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2010年6月の15件の記事

《神谷バー》の車内広告

浅草発着の東武鉄道伊勢崎線限定の車内広告、《神谷バー》の最新バージョン。

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『言いたいことは、たくさんあるけれど。』

言いたいことばっかり言えたら最高ですが・・・。世の中、そうはうまくいかないもの。
まさにサッカーW杯で惜しくもパラグアイにPK戦で敗れた日本代表。いいたいことは、山ほどあるけど、よく頑張りました。

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『みんなが肩ひじ張りあうと、ぶつかっちゃうよね。』
朝の通勤電車で、やたらと力を入れてがんばる人やまわりの迷惑を考えない「傍若無人」の人がいる。
総じて、やさしくなくなった。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く『府中道の記』その⑤

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御茶屋街道を進み、嘉陵(かりょう)一行は多摩川の河原に到着。流れが浅く歩いて渡れそうな場所(浅瀬)が、たくさんある。水は少ない。一箇所、渡れる所があった。

さて、向う岸の山を、一の山、二の山、高い山を大丸山などと呼ぶ。土地の人は向う山といい、物好きな人は向うが岡(丘)などと呼ぶ。万葉集の人麿もこの「向かいの岡」をみて、歌を詠んだようだが、疑わしい話だ。(柿本人麻呂の作とのこだが、著者は未見である)

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出てみればむかひの岡のもとしげみ咲きたる花のならずはやまじ

ここより少し上流に「関戸の渡し」があり、川向うには「小山田の関」の関所跡があるそうだ。(平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌僧の)顕昭(けんしょう)の歌がある。村尾嘉陵の記述をすすめる。

あふ事は苗代水をせきとめて通し終せぬ小山田の関

どこでどう間違えたのか、本当の歌はつぎのとおりだ。

あふことは 苗代水に引きとめて とほしいでぬや 小山田の関 (顕昭)

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さて、この小山田の関は、いまなら府中市側から関戸橋を渡った場所にあったようだ。多摩市になるが、残念ながら現在は、何にも形跡がない。そして西に行くと「一ノ宮村」があり、地名の元になった「一之宮・小野神社」がある。少し足を伸ばして行ってみたが、境内は歴史を感じさせるどっしりした神社だ。京王線の「聖跡桜が丘駅」も近い。

    小野神社(東京都多摩市一ノ宮1-18-8、京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」徒歩10分)

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江戸時代までは、武蔵国の一宮であった。なぜか明治以降は、大宮氷川神社が一宮といわれている。多摩川の右岸にある。

 さて一行は、川原で風景を楽しむ。「屏風岩」と呼ばれる岩や対岸の山に残る雪、夕焼けに赤く染まる山々など、絵にも描けないくらい美しい。それぞれが川原の石を三つ、五つと拾っておみやげにする。ここより川下には、仮の橋が架かっている。毎年10月の末頃から冷たい水の浅瀬を渡るのも大変なためである。

多摩川は江戸時代と現在とは、流れが違う。たびたびの氾濫や治水工事で、流れがかわったそうだ。昔は多摩川もかなり府中市内に近かったようだ。

さて、嘉陵は、水の流れを見て、春になると水かさを増す水辺で愛を語らう男女のやりとりを表現した「溱水と洧水(しんすいといすい)」の故事(『詩経』国風:鄭風篇)を思い出し、おもむき深いと記す。

とかくする程に、日もやゝにかたぶきぬれば、もとの途(みち)をもどりて、一ノ鳥居のかたに行き、左右みな、けやき、榎の並木五丁斗(ばか)り。(略)

左右の馬場は、神祖(家康)寄附ましますと云ふ。埒(らち:柵)はなし。この一の鳥居を北にゆけば、小野の御牧(みまき:牧場)、恋ヶ窪(国分寺市)など云所に出る云ふ、往古の奥州道也とぞ。

川原で遊ぶうちに日が暮れかけてきたので、来た道を戻って、甲州街道を渡り、大国魂神社の参道を「一の鳥居」付近まで行く。左右は、けやきや榎の並木で、550mばかり続いている。

参道の左右には徳川家康が、作らせた馬場がある。柵はなく、(土手のように)土が盛ってある。北に行くと「小野の牧場」や「恋ヶ窪」(地名)に出るという。昔の奥州道である。

大国魂神社の鳥居は、「二の鳥居」が残っている。江戸時代、「一の鳥居」は、現在の東京都立農業高校あたりにあったという。そして、「旧一の鳥居」から、二の鳥居まで続くけやき並木が、府中のシンボルにもなっている「源義家(八幡太郎義家)」が奥州平定後に祈願の褒章として、けやき1,000本を植えたとさる『馬場大門けやき並木』である。(国の天然記念物、1062年源頼義・義家父子が、けやきを寄進したと伝わる)

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しかし、源頼義・義家が、けやきなど並木を寄進した話は、関東・南東北の各地の神社に、20件以上も伝説が残されているそうだ。いくら奥州征伐に成功したからといって、それほどたくさんの神社に戦勝祈願をしてお礼をしたとは、とれも思えない。

また、1062年に植えたけやきは、生きていれば樹齢は948年以上になる。最近の科学的測定によれば、可能性として樹齢は650年以上900年近いものもあったそうだから、ひょっとすると「八幡太郎けやき」伝説には真実味がある。

大門の並木の中程より、人家のうら道を過ぎて、万右衛門が亭にかへり着ぬ。その道すがら北の方間近く、昔の国分尼寺の跡也と云がみゆ。今は称名寺と云ふ。近比徳阿弥陀仏の御石碑掘出し寺也と云ふ。程近けれど、日も既に申(さる)の刻(午後4時)ばかりになれば、ゆきて見ずなりぬ。

馬場大門の並木の中程から、人家の裏道を行き、(旅籠・四人部屋)万右衛門へ帰り着いた。道すがら、昔の国分尼寺跡という「称名寺」があったが、時間も遅いので寄らなかった。

