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2012年1月の28件の記事

《日光街道》宿場を歩く【小山宿】その1

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 小山宿は間々田宿から一里二十三町、約6.4kmである。栃木県小山市だ。

歩いていると小山の手前に「神鳥谷」という地名がある。「ひととのや」と読む。これは読めない。由来だが、このあたりに鷲(わし)城があった。鷲は神鳥とされ「しとと」と呼ばれていた。おそらく谷のような地形であったところから「しととの谷(や)」となり、「しととのや」が「ひととのや」に転じたものと思われる。

鷲城:正確な築城年代は不明。小山義政の乱(13801382)の激戦場。武蔵国鷲宮から鷲神社を勧請したため、この名があるといわれる。南北朝時代の城郭としては規模が大きく遺構の状態も良好とのこと。(国指定史跡、小山市外城、小山総合公園に隣接)

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この神鳥谷に歴史のありそうな長屋門(新井邸)があった。

 日光街道を行き小山の町に入る。鐘楼をもつ山門の寺がある。立派な持宝寺である。

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■持宝寺(小山市宮本町2-13-15)山号:東醍醐山、真言宗。本尊は大日如来。

宝亀三年(772)、弓削道鏡の開基と伝わっている。奈良時代の僧・道鏡は、女帝である孝謙天皇の寵愛を受け、法王職につき政治の世界に介入していたが、政変に敗れ、都から、確かに下野国下野薬師寺の別当に任じられ左遷させられ、この下野の地で亡くなったと伝わる。持宝寺は当地小山氏の祈願寺であった。江戸時代には享保十三年(1728)、8代将軍・徳川吉宗の日光社参の折、休息所となった。

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また小山市教育委員会の案内板によれば、この寺の鐘は寛政四年(1792)、三木右衛門藤原光長が鋳造したが、戦時中、供出を免れたそうだ。鐘の銘文に「孝謙天皇」の名があったためといわれている。

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日光街道から長い参道が続く。大変立派な神社がある。訪れたときは、ちょうど七五三の時期の須賀神社であった。

☆須賀神社(小山市宮本町1-2-4

藤原秀郷が天慶の乱(平将門を破る戦い)に際し、スサノオノミコトに戦勝を祈願した。これが成就したことにより、天慶三年(940)、京都の八坂神社(祇園社)から勧請して創建した。

 徳川家康は、慶長五年(1600)七月、須賀神社境内で小山評定(軍議:後述)を開き関ヶ原の戦勝を祈願。祈願成就したことにより、五十一石余の社嶺を寄進した。

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 承応二年(1653)、小山の町の旦那衆によって建立された石の鳥居には、天下泰平・国土安全・荘内豊穣等を祈願した銘文が刻まれている。近世前期の貴重な鳥居である。

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 夜泣き石の別名をもつ「七ツ石」。落城した小山城内にあった七つの庭石だが、結城城内に移されると夜中に泣いた。そこで小山の鎮守の神・須賀神社に運んだところ、石は泣かなくなったそうだ。

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 須賀神社の隣には、南無妙法蓮華経の大きな石碑のある妙建寺がある。

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■妙建寺(小山市宮本町1-1-17)法頂山妙建寺成就院。日蓮宗。

建武元年(1334)創建。

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☆愛宕神社のケヤキ(小山市宮本町1-1-7

小山城主・第11代小山氏当主の小山義政が、康歴元年(1379)、領内の五穀豊穣と領民の家内安全を祈願して愛宕神社を建てたとき、御神木として植えたと伝わる。樹齢600年余と推定され、まれにみる古木である。(参考:小山市教育委員会)

このケヤキ上部は、大正二年(1913)の大火で焼失したとのことだが、それでも生きているのは不思議だ。思わず拝んでしまった。

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 さて、このケヤキの横の坂道を下る。小山第一小学校の校門前に庚申塔の道標が立つ。

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 庚申塔は寛政十二年(1800)のもの。「右 栃木道」、「左 佐野道」と彫られている。当時は思川(おもいがわ)沿いの佐野道・栃木道の追分(分岐点)付近に、榎の大木と一緒に置かれていた。日光街道の宿場町・小山宿から、思川を舟で渡り佐野・栃木方面へ向かう旅人の道しるべとなっていた。(参考:小山市教育委員会)

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 小山市役所へ向かう。中庭(駐車場)に「小山評定(ひょうじょう)」の石碑が建っている。小山評定は、この地でも重要なポイントだ。

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 徳川家康は、慶長五年(1600724日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置いた。そのとき、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を検討した。

 このとき、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が、家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて近江国掛川(静岡)城主の山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言したという。これらの建議が諸将の気持を動かし、家康支持で固まり、家康率いる東軍は、三成討伐のため西上することに決めた。

 そして915日、美濃国(岐阜県)関ヶ原に東西両軍約20万の大軍が相まみえ天下分け目の一大決戦がおこなわれ、東軍が勝利したのだった。西軍は小早川秀秋らの土壇場での寝返りなど、足並みが揃わなかったことが敗因とされるが、小山評定で結束を固めたことが、東軍の勝因であるといわれている。

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 小山市はこの小山評定の史実を前面に出して、「開運のまち」をアピールしている。この地での評定(軍議)こそ、堅固な徳川幕藩体制を生み出すきっかけであった。

軍議に参加した武将は、家康を含め28名といわれているが、関ヶ原の戦い後、彼らの活躍に応じてほとんどが、石高を加増され新しい城地に赴任している。結城秀康(結城10.1万石→北ノ庄〔福井〕68万石)、蒲生秀行(宇都宮18万石→会津60万石)、松平忠吉(忍12万石→清洲52万石)、池田輝政(吉田15.2万石→姫路52万石)、黒田長政(中津12.5万石→福岡50.2万石)、福島正則(清洲24万石→広島49.8万石)、浅野幸長(甲府21.5万石→和歌山37.6万石)、田中吉政(岡崎10万石→柳川32.5万石)、細川忠興(宮津187万石→小倉30万石)、堀尾忠氏(浜松12万石→松江24万石)、山内一豊(掛川6.8万石→高知20.3万石)などである。(参考:小山市教育委員会)

※小山評定が開催された場所については、前述の須賀神社境内や現小山市役所付近など、諸説があって確定できていない。

※徳川家康は小山評定後、戦いの工作のためしばらく小山にとどまっていたが、「間々田宿」で紹介した「乙女河岸」から水路、2日間かけて江戸へ戻ったといわれている。

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ご近所グルメ すみだ《楽々亭》チャーハンと半ラーメン

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 下町の普通の中華料理屋さんなのだが、ランチで「チャーハンと半ラーメン」を食べた。チャーハンが中華風ではなく、「焼きめし」タイプで、タマゴやハムの味がよくうまい。ラーメンはこれまた普通だ。広東料理って書いてあったような気がするが・・・。

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    楽々亭

    東京都墨田区東駒形3-20-6

    TEL03-3625-1538

    営業時間/11001415 17302200(日曜・祝日休み)

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《日光街道》宿場を歩く【間々田宿】その2

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  間々田八幡宮へ行く。広大な敷地は市民憩いの場所「八幡公園」となっている。

八幡宮の創建は古く、約1200余年前の天平年間とされている。天慶二年(939)、平将門の乱に際し、藤原秀郷は征伐に向かう途中、沿道の各神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定後、八幡宮に神饌御料(しんせんごりょう:謝礼)として供田した。(米の収穫ができる稲の田を贈った)これより後、このあたりを飯田(まんまだ)の里と呼ぶようになった。

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時代は下って、文治五年(1189)、奥州合戦で藤原泰衡(やすひら)討伐に向かう源頼朝は「藤原秀郷、当八幡宮に将門調伏の祈誓ありし」を聞き、戦勝を祈願して松を植えた。これを「頼朝手植えの松」と呼ぶ。残念ながら明治38年(1905)、枯れてしまい現在は三代目の松が植えてある。

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「頼朝お手植えの松」だが、関東地方を中心に、源頼朝の戦勝祈願やお礼のための「お手植えの樹木・植物」は、各地に存在する。各地の寺社には、お手植えの松・黒松・杉・大杉・イチョウ・桜・矢竹・つつじ・さつき・そてつなどである。ほとんどが、奥州征伐のときのものだ。いったい何人の頼朝がいたのだろうか。それとも源氏の頼朝の部下たち大勢が、各地に散っていって親方の名前で樹木を植えたのかもしれない。

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ところで徳川幕府は、亡き家康の遺骸を日光に運び東照宮を建て、日光街道(日光道中)を整備していった。このとき、江戸から日光までの全行程が三十六里あり、間々田がちょうど中間地点であることから、この地を「間々田」と改称したそうである。

 さらに間々田八幡宮の社殿は、その後何度か火災のため焼失したが、嘉永四年(1851)、現在の社殿に再建されている。そのときの宮大工は、東照宮大修理のために全国から招かれた優秀な技術者であった。ご本殿の彫刻などに、その技を見ることができるそうだ。

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間々田八幡宮では、毎年5月5日におこなわれる「蛇まつり」が有名である。

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 日光街道をしばらく進む。千駄塚の信号を過ぎると左手に「千駄塚古墳と浅間神社」がある。鳥居は浅間神社。こんもりとした森は、6世紀豪族の墓といわれる千駄塚古墳だ。浅間神社はいわずと知れた富士山を神格化した富士信仰の神社である。日本各地に1300社以上あるそうだ。

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 粟宮南の交差点を渡ると、左側に歴史的な建物がある。西堀酒造(小山市大字粟宮1452)だ。銘酒「若盛」の看板が見える。江戸時代末期から続く酒造を受け継ぎ、明治五年からの営業。ここ西堀酒造は、長屋門をはじめ、仕込み蔵・瓶詰場・煙突などの建造物が国の登録有形文化財である。

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 さらに街道を進み、粟宮の交差点手前に「安房神社」の入口がある。安房神社は平安中期の延喜式に記載されている格式の高い神社だ。崇神天皇の御代に創建されたそうだ。(崇神天皇といえば、紀元前の話だ)遠い昔にいまの千葉館山の安房神社を祀る人々の一部が、この地に移住して、神を祀ったそうだ。

