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《日光街道》宿場を歩く【間々田宿】その2

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  間々田八幡宮へ行く。広大な敷地は市民憩いの場所「八幡公園」となっている。

八幡宮の創建は古く、約1200余年前の天平年間とされている。天慶二年(939)、平将門の乱に際し、藤原秀郷は征伐に向かう途中、沿道の各神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定後、八幡宮に神饌御料(しんせんごりょう:謝礼)として供田した。(米の収穫ができる稲の田を贈った)これより後、このあたりを飯田(まんまだ)の里と呼ぶようになった。

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時代は下って、文治五年(1189)、奥州合戦で藤原泰衡(やすひら)討伐に向かう源頼朝は「藤原秀郷、当八幡宮に将門調伏の祈誓ありし」を聞き、戦勝を祈願して松を植えた。これを「頼朝手植えの松」と呼ぶ。残念ながら明治38年(1905)、枯れてしまい現在は三代目の松が植えてある。

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「頼朝お手植えの松」だが、関東地方を中心に、源頼朝の戦勝祈願やお礼のための「お手植えの樹木・植物」は、各地に存在する。各地の寺社には、お手植えの松・黒松・杉・大杉・イチョウ・桜・矢竹・つつじ・さつき・そてつなどである。ほとんどが、奥州征伐のときのものだ。いったい何人の頼朝がいたのだろうか。それとも源氏の頼朝の部下たち大勢が、各地に散っていって親方の名前で樹木を植えたのかもしれない。

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ところで徳川幕府は、亡き家康の遺骸を日光に運び東照宮を建て、日光街道(日光道中)を整備していった。このとき、江戸から日光までの全行程が三十六里あり、間々田がちょうど中間地点であることから、この地を「間々田」と改称したそうである。

 さらに間々田八幡宮の社殿は、その後何度か火災のため焼失したが、嘉永四年(1851)、現在の社殿に再建されている。そのときの宮大工は、東照宮大修理のために全国から招かれた優秀な技術者であった。ご本殿の彫刻などに、その技を見ることができるそうだ。

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間々田八幡宮では、毎年5月5日におこなわれる「蛇まつり」が有名である。

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 日光街道をしばらく進む。千駄塚の信号を過ぎると左手に「千駄塚古墳と浅間神社」がある。鳥居は浅間神社。こんもりとした森は、6世紀豪族の墓といわれる千駄塚古墳だ。浅間神社はいわずと知れた富士山を神格化した富士信仰の神社である。日本各地に1300社以上あるそうだ。

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 粟宮南の交差点を渡ると、左側に歴史的な建物がある。西堀酒造(小山市大字粟宮1452)だ。銘酒「若盛」の看板が見える。江戸時代末期から続く酒造を受け継ぎ、明治五年からの営業。ここ西堀酒造は、長屋門をはじめ、仕込み蔵・瓶詰場・煙突などの建造物が国の登録有形文化財である。

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 さらに街道を進み、粟宮の交差点手前に「安房神社」の入口がある。安房神社は平安中期の延喜式に記載されている格式の高い神社だ。崇神天皇の御代に創建されたそうだ。(崇神天皇といえば、紀元前の話だ)遠い昔にいまの千葉館山の安房神社を祀る人々の一部が、この地に移住して、神を祀ったそうだ。

 平安時代末期に平将門と戦った藤原秀郷が戦勝を祈願した神社といわれ、小山氏や古河公方足利利政氏らの信仰を集めたという。藤原秀郷も忙しい武将に違いない。

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