村尾嘉陵の勘違いで、「武蔵国分尼寺跡」は、もう少し北の東京都国分寺市西元町4-3で発掘されている。称名寺は、国司として中央から派遣された源経基(つねすけ)の住居跡とされている。この経基こそ、清和源氏の祖先とされる人物で、いってみれば、徳川家の祖先でもある。実はこの称名寺境内の竹林から、江戸時代の享和2年(1802)、墓碑が掘り出された。この墓碑銘には、徳川将軍家の先祖を意味する「世良田徳阿弥陀親氏(ちかうじ)、応永一四年」の記載があった。

徳川家の正史『徳川実紀』では、時宗の遊行僧であった世良田徳阿弥親氏は、三河の称名寺に落ち着き、三河賀茂郡松平郷の松平家の養子となり、初代徳川家をおこしたとされている。したがって、府中で徳川家の先祖の墓(墓碑)が発見されたことになれば、徳川将軍家の歴史がくつがえされてしまう。その後、府中の称名寺の、この墓碑の話は、闇に葬られ、「先祖づくり」あるいは「権威づけ」として、歴史の1ページから抹殺されている。当時、清水徳川家の武士であった嘉陵にとっては、かなりの関心事であったには違いないが、ある意味、歴史のタブーであったため、深くはふれていない。

    称名寺(諸法山相承院 称名寺、時宗:東京都府中市宮西町1-9-1)

全国を歩いた遊行僧・一遍で知られる「時宗」の古刹である。境内には、一遍上人の像があり、人間味あるお姿だ。大学の日本美術史の授業で『一遍上人絵伝』を学んだときの印象がよみがえってきた。一遍上人は、あらゆる階層の人々に、世の無常を説き、念仏をすすめ、仏教を布教して歩いた。現在は、「子育て地蔵」が近隣の人々の信仰を集め、多くの親子ずれが訪れている。

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 さて、村尾嘉陵一行は、四人部屋万右衛門で夕食と酒をいただき、長い長い1日の帰路に着いた。酉(とり:午後6時)の刻に、(杉並区)高井戸を過ぎる頃、風もやみ、続いて(世田谷区)代田あたりで月が白く輝き、足元を照らし歩きやすかったようだ。そして戌(いぬ:午後8時)の刻を過ぎる頃、帰宅した。日帰りで往復で60km以上という長い道のりだった。

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《東京スカイツリー》も写る「おもしろ鏡」

 目下、398mのスカイツリー。たとえば携帯電話のカメラで、ツリーをバックに自分も入れて撮りたいとき、実に便利な「鏡」がある。

墨田区

業平1-22番地付近に、最近できた「バラエティギフト さくら」の店先にある。

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 路上に置かれているので、お天気のよい日に限る。

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 おみやげの小物を売っている。まだ「キャラクターグッズ」はないが・・・。

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《東京スカイツリー》名物?ステキなランチを!!

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 建設中のスカイツリー、目下398mだが、地元にいると、マスコミで取り上げる機会が多くなるにつれ、観光客の方々がふえる。「建築中」のいましか見られない高さと姿なのだから、希少価値はあると思う。そこでスカイツリーにちなんだランチのご紹介。

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タワー丼。そば処かみむらでの人気メニュー。どでかいえび天を豪快に3本とかき揚げの天丼、みそ汁つきで1,800円。もともと回転の速いおそば屋さん。びっくりするくらい料理の出るのが速いのだ。量が多く食べられないのでサンプルで紹介。

        そば処 かみむら(上村)

        東京都墨田区業平1-18-13

        営業時間/11:00~21:00(日曜定休だが月曜休みになりそう)

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タワーチキン。南フランス料理のビストロ・サブールで考案したメニュー。ランチで1,500円。残念ながら好みではないので、食べたことがありません。写真で紹介。

        Bistro Saveur(ビストロ サヴール)

        東京都墨田区業平1-13-6

        営業時間/11:30~14:30、17:30~21:00(日曜定休)

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『府中道の記』その④

 府中宿の旅籠「四人部屋」での昼食休憩を終え、主人・万右衛門が多摩川の河原へ案内してくれるという。一行は六所明神(大国魂神社)の坤(ひつじさる:南東)方向へ行く。

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 六所明神坤の方、瑞籬(みずがき)の外、民家のうしろに、小高き所あり。そこにけや木(欅)の古木あり。其あらまし左の如し。(図)

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 このけやき五六年前までは、大なる枝二三本ありて、猶葉を生ぜしが、過ぎし年大風に吹き折れてより後、幹より芽葉を生ぜず。されど全く枯れたるにもあらずと云。其吹き折れたる大枝二囲みばかりなるが、木の下に横たはり臥し、猶一箇の大木の如し。

[高さ四丈斗(ばかり)、囲み疣(いぼ)ともに八囲み半、疣大きさ二囲み、いまだ全く枯れしにもあらず、されど枝葉を生ずる程の生気なきに似たり]

■六所明神の裏手、境内の外側に「けやき」の古木があった。1062年に源頼義・義家父子が寄進したものなら750年、少なくとも500年近いという樹齢の木だが、少し前の台風のとき、大風で折れてしまった。幹から芽や葉は出なくなったが、枯れてしまったわけではない。高さは4丈(約12m)、疣(いぼ)つまりこぶを含めて人間が両手を広げて8人分くらいの太さ。こぶだけでも両手を広げて2人分。

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 実は、現地に行き思いがけず、この「けやきの老木」を発見した。まさに村尾嘉陵が描いたスケッチのとおりだった。彼が府中を訪れたのは、文化9年(1812)だから198年前である。大国魂神社の本堂の裏、境内との境にある柵の外側で、いったい何百年前から、ここに生きているのだろうか。

 少しゆけば、径(こみち)のひだりに妙高寺(現・妙光院)、この寺の林に傍(そひ)て東にゆけば、是政(これまさ)にいたると云、猶行事(ゆくこと)七八丁にして、玉川(多摩川)端にいたる、この道筋を御茶屋街道と云、其のいはれをしらずと云えり。