 平安時代末期に平将門と戦った藤原秀郷が戦勝を祈願した神社といわれ、小山氏や古河公方足利利政氏らの信仰を集めたという。藤原秀郷も忙しい武将に違いない。

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《日光街道》宿場を歩く【間々田宿】その1

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 間々田(ままだ)宿は、現在の栃木県小山市間々田である。野木宿からは一里二十七町(約6.9km)、江戸から十八里十五町二十間(約72.7km)だ。日光街道の旅人は、江戸から24.9kmの越谷宿か36kmの粕壁宿で1泊後、2泊目をこの間々田に泊まることが多かったためか、およそ1.9kmの宿場の人口947人に対して旅籠が50軒もあった。

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 JR宇都宮線の間々田駅で下車。まず「小山市立博物館」へ行く。間々田や小山の歴史を学べるが、江戸時代には、とくに乙女河岸を中心に、近くの思川(おもいがわ)の水運が栄えていたことがわかる。船問屋と船のある乙女河岸の模型は印象的で、つい撮影してしまった。なかなか間々田は見所が多い。

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 慶長五年(1600)、徳川家康は会津の上杉景勝攻めに際し、兵糧米や武器類を乙女河岸から陸揚げしたといわれています。

 乙女河岸はその後、日光東照宮の造営・修理の建築用材や、日光社参の荷物輸送にも大きな役割を果たし、他の河岸には見られない重要性をもっていました。

(小山歴史博物館 「御用河岸としての乙女河岸」展示より)

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    乙女河岸

『栃木の水路』(栃木県文化協会編)によれば、慶長年間(15961614)にはすでに河岸が設けられ、思川の水運が活用されていた。さらに日光東照宮の造営やその後の修繕に必要な木材、漆、金属類(銅・鉄・鉛)は、江戸から船で運ばれていた。このことから思川は御用川とも呼ばれた。思川は、古河で渡良瀬川に合流し、さらに利根川を経て江戸川など、江戸につながる。一般的に輸送された荷物は、江戸からの下りは(農業用の)肥料、〆粕と呼ばれる魚肥、灰、塩等であり、乙女河岸からは薪・炭をはじめ、米などが運ばれた。江戸深川付近までは、季節にもよるが2日から4日の日数を必要とし、船は船頭一人の房丁高瀬舟(長さ六間半:11.8m、幅二尺八寸:0.8m)が用いられた。

 この乙女河岸には、船問屋が3軒あり、最盛期には30艘の船が常駐していた。高瀬舟より一回り小さい舟に荷を積み替え、上流の黒川や小倉川流域に輸送もしていた。

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とくに有名なのが、元和四年(16184月に九州の黒田長政が日光に寄贈した石の大鳥居であるといわれている。九州福岡において巨石を削り、海路を輸送して乙女河岸から陸揚げされ、陸路日光に運ばれている。この大鳥居は今も日光東照宮の表参道にある。高さ9m、笠石の長さ14m、柱の直径が1mもある巨大なものである。乙女河岸の問屋山中八郎兵衛の努力で陸揚げされ、壬生・鹿沼・今市を経て日光に運ばれた。陸路は丸太を並べた上に石をのせて運んだそうである。(参考:小山市)

乙女大橋に行ってみたが、いまは面影もなく静かな川である。近くの乙女小学校の校庭からは、元気に走りまわるこどもたちの声がきこえた。のどかである。

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 思川から歴史博物館の隣の「乙女不動原瓦窯跡」を訪ねる。奈良時代から平安時代前期に瓦を焼いた窯の跡である。下野薬師寺や下野国分寺に供給していた窯の一つ。

 この窯跡の前には泉龍寺と乙女不動がある。南無不動明王の赤いのぼりがにぎやかだ。

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       乙女不動尊・泉龍寺(栃木県小山市乙女1-25-8)山号:御瀧山、真言宗豊山派。

乙女不動尊堂は、正徳四年(1714)泉龍寺中興の祖、淳元大和尚により建立されて以来、近在に多くの信者を集めていた。日光中禅寺湖中から発見されたというお不動様をまつる不動堂は、平成七年(1995)落雷で焼失したが、ご本尊不動明王は無事であった。平成八年、4768万円をかけ不動尊堂は再建された。

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☆☆間々田宿での昼食である。とにかく街道歩きは体力勝負だから、食事は大事だ。日光街道、角の老舗・手打ちそば「小川屋」へ。

 ランチの天ぷらセット900円。手打ちそばに、海老・イカ・なす・サツマイモの天ぷら、湯波のお煮しめ、漬物、みかんにごはんが付く。おいしいそばを濃い目のつゆでいただく。揚げたての天ぷらもうまい。地元では評判のお店というのも納得である。

■栃木県小山市乙女2-25-16 ■TEL0285-45-0077

■営業時間/平日1100150017002030 日祝日11002030

お休みは毎月:6日・16日・26日(日曜の場合は翌日)

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間々田駅に向かう交差点を左折、日光街道を行く。住宅街に「逢の榎(あいのえのき)」がある。ちょうど江戸から十八里、日光まで十八里と日光街道の中間地点である。朝廷の命を受け、毎年の家康の命日(東照宮例祭)に使わされる「日光例幣使」が、目印に植えさせたという伝承がある。例幣使の一団は5080人の大行列で京都を出発、中仙道を経て利根川、壬生を通って日光へ入ったが、実際には帰り道しか日光街道を利用しなかった。大名行列も道を譲るほどの権威をもっていたという。

 ところで「逢の榎」は、逢うが男女間の縁結びを連想させることから、庶民に信仰されたそうだ。「愛のエノキ」だったらよかったのにと思う。

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間々田の老舗和菓子屋「乙女屋」で十八里最中をおみやげに購入した。

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☆小川家住宅(小山市立車屋美術館)(小山市乙女3-10-34

 車屋美術館は現代アートを中心に展示をしているが、建物自体は旧小川家の米蔵を改装したものだ。

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小川家住宅は、近世の乙女河岸において肥料問屋「車屋」を営んでいた小川善平が、明治末期に日光街道(国道4号線)沿いに店舗や住居を移転した。その際に一部は乙女河岸から移築したそうだ。とくに主屋は内外部とも造りや保存状態がよく、近代和風建築としての価値も高い建物。現存建物のうち主屋・米蔵・肥料蔵・土蔵・表門の5棟が、平成19年国の登録有形文化財に登録された。

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 旧小川家住宅の対面に「さやま酒店」が見える。昔からの土蔵造りの建物で、表向きにはわからないが、内部は貴重な商家の構造だそうだ。清酒「逢いの榎」の看板もある。

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 立派な山門をもつ龍昌寺がある。いまから200年ほど前、疫病や日照りに苦しむ民衆を救うため龍昌寺の住職・法隆東林が、古事に習い龍の模型(龍頭蛇体)に祈願したところ、病も治り雨も降ってきた。そこで現在、間々田八幡で55日におこなわれている「間々田の蛇まつり」を発案したという話がある。

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■龍昌寺(小山市間々田1320)山号:天恵山、曹洞宗。

慶安四年(1651)、徳川三代将軍・家光の遺骸を日光へ運ぶ際、寺の境内に1泊安置された。当時の格式を物語る。また境内には「寝起(ねおこし)不動尊」が有名だ。

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 日光街道を行く。間々田の郵便局の前あたりに「問屋場跡」と「本陣跡」の案内板が立っている。間々田商工会がつくったものだが、両方共、駐車場があるだけで歴史的な建造物は何もなく、案内がなければ間々田宿の中心地だとわからない。

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 宿場町のはずれに面影を残す「旅館花屋」がある。現在営業中かどうか、わからないが、なつかしい建物である。

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 ひときわ目立つ高い鐘楼の山門は、浄光院である。

■浄光院(小山市大字間々田1252)真言宗豊山派。

境内には江戸時代の民間信仰である庚申塔が2つある。宝永元年(1704)のものと宝永三年(1706)のもので、いずれも「青面金剛(しょうめんこんごう)」像を刻む。

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ご近所グルメ すみだ《菜根譚》生パスタ

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 東京スカイツリーに近い《菜根譚》。家庭的な店だが、実は姉妹でやっている。お姉さんは元デザイナーで妹さんは銀座アスターの元コックさんだそうだ。そういえば、お母さんの手料理のようなメニューが多い。(中華料理が得意なのかな?)

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 本日は生パスタ、「エリンギとツナのクリームソース・スパゲティ」をいただいた。バターの風味がよい、生クリームの甘さもあり、おいしかった。これにサラダが付いておまけにコーヒー(紅茶)で880円。悪くない。

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 ここ《菜根譚》の生パスタは、ホワイト・ソースとトマト・ソースが選べる。一緒に行った同僚は、トマト味を注文。おいしかったそうだ。

こんなほっとする店が近くにあるのは、ありがたいことだ。

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《日光街道》宿場を歩く【野木宿】

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 野木宿は、古河宿より二十五町二十間、約2.8km。約1kmの町並みの中に旅籠は25軒、人口は527人(天保14年)と小さな宿場であった。

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 古河宿を後にして街道を行く。町はずれ近くにはヤオコーの大型ショッピングセンターがある。「塩滑(しおなめ)地蔵」前へ。体の悪い箇所にここの塩をつけると治るというが、塩は置いていなかった。街道の反対側には「THE CANAL HOUSE」というヨーロッパ風のステキな建物がある。結婚式場のようだが、どうしてこんな田舎に・・・。

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 しばらく行くと「野木神社」の鳥居を、街道沿いに発見。長い参道の奥に神社があった。仁徳天皇の時代、いまから1,600年も前からあったそうだ。延暦年間(いまから約1200年前)、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の帰途、褒美として社殿をつくったと伝わる。田村麻呂が植えたとされる大イチョウもある。江戸時代の文化三年(1806)に火災によって社殿を焼失したが、古河城主・土井利厚により再建された。明治時代には、同じ呼び名から乃木大将が度々参拝に訪れ、サーベルなどを奉納している。

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 坂上田村麻呂の蝦夷征伐は、延暦十三年(794)だが、東北地方(岩手・宮城)を中心に田村麻呂が創建したとされる寺社が多数存在する。特定の神仏の加護を受け、蝦夷征討や鬼退治をし、感謝して都へ戻る途中に寺社を建立したと伝わるものだ。何十人も何百人もの田村麻呂がいたのかもしれない。

