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2010年5月の19件の記事

《東京スカイツリー》398mになっていた

沖縄の米軍基地(普天間)移転問題で、社民党が民主党との連立政権を離れる頃、スカイツリーは、398mになっていた。(平成22年5月29日)

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 まもなく400m。それでも完成時634mの61%である。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『遅野井村正八幡宮参詣、同所善福寺・井草妙正寺池』②

『遅野井村正八幡宮参詣、同所善福寺・井草妙正寺池』天保3年(1832)5月10日

②遅野井村正八幡宮・善福寺池

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 村尾嘉陵は妙法寺を出て、青梅街道を歩く。高円寺村(杉並区高円寺)、馬橋村、阿佐が谷村、天の沼村と、現在の杉並区を通り、いまの早稲田通りが青梅街道にぶつかる交差点に出る。ここに遅野井(おそのい)八幡宮(現在の井草八幡神社)がある。

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一 遅野井八幡宮(井草八幡神社)は、社料九石余り、青梅街道の南側に鳥居建て、傍(かたわら)に牓示あり、御朱印地(将軍が朱印を押した徳川幕府公認の地)の内、馬駕籠(かご)通抜無用と記す。此所より社頭まで二丁程、社壇の前に大木の松二本あり。高さ数丈、かこみ三囲に少し不足、竜鱗若木の如く、少しも古びなし。大宮八幡宮の松にくらぶれば、やゝ弟なり。社は茅(かや)もてふく、幅五間に二間ばかり、事そぎて作る。(略)

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■遅野井八幡宮(井草八幡神社)は、青梅街道の南側に鳥居が立っている。幕府公認の神社で、社料は九石。御朱印地のため、敷地内を馬やかごで通り抜けることは禁止されていることが案内板に記されていた。入口から本社まではおよそ200mあまり。

社殿の前に松の大木が2本ある。高さは7、8mほどで太さは(大人が両手を広げて三

人分、4~5m)三めぐりに少し足りないくらいだ。幹は龍のウロコのように若々しく少しも古びていない。大宮八幡の松に比べれば、弟格だ。本殿は、茅葺きである。

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 青梅街道を行くと、井草八幡の広大な緑が目に映る。ここも源頼朝が奥州藤原氏征伐の折、戦勝を祈願した八幡宮である。確かに大鳥居から続く参道は、長い。

 嘉陵が書き残した松は、いまでも『頼朝公御手植の松』として残っている。

文治五年(1189)、源頼朝は奥州藤原氏の征伐に向かう途次、当神社に戦勝祈願に立ち寄り、その後、無事奥州平定に成功。頼朝は報いるため建久四年(1193)、社頭に雌雄2本の松を自ら植えたというもの。この松は約700から800年近く、この地域の標徴として仰ぎみられていたが、赤松は明治時代に、黒松は昭和47年(1973)に枯れてしまたそうだ。したがって現在の黒松は、二代目らしい。静かに歴史を見守る神社だが、なんとなく気分が落ち着いてくる。

☆井草八幡宮(東京都杉並区善福寺1-33-1

JR中央線、東京メトロ「荻窪駅」北口からバス15分「八幡宮裏」下車、西武新宿線「上石神井駅」からバス10分「桃四小前」

 

広前を出て少し行き、左に横折れて小径(こみち)を行ば、田の面を見わたす風景いとよし。田のふちにそひて少しゆけば、向ひ田を横ぎりて石の小橋をわたる所あり。その橋の南の方一丁足らぬ所、田のくろを隔てゝ蘆(あし)の生たる足入とも覚しき所あり、これを善福寺の池といふ。

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■遅野井八幡宮(井草八幡神社)のすぐ裏手が、善福寺池である。江戸時代当時は、あしや水草、雑草が生い茂り、歩くのも難儀するほどだったようだ。

 いまは東京都立の「善福寺公園」として、整備されている。嘉陵が地元の人にきいたところによれば、「昔、この場所に善福寺と万福寺という二つの寺があり、いつしか廃寺になってしまったが、池に善福寺に名をつけた」という。この公園は、広い。上の池と下の池に分かれている。この池から湧き出した水が善福寺川となり、中野で神田川に合流するそうだ。上の池には、嘉陵が見つけられなかった「弁財天」がある。

☆善福寺公園(東京都杉並区善福寺2丁目、3丁目付近)

なお、近くに同名の「善福寺」(杉並区善福寺4-3-6)があるが、嘉陵の時代のものではない。

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知る人ぞ、知る。国分寺の《きぬたや》手打ちそば

 東京国分寺に「お鷹の道」と呼ばれる散歩道がある。国分寺という寺をはじめ、武蔵国分寺の史跡めぐりやきれいな湧水の真姿稲荷のある場所だ。そんな散策に疲れたら、本物の手打ちそばは、いかがだろうか。

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 久し振りに国分寺を歩き、うわさの名店『きぬたや』へ行く。小さな店だ。ご主人の山中さんが、毎朝、石臼でそば粉をひく。手仕事なのでせいぜい30人前で精一杯だそうだ。だから材料がなくなれば店を閉めてしまうそうだ。(そもそも午後4時には閉店)