(略)

■少し行くと小道の左側に妙光院がある。この寺の林に沿って東に行けば、「是政」に至る。さらに800~900m(1km弱)行くと、多摩川に着く。この道は「御茶屋街道」と呼ばれているが、道案内の主人は、道の名の由来を知らない。

 大国魂神社裏の「けやきの古木」を見た後、府中本町駅を右手にみながら、府中街道を下る。途中、左手に妙光院がある。貞観元年(859)の開山と伝えられているそうだ。かなり広い敷地で山門から入ると、境内の木々、植木も手入れが行き届いて気持がよい。真言宗の名刹で、総本山長谷寺の直末で、徳川家康からも御朱印15石が支給され、末寺が28カ寺あった。往時はこの地の真言宗道場だった。寺の北側には境外仏堂としてかなり荒廃しているが、金比羅堂がまつられている。

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☆妙光院(本覚山真如寺 妙光院:東京都府中市本町1-16-13、ご本尊は延命地蔵菩薩)

 この妙光寺の隣に安養寺があるが、村尾嘉陵の《江戸近郊道しるべ》には記載がない。立寄ってみると、天台宗の古刹で、明治維新前は大国魂神社の別当寺である。やはり家康から15石の朱印を賜っていた。現在は比叡山延暦寺の直轄寺で格式も高い。

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☆安養寺(叡光山佛乗院 安養寺:東京都府中市本町1-17-10、ご本尊は阿弥陀如来像)

 現在は、左手に大きな東京競馬場がある。このあたりを「御殿坂」、「御殿下」という。これは天正18年(1590)、徳川家康が造営させた「府中御殿」(府中市本町1-14)に由来する。将軍家が鮎漁や鷹狩りのため、この地域に来たときの宿泊所として使ったそうだ。(現在のこの場所は、府中本町駅前、イトーヨーカードの大きな駐車場付近)御殿は、その後、正保3年(1646)に焼失してしまい、再建されることはなかったそうだ。

さらに中央自動車道の下をくぐり直進する道を「御茶屋街道」といった。これは、府中御殿でおこなわれる茶の湯に使う「水」を多摩川まで汲みに行き、大切に運んだ道であったことから名付けられたという。現在では「ふるさと通り」と呼ばれているが、ちょうど「サントリー武蔵野ビール工場」正門近く(府中市是政6-20)に、「御茶屋街道」の石碑が建っている。

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製造工程を見学した後、ビール工場で出来立ての生ビールを飲んだことがある。どうしてこんなにうまいのかと思う。明らかに居酒屋やビヤガーデンで飲むものとは、味が違うのだ。水のせいだろうか?

そういえば、江戸時代には多摩川の府中あたりでも「鮎(あゆ)」が採れたという話。茶の湯に使う水も川から汲んだという話。昔はそれほど水がきれいだった、と片付けてよいのだろうか。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『府中道の記』その③

 いよいよ府中宿である。江戸から七里半(約30km)、宿場は、本町(本宿)、番場、新宿(新町)の3区域に分かれ、武蔵国の中心地として栄えていた。甲州街道筋には、本陣1、脇本陣2のほか、旅籠29軒、茶店など飲食店が140軒以上あった。(天保14年1843)

もちろん、公用で街道を行く武士もいた。そして六所明神(大国魂神社)参拝の客もいたが、近郊農村から農作物などが運ばれ、商業上の物資の集散地としても賑わっていたようだ。

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 そこを過ぎれば、府中宿、新町、本宿などの差別あり。いよいよ風吹きて、余寒ことに身にしみ、足もつかれたれど、先ず六所明神に参りてこそ、ものも食(くは)めとて詣る。社は町の中程南側也。(略)

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 冷たい風の中、寒さに耐えながら、ここまで長距離を歩いてきたため、かなり足も疲れてはいた。おなかも空いてきたが、まずは六所明神に参拝することが先決である。お社(やしろ)は、府中宿の中ほど南側に鎮座している。入口に高札が立っていたが、文字が消えかけていて、よく読めなかった。この六所明神(六所宮)の鳥居前に掲示されていたのは「馬市制札」と呼ばれるものであった。徳川家康が府中で求めた馬で大坂の陣に出陣し勝利を得たことから、毎年この地の馬市で買い求めることが恒例となり、いわば幕府公認の市となり、江戸初期から開催されていた。毎年、5月3日から9月末日までが決められた時期であったそうだ。(『府中宿』府中市郷土の森博物館刊)

 いまでは東京競馬場で有名な府中だが、江戸時代頃から「馬」に縁があったのだ。

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 さらに村尾嘉陵は、「楼門」の説明を書いている。鳥居をくぐって参道の先にある楼門は、随神(ずいしん)門と呼ばれている。現在は「御鎮座1900年記念事業」で本来の姿に再建すべく工事中である。記録によれば、享保20年(1736)、地元の有力者・川崎平右衛門(川崎定者によって奉納されたのが、初期の門であり、門の両側には随神の像があった。

 実はこの川崎平右衛門は、元禄7年(1694)、府中の名主の子として生まれたが、後に大岡越前守に認められ幕府の役人に取り立てられた人物。享保の改革の頃、平右衛門は、世話人として武蔵野台地の新田開拓や玉川上水の維持管理などに活躍。その後代官として、美濃国の治水事業や石見銀山の増産管理に腕を振い、銀山奉行まで出世した。また玉川上水を改修した時には、「小金井橋」近くの両岸に桜を植えたことや美濃からもってきた梨を多摩川近郊で接ぎ木して栽培する方法を奨励。これがいまの稲城梨や多摩川梨の始まりといわれている。すばらしい立身出世の人物である。

