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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『府中道の記』その③

 いよいよ府中宿である。江戸から七里半(約30km)、宿場は、本町(本宿)、番場、新宿(新町)の3区域に分かれ、武蔵国の中心地として栄えていた。甲州街道筋には、本陣1、脇本陣2のほか、旅籠29軒、茶店など飲食店が140軒以上あった。(天保14年1843)

もちろん、公用で街道を行く武士もいた。そして六所明神(大国魂神社)参拝の客もいたが、近郊農村から農作物などが運ばれ、商業上の物資の集散地としても賑わっていたようだ。

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 そこを過ぎれば、府中宿、新町、本宿などの差別あり。いよいよ風吹きて、余寒ことに身にしみ、足もつかれたれど、先ず六所明神に参りてこそ、ものも食(くは)めとて詣る。社は町の中程南側也。(略)

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 冷たい風の中、寒さに耐えながら、ここまで長距離を歩いてきたため、かなり足も疲れてはいた。おなかも空いてきたが、まずは六所明神に参拝することが先決である。お社(やしろ)は、府中宿の中ほど南側に鎮座している。入口に高札が立っていたが、文字が消えかけていて、よく読めなかった。この六所明神(六所宮)の鳥居前に掲示されていたのは「馬市制札」と呼ばれるものであった。徳川家康が府中で求めた馬で大坂の陣に出陣し勝利を得たことから、毎年この地の馬市で買い求めることが恒例となり、いわば幕府公認の市となり、江戸初期から開催されていた。毎年、5月3日から9月末日までが決められた時期であったそうだ。(『府中宿』府中市郷土の森博物館刊)

 いまでは東京競馬場で有名な府中だが、江戸時代頃から「馬」に縁があったのだ。

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 さらに村尾嘉陵は、「楼門」の説明を書いている。鳥居をくぐって参道の先にある楼門は、随神(ずいしん)門と呼ばれている。現在は「御鎮座1900年記念事業」で本来の姿に再建すべく工事中である。記録によれば、享保20年(1736)、地元の有力者・川崎平右衛門(川崎定者によって奉納されたのが、初期の門であり、門の両側には随神の像があった。

 実はこの川崎平右衛門は、元禄7年(1694)、府中の名主の子として生まれたが、後に大岡越前守に認められ幕府の役人に取り立てられた人物。享保の改革の頃、平右衛門は、世話人として武蔵野台地の新田開拓や玉川上水の維持管理などに活躍。その後代官として、美濃国の治水事業や石見銀山の増産管理に腕を振い、銀山奉行まで出世した。また玉川上水を改修した時には、「小金井橋」近くの両岸に桜を植えたことや美濃からもってきた梨を多摩川近郊で接ぎ木して栽培する方法を奨励。これがいまの稲城梨や多摩川梨の始まりといわれている。すばらしい立身出世の人物である。

 さらに嘉陵は、六所明神の様子を描写する。

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本社は北に向きて鎮座し給ふ〔拝殿のひろさ八間ばかり〕、向ひて右の方に神祖の御宮あり。あけの瑞籬(瑞垣みずがき)をめぐらして鳥居あり。今日はからずも、御神忌の日にあたれるかしこさ、各恐れみ惶(かし)こみて拝み奉る。拝殿の左に御供所(ごくうしょ)あり。巽(たつみ:南東)の隅に本地堂、神輿庫(みこしぐら)、その北に鉄仏(かなぶつ)一軀あり。

 ご本社(本殿)は北向き、つまり甲州街道を背にして多摩川方向に位置している。本殿に向かって右側に神祖(徳川家康)を祀る東照宮がある。ほかの神を祀る社(やしろ)とは違い、ここには瑞垣(囲い)があり、小さな鳥居がある。いまはひっそりと佇(たたずん)でいるが、静かな威厳を感じる社である。嘉陵一行がたずねた日が、ちょうど家康の祥月命日(命日は4月17日)に当たる日であり、このご縁に恐れ多くもかしこくも・・・と参拝。

---その北に鉄仏(かなぶつ)一軀あり。

高さ六尺ばかりもありなん。座像にて、右の脇腹破れたり。文字鋳付きたる所所ありといへども、錆腐(さびくさり)てよむべからず。肩のあたりに文字二行鋳付たるが、二三十字あまりみゆ。

和紙をあてて拓本をしてみると、半分ほど読めた。「・・・・・・・・・陀仏・・・・・・・・・造大工藤原助近     建長五年・・・・・・」と読める。

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この鉄仏(かなぶつ)は、「大鉄仏阿弥陀如来坐像」という。高さは、六尺(180cm)はないが、158cm、重さは380kgもあり、明治維新までは、実際に大国魂神社境内にあったが、神仏分離策により、近くの善明寺に移された。

冊子『府中市の文化財』の表紙を飾る、大きな仏像である。確かに錆びていて茶色がかっている。建長五年(1253)、国分寺の刀鍛冶(かたなかじ)・藤原助近の作であり、大鉄仏の胎内仏と伝わる「小鉄仏阿弥陀如来立像」と共に、国指定の重要文化財。

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☆善明寺(天台宗、悲願山善明寺:東京都府中市本町1-5-4)JR武蔵野線「府中本町駅」より徒歩5分。「大鉄仏阿弥陀如来坐像」及び「小鉄仏阿弥陀如来立像」が寺宝として安置されている。(11月3日文化の日にしか開帳しない秘仏)小さな寺だが、落ち着きがある。大きな阿弥陀様を一度、拝んでみたいものだ。

