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【江戸時代の旅】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を読む

 江戸時代、江戸城・大奥入口の役人である御広敷用人(おんひろしきようにん)を務めていた清水徳川家の武士・村尾嘉陵(むらお・かりょう)が書き残した旅日記が残されている。(清水徳川家は徳川御三家に次ぐ「御三卿 田安家・一橋家・清水家」に属する将軍家ファミリー)

 村尾嘉陵(宝暦10年1760~天保12年1841)は、おそらく一線を退いた頃から、江戸近郊の寺社や名所などを、日帰りで旅し、その記録をまとめていた。もちろん車や鉄道のない時代、旅は徒歩である。いまの皇居近く北の丸公園あたりにあった清水家の屋敷内の下宿やその後の日本橋浜町の社宅、そして麹町三番町に与えられた住居を出発する。

 《江戸近郊道しるべ》(平凡社、『東洋文庫448』)によれば、目的地は「西の郊外」が現在の新宿・渋谷・豊島・杉並・世田谷・練馬に東京都下多摩地区。そのほか北、東、南の郊外地区で、都内に限らず埼玉県、千葉県、神奈川県川崎も含まれている。ほとんどが当時の観光スポットとして、庶民に人気の寺社めぐりや季節の草花をめでる旅である。まずは「小金井・府中再遊」の箇所で【小金井桜】の項を紹介する。

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 小金井桜(こがねい・さくら)

 小金井の桜は、牛込服部坂上の道栄寺(文京区小日向二丁目)の桜と同じ種類で満開の時期も同じ頃である。小金井の桜を見るなら道栄寺の花の咲き具合を参考にするとよい。(文政2年3月28日、1819年)

元文の頃、公命によりて和州芳野山、常州桜川の種を栽(うゑ)らるゝといへり。金井

(こがねゐ)橋の手前、梶の橋の辺より、花あれどもまばら也。金井橋の少し手前より、上水の両岸に花あり、五六間乃至七八間程、間を置て大樹あり、八重一重相交る、金井橋より西水源の方、殊(こと)に花多し。橋の上より水上を望めば、両岸目の及程の所みな花也、水上に富士をみる、眺望たぐひなしといふ。

(元文2年1737年、幕府の命によって、このあたりに奈良吉野山と茨城桜川の桜木の種を植えたそうだ。東京都小金井市桜町1丁目の小金井橋の手前、梶の橋あたりにも桜はあるがまばらだ。小金井橋の少し手前から玉川上水の両岸に、10~15m間隔で大きな桜の樹木が植えられ、八重桜や一重桜が咲いている。小金井橋より上流がとくに花が多い。橋の上から川面を見れば両岸の桜の花が目に入る。水に富士山が写り、すばらしい眺めである。)

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続けて「桜を見るのには、小金井橋の上からが最高である。川岸の茶店や飲み屋からだと、風にたなびく桜を横から見ることになり、全体の美しさがわからない。橋の上からは両岸の枝に咲く一連の花々が、水に浮かぶ帯のように見える。」と、村尾嘉陵は強調し、イラストも描く。

 さらに小金井桜への行き方については、現代とあまり変わっていない地名をあげ、道案内を記す。

「小金井に行くには、中野→堀之内・妙法寺門前→大宮八幡宮→上高井戸・下高井戸→久我山→井の頭弁財天→吉祥寺村(武蔵野市)→保谷村(西東京市保谷)→小金井を順路とする。」当時の距離は約七里(約28km)である。当然ながら往復で、なんと56km。

いまなら道路渋滞や信号待ちでも片道で1時間半から2時間程度だろう。それにしてもいかに健脚であろうとも、夜明け前、早朝出発でも江戸に帰着するのは、かなり夜遅くなる。もちろん昼食(弁当)の時間や休憩時間も必要なのだから、ゆっくり桜を見物する時間があったのかどうか。

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 しかしこの「小金井桜」は、多くの旅行案内書に紹介されたり、名所図会や風景版画に刷られたことにより、江戸末期には文人墨客も訪れ、江戸近郊では有名観光地であったそうだ。広重もこの地をたびたび題材にしている。(すべて意訳:たろべえ)

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        うとかりし 春ぞくやしき 朝なゆふな なれて末くむ 水かみの花(春海)

        聞わたる 天の河原か さく花の 雲のなか行く 水の一すじ(千蔭)

(参考:《江戸近郊道しるべ》、平凡社、『東洋文庫448』)

※広重「富士三十六景 武蔵小金井」、広重「江戸近郊八景之内 小金井橋夕照」

※挿絵:東洋文庫より、「金井橋北畔看桜花図 其一」、「金井橋上西望花源図 其二」

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コメント

一線は退いてません。清水徳川家広敷用人のままです。
現代人が定年を当時の人にあてはめて考える方が矛盾していると思います。

嘉陵74歳の天保五年当時、最高齢の現職は西丸槍奉行堀甲斐守1500石94歳です。
他に80歳以上の現役は、500石留守居石川左近将監87歳、西丸旗奉行大河内肥前守(500石)、西丸留守居谷口甲斐守(500石)、槍奉行佐原勘右衛門(450俵)各々84歳です。

なお村尾源右衛門正靖は宝暦十年生まれです。最初の頃は40代壮年期です。

投稿: ついでの頼道 | 2013年12月27日 (金) 12時13分

コメントありがとうございます。
 村尾嘉陵は、『江戸近郊道しるべ』の記述にもありますが、当初は清水家の下屋敷のあった「浜町」(中央区日本橋蠣殻町二丁目)に住んでいました。その後、文政十年(1827)頃、68歳頃に「麹町三番町」(千代田区九段南二丁目)に住居を移転しています。おそらくその頃、一線を退いた形になったと思われます。
 もちろんご指摘のように、在職中から江戸近郊を歩き回っていたことは間違いありません。ほとんどが日帰り(夜の明けぬ未明に出発し、遅いときには午後10時頃に帰宅)で、1泊した旅は、晩年に高幡不動に宿泊したものしかありません。

投稿: もりたたろべえ | 2014年1月 4日 (土) 13時53分

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