 さらに嘉陵は、六所明神の様子を描写する。

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本社は北に向きて鎮座し給ふ〔拝殿のひろさ八間ばかり〕、向ひて右の方に神祖の御宮あり。あけの瑞籬(瑞垣みずがき)をめぐらして鳥居あり。今日はからずも、御神忌の日にあたれるかしこさ、各恐れみ惶(かし)こみて拝み奉る。拝殿の左に御供所(ごくうしょ)あり。巽(たつみ:南東)の隅に本地堂、神輿庫(みこしぐら)、その北に鉄仏(かなぶつ)一軀あり。

 ご本社(本殿)は北向き、つまり甲州街道を背にして多摩川方向に位置している。本殿に向かって右側に神祖(徳川家康)を祀る東照宮がある。ほかの神を祀る社(やしろ)とは違い、ここには瑞垣(囲い)があり、小さな鳥居がある。いまはひっそりと佇(たたずん)でいるが、静かな威厳を感じる社である。嘉陵一行がたずねた日が、ちょうど家康の祥月命日(命日は4月17日)に当たる日であり、このご縁に恐れ多くもかしこくも・・・と参拝。

---その北に鉄仏(かなぶつ)一軀あり。

高さ六尺ばかりもありなん。座像にて、右の脇腹破れたり。文字鋳付きたる所所ありといへども、錆腐(さびくさり)てよむべからず。肩のあたりに文字二行鋳付たるが、二三十字あまりみゆ。

和紙をあてて拓本をしてみると、半分ほど読めた。「・・・・・・・・・陀仏・・・・・・・・・造大工藤原助近     建長五年・・・・・・」と読める。

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この鉄仏(かなぶつ)は、「大鉄仏阿弥陀如来坐像」という。高さは、六尺(180cm)はないが、158cm、重さは380kgもあり、明治維新までは、実際に大国魂神社境内にあったが、神仏分離策により、近くの善明寺に移された。

冊子『府中市の文化財』の表紙を飾る、大きな仏像である。確かに錆びていて茶色がかっている。建長五年(1253)、国分寺の刀鍛冶(かたなかじ)・藤原助近の作であり、大鉄仏の胎内仏と伝わる「小鉄仏阿弥陀如来立像」と共に、国指定の重要文化財。

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☆善明寺(天台宗、悲願山善明寺:東京都府中市本町1-5-4)JR武蔵野線「府中本町駅」より徒歩5分。「大鉄仏阿弥陀如来坐像」及び「小鉄仏阿弥陀如来立像」が寺宝として安置されている。(11月3日文化の日にしか開帳しない秘仏)小さな寺だが、落ち着きがある。大きな阿弥陀様を一度、拝んでみたいものだ。

 鉄仏の並びに、不動尊、松尾社、天鈿女神(あめのうずめのかみ)の祠がある。坤(ひつじさる:南西)の隅にはご神木の大イチョウ(銀杏樹)があった。このイチョウは、現在も本殿裏に天然記念物として存在している。(幹回り8.6m、高さ約20m)

さて嘉陵によれば、ご本社(本殿)には上棟の札が打ち付けてあり、それを見ると

「寛文七年(1667)、征夷大将軍正二位右大臣源朝臣(第四代将軍・徳川家綱)が再建した。家綱の命を受け、家綱側近の奉行・久世大和守広之が、本殿の再建工事を指揮したことがわかる。(これは史実にも合致している)

 ここで「六所明神」のいわれであるが、そもそも府中は、中央集権国家建設を目指した大化の改新の奈良時代、多摩地域の中心として、国司が派遣され「国府(こふ:国の行政の中心地)」となった。当時、武蔵国には44近くの神社がまつられていた。そこで国司が国内のすべても諸社を巡拝するのも大変な労力であった。そこで、武蔵国内の諸神社の祭神を、一ヶ所に合祀した惣社(そうしゃ)と、国内の有力な主な6つの神社をまとめて合祀したのが、六所明神であったそうだ。

「六所」とは、一之宮(東京都多摩市・小野神社)、二之宮(東京都あきる野市・小野神社)、三之宮(埼玉県大宮市・氷川神社)、四之宮(埼玉県秩父市・秩父神社)、五之宮(埼玉県神川村・金鑽神社(かなさな))、六之宮(神奈川県横浜市・杉山神社)までの六神社をいう。すでに中世以降、江戸時代にも広く関東一円からも多くの庶民の信仰を集め、とくに武士階級の間にも人気が厚かったようだ。

徳川家康は、この六所明神が関ヶ原合戦での家康の戦勝を、日夜祈願していたことをきき、祈願成就の功により、二条の馬場とけやきの苗を贈った。これが大国魂神社参道前の現在の馬場大門けやき並木だそうだ。また、家康は、江戸に入った翌年1591年、社領として500石の土地を寄進。当時として武蔵国内では最大級のものであった。

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 のこりなく拝しはてしかば、かなたにと蔭山某が案内にまかせて、宿の中程四人部や万右衛門といふ者のかたに行く〔むかし親子四人連の坂東巡礼者来客する事ありしに、其時この亭のあるじ、四人の内一人をとゞめて養子とす、夫(それ)より家名とすと云〕

万右衛門は蔭山某が所縁(ゆかり)あるものと云、家はひろからぬも、庭の小松、窓の竹、心あるさまにうえて、出居(いでゐ)もつきづきしふ住なせり。

 六所明神の拝観を終え、同行の蔭山某(蔭山弥八)の案内で、府中宿の中心に近い旅籠(はたご)に向かう。一行は、草鞋(わらじ)を脱いで、旅籠(「四人部屋」の座敷にあがる。それぞれが腰につけていた、握りめし(弁当)をひろげる。

 四人部屋という屋号は、昔、坂東三十三観音巡礼をしていた親子4人連れが宿泊したが、おそらく客の子どもを宿の主人が見染めて、養子にとお願いした。その後、これにちなんだ屋号をつけたようだ。この当時の主人は、四人部屋万衛門であった。当時、旅籠は、宿泊するだけではなく、茶店や食堂も兼ねていた。そばやうどん、一膳めし(定食屋)の営業もしていた。一行は、昼食休憩に立ち寄ったわけだ。

