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【江戸時代の寺社めぐり】村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く『小金井・府中再遊』その④

 村尾嘉陵(むらおかりょう)は、地元の名主・相沢源左衛門(相沢五流)の道案内で、新田義貞軍が鎌倉幕府との激戦を繰り広げた史跡めぐりに出かけた。現代の私は、京王線「聖跡桜ヶ丘駅」から東京都多摩市関戸地区を歩いてみた。もちろん府中市側からは、多摩川を「関戸大橋」で渡ることもできる。

 

こゝは相模より武蔵に至り、夫(それ)より奥に行く本街道にて、咽喉(のんど)の切所(きれと)なれば、往古より関を置(おか)れ、村の名をさへ関戸と呼名づくるをもて思ふに、この所霞ヶ関なる事疑ふべからずと、源左衛門いへり。しかりやいなや、今日はたそがれ比こゝに来りしゆへ、関跡はたづねずして止。

 相模の国から武蔵の国を通り、文字通り奥州へ向かう鎌倉街道の交通の要衝が、関戸あたりで、高台から下を見下ろせる地形のため、「霞ヶ関」(関所)が置かれたというのも、疑いのないことだと、相沢源左衛門(相沢五流)は説明する。それが正しいのかどうか、嘉陵は関所の跡地に実際に行ってみたいと思ったが、夕方近くなってきたので訪ねるのをやめた。

 横溝八郎の墳(つか)

関戸村の入口、西の山手少し小高き所、麦畑のうちにあり。小高く土をかきあげて、上に榎一本あり、前の源左衛門が案内にてこゝに来り。墳の傍(かたわら)に拝伏して云、この墳を八郎がしるし也と云ども、必ず八郎ばかりがしるしには侍らじ、多くの死屍

(しかばね)をとりあつめて埋みたる墳にて、八郎が屍も定めてこのうちに在しなるべし。(略)

 1333年(元弘3年)515日、新田義貞が足利尊氏と鎌倉幕府倒幕の際に分倍河原の戦いで勝利した翌日、516日には多摩川を越え、鎌倉幕府の関所である霞ヶ関(霞ノ関)に進軍。関戸の一帯で北条泰家(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の弟、幕府軍大将)が防衛戦を行った。この戦いで新田軍側が勝利を収め、北条泰家は家臣の横溝八郎や安保入道父子の奮戦によって一命を取りとめ、鎌倉に逃走したが、横溝八郎、安保入道父子は関戸で討死をしている。(参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

 聖跡桜ヶ丘駅から徒歩約15分、旧鎌倉街道沿いの地蔵堂に《関戸古戦場跡》の碑がある。(多摩市関戸5-23)地蔵堂の脇の道を行くと、すぐ右手の民家の庭に《横溝八郎》の墓が見える。きれいに手入れされた一般の民家の庭先に、いまも残るのが、相沢源左衛門が嘉陵を案内した場所である。この時の話では、横溝の首(亡骸)だけを埋めのでなく、一緒に戦って命を落とした戦士たちも一緒に葬った墓であろうとのことだ。はたしていまとなっては事実を知る由もない。

 

 さて、横溝の墓のある民家の前の道を進むと、《延命寺》がある。小さな時宗の寺だが、こちらのご住職が《関戸の戦い》で亡くなった名もない兵士たちを、手厚く葬ったと伝わる。山に抱かれた静かな寺である。

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    延命寺(東京都多摩市関戸5-24-3、時宗)

 さらに旧鎌倉街道を歩く。前回尋ねた近くの《観音寺》から、少し先に熊野神社がある。ここには《霞ノ関》の木戸柵跡が残る。神社の参道には、一部、南の木戸、木の柵が復元されている。先の観音寺が北の木戸跡だという。関所は南北におよそ250から300mの幅だったそうである。

 

 さてこの関戸の裏山一体が、丘陵地になっている。多摩丘陵である。かなり上まで登って行くと、かつての砦の関戸城跡《天主台》がある。遠くまで見通しがきく。近くには、金比羅神社があった。ここは、スタジオジブリ作品の『耳をすませば』(1995年度作品)のモデルになった街・多摩丘陵「桜ヶ丘」である。宮崎アニメの聖地だ。

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