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2010年7月の10件の記事

《東京スカイツリ-》ついに400m突破、408m

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 話題のスカイツリーが、400mを超えた。夏休みに入って、日増しに見学者が増えた。地元の商店街も必死だ。最近人気のおみやげ登場。

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カスタードクリームのお菓子。

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おしなりくん饅頭。これはおいしい。

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おしなりくん煎餅。(みりん堂)

団扇(うちわ)は無料です。

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35℃以上の猛暑と《東京スカイツリー》

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  梅雨明け後の東京は、連日、35℃以上の灼熱の日々。それでもスカイツリー見学者は多い。

0723 夕方のスカイツリー。あした暑い。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く『小金井・府中再遊』その②

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村尾嘉陵(むらお・かりょう)は、小金井の桜について記述した後、国分寺や府中周辺の史跡について述べている。江戸時代後半には「武蔵国分寺跡」を観光目的で訪れる人も多かったようだ。

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○国分寺

 府中本宿より六所大明神(大国魂神社)の大門を出。半里ばかり一条の路を北行して、国分寺村に至り、四辻ある所より西へ五六丁行かば国分寺也。大門南に向ふ、門より西の方山みな松ばかりにて、春一しほのいろことさら也。坊は門の東の方山を負て木立の中にあり、坊の前に花一木あり(浅黄桜也)。大門を入りて石階をのぼる事数級にして堂あり、宝暦の頃経営すと寺僧いへり。

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(薬師堂)

 府中の大国魂神社の鳥居を出て、2kmほど北へまっすぐ行くと、国分寺村である。四つ辻から西へ5、600mほどで国分寺(寺)だ。大門(国分寺仁王門と思われる)は南向きに建ち、門の後方の山には松林が広がる。青葉が茂り春色ひとしおだ。山中、木立の中に薬師堂がある。お堂の前に浅黄(あさぎ)桜が一木ある。仁王門を入って石段を数段のぼったところに薬師堂はある。寺の僧が言うには、この薬師堂は、宝暦年間(1751~1765)に再建されたものである。

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(仁王門)

(略)西の方山つゞき五丁ばかりの所に、鐘楼の址あり。礎今に至りてむかしのまゝに存す。大門の南畑の中五六丁ばかりに、五重の塔址あり。今松林となる、こゝに尤大なる礎あり。是は塔の親柱をすへたる石也と、寺僧いへり。

西の山続きに5、600mのところに鐘楼の跡があり、基礎の石や穴は昔のままである。南の畑の中、600mばかりの所に五重塔(実は七重塔)の跡があり、いまは松林となっているが、とても大きな基礎が残っている、塔の中心をなす親柱を建てた石とのこと。

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 国分寺(僧寺)の伽藍は、最近の発掘調査等により判明している。南門、中門を入ると正面に金堂があり、奥に講堂がある。右手には鐘楼と東僧坊が、左手には経蔵と西僧坊がある。したがって村尾嘉陵が「鐘楼」と記した場所は、鐘楼ではないだろう。また松林の中にあった「七重塔」の礎石は、いまも残っている。これらの武蔵国分寺の建物が、元弘3年(1333)、鎌倉幕府と戦った新田義貞軍により焼かれてしまったという。

 しかしこの新田義貞により、建武2年(1335)、武蔵国分寺の薬師堂は再建されている。(前述のとおり)

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(七重塔跡)

堂の庭西の方に碑石あり、聖武の朝肇僧尼二寺、一曰(いわ)く金光明四天王護国寺、寺僧員二十人、一曰く法華滅罪寺、尼員十人、総称曰く国分寺などしりせり。全文はよみはてずして止。

薬師堂の庭の西側に碑文があった。『国分寺建立の詔(みことのり)』である。

天平13年(741)3月24日の詔(続日本紀)によれば、聖武天皇(701~756・第45代)は、当時大流行した疫病(天然痘)や大飢饉、藤原家の内乱などから、国を守り民を救うための「鎮護国家」の国策として、仏教を奨励した。その施策として、諸国に国分寺(僧寺)と国分尼寺を建立する指示を出した。三条の条文はつぎのとおりであった。

(※参考資料:『武蔵国分寺跡資料館』解説シート№2より)

