« スカイツリーの地元に間もなく《おしなり君焼き》登場 | トップページ | 東京東村山市《歴史の散歩道 徳蔵寺・正福寺コース》 »

【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『遅野井村正八幡宮参詣、同所善福寺・井草妙正寺池』天保3年(1832)5月10日 ③寒泉寺(観泉寺)・妙正寺

善福寺公園・井草八幡から観泉寺、そして妙正寺(公園)までは、現代でも歩くしかない。もちろん路線バスはあるが、あまり便利ではない。

夫(それ)よりもとのみちをたちもどりて、街道の北側井草に行くべき小みちを行く。左右畑にて何の見所なし・五七丁にして寒泉寺(観泉寺)といふ禅刹あり。一丁にたらぬ杉並の大門を入りてみるに、客殿の右に廊づたひの一室あり。半(なかば)修理して、半はまだし。門の右にも一かまへの社あり。拝殿、本社清らにかまへたれど、額もなければ何神ともしられず、庫裏(くり:寺の台所、住職の住まい)にも人ありとはみへながら、戸さしこめたれば、問うべき事もとはで去。

Photo

■善福寺池を後にして、もと来た道を戻り、井草方面へ向かう。道の左右には、これといった見所はない。500から700mくらいで、寒泉寺(観泉寺)という禅宗の名刹がある。100m足らずの、杉並木の間の大門を入ると、客殿の右側に廊下でつながった修理中の建物がある。門の右にも社がある。(略)

Photo_3 Photo_4

 ここ観泉寺は、戦国武将・今川氏ゆかりの立派な寺である。桶狭間の戦いで敗れた今川義元の息子氏真(うじざね)は、その後、杉並のこの地に領地を分け与えらそうだ。

Photo_5

「正保二年(1645)、今川13代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など三か村500石の加増をうけましたので当寺を菩提寺と定め、現在地に移して寺号を観泉寺と改め、祖父氏真を開基とし、信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興としました。その後万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬しました。」(杉並区教育委員会文化財案内板)

Photo_6

☆観泉寺(宝珠山観泉寺:曹洞宗、東京都杉並区今川2-16-1)

 「境内に神社があったが、額もなくなんの神様かわからない、庫裏も閉め切りで、誰にもきくことができず、仕方なくここを去る」と・・・、村尾嘉陵の観泉寺の記述が、つれないのは、清水徳川家に仕える身にとって、戦国武将今川家ゆかりの菩提寺についてあれこれ描写することを避けたためかもしれない。

 曹洞宗では、日常の所作すべてが修行といわれる。食事も掃除もそうだ。どっしりした山門をくぐると、境内は本当にきれいに掃き清められていてすがすがしい。門前や周囲には、江戸時代の石仏がたくさん保存安置されている。もう一度、訪ねてみたい寺である。

観泉寺の門前で、「いも」の畑を耕していたご老人がいたので、妙正寺への道を尋ねる。このまま左へ左へと行けば、14、5丁(約1.5km))程ですよ、と教えられた。いわれたとおり進んでいくと、田畑が続く。広い田んぼの前に立派な長屋門のある屋敷があり、このあたりの名主・井口新之丞(しんのすけ)のお屋敷だという。隣には、これも立派な冠木門(かぶきもん)の家があり、こちらは井口心十郎宅とのこと。やがて、妙正寺の門があった。(長屋門:武家屋敷でみられた門の形式。門の両側が長屋になっていて、防御のため家臣や下男を住まわせたそうだ。裕福な農家にもみられた。冠木門:屋根はないが、横に木を渡した門。)

 門を入りて左に番神堂、右に仮の鐘楼、そのこなたに大なる枝垂桜あり。堂舎は去々寅のとし(一昨年)焼けて、庫裏の一棟に坊と堂とを兼ねたるが、近く作り出しにや、まだいとあたらしきがみゆ。

Photo_7 

■妙正寺の門を入ると、左に番神堂、右の仮の鐘楼、その向こうにしだれ桜がある。本堂はおととし(1830年)火事で焼けたため、いまは庫裏1棟が住まいと本堂を兼ねて急ぎ新築したもの。