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 メニューは「せいろそば」1種類(900円)。このほか、野菜天ぷら(500円)。日本酒も置いてある。そばは、黙っていても2種類が出る。この日、最初は福井産のそば粉で打ったもの。続いて長野産の田舎そば風のもの。かつお節の効いた「だし」にきりっと辛い「つゆ」である。しかしいかんせん、量が少ない。1種類の「せいろ」が、直径12cmくらいだから、ほんの3口、4口だ。手間暇かけているから、仕方がないといえば、その通り。こだわってつくるからうまいのだ。

        きぬたや

        東京都国分寺市東元町3-19-34

        JR国分寺駅・西国分寺駅から徒歩15~20分

        TEL:042(326)7399 予約もできる

        営業時間/11:00~16:00(定休日:月・火曜日)

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『遅野井村正八幡宮参詣、同所善福寺・井草妙正寺池』①

『遅野井村正八幡宮参詣、同所善福寺・井草妙正寺池』天保3年(1832)5月10日

①中野・宝仙寺と堀之内・妙法寺(ますは道すがら)

 現代風にいえば「井草八幡宮、善福寺・妙正寺池」が、今回の嘉陵の日帰り旅である。

遅野井(井草)方面に向かう途中、まず中野の宝仙寺と堀ノ内の妙法寺に参詣。

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 壬辰(みづのえたつ:天保3年)五月九日、四(よっつ:午前10時)の鐘なるを聞て、三番町の宅(千代田区九段南)を出(いで)、先(まず)中野むらの法泉寺(宝仙寺)の大師まふでし侍り、これは大師の八十八箇所まふでせばやと、心のうちに思ひたちて、末はしらず、今日を初めにとて也けり、大師堂は門を入りて東にあり、朝日の大師と云(いう)。

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■天保3年5月9日、よつどき(午前10時頃)出発。まず、宝仙寺のお大師様に詣でる。これは「御府内八十八箇所霊場めぐり」をしようと思い立ち、老齢(73歳)の身でこの先どうなるのか、最後までおまいり(結願)できるかはわからないけれど、今日をスタートとしようと決心したからである。宝仙寺の大師堂は、門を入って東側にあり、朝日の大師という。

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☆宝仙寺(明王山 聖無動院 宝仙寺:真言宗豊山派、東京都中野区中央2-33-3

 山門(仁王門)の金剛力士像が迎えてくれる。正面には不動明王を安置する本堂、平成4年に再建された木造の三重塔そしてお大師様(弘法大師)を祀る御影堂が目を引く。境内はいまでも広い。江戸時代には、将軍家のおこなう鷹狩の際の休憩所であった。

■地下鉄(東京メトロ)丸の内線、都営大江戸線「中野坂上駅」徒歩5分。青梅街道を行くと参道が見える。

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(『中野 宝仙寺』江戸名所図会)

 嘉陵は、宝仙寺を出て「堀の内むら」(杉並区堀ノ内)の妙法寺に行く。この寺は、村尾嘉陵にとっては、江戸から西に向かう際、毎度のように詣でる場所であった。

 中野の宝仙寺を出て、青梅街道を行く。「鍋屋横丁」がある。別にキッチン用品を売っている商店街ではない。とくに江戸時代頃、「鍋屋」という茶店があった。草餅が名物で、店の庭にはたくさんの梅の木が植えてあり、季節には梅屋敷とも呼ばれ、街道を旅する商人や文人墨客たちに愛されていたそうだ。(中野区本町4-30付近、東京メトロ「新中野駅」近く)

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 この鍋屋横丁が、いまでも存在する。確かに交差点には、かつて「鍋屋」があった場所に案内板と石碑が立てられ、往時をしのぶ。ここから当時は「妙法寺」への参道が整備されていた。道しるべとして、当時(享保年間)立てられた「お題目石」が残っているのには、驚きである。(中野区本町4-38-18、鍋屋通り沿い)石碑には、「南無妙法蓮華経」と「ほりの内道」と刻まれている。妙法寺は日蓮宗の寺である。この参詣道を抜け、車の往来の激しい環状七号に出ると、妙法寺が見える。鍋屋横丁から約2km強の距離だ。

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☆妙法寺(日円山 妙法寺、堀之内やくよけ祖師:日蓮宗 本山(由緒寺院)、

 東京都杉並区堀ノ内3-48-8

江戸庶民の中にも『堀之内のおそっさま(祖師様)』と言われ、厄除けのお寺として全国から大勢の参拝者あったそうだ。現在でも、全国各地から数多くの方々が『おそっさま』にお参りし、厄を除いてもらおうとする方が参拝している。ご本尊は、祖師堂に奉安されている日蓮上人の「祖師御尊像(やくよけ祖師像)」である。

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仁王門の金剛力士像は、徳川四代将軍・家綱が寄進したもの。なかなか力強さがある。境内に入ると、休日であったせいか、祖師堂にはたくさん方々がおまいりされている。

元和年間(1615~1624年)の創建と伝わるが、400年もの間、庶民に愛され続けてきた人気の秘密はなんだろうか。祖師堂の前には、なんとなくなごやかな、こども連れの姿は、もちろん、まじめに生きてきたお年寄りたちが真摯に手を合わせる光景がみえる。