府中宿には、繁盛していた旅籠では信州屋、近江屋、松本屋、中屋、柏屋などと並んで、四人部屋があった。実はこの「四人部屋」は、万衛門の一代前の六郎右衛門が、別名「野村瓜州(かしゅう1736~1811)」である。旅籠(宿屋)を営みながら、詩歌、漢学、国学を学び、府中宿ばかりか江戸でも名の知れた文化人であったのだ。通称は(四人部屋)六郎右衛門。著明な江戸中期の文人・太田南畝(蜀山人)とも交流があったそうだ。この瓜州(六郎右衛門)には実子がなく、養子を迎えて3人の孫(二男一女)がいたそうだ。(『武蔵府中の文化財』府中市教育委員会刊)

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しかし文化9年(1812)、村尾嘉陵が府中を訪れた時には、この一流の文化人・野村瓜州は前年に亡くなっていた。宿は、息子(養子)の万右衛門の代にかわっていた。

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ところで文政10年(1827)に発行された旅行ガイドブック『甲州同中商人鑑(かがみ)』の府中宿のページには、旅籠が5軒紹介されている。「四人部屋」は「彦六」の代にかわっている。(『府中宿』府中市郷土の森博物館刊)

この四人部屋のあった場所は、現在の大国魂神社を背にして向かい側、甲州街道沿いの老舗和菓子「亀田屋」の西隣である。(「野村瓜州の四人部屋」という碑が立っている場所は、中華料理店の前になっているが、江戸時代の絵図で確かめてみたら、少しずれていた。亀田屋の隣に立てるべきだった)

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☆和菓子 亀田屋(東京都府中市宮西町2-8)府中銘菓「鮎もなか」が有名。

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《東京スカイツリー》下の居酒屋で

 墨田区業平橋駅前の居酒屋《やるき茶屋》。スカイツリーのお膝元ということもあり、名物が誕生した。《スカイツリービール》と《スカイツリーサワー》である。

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スカイツリービールは、高さ27cmのグラスに注がれたビール。中身は、普通のアサヒの生ビールだ。634円。(634mにちなんだもの)

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スカイツリーサワーは、カンパリソーダのようなラムネのような、甘口で飲みやすい。これで398円。(いまスカイツリーは398m)

ま、話の種ということで、興味をもった向きは、業平橋駅前の《やるき茶屋》業平橋店へどうぞ。悪酔いしないように!!

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《東京スカイツリー》398mで梅雨入り

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  ワールドカップで、日本がカメルーンに1対0。怒涛のような後半の攻めをしのいで辛くも勝った日、東京も梅雨入りした。「Happy Rainy Day」という、おしゃれポスターが上野駅に貼ってある。(雨の日を楽しもう)

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スカイツリーは350mの展望台を工事中のため、しばらく上には伸びないらしい。次はオランダ戦。たとえていえば、高校生チームとJリーグのトップチームが戦うようなもの。高校選抜がビルで日本。一方、Jリーグ選抜がオランダでスカイツリー。さて・・・!?。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『府中道の記』その② 文化9年(1812)1月17日

『府中道の記』その② 文化9年(1812)1月17日

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路の右の径(こみち)に入て、しばしばゆけば、金子十郎家忠が住し跡ありと云。其近くに平山武者所、日奉季重の住し処あり、今も平山と云と、人のかたるを聞まゝに書きつく。

■街道の右の小道を入って、少し行くと「金子十郎家忠」や「平山武者所、日奉季重(ひまつりのすえしげ)」の住居跡があるという。二人共、平安末期から鎌倉初期に生きた武士軍団「武蔵七党」の一員である。太平な江戸時代にあって、村尾嘉陵ら武士階級にとっては、名を残した中世の武士が憧れの的であったようだ。おそらく『源平盛衰記』や『平家物語』などの軍記物に描かれた金子や平山の活躍は、江戸時代の武士の常識であったかもしれない。

 

ちなみに金子十郎家忠は、武蔵国入間郡(埼玉県入間市)出身の武将で村山党の一族。保元・平治の乱で大活躍した。源義朝・義平・頼朝・義経に使え、「衣笠城の合戦」では、なんと21本の矢を受けながら一歩もひかず、敵武将を驚かせたという、エピソードが残されている。平山季重(すえしげ)は、武蔵七党の西党(日奉氏)の武将。こちらも保元・平治の乱で名を残した。富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い、奥州攻めなどの戦場で戦功を残した。

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(甲州街道、仙川2丁目付近)

金子は入間市周辺が、平山は現在、平山城址公園のある日野市が本拠地(出生地)である。調布市に史跡としては残っていないが、多摩地区には広範囲に管理する領土があったため、嘉陵が通った調布あたりにも二人にゆかりの別宅(別荘)があっても不思議ではない。調べてみると、京王線の「つつじが丘駅」は昭和30年まで「金子駅」であったそうで、その頃まで、このあたりには地名で「金子」が残っていたという。さらに仙川およびつつじが丘の約2km北、約2kmに金子六郎時光(家忠から五代目)の居住跡と伝わる「島屋敷」跡が残っている。(三鷹市新川4丁目の新川・島屋敷団地内)おそらく村尾嘉陵が、地元できいた話と符合する。

 さて嘉陵は、下布田、上布田(東京都調布市)を過ぎ、布多の天神(布多天神社)の前を通過。さらに下石原、上石原(同市)を行く。まもなく現在の府中市内に入る。

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 現在の布多天神社は、調布駅から徒歩5分、天神通りを抜け、甲州街道を渡ると、すぐである。ところでこの天神通り商店街には、調布ゆかりの『ゲゲゲの鬼太郎』のモニュメントが飾られている。鬼太郎(目玉おやじ)やねずみ男の等身大?の人形がある。

 布多天神社は小さな社だが、落ち着いていて、静かな雰囲気がある。

少し行くと、下染屋・上染屋(府中市白糸台)に入り、原っぱがあった。現在は近くに調布飛行場やサッカーの味の素スタジアムがある。さらに進んだ白糸台、武蔵野台といった場所は、台地であり、確かに昔は遠くの山々が見渡せたに違いない。

