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【にっぽん 旅の文化史】《東照宮以前の日光》日光修験道その1

研修会で世界遺産の《日光》へ行く。歴史講座『日光修験の歴史』に出席した。講師は日光の修験道を研究し、復活すべく自らも修行を続ける天台宗・日光山興雲律院(こううんりついん)の、中川光熹(こうき)住職。大正大学で修士号をとり、比叡山では百日回峰の修行を積み、羽黒山にも赴き「大先達」の資格を得たそうだ。山岳信仰、日光修験道に造詣が深く、著作も多い。

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 日光東照宮は、江戸時代1617年、天海大僧正の暗躍により、徳川家康の遺言通り、家康を祭神として祀(まつ)るために造営された。その後、家康を信奉した三代将軍・家光によって、寛永13年(1636)大改築される。確かに、いまの貨幣価値で約400億から500億円という巨額の資金をつぎ込み、1日1万人以上の全国から集められた職人が、1年半足らずで完成させた建築物や数々の彫刻は、豪華絢爛である。そして現代、東照宮はじめ二荒山(ふたらさん)神社、輪王寺の二社一寺が、世界遺産に登録され、まさに日本全国のみならず世界中から観光客がやってくる。しかし単に「東照宮」だけが、日光の歴史ではない。陽明門に代表される東照宮の建築だけが、日光ではない。背景には、古(いにしえ)から平安時代、鎌倉時代の中世を経て、面々と続く歴史的背景を忘れてはならない。

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 中川住職の講演を要約する。

 

「日光」の歴史は、勝道上人の補陀洛山開山に始まる。いまから千二百年以上前に遡(さかのぼ)る。標高2000m級の山岳と湖沼や瀑布などに、古代の人は、大自然に神仏を崇(あが)め祀り、自己練磨の場とした。勝動上人もこの地に修行の場を求めて、延暦元年(782)、補陀洛山(男体山)登頂に成功した。そこで勝道が、見たものは、紺碧の一大湖(中禅寺湖)を眼下にした雄大な大自然の景観であった。これこそまさに観音浄土(補陀洛浄土)と、歓喜したはずだ。この偉業に先立つ、ベースキャンプの四本龍寺の創建に続いて、(中禅寺)湖畔に地主神明を祀り、千手観音を造立。以来、火山地形という恵まれた修行の立地条件に相応した、日光山の歴史と伝統文化は、今日まで連綿として受け継がれてきている。一口に歴史といっても、古代から現代にいたるまで、時代ごとの栄枯盛衰の繰り返しである。

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奈良時代に補陀洛山と呼ばれた山が、黒髪山になり、現代では男体山という。平安時代には、空海(弘法大師)の滝尾(神社)創建や円仁の来山も伝えられ、二荒山の総称も日光山となった。鎌倉時代になると、源実朝が弁覚を座主とし、光明院時代という隆盛期を迎える。この弁覚法印によって、熊野修験の法が導入され、日光修験が確立し、二荒神から三神(日光三所権現)信仰・三山信仰へと移行された。(三山信仰:男体権現、女体権現、太郎権現)

そもそも「修験道」は、古来の山岳信仰と仏教が融合した日本独特の宗教だそうだ。天台州と真言宗の宗派が確立するのに従い、修験の教団は両派に組み込まれていき、いわゆる密教的な要素が強くなった。+++続く+++

次回は、現代にも再現されている、四季折々の日光修験道の峰々を踏破する修行行程に言及する。

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(資料提供:日光自然博物館、写真:たろべえ、大島よしお氏、参考文献『郷愁の日光』、『知られざる日光』、『日光近代学事始』いずれも随想舎刊)

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