ほっとする寺である。

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(『堀の内 妙法寺』江戸名所図会)

■地下鉄(東京メトロ)丸の内線「東高円寺駅」または「新高円寺駅」徒歩15分。

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《東京スカイツリー》389mに

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  サッカー日本代表のW杯壮行試合、対韓国戦で2:0と完敗した日、スカイツリーは389mに伸びた。中村俊輔や期待の本田もおさえ込まれ、パスさえ供給できない。後半途中から元気な森本を投入するも、遅すぎた。

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 それでもスカイツリーは、伸びていく。アップでみると、第二展望台を巣作りしているようだ。

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幻の《くりん草》《クリンソウ》

 ちょうど去年の6月の中旬、日光中禅寺湖へ行った。梅雨にはまだ早かった。千手ケ浜で見たのは、可憐な花だった。《くりん草》(クリンソウ、九輪草)という。近頃、有名な「サクラソウ」の仲間で、日本では一番大きな種類だそうだ。

 山間地に咲き、高さはおよそ30cmから50cmにもなる。茎がまっすぐに立っていて、赤やピンクや白い花が咲く。(花を言葉で表現するのは、至難のわざだと、つくづく思う)すがしく、可憐である。

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くりん草の「くりん」は、お寺で見かける五重塔なとの上の部分で、宝輪(ほうりん)と呼ばれるタテに直立する部分の九つの輪(九輪)のことだ。なんと五大如来と四大菩薩を表すそうだ。

 調べてみると、「五大如来」は、大日如来・阿しゅく如来・宝生(ほうしょう)如来・阿弥陀如来・不空成就如来。「四大菩薩」は、普賢(ふげん)菩薩・文殊(もんじゅ)菩薩・観自在菩薩・弥勒(みろく)菩薩のことだ。くりん草は、ありがたいお花なのだ。改めて合掌。

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 ネットで検索してみたら、日帰りでこの千手ケ浜のくりん草を見学して、おまけに戦場ケ原を歩くコースがみつかった。昼食と温泉入浴も付く。北千住発と春日部発、おまけに日光現地発もあり、6月の土曜日の出発だ。幻の花といわれる、ありがたい《くりん草》に出会うのも一興である。

【参考】

(東武旅倶楽部企画 戦場ケ原ハイキングと くりん草を訪ねて 9,800円)

http://www.tobutravel.co.jp/fixed_page/tt-club-senjyo5-6

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【江戸時代の寺社めぐり】《江戸近郊道しるべ》を歩く 『藤稲荷に詣でし道くさ』

『藤稲荷に詣でし道くさ』文政7年(1824)9月12日

 嘉陵(かりょう)65歳、落合村(現在の新宿区下落合)に秋の虫の音をききに行くという名目である。訪ねたのは、「藤稲荷(東山稲荷神社)」と「薬王院(瑠璃山 医王寺)」である。

 落合村の七まがり(地名)に、虫聞に行けば、老をたすけてともになど、もとの同僚畑秀充のいひしも、いつしか十あまり五とせばかりのむかしとは成けり。げに、とし波の流れてはやきためしをおもへば、かたときのいとまをも、あだにすぐすべしやは、わかきとき、日を惜しめるは勤にあり、老いての今はたのしみもて、こゝろをやしなひ、終わりをよくせんとなるべしや。

■「落合村に虫の鳴く声でも聞きに行きませんか、お互い老人同士で助け合いながら」

などと同僚の畑秀充がいっていたのも、15年も前のことだ。本当に時の流れは速いものだと思えば、片時も無駄にはできない。若いころは時間を惜しんで働いたものだが、老いての楽しみは、心穏やかに暮らし、人生の終焉をきれいに迎えたいものだ。

 江戸時代の男性の平均寿命は50歳そこそこだったというから、作者の嘉陵はかなり長生きなのだが、当時、50を越えると隠居しても不思議はなく、老人という認識があったようだ。そういえば、「人生50年(正確には、人間五十年。下天の内を比べぶれば夢幻のごとくなり)」、ひとつの区切りであることには違いないと思う。もちろんまだまだ子育てや家のローンが残るサラリーマンは、50を越えても働かざるをえない。要するに、その後の、これからの人生をいかに穏やかに、平穏無事に生き、人生を終えていくかということだろうか。

 さて、この頃、嘉陵は隠居なのか、引越しをしたばかりだったらしい。家の中はそうじもできず、襖(ふすま)の紙も貼っておらず、散らかっていたようだ。「もうすぐ冬が来るのにどうするつもりなの」と、古女房に小言を言われながらも、聞えないふりをして、今日はとてもうららかなよい天気なので、家にいるのももったいないと、思いだした落合村の七まがりの道にかこつけて出かけたようだ。

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 「藤いなり社」に到着。40年も前にも嘉陵は、ここを訪れている。今回、この社が荒れ放題な状況に驚く。たまたま神社には、月見の準備をしている女と小さな娘がいた。