Photo_8

☆妙正寺(法光山妙正寺:日蓮宗、東京都杉並区清水3-5-1)

■西武新宿線「井荻駅」南口から徒歩15分、荻窪行きバス「清水2丁目」下車4分

訪れたとき、有名な枝垂れ桜は、盛りをすぎてはいたが、まだまだ咲いていた。一眼レフカメラをもったご年配の男性が、一生懸命に桜を撮影していた。調べてみると花の寺として、みかんやサザンカ、ススキ、寒桜など、手入れの行き届いた四季の花々があるそうだ。こじんまりした寺である。

Photo_10 53

さて、妙正寺の境内で焚き火をしている40代の男に「妙正寺池」はどこですかな、と訪ねると案内してくれた。草むらを踏み分けて、少し行くと池である。それほど大きな池ではない。角筈十二社(つのはずじゅうにそう)権現(西新宿の十二社熊野神社)の池に比べると、こちらが大きく兄格だ。おそらく昔は広い沼であったのを埋め立てて田んぼにしたのであろう。池の西側に吉祥弁才天をまつる祠(ほこら)がある。

 

 妙正寺池は、現在「杉並区立妙正寺公園」となっている。噴水がある池のまわりには、小さなこども連れの一団や周辺の、ご老人たちの憩いの場になっている。また当時、池畔にあった「弁才天」は 妙正寺に移されている。

 

さきほどの寺であった男が、さらに小さな石橋のところまで、案内してくれた。この橋を渡ると、向かいは天沼村(杉並区天沼)、こっちは井草村。天沼を過ぎてどこまでも東に行けば、高田村(中野区高田)に出ますよ。およそ二里(約8km)でしょうか。などと親切に教えてくれる。名前を訊くと、井口新十郎と答えた。(先ほどの名主の一族だ)ここまで送っていただいたお礼をいい、縁があればまたお会いしましょうと別れた。

 また、乾(いぬい:北西)の方角には、石神井の三宝寺(練馬区石神井台)、その少し東には谷原長命寺(練馬区高野台)がありますよと、新十郎は教えてくれたが、すでに遅く申(さる)の刻(午後4時)近くのため、次回にでも、と思う村尾だった。なお、この日、かりょうは、四時(よつどき:午前10時頃)に家を出発、暮六時(くれむつ:午後6時頃)に帰宅した。途中、阿佐ヶ谷で食事休憩をして足を休めただけで、帰宅するまで休むことはなかった。

Photo_11

 この日、嘉陵の歩いた距離は、本人の記録ではつぎのようになっている。

三番町(千代田区九段南)の自宅→2里半(約10km)妙法寺→1里(約4km)阿佐ヶ谷→1里(約4km)遅野井→20丁(約2km)善福寺池→20丁(約2km)妙正寺池→2里余り(約8km)高田馬場→自宅

片道9里、往復で18里。なんと72kmである。おそるべし健脚。村尾嘉陵73歳の春である。

|

« スカイツリーの地元に間もなく《おしなり君焼き》登場 | トップページ | 東京東村山市《歴史の散歩道 徳蔵寺・正福寺コース》 »

江戸時代の旅」カテゴリの記事

コメント

井口新之丞(しんのすけ)は、(しんのじょう)と読みます。今は代がかわりましたが。

投稿: | 2013年3月 1日 (金) 16時45分

[しんのじょう]ですね。アドバイスありがとうございました。

投稿: もりたたろべえ | 2013年3月 1日 (金) 18時46分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/177442/48537288

この記事へのトラックバック一覧です: 【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『遅野井村正八幡宮参詣、同所善福寺・井草妙正寺池』天保3年(1832)5月10日 ③寒泉寺(観泉寺)・妙正寺:

« スカイツリーの地元に間もなく《おしなり君焼き》登場 | トップページ | 東京東村山市《歴史の散歩道 徳蔵寺・正福寺コース》 »