第一条)    国ごとの僧寺(国分僧寺)には、寺の財源として封戸を五十戸、水田十町を施し、尼寺(国分尼寺)には水田十町を施しなさい。

第二条)    僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、その寺の名は「金光明四天王護国之寺」としなさい。また、尼寺には十人の尼を住まわせ、その寺の名は「法華滅罪之寺」としなさい。二つの寺は距離を置いて建て、僧尼は教戒を受けるようにせよ。もし僧尼に欠員が出たら直ちに補充すること。毎月八日に、必ず最勝王経を読み、月の半ばには戒羯磨(かいかつま:受戒・懺悔の儀式作法)を暗唱すること。

第三条)    毎月の六斎日(ろくさいにち:仏教の思想に基づく斎日のひとつ。この斎日は1ヶ月のうち8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日で、前半の3日と後半の3日に分け、それぞれの3日を三斎日と称した)には、魚とりや狩りをして殺生をしてはならない。国司は常に監査をおこなうこと。

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☆国分寺(医王山 国分寺:東京都国分寺市西元町1-13-6、真言宗豊山派、ご本尊は薬師如来)再建されたとはいえ、武蔵国分寺の流れを受け継ぐ古刹である。最近では境内に160種以上も植えられた「万葉植物」園でも有名。いまでは珍しい万葉集など和歌に登場する花や樹木が、たくさんある。

 さて嘉陵は、この国分寺跡で村のこどもたち(村童)に、「古い瓦を買ってください」と囲まれた。国分寺周辺では、古瓦が旅人に土産として売られていたに違いない。いまなら文化財保護法等で大問題になる話だ。中には粗悪品もあったが、布目模様や関東近郊の各村(郡)の名が入った瓦もあり、天平のロマンを思いおこすような品々もあった。

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(江戸名所図会 国分寺伽藍旧跡)

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《東京スカイツリー》「おしなりくん」ティーシャツと煎餅

 スカイツリーの真下、業平橋「中村屋洋品店」の店頭に“おしなりくんティーシャツ”が登場。まだ量産がきかないのか1,800円だ。

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 以前にも紹介した「みりん堂」で、いよいよ“おしなりくん煎餅”を発売。好評だという話である。このさびれた下町が盛り上がってくれれば、よいと思う。

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上野駅の《シャガールChagall》

 日本の美術館で人を呼べるのは、「モネ・マネ・セザンヌ・ルノワール」の印象派に、「ゴッホ」を加えればよい。無敵の営業センスだ。それから最近は、「シャガール」だ。

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シャガール(マルク・シャガール1887~1985)は、ロシア(現在のベラルーシ)出身のユダヤ系。パリでの生活が長く、フランス国籍も取得していたから、フランス人だと思っている人も多い。アメリカにもいたことがある、というからややっこしい。しかも南フランスにも縁が深い。

 「愛の画家」と呼ばれるけれど、私は赤やブルー、ピンクなどの「色彩」を操る道化師だと思う。馬や愛妻の姿が空中を飛ぶ。自由な空間をイメージしながら、それでいてユダヤ民族の抵抗と存在感や愛を描く。きっと殺伐としたこんな時代だからこそ、シャガールの絵を見て感動してしまうのかもしれない。

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※上:上野駅ホームで 下:「私と村」ニューヨーク近代美術館MoMA蔵

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《江戸東京たてもの園》で武蔵野うどん

 東京都小金井市の「都立小金井公園」(桜の名所)にある《江戸東京たてもの園》の中で、うまいうどんが食べられる。武蔵野うどん600円。

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■東京都小金井市桜町3-7-1(都立小金井公園)

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く『井の頭記行』その②

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(略)拝殿の前に向ひたる池の向ひ岸の山根に、楓樹数珠あり。折りからの紅葉詠(もみじながめ)深し。社の巽(たつみ:南東)の角に前の上水端にてほりもてこし小松、一もと二もと植えて

 箒木(ははきぎ)の老いの栄を祈るかな植える小松の千代を祝ひて(A)

 年を歴(へ)て又もきてみん広前に植えし小松の千代のさかへを (B)

 この内一首は、拝殿の右の板障に書きつく

        (略)拝殿前の池の向う岸の小山の麓に、かえでの木が数本ある。季節柄、紅葉が美しい。弁財天本社の南東の角に、玉川上水の脇で掘り起こして持参した小さな松を1、2本植えて、歌を詠む。

        箒木:アカザ科の一年草。高さ約1メートル。茎は堅く細く、下部から多数分枝し、緑色でのち赤色になり、葉は互生する。夏から秋、淡緑色の小花を穂状につける。実は小さく平たい球形で、漢方で地膚子(じふし)とよび利尿薬に、また、とんぶりとよび食用にする。中国の原産。干して草箒(くさぼうき)を作る。ほうきぐさ。ははきぎ。[大辞泉]    

(A)    自分の身を「ほうき草」にたとえて、やがて老いてゆく自分の行く末に栄光あれと祈る。小さな松がやがて大きく育つ、永久の繁栄を祈る。

(B)    何年かして、もう一度この弁財天の地に来てみたいものだ。自分で植えた小さな松が大きく育っている姿を。

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 この池、さしも広からねど、水のわき出る渦七ツあり。依て七井の池ともいふと也。こゝにしづもりませる初は、源右幕下(源頼朝)、承安中義兵を挙て、安房、上総を経て、こゝにいたり給ひ、竜女の告ありて、建久年中に祠をたてらる。其の後東照宮(徳川家康)この地に成せられ、名水たるを以て、是を江戸まで引きせられ、永く水源のかれせざらん事を思召され、慈眼大師に仰せありて、こゝにて水加持の護摩を修せしめ給ふ。しかりしよりこのかた、毎年三月十五日より四月十五日迄、護摩を修行して怠る事なしと云ふ。

■井の頭池は、それほど広くはないが、水が湧き出る場所が七箇所ある。したがってこの池は「七井の池」ともいう。祠(ほこら)を建てたのは、源頼朝といわれる。その後、徳川家康もこの地を訪れ、湧き出る名水を江戸市中に引き、水源が枯渇しないようにと、かの慈眼大師・天海大僧正に護摩修行を命じたそうだ。

 「井の頭弁財天」は、源経基(府中の称名寺の紹介に登場した国司)が、平安時代の天慶年間(938年から947年)に弁財天女像を安置したことに始まると伝わる。さらに建久8年(1197)、源頼朝が関東の平安を祈念して、弁天堂を再建した。さらに江戸時代、家康が、おそらく鷹狩で訪れた際、豊富に湧出する水源を認め、江戸の上水道設備に役立てようと、神田川を掘ることを決めたという。さらに徳川家光が弁天堂を復興した。

 大猷院殿、又こゝに成せられ、この水江戸数万人の咽喉(のど)をうるほす、これ江戸中の井の頭也と上意ありしより、この池の名と成り。

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■大猷院(三代将軍・徳川家光)もまた、この地に来られ、「この水は江戸に住む数万人の人々の飲料水である。まさに井戸の中のリーダー(井戸の頭)である」、とお言葉をいただいた。それが池の名となった。

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 さて、井の頭池の南側高台に「大盛寺」がある。弁財天の別当時だ。門は固く閉じられ、拝観はできない。やはり家光が再興したと伝わっている。

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☆大盛寺(明静山 円光院 大盛寺たいせいじ):東京都三鷹市井の頭4-26-1、天台宗ご本尊は薬師如来。

 神田川の水源には、碑が立っている。現在では水の湧出はなく、ポンプで組み上げているそうだが、300年近く川は流れている。まさに井の頭公園は、江戸時代を追体験できる旅の目的地である。

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《東京スカイツリー》下のパン屋さん

 話題のスカイツリーの地元、墨田区浅草通り沿いのパン屋さん《キムラヤ》では、スカイツリー関連のパンを発売した。(東京都墨田区業平1-10-4)

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 タワーデニッシュ、250円。チョコレートクリームとカスダード入り。

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 おしなりくん。どうやらパンのようだ。200円。

ぜひ、挑戦してみたい。

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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く 『井の頭記行』その①

 文化13年(1816)9月15日、村尾嘉陵(むらお・かりょう)は、井の頭弁財天を目的地として、巳の刻(午前10時)、浜町(東京都中央区)の自宅を出発した。市谷御門(現在のJR市ケ谷駅前)から、新宿区富久町の『自性院』(自證院)前を通過、新宿の『三光院いなり』(現・花園神社)前を行く。

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 新宿→成子(なるこ:新宿北新宿・西新宿)→中野→堀の内妙法寺(杉並区堀ノ内)→大宮八幡(杉並区大宮)→下高井戸・上高井戸(杉並区)を経て、久我山(杉並区)へ到着。久我山村の入口に「庚申塚(こうしんづか)」があり、道しるべとなっている。

 嘉陵は玉川上水を渡り、牟礼(むれ:東京都三鷹市牟礼)へ出た。井の頭は近い。現在の「井の頭恩賜公園」である。

(略)上水端をはなれて右へ行く道の左右皆並木あり。七八丁行きて井ノ頭弁才天の大門へ出る。こゝに石の牓示を立て、井ノ頭弁才天明静山大盛寺などえり付く。この牓示ある所より石の鳥居ある所まで一丁程あり。石のとり居の所より坂を下りて石橋あり。この坂道けはしき上に、崩れて下る事あたはず。石ばしも橋桁ばかり在りて、石はみなくづれて、池のほとりにあるのみ也。そこより左りに廻りて林間を下り、社の左に出る。こゝの林間の坂の下に、大猷院殿(徳川家光)御手づから御小刀をもて、木の肌に井ノ頭とえり付させ給ふ木ありしが枯れて、其の跡にわか木を植えたる所あり。

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 並木を800mほど行くと、大門に出た。「井ノ頭弁天 明静山 大盛寺(たいせいじ)」と石碑に刻んである。ここから石の鳥居がある所まで100mほどある。(石の鳥居は、明治の神仏分離策で取り除かれた)

 石の鳥居の所から坂を下ると石橋がある。この坂道は急勾配で崩れていて歩けない。その先の弁天社へ渡る石の橋も橋げただけが残っているだけで壊れている。仕方なく左手にまわって、林の間をおり、社の左側に出ることにした。この坂の下には、三代将軍家光公(大猷院殿)が、自ら小刀で(こぶしの)木に「井ノ頭」としるした木があったが、枯れてしまい、その跡に若木を植えた場所がある。

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 実は三鷹市教育委員会が《井の頭の石像物群》として、この場所の狛犬や石燈篭などを指定文化財として認定している。井の頭公園内周辺にある石像物は、つぎのとおりである。(私が石造物配置図を加筆修正した)

①(弁天堂前)狛犬一対:明和7(1771)年

②水盤:正徳3(1713)年

③石橋:文化14(1817)年

④(石橋前)石燈篭:天保4(1833)年

⑤辛夷(こぶし)の碑:明治

⑥水盤:安永4(1775)年

⑦石階段:文政7(1824)年

⑧紫燈篭一対:慶応元(1865)年

⑨石鳥居標石(宇賀神):明和4(1767)年

⑩石燈篭一対:文化7(1811)年

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 村尾嘉陵が井の頭を訪れたのは、文化13年(1816)、9月のことであったから、まだまだこの弁才天(弁財天)の周囲は、整備されていなかったようだ。しかし「弁財天」は、財産を守る神様として江戸庶民の人気を集めていたそうだ。また、音曲や踊りの神として、歌舞伎界や花柳界にも信仰者が多かった。③の石橋は、江戸の「一番組・湯屋講中」が寄進したことが知られている。また⑦の石階段と⑩石燈篭は「両国講中」の銘が刻まれている。

 さて嘉陵が訪問当時の、井の頭弁財天の社(本社)は、こけらぶき(板葺き)で拝殿が萱葺きであった。池の岸に石を組み、静かに建っている。池は上野の不忍池に比べれば広さは半分ほどだろうが、蘆荻(ろてき:アシや水草)が生い茂っていたために水面が見えない。

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 いまや静かな井の頭公園も江戸時代は、弁天様が庶民の信仰を集めてはいたものの、市民のオアシスとまではいかなかったようだ。弁財天の歴史と別当寺の大盛寺については、次回に紹介する。

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《東京スカイツリー》のみやげ

 398mのスカイツリーがそびえ立つ東京都墨田区業平(なりひら)界隈、見物客が日増しに多くなっている。そんなお客様を当てこんで、にわかにおみやげ屋さんができている。浅草通り沿いの墨田区業平2-16-12、「前田商店」の店先には、スカイツリーグッズが並んだ。

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スカイツリーのフェイスタオル。1本350円。

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スカイツリーのマグネット。380円。

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スカイツリーを描いた桐(木製)の絵はがき。1枚350円。

これからどんどん出てくると思われる。

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