「七まがり」の道を尋ねるが、この神社の山を登るのも、この先を登るのも道がいくつも曲がっていて、七曲がりだといわれた。

☆東山藤稲荷神社(旧藤稲荷神社、または旧富士稲荷神社:東京都新宿区下落合2-10-5)

 もともと源氏の氏神様であったが、江戸時代には、武家をはじめ庶民にまで「知恵と勇気」を授けていただく福徳の神様として人気を集めたそうだ。神社の後方には、「おとめ山公園」がある。この山が徳川将軍家の狩猟場であったそうで、一般人の立入を禁止した「御留山」が、その由来。

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(江戸名所図会)

さて、嘉陵は先を歩く。

 ひろ前をくだりに猶ゆけば、みちのかたへに寺あり。石しきなみて、見入いとよし。

薬王院といふ。

■藤稲荷神社前の広場を下り、なお道を行くと、かたわらに寺がある、石を敷き詰めて見た感じもよい、薬王院という。

 

 立派な門である。境内に入ると、少し盛りは過ぎたが、ぼたんの花が咲いている。歴史を感じる石仏も多い。ところで、奈良県にある総本山長谷寺のぼたんを100株移して、いまでは1,000株に育っているそうだ。ぼたんは4月中旬から下旬にかけて、大きくきれいな花を咲かせる。手入れが行き届いたお庭である。寺を出て隣に「下落合野鳥の森」がある。いまでも数々の鳥のさえずりが聞える。ほっとする時間だ。

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☆薬王院(瑠璃山 医王寺薬王院:真言宗豊山派、東京都新宿区下落合4-8-2)

 御府内八十八箇所霊場第36番札所。JR山手線「高田馬場駅」から約10分。

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 いま訪れてみると、敷地は狭く、参道はマンション群の中に囲まれている。残念ながら境内は荒廃していて、古い石仏や水鉢などが、無造作に積まれている。江戸時代の面影など微塵もない。「江戸名所図会」にも描かれた神社なのに、寂しい限りだ。

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《多摩モノレール》

 平成12年に東京都東大和市から多摩市まで、全面開通したモノレール、はじめて乗った。玉川上水駅から高幡不動駅までの、ほんの20分ほどだが、上からの眺めもよく、快適だ。環境にやさしいばかりか、混んでいなければゆっくり、多摩の歴史めぐりには最高だと思った。

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多摩モノレールは、東京都と西武鉄道、京王電鉄、小田急電鉄などの出資による第三セクター方式で設立されたそうだ。そういえば、私鉄との乗り換えも便利だ。

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暑かった!!

 5月21日、暑かった。夕食は、冷やし中華だった。もうそんな季節なんだ。

旅にでたくなった。全国のおいしい「冷やし」行脚なんてどうだろうか。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く「谷原村長命寺道くさ」その2

 嘉陵(かりょう)は、長命寺(ちょうめいじ)の裏門に着いたと書いている。正確には「東門」である。笹目通り沿いにあり、入口から約70、80mの参道が続く。江戸の石仏や石碑が並ぶ。

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 いにしへは寺内大木生しげりて、昼も小ぐらく、じめじめしきまで也しを、住持の僧、いつの比にや、みな伐てうりしより、今はさせる大木なしと云り。この山の北の方林あり、はつ茸を生ずといへども、公の人の外とる事をゆるさず、番人ありて、もし犯すものは捕(とらふ)と云。貫井、谷原とも、林木の間しめじ茸を生と云ども、この比(ごろ)雨ふる事たへてなければ、なべて茸類生せず。

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■昔は(長命寺の)境内も大木が生い茂り、陽があたらないため、昼なお暗くじめじめしていたそうだ。しかし当時の住職が、いつのことか、(それらの大木を)伐採して売り払ってしまったために、いまはそれほど高い木々はない。長命寺の北に林があり、はつたけが生えているが、決められた人しか採れない。そのきのこ山には、番人がいて勝手に「はつたけ」を採ろうものなら、捕まってしまう。また近頃は、貫井村、谷原村では「しめじ」も採れるはずだが、このところ雨が降らず、きのこの生息状況はよくない。

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真偽のほどはわからないが、当時のご住職が大木を切って売ってしまった話は、なんとなく愉快だ。ところで「はつたけ」は、味噌汁に入れて食べるとうまい。いまでは珍しい食材。さてさて嘉陵は、長命寺でいくつか句を残している。

 たちどまり おくるゝ人をまちつけて くぬ木がもとに しばしやすらふ

■この日、嘉陵は同僚の武士一行5名ででかけたが、立ち止まって遅れて来る人を待ちながら(来ぬとくぬを掛けて)クヌギの下で、しばし休憩。

 吹くかぜに 片山ばたの落ぐりを ふたつみつよつ ひろひてぞ行く

■吹く風で栗の実が、山沿いの道に落ちている。ふたつ、みっつ、よっつと拾って行くのも風流なことだ。

  さらに、あたりは静かで「とび、からす、すずめなど」すべての鳥の声もきこえない。ただ百舌(もず)が鳴くのが聞え、「くつくつぼうし(蝉ツクツクボウシ)」が、いまだに鳴いているのも実に風流である。と、述べてから詠む。

