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《日光街道》宿場を歩く【幸手宿】その2

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 幸手宿を歩く。街道に立つ「ふるさとのみち 日光街道」の丸い看板がうれしい。

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幸手駅からまっすぐに進み、上庄カフェ(岸本家住宅)の横に、小さな神明神社がある。宝暦五年(1755)、伊勢皇太神宮の分霊を祀った神社だ。境内には「たにし不動尊」(菅谷不動尊)がある。珍しいことに眼の病気の人が、たにしを描いた絵馬を奉納、祈願すればご利益があるそうだ。また、江戸時代にこの場所は、高札場であったそうだ。

道路の反対側には、明治天皇行在所跡の碑が見える。日光街道を行く。宿場町の旅情を伝える古い商家が目につく。(参考:旧日光街道幸手を感じる会パンフレットより)

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郵便ポストのある「小島商店」は、薪炭商(燃料屋)で昭和12年(1937)の建物。

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永文商店は、酒屋。

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竹村家は、石炭商を営んでいた。

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平井家(屋号は味噌・増)は、大正11年(1922)の建築。

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現在でも開業医の飯村医院(屋号は大坂屋)は、代々医業と薬種業で大正12年(1923)の建築だ。

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関薬局(屋号は角田屋)は、横に広大な屋敷をもつ明治13年(1880)建築の建物。

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高浜商事は、いまも続く肥料商で昭和9年(1934)に再建され、最近再生された建物だ。

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 古い商家を見ながら日光街道、幸手宿を歩く。この中央商店街通りのほぼ中心あたりに、本陣跡の案内板があった。本陣であった知久(ちく)家跡だ。いまは、老舗のうなぎ屋・割烹の「義語家(ぎごや)」である。

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☆幸手宿本陣 知久家跡(幸手市中1-8-16)

知久家は本陣・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄。初代・知久帯刀(ちくたてわき)は、信州伊奈の豪族の出で、関東郡代・伊奈熊蔵より幸手宿の開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治三年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くした。

 知久家の屋敷は、間口約39m、奥行約80mで、広さは約千坪あった。明治六年、知久家の書院に小学校が開設され明治九年には東北巡行の明治天皇が宿泊された。

(参考:幸手市教育委員会)

 さらに北へ向かうと、商店街を抜け日光街道は右にカーブする。左側にあるのは聖福寺(しょうふくじ)である。街道からの参道には、芭蕉句碑がある。『おくのほそ道』行脚を終えて江戸に戻り、奥州の旅を思い出してうたったものだ。

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幸手を行かば 栗橋の関(芭蕉)

松杉をはさみ 揃(そろ)ゆる寺の門(曽良)

 聖福寺は、幼稚園を経営しており、格式ある立派な唐門(勅使門)の向うで、園児たちが楽しそうに遊んでいる。

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■聖福寺(幸手市北1-9-27)

寺号:菩提山東皐院(ぼだいさん・とうこういん)、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。観音像は運慶作と伝わる。徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、歴代将軍や天皇の例幣使が18回にわたり休憩した。菊の紋章の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻も保存されている。御朱印状により十石を賜ったことがわかる。(幸手市)

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 街道が右に曲がる正面には、大きな石灯籠の正福寺(しょうふくじ)がある。境内には寛政十二年(1800)の日光街道道標がある。正面は馬頭観音供養塔だが、側面には

「左 日光道中」、「右 ごんげんどうがし」と彫られている。さらに県の指定史跡である「義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)」がある。

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■正福寺(幸手市北1-10-3)

寺号:香水山楊池院、真言宗智山派。本尊は不動明王。江戸時代、学問の研究や子弟を

養成する常法談林(学問修行の道場)であり、四十九カ寺の末寺をもっていた。将軍家光の代、御朱印十三石を賜っていた。

 境内には、県指定史跡の義賑窮餓之碑がある。天明三年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉となった。この時、幸手の有志21名が金品を出しあって、難民の救済にあたった。(70日間にわたり、粥を炊き奉仕した)この善行が時の関東郡代・伊奈忠尊(いなただたか)の知るところとなり、顕彰碑を建てさせたという。(幸手市)

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 さて、この正福寺の前に「一里塚跡」の案内板だけが立つ。痕跡はまったく残っていない。日光街道を進むと内国府間(うちこうま)で国道4号線・現在の日光街道と合流する。右には権現堂堤が長くつながっている。いまは桜の時期ではないため、堤を歩いてみたもののさびしい限りだ。江戸時代、この権現堂川と利根川を経て江戸との水運が盛んであり、権現堂河岸には船問屋が数か所あったそうだ。

 

また権現堂堤には、「順礼の碑」があり、氾濫を続ける川に飛び込んだ母子の悲しい伝説を伝えている。

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行幸橋を渡ると旧日光街道は、左に続く。しばらく農村地帯を行くと、「外国府間(そとこうま)」である。ここには安永四年(1775)の道標が残っている。正面には「右 津くば道」、右側の側面には「東 川つま道(茨城県五霞村川妻)・前ばやし道(茨城県総和町前林)」とあり、筑波山詣での案内だ。そして左側側面が、「左 日光道」である。

いよいよ栗橋宿も近い。

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