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【にっぽん 旅の文化史】《東照宮以前の日光》日光修験道その3

 戦国時代になると、地元の領主・壬生氏が日光山領へ介入。しかし豊臣秀吉の小田原攻めに際して、壬生氏や日光山の僧兵たちは北条氏に加勢したため、日光山の領地(寺領)は没収され日光山は一時衰退していく。

 日光の歴史の中で最大の転換期を迎えるのは、江戸時代である。徳川家康の死後、遺言により、死後一年を経て柩(ひつぎ)は、(静岡)久能山から日光へ運ばれ、東照社(のちに東照宮となる)が創建された。(1617年)これが家康を神としてまつる「東照大権現」である。このときすべてを取り仕切ったのが、天海大僧正であった。三代将軍・家光の時代、この東照宮の大改築(寛永の大造替、1636年)がおこなわれ、絢爛豪華な現在の姿に変わった。徳川幕府の直轄領となった日光は、それまでの三所権現に東照大権現を加え、四神信仰となり、中心にあった輪王寺は、輪王寺宮(輪王寺門跡)となり、皇族(法親王)を迎え、日光山の最高責任者として継承されていくことになった。

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(写真:天海大僧正、中:川越喜多院の天海像)

 天海が日光山貫主に就任し、東照宮が鎮座され、日光は再び脚光を浴びる。従来の宗教行事も再興される。修験の入峰行事も、遭難者の多かった夏峯以外は再開されるが、規模は縮小された。(修験者の住居を兼ねた日光山の小坊は、鎌倉時代で三百余、室町時代には五百余あったが、江戸時代には輪王寺門跡配下に25院八十坊程度になった)むしろ修行よりも、日光山の伝統行事を取り仕切る役目を担っていくようになる。

(なお、輪王寺宮は当時、天台座主も兼務し、比叡山、上野寛永寺、日光輪王寺を管轄し強大な権力を有していた)

 入峰修行とは別の形態で発展していた男体山信仰(男体禅頂)は、江戸期には七月一日から七日までと決まり、江戸中期からは講組織が発達し、集団登拝がおこなわれるようになった。

 戊辰戦争後、明治維新により日光山の形態は大きくかわる。神仏分離令(明治4年・1871)によって、それまでの輪王宮(輪王寺門跡)支配体制は、崩壊する。「日光山」という関東の一大霊山や「日光三所権現」による、神仏習合の信仰形態も終わり、東照宮・二荒山神社・輪王寺の「二社一寺」に分離され、それぞれが関係する諸行事を執務することのみになった。(山岳伝統行事の日光修験入峰は輪王寺、男体禅頂は二荒山神社)

 ところで明治元年(1868)、戊辰戦争の際、日光山にたてこもった幕府軍(旧幕臣)・大鳥圭介らと対峙した新政府軍(官軍)の総大将・板垣退助は、二社一寺のある日光を戦火にさらすことを避けるために、幕府軍に無血開城を迫り、見事に説得に成功した。その結果、日光の寺社は戦火を免れ、世界遺産に登録されることができたともいえる。日光にとって大いなる恩人である。

 明治維新後は、徳川幕府の家康を祀る朝敵の霊廟とされ、日光は荒廃の一途を辿っていた。そんな状況に心を痛めていた人物がいた。たまたま世界一周の旅の途中で、日本に立寄ったグラント元アメリカ大統領である。明治十二年(1879)、日光を訪れ、グラントは日光山の美観を称賛し、殿堂の保護を提唱。これをきっかけに、社寺長職にある有志や旧幕臣、町人たちにより、日光山の社寺を修理保存しようという運動が起こった。そして全国的な規模まで広がり、日光の社寺を保護する団体「保晃会(ほこうかい)」という組織ができた。修復が進展、日光山の美景が守られたそうだ。

 以上のように、日光はただ単に東照宮などの世界遺産の建物だけではなく、そこには勝道上人から始まる歴史が、背景にあることも忘れてはならない。今後は、日光山の歴史的背景を見直していく必要がある。現代に続く日光の精神史にも注目してほしい。

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コメント

うーん深イイ内容で感服しました。日光の歴史 勉強になりました。

投稿: 通りすがりの旅人 | 2010年3月11日 (木) 22時37分

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