秋かぜの 寒くもふくか入り日さす もりの木だちに 百舌のなく声

それから当時は長命寺境内にあった三社(皇太神宮:天照大神、八幡神社:応神天皇、春日神社:アメノコヤネノミコト)におまいりして、

やはらぐる ひかりは世々(よよ)に 高野山 あまくだります 三のみづ垣

    やわらかい(地名の谷原)光明は、過去・現在・未来にわたり、いつまでも高野山から、三社を照らしている。なんと尊いことか。

    三社は、明治の神仏分離によって「谷原氷川神社:練馬区高野台1-16」に合祀されている。長命寺からほんの100mほどの距離にある

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ふたつなき(不二)こゝろに仰ぐ 高野山 あづまも紀路も なにへだつべき

    何の疑いもない素直な心で、おまいりすれば不二(富士山)と高野山も、 

関東と紀州(和歌山)も、東高野山・長命寺と本家・高野山も何が違うというのか。おこころ次第で同じ功徳が受けられる。

うつすとは おもはざるらし 高のやま のり(法)のながれは おなじ玉川

    紀州の高野山をこの地に移したかのように東高野山・長命寺も 仏法の心理は同じである。

 

長命寺のご本尊、十一面観音は奈良の長谷寺(初瀬)を範としているときいて、

秋はやゝ はつせといへど 松にはふ つたのもみぢば 猶さかりなり

■秋はまだはじまりだが、松がにおい ツタのもみじの葉はいまが盛り。

またいつか 此山ざとに ふりはへて 落葉がくれの 茸つみなゝむ

■またいつの日か、この山里に戻り 落ち葉に隠れたキノコを摘むことにしよう。

さかづきを 浮かぶばかりの この水も ながれてすへは 滝の川浪

    杯(さかずき)が浮かぶほど豊かな水の流れも末は、王子の滝野川に注ぐ。

夕ぐれに かへる男がひく馬の くつくつぼうし※ 声よはる也

 ■(※ツクツクボウシの古名。その鳴き声による語。〈和名抄〉《 秋》)

 夕暮れに江戸から戻ってくる男が馬をひく情景。ツクツクボウシの鳴き声も弱々しい。

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☆長命寺(東高野山 妙楽院長命寺:真言宗豊山派、東京都練馬区高野台3-10-3)

 江戸時代には、御府内八十八箇所霊場の17番札所として人気を博した寺である。境内には江戸期の石仏が多数並ぶ。紀州の高野山を模した「奥の院」への参道、苔むした石橋や石塔など、さすがに名刹である。なお、訪れたときの境内では、満開の桜を背にしたお大師様(弘法大師立像)に、静かに迎えていただいた。合掌。

 西武池袋線「練馬高野台駅」下車5分。順天堂大学附属練馬病院の裏手にあたる。(イラスト:江戸名所図会より)

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《東京スカイツリー》379mに

 順調に伸びているスカイツリー、今日379mになった。

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初夏の空にすっきりと立つ。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く「谷原村長命寺道くさ」その1

『谷原村長命寺道くさ』(その1)文化12年(1815)9月8日

 嘉陵(かりょう)56歳の9月、現在の東京練馬にある名刹「長命寺」を訪ねた。ここは、紀州高野山を模した真言宗の寺である。わざわざ高野山(和歌山県)まで出かけて行くのも大変な江戸時代、「御府内(江戸城を中心とした行政区域内)八十八霊場」が江戸にできた。長命寺は、そんなわけで西の高野山に対して「東高野」あるいは「新高野山」と呼ばれ、高野山におまいりしたの同じご利益があると、庶民の信仰を集めたそうだ。

 よつ時(午前10時頃)、江戸城清水門内にあった清水家を出発した嘉陵は、椎名町(東京都豊島区)から惠古田村(中野区江古田)を経て練馬領(練馬区)に入る。

 この辺(あたり)西望すれば、わづかに秩父山の北岬をみる。畑は蕎麦花さきて霜の如し。椎名町の半(なかば)よりこの辺及び谷原(やはら)迄の際、路傍栗、なら多し、しばしば落ぐりを拾ふ興あり。

■練馬のこのあたりから西の方角を見ると、うっすらと秩父の山々が遠望できる。畑には白いそばの花が咲き、まるで霜のようだ。歩いてきた椎名町の中間くらいから練馬の谷原(やはら)村までの間、栗の木や楢(なら)の木々が多い。しばしば道端で落ちている栗を拾うのも趣(おもむき)深いものだ。

 貫井村の路の左に子の権現の社あり。材木の間に竹を架して、商人のものうる跡あり。とへば定れる日ありて、古き衣、ものくふ器など、すべて古きものを江戸よりもて来りて、土人にひさぐと云、社は東に向ひて小祠也。

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■貫井村の道の左手に子の権現(円光院)がある。この寺の境内には、商人がものを売った跡がある。聞けば毎月決まった日に古着や食器の中古の品を江戸から持参して地元の人に売っていたそうだ。ここの本堂は東に向く小さな祠(ほこら)である。

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☆円光院(南池山 貫井村円光院:真言宗智山派、東京都練馬区貫井5-7-3)