 夫(それ)より少し行て下染屋・上染屋にいたる。こゝに原あり。江戸よりこゝ迄は、路林木の際を出没するのみにて、目にとまるながめなし。こゝに到て初て、闊達として山壑(さんがく)の美をみる事を得、南に大山みゆ、夫より山々連綿して富士の根を遮ぎり峙(そばだ)つ。西北を顧(かえり)みれば、八王子、子の権現、秩父、武甲諸山を見る。

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■江戸からここ(府中白糸台)に来るまでの道のりでは、林の間を抜ける程度で、これといってたいした眺めはなかったが、「ここへ来て、はじめて闊達(かったつ)としてしっかり山岳美を見ることができる」と表現している。現在でもとくに空気の澄んだ冬場であれば、富士山や秩父連山を見ることができるはずだ。

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「大山1252m」は、神奈川県伊勢原市・奏野市・厚木市にまたがっている。山岳信仰の山であるが、「阿夫利神社」で有名な雨乞いの神様として、農民たちの人気を集め、江戸時代には町人たちも「講」を組んでグループで参拝した。(大山詣)

「八王子」の山とは嘉陵の残したスケッチによれば、「高尾山599m」である。

「子(ね)の権現640m」は、埼玉県飯能市にあるが、天台宗の寺で「大鱗山雲洞院天龍寺」が有名。「秩父連山」は、山梨・長野県方面にまたがる2,500m級の山々で、いまでもよく見える。

「武甲山1,304m」は、つい最近まで標高1,295mであったものが、国土地理院から修正された。山も成長するのだろうか。

江戸から見る山々と違って、富士山は、ぐっと近づいた感じで、くっきりと山肌も見える。山麓は見えないが、五、六合目から上が望めるようだ。

かたはらの民戸に腰かけて、こゝの風景をうつす。今日昼前より西北風吹出て、寒きにたへず、手さへこゞえて、筆もとり兼ねるまでなりしかど、からふじて図も草(そう)をなし、ふところにし去。詩歌の思をかまへしかど、図に心とられて重ねて題せばやとて止(やみ)つ。こゝを行はつれば、路の左に松林あり、八幡宮(府中市白糸台5丁目)立せ給ふ。

■道路際、すぐそばの民家の縁側に腰掛けて、山々の風景をスケッチする。今日は、お昼前頃から北風が吹き寒くて、手が凍(こご)え、なかなか描きにくかったが、なんとか、それらしく仕上がり、作品をふところにしまい出発した。和歌をつくろうと思ったがスケッチに気をとられてしまい、やめにした。この先、道の左側に松林があり、八幡宮(車返八幡神社:府中市白糸台5-20-4)が鎮座している。嘉陵が山々をスケッチしたのは、現在の白糸台、京王線の「武蔵野台駅」周辺であろうと思われる。

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さて訪ねてみると、八幡神社は、残念ながら荒廃していて境内は汚れ当時の面影はない。宗教法人としての神社の経営も楽ではないのだろうが、勝手ながらもう少し大切にしてほしいと願う。(神社の鳥居のそばに、この八幡神社が、近くの諏訪神社:白糸台5-12-9と稲荷神社:白糸台6-33-3を吸収合併したとの公告が貼り出されていた)

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※イラストは『江戸近郊道しるべ』平凡社刊、東洋文庫より

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398mのねぎぼうず《東京スカイツリー》

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 スカイツリーは目下、350m付近の「第一展望台」工事中。高さはしばらくかわらない。だから下から見上げると、ねぎぼうずのようだ。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『府中道の記』その①

『府中道の記』その① 文化9年(1812)1月17日

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 村尾嘉陵、53歳の初春。今回の目的地は、東京多摩の府中にある「六社明神」(現在の大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)である。

 文化九のとし睦月の十七日、国府(こふ)の六社の神にまうでんとて、おなじ心のともかたらひて、まだ夜をこめて出でぬ。

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■文化9年、真冬の1月、嘉陵は気のあった友と連れだって、府中の六社明神に詣でるため、まだ夜のあけないうちに出発した。ルートは、ほぼ甲州街道である。

四谷→内藤新宿(青梅街道)→(甲州街道)下高井戸・上高井戸→布田(国領・下布田・上布田・下石原・上石原)→府中 すなわち現在の新宿区・一部渋谷区、世田谷区、杉並区、調布市といったといった行程。途中の代田村(世田谷区代田)には、庭に情緒のある築山がある茶店や饅頭を売る店、酒屋などがあると、記している。

 今朝より馬牽(ひく)おのこ幾つれとなく行あふ。一つれ六十ばかり行つれたるぞ、いち多き也けり。巳の刻(午前

10時頃)過る比(ころ)までに、馬数およそ五百あまり。青梅街道より江戸に来るも又かくぞありぬべし。この馬ども未(ひつじ:午後2時)過る比より、夜をかけてかへると云。くるもくるも馬にて、いと行わづらふまで也。

■街道を行くと、馬子に何度もすれ違う。多いものだと、一度に60頭もつないで連れている。巳(み)の刻を過ぎる頃までに、合計で500頭くらいだろうか。青梅街道から江戸に入る馬も同様であろう。甲州街道筋の農村部から、荷物運搬用のために宿場に常駐させる多数の馬を連れていくのだが、役目を終えた馬は、交代に未(ひつじ)の刻過ぎ頃から夜にかけて、郊外へ帰っていく。次から次へと馬ばかり来るので歩きにくい。

 下高井戸(杉並区)あたりでは、道端に10mほどの杉の丸太を建て、上に大きな三方をのせ、丸餅などを置いてある。どうやらこの地域では、新年の行事として道祖神をおまつりするものだという。下高井戸から上北沢(世田谷区)、烏山(同)、給田(同)、下仙川(東京調布市)へ。

