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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『府中道の記』その①

『府中道の記』その① 文化9年(1812)1月17日

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 村尾嘉陵、53歳の初春。今回の目的地は、東京多摩の府中にある「六社明神」(現在の大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)である。

 文化九のとし睦月の十七日、国府(こふ)の六社の神にまうでんとて、おなじ心のともかたらひて、まだ夜をこめて出でぬ。

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■文化9年、真冬の1月、嘉陵は気のあった友と連れだって、府中の六社明神に詣でるため、まだ夜のあけないうちに出発した。ルートは、ほぼ甲州街道である。

四谷→内藤新宿(青梅街道)→(甲州街道)下高井戸・上高井戸→布田(国領・下布田・上布田・下石原・上石原)→府中 すなわち現在の新宿区・一部渋谷区、世田谷区、杉並区、調布市といったといった行程。途中の代田村(世田谷区代田)には、庭に情緒のある築山がある茶店や饅頭を売る店、酒屋などがあると、記している。

 今朝より馬牽(ひく)おのこ幾つれとなく行あふ。一つれ六十ばかり行つれたるぞ、いち多き也けり。巳の刻(午前

10時頃)過る比(ころ)までに、馬数およそ五百あまり。青梅街道より江戸に来るも又かくぞありぬべし。この馬ども未(ひつじ:午後2時)過る比より、夜をかけてかへると云。くるもくるも馬にて、いと行わづらふまで也。

■街道を行くと、馬子に何度もすれ違う。多いものだと、一度に60頭もつないで連れている。巳(み)の刻を過ぎる頃までに、合計で500頭くらいだろうか。青梅街道から江戸に入る馬も同様であろう。甲州街道筋の農村部から、荷物運搬用のために宿場に常駐させる多数の馬を連れていくのだが、役目を終えた馬は、交代に未(ひつじ)の刻過ぎ頃から夜にかけて、郊外へ帰っていく。次から次へと馬ばかり来るので歩きにくい。

 下高井戸(杉並区)あたりでは、道端に10mほどの杉の丸太を建て、上に大きな三方をのせ、丸餅などを置いてある。どうやらこの地域では、新年の行事として道祖神をおまつりするものだという。下高井戸から上北沢(世田谷区)、烏山(同)、給田(同)、下仙川(東京調布市)へ。

 下仙川に坂あり、多喜坂(滝坂)と名付、左に目ぐろ道(目黒道)、右に深大寺道あり。坂を下りて、ひだりに田の面見わたさる、右に酒戸あり、そば切りうる家もあり、こゝを金子(調布市)と云ふ。

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■下仙川に「滝坂」がある。江戸から続く平坦な甲州街道にあっては、この急な滝坂は、難所として知られていたようだ。いまは調布市つつじケ丘近くで、キューピー工場がある。(調布市東つつじケ丘1丁目)坂を下ると、左側には田んぼが広がる。右には酒屋、そば屋もある。ここを金子という。

「そば」は、江戸時代中期以降、それまでの「そばがき」(そばの実をつぶした粉を練って丸めたもの)から、現代の細長いそばである「そば切り」(そばの実を石臼などでしき、水と練ったものを、平らに延ばして切る)が一般的になった。理由として、関東でも良質な醤油が生産され、そばつゆの味と質も良くなったことや、もともと大工や人足など、独身男子(いまでいう単身赴任者)が江戸に多く、安く簡単にささっと食べることができたため、人気があったからだという。

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