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《遣米使節団》なくてはならない日本の味「しょう油」

 幕末の安政七年(万延元年)つまり1860年、海を渡った日本初の外交使節《遣米使節団》は、9カ月に渡る長旅であった。この時出航に際して「ポーハタン号」に、どれほど日本の食料を積んでいったかは記録が残っていないが、護衛艦として同時期に太平洋を往復した「咸臨丸」の積込品はわかっている。使節団77名の「ポーハタン号」にもほぼ同量かそれ以上の日本食品が積載されたと推定されている。

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 積込品は、主食の米が七十五石(75,000合=約11,250㎏、60㎏詰米俵で187.5俵)。

一人あたり1食1合として、1日3合、1年で約1,000合(1石)の計算になるため、おおざっぱに75名分となる。醤油は七斗五升。1斗=10升、10合=1升=1.8039ℓだから1斗は18.039ℓとなり、七斗五升は約135.3ℓで、75名分として(135.3÷75=)一人1.8ℓとなる。旅行期間の9カ月(270日間)から計算すると、1日あたり一人、なんと約67mlも使うことになる。

このほか、食品・調味料などは、味噌、香物、焼酎、砂糖、茶、小豆、大豆、胡椒、唐辛子、ソバ粉、麦、かつお節、梅干、酢、塩鮭、野菜乾物類など、大量に積まれた。

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 さて、この醤油(しょう油)であるが、肉食中心のアメリカの食事で随分、活躍したようだ。確かに自分でも経験があるが、塩とコショウで調味したステーキにしょう油をかけると、風味も増し、うまい。まして江戸時代、煮物や焼き物が中心の食事では、しょう油は欠かせない。おそらく慣れないアメリカ料理には、なんでも醤油をかけて食べたことだろう。ついに使節団一行も帰りの船中では、日本から持ち込んだ醤油が切れてしまった。

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 帰路は「ナイアガラ号」に乗り換え、一行はニューヨークから大西洋を渡り、アフリカ大陸のロアンダ、喜望峰を回り、インド洋を越え、バタビア(ジャカルタ)へ寄港。

(バタビア)出航を明日に控えて、日本人は当地においていろいろ求めねばならぬものがあった。それは日本人の食生活に不可欠な醤油である。すでに百日余もろくに醤油を口にしていなかったので皆、体に力がなく、ようやく街中でそれを見つけ、帰艦して用いたところ「身体肥ゆるが如し。これ等にて航海中の困苦を思ふべし」(佐野鼎『万延元年訪米日記』)と、生気を与えてくれる醤油のふしぎな力とそれの欠乏したときの辛苦について述懐している。(宮永孝『万延元年のアメリカ報告』新潮社より)

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 実はこの醤油、正真正銘の日本のもの。江戸時代、長崎の出島から初期には東インド会社を通じ、東南アジアや遠くヨーロッパに輸出されていた“JAPANSCHZOYA”(オランダ語でジャパンのソイ・ソース)という磁器の「染付醤油瓶」であった。バタビアは、当時オランダ領であり、東インド会社のバタビア本店があった場所。

 キッコーマン国際食文化研究センターによれば、江戸時代のこの醤油瓶は、「コンプラ瓶」と呼ばれるもので、長崎県の大村湾東側の東彼杵(ひがしそのぎ)郡波佐見町で焼かれた「波佐見焼き」の徳利だ。おおよそ三合入りでバラツキはあるものの、540mlほどの内容量だった。「しょう油」は京都産のものが、堺から長崎へ樽で運ばれ、オランダ商会・東インド会社の指導で、そのしょう油を鉄の釜で煮て、瓶に詰め、コルクで栓をして密封、保存性を高めたという。

(「染付醤油瓶」写真:古美術青華堂さん提供)

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