 下仙川に坂あり、多喜坂(滝坂)と名付、左に目ぐろ道(目黒道)、右に深大寺道あり。坂を下りて、ひだりに田の面見わたさる、右に酒戸あり、そば切りうる家もあり、こゝを金子(調布市)と云ふ。

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■下仙川に「滝坂」がある。江戸から続く平坦な甲州街道にあっては、この急な滝坂は、難所として知られていたようだ。いまは調布市つつじケ丘近くで、キューピー工場がある。(調布市東つつじケ丘1丁目)坂を下ると、左側には田んぼが広がる。右には酒屋、そば屋もある。ここを金子という。

「そば」は、江戸時代中期以降、それまでの「そばがき」(そばの実をつぶした粉を練って丸めたもの)から、現代の細長いそばである「そば切り」(そばの実を石臼などでしき、水と練ったものを、平らに延ばして切る)が一般的になった。理由として、関東でも良質な醤油が生産され、そばつゆの味と質も良くなったことや、もともと大工や人足など、独身男子(いまでいう単身赴任者)が江戸に多く、安く簡単にささっと食べることができたため、人気があったからだという。

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《東京スカイツリー》しばらく398m

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いつのまにか、鳩山政権も終わり、まもなく菅首相の出番。

一方、スカイツリーは398mを維持。現在、展望台をつくっているため、上には伸びていないようです。

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東京東村山市《歴史の散歩道 徳蔵寺・正福寺コース》

 著者はこども時代、東京都下の東村山で育たった。久々に、実に40年ぶりで東村山の史跡を訪ねた。都内で唯一の国宝建造物をもつ「正福寺」や鎌倉幕府を滅亡に導いた新田義貞の古戦場跡が近い「徳蔵寺」がある。小学生のときに、いまでいう社会科見学で行った記憶があるが、今回の再訪は、まったく新鮮な驚きであった。

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 コースは西武新宿線「東村山駅」から徒歩で、久米川古戦場→八国山(将軍塚)→徳蔵寺→正福寺→「東村山駅」。(東村山市で決めたこのコースは、この時期、大変混雑している花菖蒲の北山公園なども入っているが、カットした)

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(22年5月改築の徳蔵寺山門と板碑保存館)

 徳蔵寺には立派な板碑保存館がある。確か、小学生の頃、ここを見学したときには境内に石の板碑がゴロゴロしていた記憶がある。ほとんどが鎌倉・室町時代の板碑(いってみれば供養のための卒塔婆である)だった。

 国の重要文化財に指定されているのが「元弘の板碑」である。これは保存館の2階にガラズケ-ス入りで展示されている。元弘3年(1333)5月の(東京府中)分倍河原合戦で死亡した、新田軍の将兵・斉藤氏などの名前を刻んだ碑である。この前後の新田義貞の鎌倉攻めを整理してみると、通説ではこのようになっている。

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(徳蔵寺パンフレットより転載)

 新田義貞、同年、5月8日、上州(群馬県新田郡新田町)生品(いくしな)神社で鎌倉幕府討幕の兵を挙げる。5月9日、利根川を渡り、武蔵国(埼玉県)へ。

 5月11日、鎌倉街道を進み「小手指(こてさし)原」(埼玉県所沢市)で最初の合戦。

 5月12日、「久米川」の合戦。(東京都東村山市)新田軍勝利。13日・14日休息。

 5月15日・16日、「分倍河原(ぶばいがわら)」の合戦。(東京都府中市)および

「関戸」の戦い。(東京都多摩市)

 その後、新田軍は一気に鎌倉街道を攻め、5月22日には鎌倉幕府滅亡へと進んでいく。歴史の大きな流れの中の重要なポイントを明らかにする久米川古戦場跡や元弘の碑は、歴史的にも大きな意味をもっているようだ。

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(正福寺国宝地蔵堂)

 さて正福寺(しょうふくじ)である。小学生のときには、国宝の地蔵堂に入ることができたと記憶している。それこそ小さな地蔵が千体も棚に並んでいた。(もちろんいまは、秘仏扱いで内部が開放されるのは、8月8日・9月24日・11月3日のみ)

 この地蔵堂が、鎌倉にある円覚寺舎利殿(しゃりでん)によく似ている。禅宗特有の建築様式で屋根が、跳ね上がって見える。誰でも無料で見学可能な国宝である。

      臨済宗 大徳寺派 福寿山 徳蔵寺(東京都東村山市諏訪町1-26-3)

      臨済宗 建長寺派 金剛山 正福寺(東京都東村山市野口町4-6-1)

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(久米川古戦場跡、東京都東村山市諏訪町2丁目)

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『遅野井村正八幡宮参詣、同所善福寺・井草妙正寺池』天保3年(1832)5月10日 ③寒泉寺(観泉寺)・妙正寺

善福寺公園・井草八幡から観泉寺、そして妙正寺(公園)までは、現代でも歩くしかない。もちろん路線バスはあるが、あまり便利ではない。

夫(それ)よりもとのみちをたちもどりて、街道の北側井草に行くべき小みちを行く。左右畑にて何の見所なし・五七丁にして寒泉寺(観泉寺)といふ禅刹あり。一丁にたらぬ杉並の大門を入りてみるに、客殿の右に廊づたひの一室あり。半(なかば)修理して、半はまだし。門の右にも一かまへの社あり。拝殿、本社清らにかまへたれど、額もなければ何神ともしられず、庫裏(くり:寺の台所、住職の住まい)にも人ありとはみへながら、戸さしこめたれば、問うべき事もとはで去。

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■善福寺池を後にして、もと来た道を戻り、井草方面へ向かう。道の左右には、これといった見所はない。500から700mくらいで、寒泉寺(観泉寺)という禅宗の名刹がある。100m足らずの、杉並木の間の大門を入ると、客殿の右側に廊下でつながった修理中の建物がある。門の右にも社がある。(略)