 武州(埼玉県)飯能(はんのう)にある子ノ聖大権現、現在の天龍寺(天台宗・大鱗山雲洞院天龍寺 飯能市大字南461)に由来する。観音堂に安置されているご本尊の十一面観音像は、「馬頭観音」とも称され、馬の守り本尊として農民や馬飼いの人々に信仰されてきたそうだ。その証拠に山門前には、文化7年(1810)に建てられた「子ノ聖観世音」碑や江戸時代の「馬頭観音」石像が、いまも残っていた。円光院は、西武池袋線「中村橋駅」から徒歩10分程の目白通り沿いにある。

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 少し行けば岐路あり。右に行けば、所沢、秩父、左は東高野山也。こゝに名碑あり。東野某銘文を作りて彫付、前に記し置きぬ。こゝを過ぎて屈曲盤廻する事五六にし、高野山うら門に出る。

■少し進むと、道しるべが立っている。右に行くと所沢・秩父方面、左は東高野山。現在の目白通り、「練馬二小前」交差点(練馬区貫井5-17)に、この道しるべの石碑が現在も残っている。嘉陵の書いたイラストと若干、碑文が違うが、寛政11年(1799)四月に建てられたもので、碑文は東野孝保。高さ三尺五、六寸(1mほど)で幅二尺余り(約70cm)の大きさだ。「右 処さは(ところさわ) ちゝ婦(ちちぶ)」と読める。このイラストで嘉陵は、「左 東高野山 貫井村」と記すべきところを「右」と書いている。いよいよ、長命寺である。

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(平凡社、東洋文庫『江戸近郊道しるべ』より)

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《東京スカイツリー》まだまだ368m

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  スカイツリーも真下から見上げると、結構高くなった。でも368m。

最近、平日は背広姿の団体も見かける。どうやら建築業界の皆さんのようで、塔を背にして記念撮影も多い。

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【江戸時代 寺社めぐり旅】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く

  江戸時代、徳川御三家に次ぐ「御三卿 田安家・一橋家・清水家」に属する将軍家ファミリーの清水徳川家の武士・村尾嘉陵(むらお・かりょう)が、書き残した旅日記が残されている。

 作者の村尾嘉陵(宝暦10年1760~天保12年1841)は、在職中の48歳から75歳までの間に、江戸近郊の寺社や名所などを、日帰りで旅し、その記録をまとめていた。もちろん車や鉄道のない時代、旅は徒歩である。いまの皇居近く北の丸公園あたりにあった清水家の屋敷内の住まいやその後の日本橋浜町の社宅、そして麹町三番町に与えられた住居を出発する。

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 《江戸近郊道しるべ》(平凡社、『東洋文庫448』)によれば、目的地は「西の郊外」が現在の新宿・渋谷・豊島・杉並・世田谷・練馬に東京都下多摩地区。そのほか北、東、南の郊外地区で、都内に限らず埼玉県、千葉県、神奈川県川崎も含まれている。ほとんどが当時の観光スポットとして、庶民に人気の寺社めぐりや季節の草花をめでる旅である。

 村尾が旅した江戸近郊は、200年を経過して町並みや風景はかわっても、人々に大切に守られてきた寺社は、その地に残されていることが多い。もちろん火災や震災、空襲によって江戸当時の御堂や社は焼失した例も多い。そして敷地内の松やケヤキの大木も長い歳月の中では、枯れて代替わりをしているはずだ。そこで、おもに文化・文政そして天保年間(1807から1834年)の間に彼が、旅した寺や神社を中心に、実際に歩いてみようと思う。

・・・・・・・・・・と、いったことで、不定期になってしまいますが、『江戸時代 寺社めぐりの旅』を紹介していきます。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『石神井の道くさ』

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 村尾嘉陵(むらおかりょう)は、文政五年(1822)旧暦の9月11日、現在の東京都練馬区にある石神井村の弁財天(石神井公園内、練馬区石神井台1丁目)におまいりする。コースは、おそらく日本橋浜町の自宅を出て、椎名町(豊島区南長崎)を過ぎ江古田村(中野区江古田)から石神井村へ入る。

 途中、江古田村の豆腐屋(田中屋長助)の店先で休憩する。

 惠古田(えごた)村といふ、田中の道のかたへに、豆腐あきなふ家あり。こゝより先には、休らふべき所もありやなしや、おぼつかなければ、しばし腰かけて、もたらせし飯なんど取出て、したゝむ。あるじの姥(うば)、茶もて来り、端近なるを、こなたへ、など聞ゆ。(略)

■この先、休める所があるかどうか、わからないので、通りがかりの豆腐屋の軒先に腰かけ、持参した握りめしを食べる。店の老婆が、そんな端にすわらず、どうぞもう少しこちらへどうぞ、と茶を出してくれた。そこで、嘉陵が持ち歩いていた「椰子」の実でつくった水飲み用が珍しかったのが、話題になり、老婆は、酒を運び、自分の畑で収穫した芋を調理してつまみを出してくれた。