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 いよいよ野木宿に入るが、宿場町らしい町並みはまったく残っていない。街道筋には農家が続く。住宅の横に「野木宿入口」の看板があるが、このあたりに宿場入口の木戸があったそうだ。

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 野木宿の本陣跡が熊倉家である。家の前には野木町教育委員会の「日光道中野木宿」の説明板が立っているが、昔の面影はまったくない。道路向かいが脇本陣のやはり熊倉家であるそうだが、同様に昔をしのぶ便(よすが)もない。

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 宿場内には満願寺、一里塚跡碑(痕跡は何もない)、浄明寺がある。

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■満願寺(栃木県下都賀郡野木町大字野木2029)、真言宗豊山派。

元治元年(1864)の十九夜塔がある。

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■浄明寺(栃木県下都賀郡野木町大字野木2044)、浄土宗。

嘉永五年(1852)の十九夜塔がある。

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歩いて行くと住宅の横に「野木宿道標」があった。太平追分の道標とも呼ばれるこの石碑には“是(これ)より太平に至る”と刻まれている。この横道を進むと、渡し場があり、川を越えると太平山(おおひらさん)への道という案内である。太平山神社(栃木県栃木市平井町659)への参拝者が、江戸時代には多かったことを物語っている。

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 街道が徐々に下って行く。小さな観音堂がある。正観音を祀る。敷地内には馬頭観音や石仏が安置されていた。嘉永三年(1850)の十九夜塔もあった。江戸時代から変わらぬ風景だろう。

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☆十九夜塔(写真:法音寺の十九夜塔)

先の満願寺や浄明寺でも見かけた「十九夜塔」、これは旧暦19日の夜に、集落の女性(主婦)が集まり、念仏を唱え、安産やこどもの無事成長を祈る信仰の一つ「十九夜講」である。集合場所は当番の家、お寺、お堂、最近では集会所・公民館などで、女性の守護仏である伝承の「如意輪観音(にょいりんかんのん)像」の掛け軸を掲げ、念仏を唱える。または十九夜供養塔におまいりする。勤行には念仏のほか、般若心経、十九夜和讃(南無阿弥陀仏)、真言(念仏)を唱えた。

 念仏唱和の後は、持ち寄った漬物や煮豆などを食べながらお茶を飲み談笑する。女性たちにとっては、信仰と娯楽の結びついた行事といえる。関東から東北地方を中心に江戸時代に盛んになった。西日本でもみられる。当初は如意輪観音像を刻んでいたが、江戸後期になると、「十九夜」の文字だけを刻む供養塔が多くなったそうだ。

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    ☆観音堂の先、らーめん中村屋で昼食である。

地元で人気の《らーめん 中村屋》だ。「佐野ラーメン」とうたっているラーメン屋さんで周辺に4店舗ほどあるようだ。

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 スープは澄んでいる。しょう油ダレは少量でほとんど塩味だ。塩は沖縄のヌチマースとある。特徴は、佐野ラーメンと同様に、中太平打ちのちじれ麺である。加水性が高くコシがある。なかなかあっさり味でうまいラーメンだ。550円。

 具材は大きめのやわらかチャーシューとメンマ、刻み長ネギと、きわめてシンプルだ。佐野のように青竹で麺を打つかどうかは、わからないが、塩味の効いたスープと麺の相性はよく、のど越しもよい。大きな餃子(3300円)も食したが、まずまずの味。

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■中村屋 野木店 (古河店、三和店、石下店がある)

■茨城県野木町野木1898-1、■TEL0280550059

■営業時間/10002100

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■法音寺(栃木県下都賀郡野木町友沼932)真言宗豊山派。

安永九年(1780)に立てられた芭蕉の句碑がある。“道ばたの むくげは 馬に 喰れけり”がそれだ。松尾芭蕉が『おくのほそ道』に出かける5年前の貞享元年(1684)の作で、門人によって建立されたそうだ。

 ところでこの法音寺の裏手、思川の段丘地帯に城跡が知られている。土塁や空堀などの遺構が残っている。戦国時代末期の天正年間(157392)、北条氏照にこの地を所領として与えられた小山氏の家臣・菅谷左衛門五郎が築城した城跡といわれている。

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■友沼八幡神社(栃木県下都賀郡野木町友沼)

徳川将軍が日光社参の際、江戸を出発して(岩槻城1泊後)2泊目の古河城を出て、約7.5kmのこの友沼八幡神社で小休止をした。八幡神社の境内にあった西運庵(運西庵)が将軍御休所であった。次は小金井宿の慈眼寺で昼食をとり、石橋宿方面へ向かった。この友沼の地は、『日光道中略記』によれば、はるかに森や林そして筑波山が眺望できる景勝地であったそうだ。残念ながら現在は、見えない。

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■若宮八幡神社と大日如来像(栃木県小山市乙女)

しばらく行くと、野木町から小山市である。ここに小さな八幡宮と有名な大日如来が鎮座している。この像は近くの満福寺の寺宝。宝永六年(1709)、江戸・湯島の渡部九兵衛が父母の供養のため、出身地の下野国都賀郡寒沢のこの地に安置した。以前は屋根もなく露座で置かれていたが、平成10年立派な覆屋ができた。

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 野木宿には「松原」という地名が残っている。中田宿から古河宿までは、杉並木ではなく、松並木が続いていたそうだ。現在、松はない。古い町並みが消えているなかで、この松原に立派な長屋門(秋元邸)が残っていた。庄屋さんのお宅であろうか。街道歩きには驚きがある。

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ご近所グルメ すみだ《カフェ・ルアナCafé Luana》@向島 あれこれ

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 東京スカイツリーにもほど近い《カフェ・ルアナCafé Luana》である。お楽しみのハワイアン・ランチだ。「ルアナ」は“くつろぐ。満足する。”といった意味だけありリラックスできる店だ。

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 本日はドライカレーに挑戦。なかなかピリ辛でおいしい。サラダ、漬物、コーヒー

紅茶)が付いて800円。ごはんの上にドライカレーのルーがかかるが、挽肉や小さな野菜の歯ごたえがよい。おまけに天かすがかかっていてアクセントがつく。目玉焼きがハワイっぽい。

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 先日はスパムプレートを食べた。全体的に軽いタッチだ。「スパム」は、ハワイ駐在員時代にお世話になった食材だ。フライパンに薄く油を敷いて軽く炒めて醤油を少したらす。ごはんと玉ねぎや小切りのキャベツを入れて、スパムと一緒に炒めてもよい。スパム自体に塩気が多く、味が濃いので軽い味付けでよい。スパムプレート750円。

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 そのほか、本日のパスタは、ツナクリームで800円。これもおいしそうだった。

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《日光街道》宿場を歩く【古河宿】その2

Photo_13  古河宿を歩く。どうやら町中にはうなぎ屋さんや鮒の甘露煮を売る店が目立つ。おそらく川や沼などの恩恵を受け、江戸の昔から続くこの地方の食文化に違いない。

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川魚料理・鰻の「武蔵屋本店」。日光街道の横山町にあるが、天保の時代には遊郭だったそうだ。風情ある建物は明治20年の建築。訪れたときには、改築中だった。(写真は改築前、提供:茨城県観光物産協会)蒲焼のタレは95年以上使っているそうだ。

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鮒の甘露煮の老舗、田村屋。良質の鮒(ふな)を醤油・酒・砂糖・水あめ等でじっくり炊きあげてあるそうだ。渡良瀬川をはじめ、中小河川や沼、池が多いこの地域では、多くの川魚が生息し、ここでとれる鮒を煮つけ、旅人にもてなしたのが始まりだという。

 さて古河宿では、とくに日光街道の「よこまち柳通り」に、風情のある商家の家並みが残っている。

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うなぎの武蔵屋(古河市横山町1-2-15)。店舗をリニューアル中だった。

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古橋タバコ店(横山町1-14-15)。

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小澤糀(こうじ)店(横山町2-4-6)。天然醸造手づくり味噌の店だ。

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野村邸(横山町2-4-7)。

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小料理?ひとみ(横山町3-2-1)。

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横山町2丁目の民家。

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大和屋薬局(横山2-5-8)

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民家(横山町2-17-9)。

 ここ古河宿にも由緒ある寺がある。古い町並みと歴史ある寺社を見ることが、街道歩きの楽しみでことは間違いない。いずれも立派な寺々で驚く。

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■長谷観音(古河市長谷町5-1)真言宗豊山派。明観山観音院長谷寺。

古河城の鬼門除けとして、明応2年(1493年)、古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請した。歴代の古河城主の祈願所。背丈2メートルあまりの十一面観世音菩薩立像が安置されている。日本三大長谷のひとつ。写真撮影に失敗。(写真:古河市観光協会こがナビ)

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■神宮寺(古河市横山町1-1-11)真言宗豊山派。真龍山。

本尊は不動明王。宝徳元年(1449)、良宥上人が鎌倉で開いた寺で、古河公方足利成氏に伴って古河に移った。室町時代の作である十一面観音座像がある。

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■正麟寺(しょうりんじ 古河市横山町3-6-49)曹洞宗。麟翁山。格式を感じる立派なお寺だ。古河城主・小笠原氏の開基。「新訳和蘭国全図」を著した鷹見泉石の墓がある。本尊は釈迦牟尼仏である。小笠原家は、天正18年、信濃松本から古河に移り、小笠原右近太夫貞慶が、古河領主となり、父、大膳太夫長時を菩提のために建立された。

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■本成寺(古河市横山町3-10-43)日蓮宗。長久山。

日光街道からいきなり山門になる。古河城主土井利益の生母(法清院殿)の墓がある。

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※日光街道、古河宿を歩いていて残念なのは、「古河宿日光道中道標」が、道路の拡張工事等の理由で撤去されていたことだ。また、脇本陣の太田旅館も最近、取り壊され広い駐車場にかわってしまった。年々、歴史のある宿場町が失われていくのはさびしい限りだ。

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《日光街道》宿場を歩く【古河宿】その1

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 古河宿(茨城県古河市)は、栗橋・中田宿から一里二十町、約6.1kmである。江戸から数えて八番目の日光街道の宿場だ。