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 ここ観泉寺は、戦国武将・今川氏ゆかりの立派な寺である。桶狭間の戦いで敗れた今川義元の息子氏真(うじざね)は、その後、杉並のこの地に領地を分け与えらそうだ。

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「正保二年(1645)、今川13代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など三か村500石の加増をうけましたので当寺を菩提寺と定め、現在地に移して寺号を観泉寺と改め、祖父氏真を開基とし、信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興としました。その後万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬しました。」(杉並区教育委員会文化財案内板)

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☆観泉寺(宝珠山観泉寺:曹洞宗、東京都杉並区今川2-16-1)

 「境内に神社があったが、額もなくなんの神様かわからない、庫裏も閉め切りで、誰にもきくことができず、仕方なくここを去る」と・・・、村尾嘉陵の観泉寺の記述が、つれないのは、清水徳川家に仕える身にとって、戦国武将今川家ゆかりの菩提寺についてあれこれ描写することを避けたためかもしれない。

 曹洞宗では、日常の所作すべてが修行といわれる。食事も掃除もそうだ。どっしりした山門をくぐると、境内は本当にきれいに掃き清められていてすがすがしい。門前や周囲には、江戸時代の石仏がたくさん保存安置されている。もう一度、訪ねてみたい寺である。

観泉寺の門前で、「いも」の畑を耕していたご老人がいたので、妙正寺への道を尋ねる。このまま左へ左へと行けば、14、5丁(約1.5km))程ですよ、と教えられた。いわれたとおり進んでいくと、田畑が続く。広い田んぼの前に立派な長屋門のある屋敷があり、このあたりの名主・井口新之丞(しんのすけ)のお屋敷だという。隣には、これも立派な冠木門(かぶきもん)の家があり、こちらは井口心十郎宅とのこと。やがて、妙正寺の門があった。(長屋門:武家屋敷でみられた門の形式。門の両側が長屋になっていて、防御のため家臣や下男を住まわせたそうだ。裕福な農家にもみられた。冠木門:屋根はないが、横に木を渡した門。)

 門を入りて左に番神堂、右に仮の鐘楼、そのこなたに大なる枝垂桜あり。堂舎は去々寅のとし(一昨年)焼けて、庫裏の一棟に坊と堂とを兼ねたるが、近く作り出しにや、まだいとあたらしきがみゆ。

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■妙正寺の門を入ると、左に番神堂、右の仮の鐘楼、その向こうにしだれ桜がある。本堂はおととし(1830年)火事で焼けたため、いまは庫裏1棟が住まいと本堂を兼ねて急ぎ新築したもの。

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☆妙正寺(法光山妙正寺:日蓮宗、東京都杉並区清水3-5-1)

■西武新宿線「井荻駅」南口から徒歩15分、荻窪行きバス「清水2丁目」下車4分

訪れたとき、有名な枝垂れ桜は、盛りをすぎてはいたが、まだまだ咲いていた。一眼レフカメラをもったご年配の男性が、一生懸命に桜を撮影していた。調べてみると花の寺として、みかんやサザンカ、ススキ、寒桜など、手入れの行き届いた四季の花々があるそうだ。こじんまりした寺である。

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さて、妙正寺の境内で焚き火をしている40代の男に「妙正寺池」はどこですかな、と訪ねると案内してくれた。草むらを踏み分けて、少し行くと池である。それほど大きな池ではない。角筈十二社(つのはずじゅうにそう)権現(西新宿の十二社熊野神社)の池に比べると、こちらが大きく兄格だ。おそらく昔は広い沼であったのを埋め立てて田んぼにしたのであろう。池の西側に吉祥弁才天をまつる祠(ほこら)がある。

 

 妙正寺池は、現在「杉並区立妙正寺公園」となっている。噴水がある池のまわりには、小さなこども連れの一団や周辺の、ご老人たちの憩いの場になっている。また当時、池畔にあった「弁才天」は 妙正寺に移されている。

 

さきほどの寺であった男が、さらに小さな石橋のところまで、案内してくれた。この橋を渡ると、向かいは天沼村(杉並区天沼)、こっちは井草村。天沼を過ぎてどこまでも東に行けば、高田村(中野区高田)に出ますよ。およそ二里(約8km)でしょうか。などと親切に教えてくれる。名前を訊くと、井口新十郎と答えた。(先ほどの名主の一族だ)ここまで送っていただいたお礼をいい、縁があればまたお会いしましょうと別れた。

 また、乾(いぬい:北西)の方角には、石神井の三宝寺(練馬区石神井台)、その少し東には谷原長命寺(練馬区高野台)がありますよと、新十郎は教えてくれたが、すでに遅く申(さる)の刻(午後4時)近くのため、次回にでも、と思う村尾だった。なお、この日、かりょうは、四時(よつどき:午前10時頃)に家を出発、暮六時(くれむつ:午後6時頃)に帰宅した。途中、阿佐ヶ谷で食事休憩をして足を休めただけで、帰宅するまで休むことはなかった。

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 この日、嘉陵の歩いた距離は、本人の記録ではつぎのようになっている。

三番町(千代田区九段南)の自宅→2里半(約10km)妙法寺→1里(約4km)阿佐ヶ谷→1里(約4km)遅野井→20丁(約2km)善福寺池→20丁(約2km)妙正寺池→2里余り(約8km)高田馬場→自宅

片道9里、往復で18里。なんと72kmである。おそるべし健脚。村尾嘉陵73歳の春である。

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スカイツリーの地元に間もなく《おしなり君焼き》登場

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  現在、398mの《東京スカイツリー》だが、地元の商店街にある老舗の煎餅屋さんの 《みりん堂》さんが、満を持して、名物を作り出す。《おしなり君焼き》という手 焼きの煎餅で、大きさは7cm四方くらい。間もなく発売らしい。楽しみだ。

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        みりん堂

        東京都墨田区業平1-13-7(東武線業平橋駅から徒歩3分)

        TEL:03-3621-2151

        営業時間/8:30~19:30 定休:不定休

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