岩手大船渡湾は赤崎のブランド、生牡蠣。3時間ほど昆布で締めて余分な水分を抜いて握る。これはうまい。(入荷状況によるので、いつもあるわけではない)

Vfsh0546

 小肌(唐津)とサンマ(厚岸)。これもうまい。

Vfsh0536 

 小肌と〆さば(富津)。いうことなし。

Vfsh0544

 つまみは貝づくし。ホタテ(北海道)、青柳(同)、赤貝(大分)である。

| | コメント (3)

《山手線》命名百周年記念ラッピング車両

 《山手線》と命名されたのは、明治42年(1909)10月12日だそうだ。これを記念してJR東日本では、当時の車両の色を復刻した車両、つまりチョコレート・カラ-の1編成を走らせている。期間限定で2009年9月7日から12月4日までだ。

 毎日のように《山手線》に乗っているが、偶然にもこれに乗り合わせることができた。スポンサーは明治製菓(明治チョコレート)だ。

 確かにこどもの頃、山手線は茶色だった。床が木製でドア付近の車内には、金属の柱(ポール)があったと記憶している。しかも「網棚(あみだな)」は、文字どおり太い糸で編んだものだった。この車両は「72系」といい、当時も国鉄の通勤車両のスタンダード型であったそうだ。

 「100年の歴史に乗りませんか」のコピーがあるポスターも興味深いが、駅のホームのチョコレートの横版ポスターも目を引く。こんな風な“遊び心”は、大歓迎である。

Vfsh0542

Vfsh539 Vfsh538

Vfsh0356_edited

| | コメント (2)

《神谷バー》車内広告「夫婦喧嘩のルール」

 なかなかほのぼのとして大好きな《神谷バー》車内広告。最新作は、夫婦喧嘩(けんか)のルールについて、である。

Vfsh0520

 なるほどと妙に納得してしまうのは、自分だけだろうか。

「いい人がいて、いい酒がある」神谷バーは、浅草駅前にある。

Vfsh0528

| | コメント (2)

ご近所グルメ 隅田川《長命寺の桜もち》と《言問団子》

 浅草駅から徒歩20分、隅田川にかかる「言問橋」を渡る。江戸の昔から今に伝わる人気の和菓子がある。《長命寺(ちょうめいじ)の桜もち》と《言問団子(ことといだんご)》である。

Vfsh0526 Vfsh0525

 《長命寺の桜もち》は、なんと享保二年(1717)、山本新六が隅田川土手にある桜の葉を集め、塩漬けにして餡(あん)を巻いた餅を包み長命寺の門前で売ったことが始まりだそうだ。292年も前の話。

こし餡の甘さと桜の葉の塩味という相反するコラボレーションがなんともいえない。お茶付きで「お召し上がり」は250円。店員さんはおばちゃんばかりだが、下町の気持ちのよい接客だ。

Vfsh0071 Vfsh0070 Vfsh0069

 すぐ近くにあるのが《言問団子》。こちらは3色の丸い団子だ。こし餡、白餡、味噌餡である。植木職人の外山佐吉が江戸末期、隅田堤の渡し舟の客相手に茶屋を開き、団子を売ったのが始まりだそうだ。一説には明治四年(1871)創業ともいう。伊勢物語で有名な在原業平(ありわらのなりひら)が、詠んだ“名にし負はば いざ言問はん都鳥

我が思ふ人はありやなしやと“にちなんで名づけられた言問橋に由来する。

 さっぱりした団子だ。お茶付きの「お召し上がり」は600円。こちらの店員さんは若い娘が多い。

 なお、浅草松屋の1階では両者を販売している。

        長命寺 桜もち(月曜休み)

        東京都墨田区向島5-1-14

        TEL:03(3622)3266

        言問団子(火曜休み)

        東京都墨田区向島5-5-22

        TEL:03(3622)0081

| | コメント (0)

ご近所グルメ 浅草《つけ麺工房 浅草製麺所》つけ担々麺はうまい!

 おなじみの《つけ麺工房 浅草製麺所》だが、新商品「つけ担々麺」がうまい。あいかわらず、うどんのような「ごくぶと」の自家製麺だが、今度は「金ゴマ練り込み麺」だ。まじめにつくっている。タレは、本当に本格的な担々麺スープだった。挽き肉、ホウレン草、刻み長ネギが入る。ゴマダレも辛味も抜群だ。これで800円。最後にスープをそば湯のようにいただいて、割って飲む。完食できる。

        つけ麺工房 浅草製麺所

        東京都台東区浅草6-9-4(浅草駅から7、8分)

        TEL:03(5824)9599

        営業時間/11:00~深夜03:00(年中無休)

Vfsh0523_edited Vfsh0521_edited

| | コメント (1)

《日光西洋御膳》東武日光線開通80周年記念の駅弁

 浅草発、東武特急スペーシア車内で限定発売のお弁当《日光西洋御膳》を食べた。特徴は昭和初期のレトロである。東武の日光線が開通したのは、昭和4年(1929)。しかも浅草駅(現業平橋駅)から東武日光駅めで2時間24分で結ぶ特急列車が走った。80年を経過したいまでもスペーシア(けごん)が、1時間46分の所要時間だから、当時は驚異的な速さである。

 宣伝パンフレットによれば、明治時代初期、その自然に魅了され、日光は多くの外交官で賑わいをみせた。そのため日光には西洋文化は花開き、当時日本では珍しかった洋食を楽しんでいたそうだ。明治6年、日光金谷ホテルが開業。「かつて西洋人が愛した日光を感じる旅。かつて西洋人が愛した日光の洋食。」をテーマにつくられたのが、今回の《日光西洋御膳》弁当だ。

