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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『府中道の記』その② 文化9年(1812)1月17日

『府中道の記』その② 文化9年(1812)1月17日

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路の右の径(こみち)に入て、しばしばゆけば、金子十郎家忠が住し跡ありと云。其近くに平山武者所、日奉季重の住し処あり、今も平山と云と、人のかたるを聞まゝに書きつく。

■街道の右の小道を入って、少し行くと「金子十郎家忠」や「平山武者所、日奉季重(ひまつりのすえしげ)」の住居跡があるという。二人共、平安末期から鎌倉初期に生きた武士軍団「武蔵七党」の一員である。太平な江戸時代にあって、村尾嘉陵ら武士階級にとっては、名を残した中世の武士が憧れの的であったようだ。おそらく『源平盛衰記』や『平家物語』などの軍記物に描かれた金子や平山の活躍は、江戸時代の武士の常識であったかもしれない。

 

ちなみに金子十郎家忠は、武蔵国入間郡(埼玉県入間市)出身の武将で村山党の一族。保元・平治の乱で大活躍した。源義朝・義平・頼朝・義経に使え、「衣笠城の合戦」では、なんと21本の矢を受けながら一歩もひかず、敵武将を驚かせたという、エピソードが残されている。平山季重(すえしげ)は、武蔵七党の西党(日奉氏)の武将。こちらも保元・平治の乱で名を残した。富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い、奥州攻めなどの戦場で戦功を残した。

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(甲州街道、仙川2丁目付近)

金子は入間市周辺が、平山は現在、平山城址公園のある日野市が本拠地(出生地)である。調布市に史跡としては残っていないが、多摩地区には広範囲に管理する領土があったため、嘉陵が通った調布あたりにも二人にゆかりの別宅(別荘)があっても不思議ではない。調べてみると、京王線の「つつじが丘駅」は昭和30年まで「金子駅」であったそうで、その頃まで、このあたりには地名で「金子」が残っていたという。さらに仙川およびつつじが丘の約2km北、約2kmに金子六郎時光(家忠から五代目)の居住跡と伝わる「島屋敷」跡が残っている。(三鷹市新川4丁目の新川・島屋敷団地内)おそらく村尾嘉陵が、地元できいた話と符合する。

 さて嘉陵は、下布田、上布田(東京都調布市)を過ぎ、布多の天神(布多天神社)の前を通過。さらに下石原、上石原(同市)を行く。まもなく現在の府中市内に入る。

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 現在の布多天神社は、調布駅から徒歩5分、天神通りを抜け、甲州街道を渡ると、すぐである。ところでこの天神通り商店街には、調布ゆかりの『ゲゲゲの鬼太郎』のモニュメントが飾られている。鬼太郎(目玉おやじ)やねずみ男の等身大?の人形がある。

 布多天神社は小さな社だが、落ち着いていて、静かな雰囲気がある。

少し行くと、下染屋・上染屋(府中市白糸台)に入り、原っぱがあった。現在は近くに調布飛行場やサッカーの味の素スタジアムがある。さらに進んだ白糸台、武蔵野台といった場所は、台地であり、確かに昔は遠くの山々が見渡せたに違いない。

 夫(それ)より少し行て下染屋・上染屋にいたる。こゝに原あり。江戸よりこゝ迄は、路林木の際を出没するのみにて、目にとまるながめなし。こゝに到て初て、闊達として山壑(さんがく)の美をみる事を得、南に大山みゆ、夫より山々連綿して富士の根を遮ぎり峙(そばだ)つ。西北を顧(かえり)みれば、八王子、子の権現、秩父、武甲諸山を見る。

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■江戸からここ(府中白糸台)に来るまでの道のりでは、林の間を抜ける程度で、これといってたいした眺めはなかったが、「ここへ来て、はじめて闊達(かったつ)としてしっかり山岳美を見ることができる」と表現している。現在でもとくに空気の澄んだ冬場であれば、富士山や秩父連山を見ることができるはずだ。

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「大山1252m」は、神奈川県伊勢原市・奏野市・厚木市にまたがっている。山岳信仰の山であるが、「阿夫利神社」で有名な雨乞いの神様として、農民たちの人気を集め、江戸時代には町人たちも「講」を組んでグループで参拝した。(大山詣)

「八王子」の山とは嘉陵の残したスケッチによれば、「高尾山599m」である。

「子(ね)の権現640m」は、埼玉県飯能市にあるが、天台宗の寺で「大鱗山雲洞院天龍寺」が有名。「秩父連山」は、山梨・長野県方面にまたがる2,500m級の山々で、いまでもよく見える。

「武甲山1,304m」は、つい最近まで標高1,295mであったものが、国土地理院から修正された。山も成長するのだろうか。

江戸から見る山々と違って、富士山は、ぐっと近づいた感じで、くっきりと山肌も見える。山麓は見えないが、五、六合目から上が望めるようだ。

かたはらの民戸に腰かけて、こゝの風景をうつす。今日昼前より西北風吹出て、寒きにたへず、手さへこゞえて、筆もとり兼ねるまでなりしかど、からふじて図も草(そう)をなし、ふところにし去。詩歌の思をかまへしかど、図に心とられて重ねて題せばやとて止(やみ)つ。こゝを行はつれば、路の左に松林あり、八幡宮(府中市白糸台5丁目)立せ給ふ。

■道路際、すぐそばの民家の縁側に腰掛けて、山々の風景をスケッチする。今日は、お昼前頃から北風が吹き寒くて、手が凍(こご)え、なかなか描きにくかったが、なんとか、それらしく仕上がり、作品をふところにしまい出発した。和歌をつくろうと思ったがスケッチに気をとられてしまい、やめにした。この先、道の左側に松林があり、八幡宮(車返八幡神社:府中市白糸台5-20-4)が鎮座している。嘉陵が山々をスケッチしたのは、現在の白糸台、京王線の「武蔵野台駅」周辺であろうと思われる。

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さて訪ねてみると、八幡神社は、残念ながら荒廃していて境内は汚れ当時の面影はない。宗教法人としての神社の経営も楽ではないのだろうが、勝手ながらもう少し大切にしてほしいと願う。(神社の鳥居のそばに、この八幡神社が、近くの諏訪神社:白糸台5-12-9と稲荷神社:白糸台6-33-3を吸収合併したとの公告が貼り出されていた)

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※イラストは『江戸近郊道しるべ』平凡社刊、東洋文庫より

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