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《日光街道》宿場を歩く【小山宿】その1

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 小山宿は間々田宿から一里二十三町、約6.4kmである。栃木県小山市だ。

歩いていると小山の手前に「神鳥谷」という地名がある。「ひととのや」と読む。これは読めない。由来だが、このあたりに鷲(わし)城があった。鷲は神鳥とされ「しとと」と呼ばれていた。おそらく谷のような地形であったところから「しととの谷(や)」となり、「しととのや」が「ひととのや」に転じたものと思われる。

鷲城:正確な築城年代は不明。小山義政の乱(13801382)の激戦場。武蔵国鷲宮から鷲神社を勧請したため、この名があるといわれる。南北朝時代の城郭としては規模が大きく遺構の状態も良好とのこと。(国指定史跡、小山市外城、小山総合公園に隣接)

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この神鳥谷に歴史のありそうな長屋門(新井邸)があった。

 日光街道を行き小山の町に入る。鐘楼をもつ山門の寺がある。立派な持宝寺である。

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■持宝寺(小山市宮本町2-13-15)山号:東醍醐山、真言宗。本尊は大日如来。

宝亀三年(772)、弓削道鏡の開基と伝わっている。奈良時代の僧・道鏡は、女帝である孝謙天皇の寵愛を受け、法王職につき政治の世界に介入していたが、政変に敗れ、都から、確かに下野国下野薬師寺の別当に任じられ左遷させられ、この下野の地で亡くなったと伝わる。持宝寺は当地小山氏の祈願寺であった。江戸時代には享保十三年(1728)、8代将軍・徳川吉宗の日光社参の折、休息所となった。

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また小山市教育委員会の案内板によれば、この寺の鐘は寛政四年(1792)、三木右衛門藤原光長が鋳造したが、戦時中、供出を免れたそうだ。鐘の銘文に「孝謙天皇」の名があったためといわれている。

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日光街道から長い参道が続く。大変立派な神社がある。訪れたときは、ちょうど七五三の時期の須賀神社であった。

☆須賀神社(小山市宮本町1-2-4

藤原秀郷が天慶の乱(平将門を破る戦い)に際し、スサノオノミコトに戦勝を祈願した。これが成就したことにより、天慶三年(940)、京都の八坂神社(祇園社)から勧請して創建した。

 徳川家康は、慶長五年(1600)七月、須賀神社境内で小山評定(軍議:後述)を開き関ヶ原の戦勝を祈願。祈願成就したことにより、五十一石余の社嶺を寄進した。

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 承応二年(1653)、小山の町の旦那衆によって建立された石の鳥居には、天下泰平・国土安全・荘内豊穣等を祈願した銘文が刻まれている。近世前期の貴重な鳥居である。

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 夜泣き石の別名をもつ「七ツ石」。落城した小山城内にあった七つの庭石だが、結城城内に移されると夜中に泣いた。そこで小山の鎮守の神・須賀神社に運んだところ、石は泣かなくなったそうだ。

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 須賀神社の隣には、南無妙法蓮華経の大きな石碑のある妙建寺がある。

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■妙建寺(小山市宮本町1-1-17)法頂山妙建寺成就院。日蓮宗。

建武元年(1334)創建。

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☆愛宕神社のケヤキ(小山市宮本町1-1-7

小山城主・第11代小山氏当主の小山義政が、康歴元年(1379)、領内の五穀豊穣と領民の家内安全を祈願して愛宕神社を建てたとき、御神木として植えたと伝わる。樹齢600年余と推定され、まれにみる古木である。(参考:小山市教育委員会)

このケヤキ上部は、大正二年(1913)の大火で焼失したとのことだが、それでも生きているのは不思議だ。思わず拝んでしまった。

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 さて、このケヤキの横の坂道を下る。小山第一小学校の校門前に庚申塔の道標が立つ。

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 庚申塔は寛政十二年(1800)のもの。「右 栃木道」、「左 佐野道」と彫られている。当時は思川(おもいがわ)沿いの佐野道・栃木道の追分(分岐点)付近に、榎の大木と一緒に置かれていた。日光街道の宿場町・小山宿から、思川を舟で渡り佐野・栃木方面へ向かう旅人の道しるべとなっていた。(参考:小山市教育委員会)

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 小山市役所へ向かう。中庭(駐車場)に「小山評定(ひょうじょう)」の石碑が建っている。小山評定は、この地でも重要なポイントだ。

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 徳川家康は、慶長五年(1600724日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置いた。そのとき、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を検討した。

 このとき、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が、家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて近江国掛川(静岡)城主の山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言したという。これらの建議が諸将の気持を動かし、家康支持で固まり、家康率いる東軍は、三成討伐のため西上することに決めた。

 そして915日、美濃国(岐阜県)関ヶ原に東西両軍約20万の大軍が相まみえ天下分け目の一大決戦がおこなわれ、東軍が勝利したのだった。西軍は小早川秀秋らの土壇場での寝返りなど、足並みが揃わなかったことが敗因とされるが、小山評定で結束を固めたことが、東軍の勝因であるといわれている。

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 小山市はこの小山評定の史実を前面に出して、「開運のまち」をアピールしている。この地での評定(軍議)こそ、堅固な徳川幕藩体制を生み出すきっかけであった。

軍議に参加した武将は、家康を含め28名といわれているが、関ヶ原の戦い後、彼らの活躍に応じてほとんどが、石高を加増され新しい城地に赴任している。結城秀康(結城10.1万石→北ノ庄〔福井〕68万石)、蒲生秀行(宇都宮18万石→会津60万石)、松平忠吉(忍12万石→清洲52万石)、池田輝政(吉田15.2万石→姫路52万石)、黒田長政(中津12.5万石→福岡50.2万石)、福島正則(清洲24万石→広島49.8万石)、浅野幸長(甲府21.5万石→和歌山37.6万石)、田中吉政(岡崎10万石→柳川32.5万石)、細川忠興(宮津187万石→小倉30万石)、堀尾忠氏(浜松12万石→松江24万石)、山内一豊(掛川6.8万石→高知20.3万石)などである。(参考:小山市教育委員会)

※小山評定が開催された場所については、前述の須賀神社境内や現小山市役所付近など、諸説があって確定できていない。

※徳川家康は小山評定後、戦いの工作のためしばらく小山にとどまっていたが、「間々田宿」で紹介した「乙女河岸」から水路、2日間かけて江戸へ戻ったといわれている。

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コメント

たろべえさん 小山には仕事でよく行きます。こんなに歴史があったなんて 知らなかった。楽しみに読んでます。

投稿: 通りすがりの旅人 | 2012年1月31日 (火) 20時23分

通りすがりさんrun
小山は歴史の宝庫ですね。寺社も多く、ほとんどすべてが小山氏にかかわりがあります。宿場町の面影は、あまり残っていませんけど。

投稿: もりたたろべえ | 2012年2月 1日 (水) 12時39分

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