Vfsh0492

 メニューは、昭和ピラフ、サーモンフライのタルタルソース掛け、チキンのガランティーニ・湯波入り、クリームコロッケ、サラダアメリカン、にんじんのグラッセ。確かに味はよい。でもボリュームが少ない。1,200円。昭和初期の洋食に出会うお弁当。調理監修は日光金谷ホテル、調整は和食の「味問屋 明日香」である。なかなかの力作だと思う。

Vfsh0493

| | コメント (0)

ご近所散歩 浅草《浅草寺》雷門の大提灯

 大型の台風18号の接近に伴い、雷門の大きな提灯がたたまれた。何しろ浅草のシンボル雷門の提灯は、三社祭のとき以外にはたたまない。それにしても強風。珍しい光景である。

Vfsh0506

Vfsh0505

宝蔵門の提灯もたたまれていた。

| | コメント (3)

ご近所グルメ 浅草《いさりび》目光の一夜干し

 浅草弁天山の小さなお寿司屋さん《いさりび》で、うまいつまみに出会った。深海に生息する小魚で「目光(メヒカリ)」という。新鮮なものは刺身、天ぷら、唐揚げにするらしいが、今宵は開きを「一夜干し」にしたものを焼いていただく。

Vfsh485_edited

 干物にすると一層、うまみが増すそうだ。身はやわらかく、脂がすごい。大きさは20cmくらい。福島産だ。厳密には、11月頃の冬から3月頃が旬である。コマイにも似ている。

Vfsh485_1_edited

 この「目光」にぴったりなのが、栃木県の飯沼銘醸さんの純米吟醸「杉並木・全」である。冷(ひや)ですっきりした味わいの日本酒だ。きけば知る人ぞ知る名酒。貴重品で蔵元から送ってもらっているという。

Vfsh1005_edited_2

 本当はそれほど、日本酒は得意ではないのだけれど、「杉並木」だけは別だ。本来、お寿司屋さんというところは、握りを食する場所であって、酒を飲む場所ではないかもしれない。しかし気楽にちょこっと飲めるお寿司屋さんも魅力的だ。

Vfsh485_2_edited

 握りは、帆立(北海道産)と締めサバ(富津)。だんだん元気を回復してきたようだ。

| | コメント (2)

菓子屋の陰謀?《ハロウィン》ばっかり

 10月31日が《ハロウィン》である。もともとはケルト人の宗教的な習慣で、秋の収穫を祝い、あわせて亡くなった家族や知人たちを思い出す宗教的な行事である。ケルト文化は、アングロサクソン民族に受け継がれているため、アメリカなどでは、クリスマスに継ぐイベントでもある。

0481 0482

 こどもたちが、『お菓子をちょうだい。くれなきゃ、いたずらするよ』(Trick or Treat)という合言葉でホラーチックな仮装をして町々の家を訪ねる。ハワイに住んでいた頃、目にしたのだが、驚くべきことに《ハロウィン》の日には、銀行や空港のカウンターの(大人の)職員も仮装をする。日本でいえばお盆のようなものなのかもしれない。

0490 0491

 しかし、収穫感謝祭のトレードマーク、オレンジのかぼちゃ(パンプキン)を模したお菓子が、このところ日本でも出回っている。意味もわからず、文化の説明もすることなくブームをつくろうとしている。これは問題だと思うのだが、いかがなものか。

Photo

(イラスト:たろべえ)

| | コメント (1)

ご近所グルメ 浅草≪いさりび≫の10月

 10月になった浅草弁天山の小さなお寿司屋≪いさりび≫である。

Vfsh0486_edited 

 お通しは「ながらみ」である。直径3㎝くらいの小さな巻貝で塩ゆでしてある。またの名を「ダンベイキサゴ」という。外房産。(四国の高知では「まいご」というらしい)はじめて食べた。結構うまい。

Vfsh0482_edited 

 つまみは「塩辛」。夏場とは違い、ワタの具合がよく、うまい。

Vfsh0484_edited

 カツオ(島根産)とサンマ(北海道厚岸産)の刺身。恥ずかしながら、日本海でもカツオが獲れるとは知らなかった。脂がのっている。生姜しょう油に少しニンニク。サンマは肝しょう油で。

Vfsh0485_edited

 生カキも厚岸産。かぼす塩とポン酢しょう油で食べる。クリーミーだ。

Vfsh0483_edited

 締めは小肌(コハダ)の握り。まだ小さいので2匹付けである。九州唐津産。

| | コメント (4)

《野菜ジュース》KAGOME

 早朝出勤の時は、朝ごはんがたべられないので、よくコンビニで野菜ジュースを買う。もちろんカゴメ(KAGOME)だ。最近は「やさいしぼり」が気に入っているが品薄だ。仕方なく「野菜一日これ一本」や「野菜生活」にしている。これも十分うまい。

“自然を、おいしく、楽しく。KAGOME”がキャッチフレーズのこの会社だが、実は明治32年から西洋野菜であった「トマト」の栽培を始めたのがきっかけ。社名のカゴメはトマトを入れる籠(かご)の目に由来するそうだ。

 それにしてもKAGOMEの商品は、

トマト→トマトソース→(ウスターソース)→トマトジュース→トマトケチャップの商品の流れは、大変わかりやすい。このほか、乳酸菌飲料もある。もちろん昨今は、各種野菜ジュースも主流になりつつある

 コンパクトに簡単に野菜が摂れるのはありがたいと思う。

 一昔前の小話。追っている犯人を民家に閉じ込めた。多数の警察官が、民家を取り囲んだ。しかし犯人は出てこない。

「カゴメ(囲め)!」

「デルモンテ(出るもんか)!!」(写真:カゴメ株式会社)

Photo

Vfsh0475 

| | コメント (2)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »