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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く『小金井・府中再遊』その②

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村尾嘉陵(むらお・かりょう)は、小金井の桜について記述した後、国分寺や府中周辺の史跡について述べている。江戸時代後半には「武蔵国分寺跡」を観光目的で訪れる人も多かったようだ。

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○国分寺

 府中本宿より六所大明神(大国魂神社)の大門を出。半里ばかり一条の路を北行して、国分寺村に至り、四辻ある所より西へ五六丁行かば国分寺也。大門南に向ふ、門より西の方山みな松ばかりにて、春一しほのいろことさら也。坊は門の東の方山を負て木立の中にあり、坊の前に花一木あり(浅黄桜也)。大門を入りて石階をのぼる事数級にして堂あり、宝暦の頃経営すと寺僧いへり。

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(薬師堂)

 府中の大国魂神社の鳥居を出て、2kmほど北へまっすぐ行くと、国分寺村である。四つ辻から西へ5、600mほどで国分寺(寺)だ。大門(国分寺仁王門と思われる)は南向きに建ち、門の後方の山には松林が広がる。青葉が茂り春色ひとしおだ。山中、木立の中に薬師堂がある。お堂の前に浅黄(あさぎ)桜が一木ある。仁王門を入って石段を数段のぼったところに薬師堂はある。寺の僧が言うには、この薬師堂は、宝暦年間(1751~1765)に再建されたものである。

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(仁王門)

(略)西の方山つゞき五丁ばかりの所に、鐘楼の址あり。礎今に至りてむかしのまゝに存す。大門の南畑の中五六丁ばかりに、五重の塔址あり。今松林となる、こゝに尤大なる礎あり。是は塔の親柱をすへたる石也と、寺僧いへり。

西の山続きに5、600mのところに鐘楼の跡があり、基礎の石や穴は昔のままである。南の畑の中、600mばかりの所に五重塔(実は七重塔)の跡があり、いまは松林となっているが、とても大きな基礎が残っている、塔の中心をなす親柱を建てた石とのこと。

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 国分寺(僧寺)の伽藍は、最近の発掘調査等により判明している。南門、中門を入ると正面に金堂があり、奥に講堂がある。右手には鐘楼と東僧坊が、左手には経蔵と西僧坊がある。したがって村尾嘉陵が「鐘楼」と記した場所は、鐘楼ではないだろう。また松林の中にあった「七重塔」の礎石は、いまも残っている。これらの武蔵国分寺の建物が、元弘3年(1333)、鎌倉幕府と戦った新田義貞軍により焼かれてしまったという。

 しかしこの新田義貞により、建武2年(1335)、武蔵国分寺の薬師堂は再建されている。(前述のとおり)

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(七重塔跡)

堂の庭西の方に碑石あり、聖武の朝肇僧尼二寺、一曰(いわ)く金光明四天王護国寺、寺僧員二十人、一曰く法華滅罪寺、尼員十人、総称曰く国分寺などしりせり。全文はよみはてずして止。

薬師堂の庭の西側に碑文があった。『国分寺建立の詔(みことのり)』である。

天平13年(741)3月24日の詔(続日本紀)によれば、聖武天皇(701~756・第45代)は、当時大流行した疫病(天然痘)や大飢饉、藤原家の内乱などから、国を守り民を救うための「鎮護国家」の国策として、仏教を奨励した。その施策として、諸国に国分寺(僧寺)と国分尼寺を建立する指示を出した。三条の条文はつぎのとおりであった。

(※参考資料:『武蔵国分寺跡資料館』解説シート№2より)

第一条)    国ごとの僧寺(国分僧寺)には、寺の財源として封戸を五十戸、水田十町を施し、尼寺(国分尼寺)には水田十町を施しなさい。

第二条)    僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、その寺の名は「金光明四天王護国之寺」としなさい。また、尼寺には十人の尼を住まわせ、その寺の名は「法華滅罪之寺」としなさい。二つの寺は距離を置いて建て、僧尼は教戒を受けるようにせよ。もし僧尼に欠員が出たら直ちに補充すること。毎月八日に、必ず最勝王経を読み、月の半ばには戒羯磨(かいかつま:受戒・懺悔の儀式作法)を暗唱すること。

第三条)    毎月の六斎日(ろくさいにち:仏教の思想に基づく斎日のひとつ。この斎日は1ヶ月のうち8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日で、前半の3日と後半の3日に分け、それぞれの3日を三斎日と称した)には、魚とりや狩りをして殺生をしてはならない。国司は常に監査をおこなうこと。

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☆国分寺(医王山 国分寺:東京都国分寺市西元町1-13-6、真言宗豊山派、ご本尊は薬師如来)再建されたとはいえ、武蔵国分寺の流れを受け継ぐ古刹である。最近では境内に160種以上も植えられた「万葉植物」園でも有名。いまでは珍しい万葉集など和歌に登場する花や樹木が、たくさんある。

 さて嘉陵は、この国分寺跡で村のこどもたち(村童)に、「古い瓦を買ってください」と囲まれた。国分寺周辺では、古瓦が旅人に土産として売られていたに違いない。いまなら文化財保護法等で大問題になる話だ。中には粗悪品もあったが、布目模様や関東近郊の各村(郡)の名が入った瓦もあり、天平のロマンを思いおこすような品々もあった。

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(江戸名所図会 国分寺伽藍旧跡)

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