「このあたりでは、山々にしめじや初茸も採れますが、今時分は季節が過ぎてしまいました。どうか来年の9月頃でもおいでいただき、1泊しておいでなさい」

とてもやさしく素朴な地元の老婆とのやりとりに感動した嘉陵であった。

 わするなよ 茸(たけ)つみにとて又もこん あさじがもとの 露をたづねて

■(どうか忘れないでください、きのこを摘みに再訪することを。まだ十分に生育していない丈の短い茅・浅茅:あさじに露が宿っている状態を思い、その露を訪ねて)

 中野区にも小高い山があり、しめじや初茸が採れただけでも驚きだが、江戸時代にはまだまだ自然が残っていたのである。

■江古田では、地元の大きな商家、醤油を醸造する「山﨑喜兵衛」の家を通り過ぎ、鷺の宮村(中野区鷺の宮)を通過、ようやく石神井村である。

 橋を北へわたりこせば、石神井村、この辺一人の往来を見ず、もの問べきよすがもなし。路の行あたる所に寺あり、禅定寺(禅定院)といふ、その前を西へ山にそふて、田のふちを行ば民家一戸あり、其先に又寺あり、道常寺(道場寺)といふ、その西にとなれるが三宝寺なり。

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 ■西武池袋線「石神井公園駅」から、ゆっくり歩いて10分程、にぎやかな商店街を抜けると、文字通りの石神井公園がある。緑に囲まれた細長い池である。春には満開の桜や恋人たちのボートで人気のスポットだ。この公園の南側の住宅地に沿った場所に、この日、嘉陵が訪ねた寺が、いまもその場所にある。

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 ☆禅定院(照光山無量寺禅定院:真言宗智山派、東京都練馬区石神井町5-19-10)は、閉ざされた山門ではなく、左わきに入口があった。ちいさな境内だが、どっしりとした風格がある。安政4年(1857)建立の宝篋印塔(石塔)は、見事である。

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 ☆道場寺(豊島山無量院道場寺:曹洞宗、東京都練馬区石神井台1-16-7)は、さすがに禅寺である。門を一歩入ると、ぴりっとした静寂な空気が流れていて、境内もそうじが行き届ききれいだ。地元・石神井城主であった豊島氏代々の菩提寺であった。太田道灌に城を攻め落とされた豊島泰経や一族の墓と伝わる3基の石塔もある。美しい三重塔もあるが昭和50年代の新築だそうだ。本堂も新しいが、奈良・唐招提寺の金堂を模して建てられている。

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 ☆三宝寺(亀頂山密乗院三宝寺:真言宗智山派、東京都練馬区石神井台1-15-6)。元は地元の豊島氏の祈願寺であったどうだ。江戸時代には徳川幕府の祈願所にもなり、三代将軍・家光は、鷹狩の休憩のため、寛永2年(1625)二度ほど訪れている。境内は驚くほど広い。多宝塔などもすばらしい。さすがに往時、60ケ寺の末寺をもった格がある。

 (略)畑の細道を行ば、氷川の社あり。鳥居の脇を猶西へ行ば、道の左林のうちに小社あり、天満天神を崇め奉る。そこより少し行ば、北にくだる小坂あり。くだれば、向ひに弁才天の社あり。社をめぐりて皆池(三宝池)なり。蘆荻(ろてき)生じけり、雁鴨あまた下居て、かなたこなた水の面をゆきかへる、いくらといふ数をしるばからず、池の大さ七八十間ばかり、四面は東の一方のみ明て、余はみな高からぬ山なり。(略)

■畑の間の細い道を行くと、氷川神社があった。鳥居の脇をなお、西へ行くと、道の左側、林の中に菅原道真をまつる天神様の小さな社(やしろ)があった。そこから北に坂道を下ると、弁財天をまつる三宝寺池に出る。多くのあしや雑草が生い茂り、たくさんのガンやカモが自由に泳いでいる。いったいどのくらいの数なのかわからない。池は東側に開けて明るい。

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☆石神井氷川神社(東京都練馬区石神井台1-18-24)。何度も登場する豊島氏が、応永年間(1394から1428)に勧請して創建。現在は、榛名・浅間・御嶽・亜夫利・三峯・八幡・三島・須賀・稲荷・北野の各神社が境内にある。まさに神社のデパート。

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☆弁財天:厳島神社は、上記氷川神社に属している。

 このほか、石神井公園高台には豊島氏の歴史を思い起こす「石神井城址」があるが、敷地は囲いがあり、文化財保護の立場から公開されていない。それから最近オープンしたなかりの「石神井公園 ふるさと文化館」は、忘れずに訪ねてほしい。古代からの練馬の歴史を効率的に学ぶことができる。とくに江戸時代から近代までの「練馬大根」をはじめとする農村社会・練馬がおもしろい。

☆練馬区立石神井公園ふるさと文化館:東京都練馬区石神井町5-12-6

(資料:『江戸近郊道しるべ』東洋文庫、平凡社)

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(江戸名所図会より 石神井城址・氷川明神・弁財天・三宝寺池)

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《東京スカイツリー》368mに

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この連休中の5月3日、スカイツリーは368mになった。報道によれば好天気に恵まれ、毎日3,000人から5,000人の人出があったそうだ。

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どうか、見学に最適な業平橋の「東武橋」上は、狭い場所なので十分、気をつけてほしい。

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音羽御殿《鳩山会館》これはすごい!!