 鉄仏の並びに、不動尊、松尾社、天鈿女神(あめのうずめのかみ)の祠がある。坤(ひつじさる:南西)の隅にはご神木の大イチョウ(銀杏樹)があった。このイチョウは、現在も本殿裏に天然記念物として存在している。(幹回り8.6m、高さ約20m)

さて嘉陵によれば、ご本社(本殿)には上棟の札が打ち付けてあり、それを見ると

「寛文七年(1667)、征夷大将軍正二位右大臣源朝臣(第四代将軍・徳川家綱)が再建した。家綱の命を受け、家綱側近の奉行・久世大和守広之が、本殿の再建工事を指揮したことがわかる。(これは史実にも合致している)

 ここで「六所明神」のいわれであるが、そもそも府中は、中央集権国家建設を目指した大化の改新の奈良時代、多摩地域の中心として、国司が派遣され「国府(こふ:国の行政の中心地)」となった。当時、武蔵国には44近くの神社がまつられていた。そこで国司が国内のすべても諸社を巡拝するのも大変な労力であった。そこで、武蔵国内の諸神社の祭神を、一ヶ所に合祀した惣社(そうしゃ)と、国内の有力な主な6つの神社をまとめて合祀したのが、六所明神であったそうだ。

「六所」とは、一之宮(東京都多摩市・小野神社)、二之宮(東京都あきる野市・小野神社)、三之宮(埼玉県大宮市・氷川神社)、四之宮(埼玉県秩父市・秩父神社)、五之宮(埼玉県神川村・金鑽神社(かなさな))、六之宮(神奈川県横浜市・杉山神社)までの六神社をいう。すでに中世以降、江戸時代にも広く関東一円からも多くの庶民の信仰を集め、とくに武士階級の間にも人気が厚かったようだ。

徳川家康は、この六所明神が関ヶ原合戦での家康の戦勝を、日夜祈願していたことをきき、祈願成就の功により、二条の馬場とけやきの苗を贈った。これが大国魂神社参道前の現在の馬場大門けやき並木だそうだ。また、家康は、江戸に入った翌年1591年、社領として500石の土地を寄進。当時として武蔵国内では最大級のものであった。

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 のこりなく拝しはてしかば、かなたにと蔭山某が案内にまかせて、宿の中程四人部や万右衛門といふ者のかたに行く〔むかし親子四人連の坂東巡礼者来客する事ありしに、其時この亭のあるじ、四人の内一人をとゞめて養子とす、夫(それ)より家名とすと云〕

万右衛門は蔭山某が所縁(ゆかり)あるものと云、家はひろからぬも、庭の小松、窓の竹、心あるさまにうえて、出居(いでゐ)もつきづきしふ住なせり。

 六所明神の拝観を終え、同行の蔭山某(蔭山弥八)の案内で、府中宿の中心に近い旅籠(はたご)に向かう。一行は、草鞋(わらじ)を脱いで、旅籠(「四人部屋」の座敷にあがる。それぞれが腰につけていた、握りめし(弁当)をひろげる。

 四人部屋という屋号は、昔、坂東三十三観音巡礼をしていた親子4人連れが宿泊したが、おそらく客の子どもを宿の主人が見染めて、養子にとお願いした。その後、これにちなんだ屋号をつけたようだ。この当時の主人は、四人部屋万衛門であった。当時、旅籠は、宿泊するだけではなく、茶店や食堂も兼ねていた。そばやうどん、一膳めし(定食屋)の営業もしていた。一行は、昼食休憩に立ち寄ったわけだ。

府中宿には、繁盛していた旅籠では信州屋、近江屋、松本屋、中屋、柏屋などと並んで、四人部屋があった。実はこの「四人部屋」は、万衛門の一代前の六郎右衛門が、別名「野村瓜州(かしゅう1736~1811)」である。旅籠(宿屋)を営みながら、詩歌、漢学、国学を学び、府中宿ばかりか江戸でも名の知れた文化人であったのだ。通称は(四人部屋)六郎右衛門。著明な江戸中期の文人・太田南畝(蜀山人)とも交流があったそうだ。この瓜州(六郎右衛門)には実子がなく、養子を迎えて3人の孫(二男一女)がいたそうだ。(『武蔵府中の文化財』府中市教育委員会刊)

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しかし文化9年(1812)、村尾嘉陵が府中を訪れた時には、この一流の文化人・野村瓜州は前年に亡くなっていた。宿は、息子(養子)の万右衛門の代にかわっていた。

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ところで文政10年(1827)に発行された旅行ガイドブック『甲州同中商人鑑(かがみ)』の府中宿のページには、旅籠が5軒紹介されている。「四人部屋」は「彦六」の代にかわっている。(『府中宿』府中市郷土の森博物館刊)

この四人部屋のあった場所は、現在の大国魂神社を背にして向かい側、甲州街道沿いの老舗和菓子「亀田屋」の西隣である。(「野村瓜州の四人部屋」という碑が立っている場所は、中華料理店の前になっているが、江戸時代の絵図で確かめてみたら、少しずれていた。亀田屋の隣に立てるべきだった)

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☆和菓子 亀田屋(東京都府中市宮西町2-8)府中銘菓「鮎もなか」が有名。

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