とくに江戸時代に入ると、軍事・交通上の要衝であったため古河には有力な譜代大名が配置された。11家を数える歴代の藩主のなかでも土井家は、前後150年にわたって古河藩を治めた。その11代・土井利位(としつら)は、優れた政治家であったばかりか、雪の結晶を研究する科学者としても活躍した。また利位に仕えた家老に「鷹見泉石」がいた。(鷹見といえば、私の敬愛する渡辺崋山の描いた国宝の肖像画があまりにも有名である)

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 日光街道・奥州街道の宿場町として栄えた古河は、利根川と渡良瀬川の合流地点の立地を生かし、舟運も盛んで江戸との物資の交流都市として発展した。残念ながら古河城は明治初期に取り壊されてしまったが、明治三年に撮影された城の写真は残っている。(古河の都市観光を推進する会編の『城下町 古河を歩く』より)

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 さて古河宿は、町おこしの一環で「古河宿」の旗や幟(のぼり)を所々で目にすることができる。昔から城下町でもあり、宿場町でもあったこの町は、実に落ち着いていて歩きやすい。日光街道では、高札場跡や本陣跡の石碑は残っているが、まず「御茶屋口」へ向かう。

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 日光社参の徳川将軍は、日光街道のお茶屋口で古河城主の出迎えを受け、(たぶん茶を一服してから)茶屋口を左折して城へ入り、二の丸に宿泊したそうだ。この場所は、いま陽明堂という文房具屋さんになっている。

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 前述のとおり、古河城はすでに跡形もないが、その城跡地域には「古河歴史博物館」がある。なかなかしゃれた建物で館内を見学すると、古河の歴史がよくわかる。とくに江戸時代の宿場の様子や鷹見泉石の研究成果などが勉強になる。

    古河歴史博物館(古河市中央3-10-56)TEL:0280-22-5211

開館時間/09:00~17:00(入館は16:30まで)、個人400円。

休館:月曜日(祝日の場合は翌日)・第4金曜日・祝日の翌日・年末年始

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 博物館のすぐ前にあるのが「鷹見泉石記念館」である。江戸詰めの家老・泉石が晩年を送った武家屋敷が保存されている。規模はかなり縮小されているというが、静かで広々としたお屋敷だ。

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    鷹見泉石記念館)

開館時間/09:00~17:00(入館は16:30まで)、入館無料。

休館:月曜日(祝日の場合は翌日)・第4金曜日・祝日の翌日・年末年始

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 さて古河宿は人口3,865人、旅籠屋は31軒あった。(天保14年)江戸時代の旅行ガガイドブック『諸国道中商人鑑』の古河宿のページでも、いくつか旅籠が紹介されている。古河通り1丁目の中屋源七は、佐野の飛脚指定の宿で茶漬けや御酒肴(居酒屋)を看板にしている。古河2丁目の3軒であるが、諸国蚕種(さんしゅ)商人・江州(ごうしゅう)商人衆・上州煙草商人ならびに京屋嶋屋の飛脚の指定宿である紙屋五郎右衛門、越中富山商人・諸国商人宿の山形屋次郎兵衛は江戸から来ると街道の右側にあった。さらに御酒肴の大黒屋清兵衛である。

 

絹をつくる養蚕のために蚕の卵を売る蚕種商人や全国を歩く江州(近江の国)の近江商人を客としたり、飛脚が休憩・宿泊する指定宿、なかには富山の薬売りの宿など、いかに多くの商人たちが街道を行き来したかがわかる。

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《日光街道》宿場を歩く【栗橋宿】【中田宿】

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栗橋宿は、幸手宿から二里三町、約8.2kmである。また次の中田宿までは、わずかに十八町、約2km弱と近い。この宿場は、つぎの中田宿の間の大きな利根川を越えなければならないため、日光街道でも重要な関所が置かれていた。江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から大きな河川には橋をかけることは許さず、また交通上の重要な地点には関所を設けていたわけである。

 

なお、栗橋は旧埼玉県北葛飾郡栗橋町であったが、平成22年(20103月、合併して久喜市栗橋になった。町を歩いてみると、古い商家がいくつか点在していて宿場の面影が残っている。なお、中田宿は利根川の改修工事により宿場が消滅してしまったため、実際には歩けない。

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 栗橋宿へはJR宇都宮線の栗橋駅下車である。駅前にはなぜか、「静御前」の墓がある。

こんな話が伝わっている。平氏追討に功績のあった源義経が、白拍子(舞姫)の静御前を寵愛していた。その後、義経は兄頼朝に追われ、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびる。静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かう。途中、下総国下辺見付近(現在の古河市下辺見)で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔(ともら)いたいと、再び京都へ戻ろうとした。しかし、重なる悲しみと慣れぬ長旅の疲れから病に落ち、文治五年(1189915日、この地で死去したと伝えられている。

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静御前の侍女・琴柱がこの地にあった高柳寺(現在の静御前の墓のある場所)に遺骸を葬った。なお、墓石や碑文は江戸時代以降のものだ。(高柳寺は、その後古河の中田に移転し光了寺と改称している。静が後鳥羽上皇から賜った錦の舞衣も通常は非公開だが、保存されているという)

光了寺の寺宝の一つ「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」については、後鳥羽上皇の寿永2年(1183)に大変な日照りに見舞われ、高僧を招き雨乞いをしても雨が降らない。そこで百人の舞姫を集め、次々に雨乞いの舞を舞わせ百人目の静が踊ろうとした時、上皇が静に御衣を与え、その御衣で舞ったところ、たちまち大雨が降ったという伝説がある。

また古河市内下辺見(しもへみ)には、義経の死を耳にし、橋の上で奥州行きを思案したと言われる「思案橋」、古河市水海(みずうみ)には、「静結びの柳」、「静の椿」などの遺跡がある。

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 ところで調べてみると、静御前の墓や命を絶った最後の地の伝承は、日本全国に分布していた。北海道乙部町姫川、岩手県宮古市鈴久名鈴ヶ神社、長野県大町市美麻大塩、奈良県大和高田市磯野、奈良県薬師寺、淡路島、山口県山口市、新潟県旧栃尾市、福島県郡山市静御前堂、香川県東かがわ市、福岡県福津市と十箇所以上である。

※静御前のイラスト:久喜市教育委員会・静御前遺跡保存会作成の『静御前の墓』説明板より

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 恐ろしい話だが、不正に関所を通らずに行くと、重罪になり死刑になったそうだ。

■焙烙(ほうろく)地蔵

栗橋宿の入口近くにある。火あぶりの刑に処せられた、関所破りの重罪人を供養するために地蔵が祀られている。

※焙烙:素焼きの平たい鍋。茶・豆・塩・ごま等を煎るのに用いる。

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利根川と関所跡近くにあるのが、栗橋の鎮守である八坂神社だ。

■八坂神社

八坂神社は江戸時代のはじめ(1624年)、利根川橋のたもとに創立され、栗橋町の総鎮守として、この町の歴史と歩みを共にしてきた。

 7月に行われる天王様のお神輿は、江戸末期(昭和46年復元)の作で大きく、重く、造りが壮麗で町内を巡幸する姿や担ぎ手の「オイヤサ、オイトサ」の声も勇ましく、そのスケールはほかの追随を許さず夏の風物詩になっているそうだ。

 境内には狛犬のかわりに新しいものだが、神社には珍しい「除災の鯉」と「招福の鯉」の像がある。これらは、八坂神社のご神体を鯉と亀が運んできたという言い伝えに基づくものだ。

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■顕正寺(久喜市栗橋東3-14-14

寺号:幡谷山破邪院、真宗大谷派。境内には少しふっくらした親鸞聖人像がおいでになる。立派な寺である。「栗橋八福神」では毘沙門天を祀る。

 この寺には栗橋宿の著名人・池田鴨之介の墓がある。池田は並木五郎兵衛と共に幕府に願い出て、慶長年間(15961614)に約3km程、東の出身地・下総国栗橋村(茨城県猿島郡五霞町元栗橋)から村民(約四十五世帯)を引き連れ、後の栗橋宿となる「新栗橋(上河辺新田)」を開墾したという。さらに下総国中田新宿村藤の森(茨城県古河市中田)にあった「顕正寺」を現在地に移したそうだ。

 池田家は江戸時代、初代鴨之介の子、與四右衛門(よしえもん)よりその名を世襲して、代々、栗橋宿の本陣役を務めた。(参考:旧栗橋町教育委員会)

※並木五郎兵衛の墓は、深廣寺にある。

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■浄信寺 (久喜市栗橋3-8-15

浄土宗。「栗橋八福神」では寿老人を祀る。

 ここには栗橋宿の出世頭・梅澤太郎右衛門の墓がある。慶長五年(1600)、太郎右衛門は相模国梅澤村から栗橋に移住し開墾に従事した。そして元和八年(16224月、徳川2代将軍秀忠の日光社参の折、暴風雨のため利根川が満水となり、将軍一行の渡る船橋が危うくなった。すると太郎右衛門は、人夫を率いて水中に入り、命がけでこの橋の安全を守り災難を救った。将軍はこれを賞して、関東郡代伊奈半十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金字に日の丸の軍扇およびお墨付をくだされた。これにより梅澤氏は名字・帯刀を許されたそうだ。(参考:旧栗橋町教育委員会)

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(中田宿)

■光了寺 (古河市大字中田1334)寺号:巌松山聖徳院。真宗大谷派。宝物として静女の守本尊、蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣、義経形見の懐剣(かいけん)、鐙(あぶみ)など貴重な遺品数点が所蔵されている。

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☆本陣池田家

慶長十九年(1614)、池田鴨之介は並木五郎兵衛と共に、新田開発のためにこの地に移った。元和八年(1622)、徳川2代将軍秀忠が日光東照宮にはじめて社参の折、この池田家が本陣となり以後、明治三年本陣制度が廃止されるまで、代々本陣を勤めた。現在は、本陣時代の格式ある門を残し、子孫の方が住まわれている。

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☆栗橋関所跡

栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地(重要な地点)に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで『房川渡(ぼうせんわたし)中田関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓井と並んで重要な関所であったという。関所は当初、中田宿側に設置されていたが、後に栗橋宿側に移動されている。

 関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあり、寛永年間(16241645)に関東郡代の伊奈備前守が、番士4人を置いた。以後、番士は明治2年関所廃止まで約250年間、代々世襲で勤めた。(参考:旧栗橋町教育委員会)

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利根川河川敷に設置された栗橋関所は、敷地約120坪・建坪約16坪の小規模なものであった。幕末の関所の番士は足立、島田、富田、加藤の四家。番士の勤務は毎日朝6時(明け六つ)から夕方6時(暮六つ)まで2人1組で5日間交代である。現在も残る足立家は、番士の子孫が住まわれているが、その敷地は約1,400平方メートルと広大である。この足立家には膨大な御関所日記が残されているそうだ。なお、関所番士屋敷は寛永元年(1624)に関所の番士の住まいとして江戸幕府が設置した。

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※中田宿および栗橋宿模型:古河歴史博物館展示より

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☆☆栗橋宿での昼食は、帰りがてら「末広食堂」へ。JR栗橋駅へは歩いて8分ほどのごく普通の中華食堂で、気のいいおじさんが一人で営業中だ。街道歩きは体力勝負なので、「ラーメンセット(チャーハン)」を注文。ラーメンとチャーハン・玉子丼・中華丼・親子丼・肉丼・かき揚げ丼のいずれか一品とセットだ。(ずいぶんバリエーションが豊富だ)これで650円はお徳である。

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 ラーメンは、メンマ・チャーシュー・ナルト・海苔・ホウレン草・刻みネギの具材。スープは、なつかしいあっさりとした鶏ガラスープで実にうまい。半チャーハンもうまい。これにお新香付き。特別ではなく普通の味なのだが、妙に落ち着くのだ。このご時勢にラーメン単品は400円、ソース焼きそばも400円。栗橋には庶民の味方になる食堂があった。満足である。

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■末広食堂〔お食事処 すえひろ〕(埼玉県久喜市栗橋北1-67TEL:0480-52-0527)

営業時間/12002000(不定休)

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《生駒軒》@浅草雷門、常連さんの似顔絵

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 浅草雷門の《生駒軒》に顔を出す。今宵は寒いので焼酎のお湯割に餃子を注文。この餃子は、ニンニクも効いていてうまい。例によって絶妙の焼き加減である。

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 さて、ここ《生駒軒》浅草雷門の店内には、マスターをはじめ常連さんたちの似顔絵色紙が何枚か貼ってある。地元浅草在住の似顔絵師・矢口画伯の作品。残念ながら男性の顔ばっかりで女性の絵がない。実は、《生駒軒》の常連の端くれになっている不肖私の顔も貼られている。どの作品も見ていてほっとするような、それでいて特徴を的確にとらえている。

 ※でんでん丸さんのブログに矢口画伯が出ています。

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 《生駒軒》での締めは、ラーメンである。なつかしい昭和の東京ラーメンを味わうなら、やっぱりこの店である。

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ご近所グルメ すみだ《江戸むら咲》肉丼もうまい!!

 東京スカイツリーの真下にある焼肉屋さん《江戸むら咲》は、12月の開店以来、ランチタイムは連日満席である。やっぱりおいしいからだろうと思う。さてさて、評判の「肉丼(焼肉丼)」に挑戦した。

大き目のどんぶりに、ごはん、その上にサンチュが敷き詰められ、たっぷりの牛肉が載る。温泉タマゴ付き。味付けは甘辛のタレ。これにスープ、サラダ、漬物、コーヒー(紅茶)が付いて850円。野菜サラダは、キュウリ・トマト・サンチュなのだが、新鮮そのもので、歯ごたえが違う。これはかなりのボリュームだ。ライスを少なくしていただいたが、それでも満腹。おそらく女子は食べられない量だろう。肉はやわらかくタレもよくしみ込んでいておいしい。

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※内容がかわってしまい、とてもおすすめできません。(2012年10月追記)

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《日光街道》宿場を歩く【幸手宿】その2

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 幸手宿を歩く。街道に立つ「ふるさとのみち 日光街道」の丸い看板がうれしい。

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幸手駅からまっすぐに進み、上庄カフェ(岸本家住宅)の横に、小さな神明神社がある。宝暦五年(1755)、伊勢皇太神宮の分霊を祀った神社だ。境内には「たにし不動尊」(菅谷不動尊)がある。珍しいことに眼の病気の人が、たにしを描いた絵馬を奉納、祈願すればご利益があるそうだ。また、江戸時代にこの場所は、高札場であったそうだ。

道路の反対側には、明治天皇行在所跡の碑が見える。日光街道を行く。宿場町の旅情を伝える古い商家が目につく。(参考:旧日光街道幸手を感じる会パンフレットより)

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郵便ポストのある「小島商店」は、薪炭商(燃料屋)で昭和12年(1937)の建物。

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永文商店は、酒屋。

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竹村家は、石炭商を営んでいた。

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平井家(屋号は味噌・増)は、大正11年(1922)の建築。

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現在でも開業医の飯村医院(屋号は大坂屋)は、代々医業と薬種業で大正12年(1923)の建築だ。

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関薬局(屋号は角田屋)は、横に広大な屋敷をもつ明治13年(1880)建築の建物。

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高浜商事は、いまも続く肥料商で昭和9年(1934)に再建され、最近再生された建物だ。

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 古い商家を見ながら日光街道、幸手宿を歩く。この中央商店街通りのほぼ中心あたりに、本陣跡の案内板があった。本陣であった知久(ちく)家跡だ。いまは、老舗のうなぎ屋・割烹の「義語家(ぎごや)」である。

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☆幸手宿本陣 知久家跡(幸手市中1-8-16)

知久家は本陣・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄。初代・知久帯刀(ちくたてわき)は、信州伊奈の豪族の出で、関東郡代・伊奈熊蔵より幸手宿の開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治三年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くした。

 知久家の屋敷は、間口約39m、奥行約80mで、広さは約千坪あった。明治六年、知久家の書院に小学校が開設され明治九年には東北巡行の明治天皇が宿泊された。

(参考:幸手市教育委員会)

 さらに北へ向かうと、商店街を抜け日光街道は右にカーブする。左側にあるのは聖福寺(しょうふくじ)である。街道からの参道には、芭蕉句碑がある。『おくのほそ道』行脚を終えて江戸に戻り、奥州の旅を思い出してうたったものだ。

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幸手を行かば 栗橋の関(芭蕉)

松杉をはさみ 揃(そろ)ゆる寺の門(曽良)

 聖福寺は、幼稚園を経営しており、格式ある立派な唐門(勅使門)の向うで、園児たちが楽しそうに遊んでいる。

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■聖福寺(幸手市北1-9-27)

寺号:菩提山東皐院(ぼだいさん・とうこういん)、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。観音像は運慶作と伝わる。徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、歴代将軍や天皇の例幣使が18回にわたり休憩した。菊の紋章の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻も保存されている。御朱印状により十石を賜ったことがわかる。(幸手市)

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 街道が右に曲がる正面には、大きな石灯籠の正福寺(しょうふくじ)がある。境内には寛政十二年(1800)の日光街道道標がある。正面は馬頭観音供養塔だが、側面には

「左 日光道中」、「右 ごんげんどうがし」と彫られている。さらに県の指定史跡である「義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)」がある。

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■正福寺(幸手市北1-10-3)

寺号:香水山楊池院、真言宗智山派。本尊は不動明王。江戸時代、学問の研究や子弟を

養成する常法談林(学問修行の道場)であり、四十九カ寺の末寺をもっていた。将軍家光の代、御朱印十三石を賜っていた。

 境内には、県指定史跡の義賑窮餓之碑がある。天明三年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉となった。この時、幸手の有志21名が金品を出しあって、難民の救済にあたった。(70日間にわたり、粥を炊き奉仕した)この善行が時の関東郡代・伊奈忠尊(いなただたか)の知るところとなり、顕彰碑を建てさせたという。(幸手市)

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 さて、この正福寺の前に「一里塚跡」の案内板だけが立つ。痕跡はまったく残っていない。日光街道を進むと内国府間(うちこうま)で国道4号線・現在の日光街道と合流する。右には権現堂堤が長くつながっている。いまは桜の時期ではないため、堤を歩いてみたもののさびしい限りだ。江戸時代、この権現堂川と利根川を経て江戸との水運が盛んであり、権現堂河岸には船問屋が数か所あったそうだ。

 

また権現堂堤には、「順礼の碑」があり、氾濫を続ける川に飛び込んだ母子の悲しい伝説を伝えている。

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行幸橋を渡ると旧日光街道は、左に続く。しばらく農村地帯を行くと、「外国府間(そとこうま)」である。ここには安永四年(1775)の道標が残っている。正面には「右 津くば道」、右側の側面には「東 川つま道(茨城県五霞村川妻)・前ばやし道(茨城県総和町前林)」とあり、筑波山詣での案内だ。そして左側側面が、「左 日光道」である。

いよいよ栗橋宿も近い。

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《日光街道》宿場を歩く【幸手宿】その1

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 幸手宿は杉戸宿から一里二十五町、約6.7km。天保14年の記録で、旅籠は27軒、江戸から六番目の宿場である。人口では、隣の杉戸宿1,663人、栗橋宿1,741人に比べ、幸手宿は3,937人を数え、日光街道や日光御成街道などの交通の要衝として栄えていたことがわかる。

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 幸手(埼玉県幸手市)といえば、日光街道からは右にずれるが「権現堂(ごんげんどう)河岸」の桜並木が有名だ。いまでは春(3月下旬から4月上旬)の桜に加え、菜の花、6月7月の紫陽花、10月の曼珠沙華(彼岸花)、1・2月の水仙と、年間の花暦で人気の場所である。

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 東武鉄道の幸手駅で下車。小さな田舎の駅だ。まず昼食である。駅前にはコンビニ以外、ほとんど店がないが、なんとか「日本海庄や」を見つけた。

ランチタイムで穴子丼があった。大きな穴子、なす、ししとうの天ぷらだ。サラダと刺身(マグロ・ハマチ)、味噌汁が付く。さすがにサカナ系の居酒屋だけあって、うまい。ボリューム満点。いよいよ日光街道宿場歩きが始まる。

■日本海庄や 幸手店(幸手市中1-15-2、TEL:0480-40-1669)

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 幸手駅を背にして歩く。十万石饅頭の横に小さな稲荷がある。「一色館跡と陣屋稲荷」だ。かつて幸手駅付近一帯は、古河公方(こがくぼう)足利氏の家臣一色氏が館を構えていたそうだ。江戸時代には家康に仕え、5160石の領地を与えられていた。この陣屋稲荷(一色稲荷)は、一色氏の守り神として祀られた氏神様で、地元の人々の信仰を集めている。(幸手市中1-15-31、幸手市の案内板より)

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 駅からまっすぐの道を行く。交差点の向こう側に、いかにも街道の面影を残す古民家がきれいだ。「上庄(うえしょう)カフェ」である。実はこの建物、国の登録有形文化財(2009年9月建造物)の「岸本家住宅主屋(しゅおく)」である。江戸末期に建てられ昭和に改修され、さらに2011年11月にカフェとして再生された。見事な建物だ。

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☆岸本家住宅主屋(幸手市中2-6249-1)

かつてしょうゆ醸造業を営み、主屋の裏手には醸造所や作業場、蔵など約10棟が広大な敷地に建ち並んでいた。明治時代には、製造したしょうゆが1900年のパリ万博で銅賞を受賞し、岸本家は幸手宿でも指折りの商家として栄えていた。しかし1923年の関東大震災で多くの建物や設備を失い廃業。その後の道路拡張事業で、蔵なども取り壊され、主屋だけが現存する。建物は土蔵造りだが、屋根に特徴があり、正面が切妻造りであるのに対し背面が寄棟造りになっている点だそうだ。

※上庄カフェについては「食べログ」に記事を投稿してあるので参照ください。

http://r.tabelog.com/saitama/A1104/A110402/11028512/dtlrvwlst/3614540/

 さて、この上庄カフェ(岸本家住宅)をはじめ、幸手宿に残る古い商家や民家を再発見して、町おこしを図る市民団体「旧日光街道幸手を感じる会」がある。中村敏明さんのイラストが描かれた“歴史を感じるまち 幸手-幸手の街を徒歩で巡る 歴史の足跡探しの旅-”のパンフレットができている。街道歩きには、うれしい資料である。この種の市民活動は、応援したい。

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ご近所グルメ すみだ《江戸むら咲》ハンバーグにびっくり

 東京スカイツリーの真下、焼肉の《江戸むら咲》で「山形黒毛和牛100%ハンバーグ(220グラム)を食べた。ライス・スープ・サラダ・お新香・コーヒー(紅茶)が付いて、納得の900円。

 肉厚のハンバーグは、大根おろしがたっぷり。ここにニンニクの効いた特製醤油ダレをかける。フライドポテトもたくさん。ニンジンもブロッコリもいい感じ。さすがに和牛はうまい。ボリュームも十分だ。おすすめである。

    焼肉 江戸むら咲(Edo Murasaki

    住所:東京都墨田区押上2-4-9

    TEL0336224441

    営業時間/11301500 15002230(ラストオーダー2130

    定休日:月曜

※内容がかわってしまい、とてもおすすめできません。(2012年10月追記)

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《生駒軒》@浅草雷門「焼肉ライス」がうまい!!

 おなじみ浅草の《生駒軒》。ラーメン、炒飯、ソース焼きそば、カレーライスと好物が多い店だが、「焼肉ライス」もうまい。

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 豚肉を炒め、ニンニクや生姜の入った独自のタレで味付けをする。たっぷりのキャベツと一緒に盛られ、これにスープとタクアンにライスである。このボリュームで800円。

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「とにかくお客さんに、おなかいっぱい食べてほしい」という、生駒軒のマスターやおかあさんの気持ちが表れる一品だ。

        生駒軒 浅草雷門

        東京都台東区雷門1-12-1

        TEL:03-3844-6853

        営業時間/11:30~15:00 17:00~20:30(水曜定休)

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《日光街道》宿場を歩く【杉戸宿】

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粕壁宿から杉戸宿までは約6.5km。東武伊勢崎線の「東武動物公園駅」で下車、日光街道へ向かう。東武動物公園駅はかつて「杉戸駅」であったものが名称変更になっている。(昭和561981、東武動物公園開業に伴い、駅名改称)杉戸宿は、江戸から五番目、南北1655間(約1.85km)の宿場町が形成されており、旅籠は46軒あった。(天保14年、1843)所々に古い町並みが残っているのがうれしい。

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Photo_15  この杉戸宿は、動物公園とは反対側にあたる。さびれた駅前からかつての利根川 であった「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」を渡る。駅から徒歩約10分、江戸時代・文政5年(1822)創業の関口酒造が街道沿いに建っている。商家造りの古い建物である。清酒「杉戸宿」の看板。このお酒、町おこしに一役買っていて、お土産や贈答品として売れているという。

 しばらく歩くと近津神社。村社であったそうだ。

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 東武動物園駅からまっすぐに進むと、日光街道との交差点が「本陣跡地前」である。このあたりが杉戸宿の中心地(中町)だが、いま本陣の建物はない。(本陣の門が残っているそうだが、見落とした)杉戸宿を進む。宿場の古風な家並みが少し残っている。

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町並みが切れる所に宝性院がある。赤い「すぎと七福神」の幟(のぼり)が目を引く。門を入ると右側に庚申塔や石仏があった。明治初期の学制発布後は、杉戸小学校(杉戸学校)となっていた寺だ。

■宝性院

住所:埼玉県北葛飾郡杉戸町1-5-6TEL0480-32-0342

真言宗智山派。すぎと七福神では「毘沙門天」。

 日光街道を行く。幸手市に入る。幸手宿の南、幸手市南2-10-30の場所が、日光道中(日光街道)と日光御成道(日光御成街道)の合流点ポイントである。幸手宿もまもなくだ。大きなスーパー「ベルク」がある。

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☆日光御成街道

  この街道こそ、徳川将軍が日光の東照宮参拝のために設けられた道である。初代・徳川家康は死して神となり、東照大権現として祀られたわけだ。

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日光御成街道(日光御成道中)は、本郷追分(東京都文京区)→岩淵宿(北区)→川口宿(埼玉県川口市)→鳩ヶ谷宿(同)→大門宿(さいたま市緑区)→岩槻宿(さいたま市岩槻区)→幸手宿(幸手市)のルートであった。距離は十三里三十町、約54.3km

 通常、将軍一行は413日、江戸城大手門を出立して、中山道に入り、本郷追分から日光御成街道(岩槻街道)を進む。

王子の金輪寺(東京都北区岸町1-12-22)で休息、一時金輪寺が荒廃した時期は飛鳥山の上の仮休処で休んだ。つぎに荒川を渡るが、通常、舟渡しのところ、将軍日光社参の際は、幅三間(約5.4m)・長さ六五間(約117m)の板の橋が架けられたそうだ。

 初日の将軍の宿泊地・岩槻城の城主は、錫杖寺(しゃくじょうじ:埼玉県川口市本町2-4-37)で、将軍を出迎え、挨拶後、先に引き上げ城での出迎えに備えた。将軍はこの錫杖寺で昼食。その後、膝子村の光徳寺(さいたま市見沼区膝子623)で休息後、岩槻城に入り宿とした。翌日は幸手宿手前で、日光道中に合流し、幸手宿の聖福寺で休息。以降は日光道中を通行し、古河城(414日二泊目)、宇都宮城(415日三泊目)、そして日光に16日、到着した。(34日の行程である)家康の命日は417日で公式行事(法要)がおこなわれた。帰路は一部、日光壬生街道を通行した。

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《いさりび》の海鮮丼に再会

 久しぶりに浅草駅北口の小さなお寿司屋《いさりび》のランチである。久しぶりに定評のある「海鮮丼」980円をいただく。

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 ネタは9時の方向から時計回り。
マグロ中トロ、ガリ、タマゴ焼き、カンパチ、小肌、スミイカ、エビ、本わさび、漬物、マグロヅケ、平目。

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 《いさりび》では大西洋のマグロを使う。やっぱりネタも新鮮で厚切りだ。野菜サラダと汁物(アオサのお吸いもの)が付く。わさびも本わさびにこだわっている。何よりも大将が毎日、築地へ出向いて選ぶ新鮮なネタ特徴だ。

■いさりび
■ 東京都台東区花川戸1-6-6 花川戸マンション 2F
■TEL:03-3841-5140
■営業時間/11:30~14:00 17:00~21:00
火曜日はランチのみ。水曜定休

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《神谷バー》のポスター「かくれんぼ」

 東武伊勢崎線車内限定の《神谷バー》のポスター。新作が出た。

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 かくれんぼの時、電話ボックスは反則だかんね。

 そういえば、かくれんぼの時、黙って家に帰ってしまう奴がいた。捜してもさがしても見つからない。

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 調べてみると、この絵にある鋼鉄製の電話ボックスは、クリーム色で頭はえんじ色か赤色だった。昭和29年頃から設置されたらしく、昭和44年頃まで使われていたそうだ。いまでは携帯電話の普及とともに、ほとんどボックスを見ない。現在の電話ボックスは、ガラスで囲まれ、安全のためか周囲から中の様子が見える。昔のボックスは、とくにこどもが入ったら隠れてしまった。

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 電柱にある「青空ガラス店」の看板がおもしろい。本当にガラス屋さんを見ない。現代のサッシの窓は、ほとんど割れないから商売にならないのだろう。

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ご近所グルメ すみだ《江戸むら咲》焼肉です

 東京スカイツリーの真下、押上の東武線業平橋駅近くに昨年1214日にオープンした焼肉のお店である。とくにランチの評判がよいので行ってみた。

 店内は新しくきれいだ。ジャズのバックミュージックが流れ、少し薄暗いがいい雰囲気である。

焼き肉Bランチ(ロース・ハラミランチ)890円を食べた。ライス・スープ・サラダ・ナムル・コーヒー・紅茶付きのセットなので、あまり期待はしていなかった。しかし驚いた。肉はやわらかくおいしい。ナムルや野菜サラダの量も十分。ロースもハラミもかなり上ものだ。ボリュームもある。これに本格的なコーヒー(紅茶)だから文句なしだ。