 文京区の江戸川橋近くのお寺めぐりをしていて、ふと地図を見たら、すぐ近くに話題の《鳩山会館》がある。そこで、いそいそ行ってみた。祝日だが、まだ午前中、なのに超満員である。音羽通りの入口から坂を登る。イギリス風の洋館である。

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 入場料は500円。大正13年に完成した建物だが、サロンや応接間には、クラツーさんや半休交通社の団体客が腰かけている。ほとんどが、お年寄りだ。大型バスで5台分くらいの人である。

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 さて、会館は、まさに御殿であった。庭もすばらしい。沖縄の基地移転問題で窮地に立つ鳩山総理だが、間違いなく庶民感覚などはない。この人は(この政治家一家は)日本でも限られたエリートである。残念ながら日本の将来を真剣に考えることは、不可能だろう。なぜならこの人たちは、食べるのに困らないばかりか、きっと自分で財布からお金を出して使うこともないだろう。それほどケタはずれの大金持ちに違いない。

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江戸時代、ベトナムから日本へ象がやってきた《中野で飼われていたゾウ》

 先日、ブログの取材で「中野区立歴史民俗資料館」へ行ってきた。江戸時代の旅日記を読んでいて、中野区や杉並区、練馬区、新宿区などの寺社が紹介されているので、実際に歩いて調べている。

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 歴史民俗資料館に展示されているのだが、中野の名刹「宝仙寺」には、ゾウをかたどった装飾品や木彫りが伝わっている。実は、享保13年(1728)、中国人貿易商が、いまのベトナムからゾウを二頭運んできた。徳川将軍・吉宗が中国人に命じて輸入した説もあるが、将軍に献上するために連れてきたらしい。長崎に着いた象だが、残念ながら船旅の疲れか、一頭はまもなく死んでしまう。

 長崎から京都を経て、江戸まで約2カ月のゾウの旅が始まる。京都では、時の中御門(なかみかど)天皇や霊元法王に前足を膝間づいて謁見。感激した天皇、法王は賛辞の和歌を残している。さて江戸城で吉宗にも拝謁する。しばらく幕府は、(なんと従四位広南白象と名付けられ位をいただいた)このゾウを特別に浜御殿(現在の浜離宮)で飼うことにした。大名や江戸の町民たちが見物し、瓦版にも紹介されたそうだ。

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 その後、どんないきさつがあったのか、14年後の寛保元年(1742)、中野村の農民源助にゾウは払い下げられる。おそらくゾウ1日の食料が、菜っ葉200欣、笹の葉150欣、青草100欣、芭蕉(バナナ)2株、米8升、湯水2斗、あんなし饅頭50個のため、経費がかかりすぎたのだろう。(もっと量の多い記録もある)

 ちなみに現代の動物園では、ソウのエサは、人参10Kg、食パン0.6kg、玉葱1kg、       青草100kg、稲ワラ25kg、牧乾草10kg、草食用固形飼料2kg、水:鼻で一度に5~8ℓ吸い上げ口の中へ入れ飲むそうだ。

 中野村の源助さん、もちろんひともうけをしようと考え、中野にゾウ小屋を建て、入場料をとって庶民に見物させた。記念グッズやゾウだんご、ゾウ餅も売り出したようだ。

この小屋は「象厩(きさや)」と呼ばれた。ゾウの古い呼び名は「きさ」であり、ゾウの「うまや」という意味。しかし、運が悪かったのか、ストレスなのか、このゾウは1年後に死んでしまう。幕府はこのゾウの皮を召し上げ、源助には、牙(きば)やゾウの鼻の皮を渡したそうだ。その後、これらの牙や一部の皮は中野の宝仙寺に上納された。

○時しあれば ひとの国なる けだものも けふ九重に みるがうれしき(中御門天皇)

※資料『地域教材情報』№22中野区立歴史民俗資料館、写真:たろべえ

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(中野区本町2-32 朝日が丘児童館:象小屋跡地)

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中野沼袋《実相院》八重桜満開

西武新宿線「沼袋駅」に近い真言宗豊山派・如意山《実相院》に行く。そんなに大きな寺ではないが、八重桜が満開であった。どうやらゴールデン・ウィークも十分楽しめそうな咲き具合だ。

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寺伝によると、正平7年(1352)に新田一族が信濃宮宗良親王を奉じて武蔵に足利軍と戦ったとき、新田の三男で矢島三郎信氏の子孫・矢島内匠と図書が戦いに破れ、沼袋村に来て、一家屋を建立したのが当寺の起源であるらしい。その後、寛永慶安年間に本堂が建立され、元文3年(1716)7月に中興開山された。幾多の変遷があり、一時荒廃し、他の寺の兼務寺であったこともあるが、昭和56年に本堂も落慶し今日に至っている。現在でも矢島姓を名乗る檀信徒が半数以上を占め、別名「矢島寺」とも呼ばれている。

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あまり目立つ寺ではないが、駅前というのに、静寂に満ちた空間であった。

■実相院

東京都中野区沼袋4-1-1

TEL:03-3386-2472

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