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ランチのメニューは、以下のとおり。山形黒毛和牛100%ハンバーグ(220g)ライス・スープ・サラダ・お新香・コーヒー・紅茶付き900円、焼き肉Aランチ(ロースランチ)ライス・スープ・サラダ・ナムル・コーヒー・紅茶付き800円、肉丼(スープ・サラダ・コーヒー・紅茶付き)850円、ミックスグリル(チキン・自家製ハンバーグ110g・ソーセージ)ライス・スープ・サラダ・ナムル・コーヒー・紅茶付き950円、野菜たっぷりクッパ      or温うどん(コーヒー・紅茶)780円。

ところで《江戸むら咲》の箸袋のMurasakiiの部分が、東京スカイツリーになっている。なかなか凝っている。

    焼肉 江戸むら咲(Edo Murasaki

    住所:東京都墨田区押上2-4-9

    TEL0336224441

    営業時間/11301500 15002230(ラストオーダー2130

    定休日:月曜

※内容がかわってしまい、とてもおすすめできません。(2012年10月追記)

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《日光街道》宿場を歩く【粕壁宿】

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 粕壁は現在の埼玉県「春日部」市である。越谷宿からは二里三十町、約11.1kmだ。江戸からの距離は九里二町、約35.6kmとなり、江戸を出発して日光街道を歩く旅人には、この4番目の宿場「粕壁」宿が最初の宿泊地となることも多かったようだ。(江戸時代、人々は1日に十里、約40km近くも歩いたそうだ)

 宿場は南北十町ほど約1.1kmにわたり、家並みが続き、天保14年(1843)には家数773軒、人口3,701人、旅籠は45軒であった。(天保14年『宿村大概帳』)

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 東武線「春日部駅」で下車。まず「春日部市郷土資料館」へ行く。常設展示・春日部のあゆみの中で、日光道中「粕壁宿」の展示がおもしろい。宿場の模型もよくできていて、雰囲気がわかる。熱心に模型に見入っていたら、資料館の係りの女性から「粕壁宿歴史マップ」をいただいた。思いがけない親切に元気が出てくる。

☆春日部市郷土資料館

住所:春日部市粕壁3-2-15(春日部駅東口から徒歩10分)、TEL:048-763-2455

開館時間/09:00~16:45(月曜・祝日・年末年始は休館) 入館:無料

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 さて、粕壁宿の入口近くには東陽寺がある。『おくのほそ道』の松尾芭蕉と弟子の曽良が宿泊したと伝わる寺である。日光街道に面した山門には、「伝芭蕉宿泊の寺」の石碑があり、境内には曽良の「随行日記」の一部が碑文に彫られている。芭蕉が実際に宿泊したかどうか、確証はない。きれいに清められた立派なお寺だ。

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■東陽寺

住所:春日部市粕壁2-12-20、曹洞宗。寛永9年(1632)開基。境内に「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と曽良の随行日記の碑。

 この春日部で芭蕉が宿泊したとされる場所は、もう一か所ある。粕壁宿のはずれにある小渕山観音院である。訪ねてみると、2011年3月の東日本大震災の影響で由緒ある仁王門が崩壊寸前で立入禁止となっていた。仁王門を迂回して境内に入る。芭蕉の句碑がある。「毛のいへば(ものいへば)唇寒し 秋の風」。これは元禄4年(1691)芭蕉49歳の句で、『おくのほそ道』の旅は元禄2年だから後世に建てられたものだ。しかし、江戸時代の芭蕉文学の解説書『諸国翁墳記』に、「はせを墳 日光道中粕壁杦戸間小□村観音仁王門前 葛飾老茹□四世不干建」とあるそうだ。(芭蕉の碑が、日光街道の粕壁の小口(小渕)村の観音仁王門前に、葛飾の老いた茹□四世が建立したとある)

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■小渕山観音院(小渕山正賢寺)

住所:春日部市小渕1634、本山修験宗。鎌倉中期の建立。元禄期には円空が滞在し円空仏を七体残したと伝わる。

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 粕壁宿には、商家造りの「東屋田村家」と慶長年間創業の米屋「永嶋庄兵衛商店」の土蔵造りの建物が残っている。田村家の前には、天保5年(1834)の道標があり、東江戸、北日光、西南いはつき(岩槻)と彫られている。

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 日光街道粕壁宿の突き当たりには最勝院がある。日光に運ばれた徳川家光の遺骸が一時安置された由緒ある寺だそうだ。

■最勝院(華林山慈恩寺)

住所:春日部市粕壁3-9-20、真言宗智山派。寺町と呼ばれた地域にある。本尊は千手観音。南北朝時代の地頭・春日部重行を葬ったとされる墳丘が、本堂の西側にある。

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 日光街道は、最勝院から少し戻り、粕壁宿の絵が描かれたトイレの前を過ぎ、新町橋で古利根川を渡る。このあたりは、川の水運で江戸との物資の交流があった。しばらく行くと、関宿往還との追分(別れ道)があり、2つの道標がある。大きい石には、左日光道(宝暦4年1754)とある。小さい石には、右方・せきやど道、左方あふしう道(奥州道)とあり、宝永6年(1709)のものだ。左側の道を歩き、国道16号を渡って直進すれば、小渕山観音院がある。

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 かなり歩くと、農村地帯に入り、九品寺がある。まもなく杉戸宿である。この境内に日光街道の道しるべが残っている。庶民の庚申信仰を示す「青面金剛」が正面に刻まれ、右江戸、左日光と彫られている。天明4年(1784)のものだ。

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☆ぷらっとかすかべ

春日部駅東口から徒歩3分の場所に春日部情報発信館がある。春日部の観光情報、タウン情報などや地元の名産品を販売している。パンフレット類も豊富にそろえてあり、係りの女性も親切に応対してくれる。日光道中粕壁宿めぐりのボランティアガイドの受付もおこなっているという。

住所:春日部市粕壁1-3-4、TEL:048-752-9090

開館/09:00~16:30(月曜・年末年始休館)

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《日光街道》宿場を歩く【越谷宿】

Photo  草加宿から越谷宿(越ヶ谷宿) までは、一里十八町、約7.0km。日光街道沿いには、古い町屋造りの家並みが数多く残っている。しかし宿場の案内板や説明板などは、まったくない。これは越谷市、行政の無策である。観光といえば大げさだが、江戸ブームの昨今、宿場町として整備すれば人はやって来ると思われるし、何らかの街の活性化につながるはずだ。いま手をつけなければ、江戸末期から明治・大正・昭和と続いてきた街道の文化も再開発等で、まちがいなく消えていく。

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  さて越谷の宿は、江戸時代最盛期でおよそ2kmの中に旅籠が52軒もあった。いまでも古い家並みは、越谷市越ヶ谷1丁目・2丁目あたりから、中町の本町商店街に点在している。いまでも営業中の白屋旅館、漆を商っていた中町の塗師屋、荒物屋の鍛冶忠商店など、趣のある街道筋を残している。

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 江戸時代の旅行ガイドブック『道中商人鑑(どうちゅうしょうにんかがみ)は、各街道宿場の旅籠を紹介するものだが、越谷宿で旅籠「とらや」や食堂・薬屋「中屋」がイラスト付きで掲載されている。

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 諸国御町人御商人方御定宿、江戸御店々御商人並びに御町人方御定宿、日光道中筋御商人御町人方御定宿、在々御百姓方御定宿等と宣伝文がある。おもな客は、町人や商人そして百姓だったわけだ。もちろん旅籠には、公用以外の私用で街道を行き来した武士も泊まった。

 旅籠に入ると、街道に向かって開け放たれた板の間で、客はまず足をすすぐ。草鞋(わらじ)で1日歩き続けるため、足は汚れていただろう。店先には飯盛り女だろうか、女中さんが立っている。1階の奥で火鉢にあたっている老女は、おかみさんであろうか、さらに奥に帳場(フロント)がある。おそらく客は、階段で2階の座敷に通される。風呂もある。宿泊は1泊2食付き。宿泊代は200文、現在の貨幣価値で2,000円から3,000円といったところだろうか。(地域・時代によって違う)もちろん相部屋。

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 中屋。江戸から六里程、越ヶ谷宿入口にあった。耳の薬も発売しているが、どうやら本業は食堂のようだ。御茶漬、御料理、二八(そば)・浅(朝)めし・めんるいの看板が読める。往来を行く二本差しの武士や籠(かご)屋、馬で荷を引く男も描かれている。

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《いさりび》お年賀

 浅草駅北口の小さなお寿司屋さん《いさりび》、新年初である。

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 お刺身の盛合せは、左から前列カワハギ(大分)、後列メジマグロ(佐渡)、平目昆布締め(大分)、後列〆サバ(唐津)、前列北寄貝(北海道)。北寄貝は歯ごたえがよい。

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 今日の主役はカワハギで栄養分を蓄えた肝付きである。通常、カワハギの旬は夏場だが、真冬のこの季節、肝がうまい。甘みがある。

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 お通しはカンパチのしゃぶしゃぶ。ポン酢醤油で食す。もみじおろしがうれしい。

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 小肌の和え物。小さく刻んだ小肌、大根、大葉の酢の物である。さっぱり味だ。

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 握り3点。小肌、〆サバ、平目昆布締めである。すべて煮切醤油が塗ってある。美味三昧だ。

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 帰りがけに大将から、「お年賀」をいただく。今年こそよい年でありますように。

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《日光街道》宿場を歩く【草加宿】

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 千住宿から草加宿までは、二里八町、8.7kmである。草加市は宿場の名残を大事に守り、芭蕉が「おくのほそ道」で行脚した川沿いの道を再現している。町中にはわかりやすい看板、案内板が各所に建つ。見事な町おこしだ。

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 現在、草加市役所がある場所が宿場の入口にあたるそうだ。そこには江戸時代の豪商浅古家の屋敷神であった子育て地蔵堂があり、市役所の横には浅古家本家の明治に再建された古い土蔵造りの家が残っている。(実は市役所の敷地は浅古家のものだったそうだ)

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 宿場らしい町並みの藤代家もある。草加から松原団地へ向かう綾瀬川沿いには、「札場河岸(ふだばがし)公園」があり、望楼や芭蕉ゆかりの矢立橋、百代橋もある。松尾芭蕉像と近くには川合曽良像も立つ。

    元禄2年(1689327日、松尾芭蕉は、門人の川合曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅立った。後に日本を代表する紀行文学「おくのほそ道」として結実するこの旅は、東北・北陸の名所旧跡をたどり美濃国大垣へ至る六百里・約2,400km150日間の壮大なものであった。

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    深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始める。

Photo_9 「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日ようよう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」(行く先の旅の困難を思うと、生きて帰ることができるかどうか不安にさいなまれる。旅に出たその日、重い荷物を担ぎながら、ようやく草加の宿にたどり着くことができた)しかし曽良の日記によれば、実際には「草加宿」には泊まらず、18kmも先の春日部に宿を取ったのである。

   

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東福寺

山号は松寿山不動院で真言宗智山派の寺である。

【本尊】不動明王

【住所】草加市神明町1343 電話番号、TEL0489-22-3051.

慶長11(1606)、草加宿を開いた大川図書が創建。長い参道を行くと存在感のある山門がある。本堂や鐘楼もどっしりと構える。梵鐘や表門外に安置されていた鋳造の地蔵は、第2次世界大戦時、供出にあった。梵鐘は昭和24年再鋳された。平成10年には、不動堂が新築。この不動堂は、明治五年四月、この東福寺にて行われた、「成田山新勝寺」の不動明王のご開帳を記念し、近隣の人々の浄財によって建立されたが、約百二十年の間に老朽化が進んだため新築という一大事業が勧められ無事完遂した。現在では、平成の「草加不動」として近隣の篤い信仰を集めているという。

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    草加 神明庵(お休み処)

宿場の端には、いかにも街道筋の趣きのある建物がある。「神明庵」と呼ばれる旧大津屋・久野邸だ。

町屋建築の2階建て延べ床面積約99平方㍍。外観は、切妻造り瓦ぶきで江戸末期の安政元年(1854)に建てられた、店舗と居住部分が丁の字に組み合わされた当時の商家様式を伝える地区内では最も古い建物だそうだ。かつては大津屋の屋号で料理屋を営んでいた。旧日光街道沿いには、近年まで江戸期や明治期の建物が現存していたが、老朽化やマンション開発、道路拡幅などで年々姿を消している。市が2004年に実施した「草加宿に残る住まいと蔵の建物」調査では、店舗付き住宅6、店舗2、蔵10、離れ家2棟などを残すのみとなった。さびしい限りだ。

 ここには草加宿のパンフレット資料をそろえ、名物の草加煎餅も販売している。ボランティアの店員さんは親切で宿場の説明をしていただける。街道歩きにはうれしいお休み処である。

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《キッチン 菜根譚》生パスタを食べた

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 正月早々、《菜根譚(さいこんたん)》で生パスタをいただく。エリンギとベーコンのトマトソースである。やっぱり生パスタは、やわらかすぎて歯ごたえがない。味はよいのだが。まるでおかあさんがつくった料理だ。

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この店は、「トマト・ソース」か「ホワイト・ソース」を選べる。一緒に行った同僚は、ホワイトだ。

■キッチン 菜根譚

■東京都墨田区向島1-24-12

TEL0336213057

■営業時間/11302000

日曜・祝日休み

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《日光街道》宿場を歩く【千住宿】

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 日本橋を出て千住宿までは、二里八町(約8.7km)である。江戸時代最盛期には、旅籠屋が55軒もあった。(天保14年1843)地方からの江戸への玄関口ともいえる「江戸四宿」でも最大の宿場である。

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 いまでも日光道中沿いの「宿場町通り」の商店街は、活気に満ち、多くの買い物客でにぎわいをみせている。どうやら物価も安く暮らしやすいようだ。

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 江戸時代に宿場として賑わっていた背景には、55軒の旅籠の内36軒がいわゆる「飯盛旅籠」という飯盛り女(遊女)を置いた宿であったことがある。旅人ばかりではなく、江戸の庶民も夜な夜な通ったものと思われ、千住宿の「金蔵寺」には遊女の供養塔がいまでも残っている。

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■金蔵寺

当寺は真言宗豊山派で、氷川山地蔵院(または閻魔院ともいう)と号す。本尊

は閻魔大王で、建武2年(1335)3月の創建という。
金蔵寺の門を入ると左側に2mほどの無縁塔がある。これは天保8年(1837)に起

こった大飢饉の餓死者の供養塔で、千住2丁目の名主永野長右衛門が世話人とな

り、天保9年(1838)に建てたものである。
碑文によれば「…飢えで下民に食なし…この地に死せる者828人…370人を金蔵

寺に葬り…」とある。
その塔と並んで建つ別の供養塔は、千住宿の遊女の供養塔で、この地で死んだ

遊女の戒名が石に刻まれている。
千住宿には、本陣・脇本陣のほかに55軒の旅籠屋があり、そのうち、食亮旅籠

(遊女屋)が36軒あった。江戸後期には宿場以外に江戸近郊の遊里として発達

した。そのかげで病死した遊女は無縁仏同様に葬られたその霊を慰めるための

供養塔である。(足立区教育委員会)

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■勝専寺

勝専寺は、文応元年(1260)勝専社専阿上人を開山、新井政勝を開基として草

創されたといいます。
「赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする

。寺伝では文応元年(1260)勝専社専阿上人を開山、新井政勝を開基とし草創

されたという。
江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川家

忠・家光・家綱の利用があった。また日光門主等の本陣御用を勤めた記録も見

られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。
加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝え

ている。木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ開基新井政勝の父正

次が荒川から引き上げたという伝承を持つ。
ほかに1月と7月の15・16日の閻魔詣で知られる寛政元年(1789)の木像閻魔大

王坐像、巻菱潭の筆による明治12年(1879)の扁額「三宮神山」を山門に掲げ

るほか、千住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来している。いずれも足立区

登録文化財となっている。(足立区教育委員会)

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■源長寺

浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598)この地に住み開拓した石

出掃部亮吉胤により、同十五年(1610)一族の菩提寺として開かれたが、千住

大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺

号を付して開基としている。本尊は、阿弥陀如来。
墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守

墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住

宿商家の墓碑が多い。また草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚、一

啓斎路川句碑等がある。(足立区教育委員会)

千住宿では、「横山家住宅」と「絵馬屋・吉田家」の建物が、日光街道の面影を伝えている。

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☆横山家住宅

宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行が深い。戸口は一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現われという。

敷地は間口十三間、奥行が五十六間で鰻の寝床のように長い。

横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙(じすきがみ)問屋を営んでいた。

広い広間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓など、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで敗走する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雨に耐えてきた百数十年の歴史を語る住宅である。

(足立区)

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☆絵馬屋・吉田家

吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。手書きで描く絵馬屋は都内にほとんど見掛けなくなって、希少な存在となった。

当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法をと踏襲して、江戸時代からの伝統を守り続けている。縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。

絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決まっており、三十数種類ある。

これらの代表的絵馬が、現在吉田家に一括保存されている。時代ごとの庶民の祈願を知るうえで貴重な民俗資料である。(足立区)

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☆名倉医院

江戸時代から続く骨つぎの名倉医院。現在は整形外科だ。

なお、千住には「お休み処 千住街の駅」という施設がある。足立区観光交流協会が昔ながらの商家を改築して観光案内所にしている。街道歩きの方々にパンフレットなどの資料を提供したり、区内の観光ポイントを掲示等で紹介している。

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《日光街道》宿場を歩く【はじめに】

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 関ヶ原の戦いに勝ち、日本統一に向け徳川家康は、物資の輸送や兵士の移動のため大動脈として諸街道を整備する。東海道をはじめ、日光街道・中山道・奥州街道・甲州街道の五街道である。日本橋を起点に日光街道(日光道中)は、宇都宮までは奥州街道と同じ道筋だ。

 

江戸時代につくられた「日光街道」(日光道中)は、日本橋から千住、草加、越谷、春日部、杉戸、幸手を経て栗橋で利根川を渡る。その後、古河や間々田、小山を過ぎ、宇都宮へ。今市を通過して徳川家康を祀る日光東照宮へと続く。宿場は21宿、全行程の距離36里11町で約144kmである。宿場はつぎの通りだ。

 

Chizu_2  千住宿(東京都足立区)、草加宿(埼玉県草加市)、越ヶ谷宿(埼玉県越谷市)、粕壁宿(埼玉県春日部市)、杉戸宿(埼玉県北葛飾郡杉戸町)、幸手宿(埼玉県幸手市)、栗橋宿(埼玉県北葛飾郡栗橋町)、中田宿(茨城県古河市)、古河宿(古河城下、茨城県古河市)、野木宿(栃木県下都賀郡野木町)、間々田宿(栃木県小山市)、小山宿(栃木県小山市)、新田宿(栃木県小山市)、小金井宿(栃木県下野市)、石橋宿(栃木県下野市)、雀宮宿(栃木県宇都宮市)、宇都宮宿(栃木県宇都宮市)、徳次郎宿(栃木県宇都宮市)、大沢宿(栃木県日光市)、今市宿(栃木県日光市)そして鉢石宿(栃木県日光市)である。  

 実際に歩いてみると、「江戸時代ブーム」の昨今であるが、宿場を町おこしにしようといった行政の考えが実現され、整備されている宿場もいくつかあるが、歴史の彼方に忘れさられた町も多い。

 草加市は日光道中でも「おくのほそ道」の松尾芭蕉にポイントを置いて、芭蕉像や曽良像を建てたり、橋をつくって街道を再現している。詳しい案内板を設置しているのは、古河市や小山市である。宿場として現代でも大きな町を形成しているのは、宇都宮市だ。そしてもっともにぎやかで、さびれてシャッター商店街が多いなかでもっとも健闘しているのは、千住であろう。北千住の宿場町商店街は実に活気にあふれている。

Photo_3  今回の企画では、宿場町を中心に紹介していきたい。江戸末期から明治・大正・昭和初期の古い町並みも興味深い。江戸時代からかわらないのは、各宿場町に残る寺社である。それらは街道を行き来した旅人たちも参拝したであろうし、休憩した場所のはずだ。中には将軍の東照宮への正式参拝である日光社参の折、休憩施設になった寺や神社も残っている。

 全行程約144kmであるが、ほとんど日帰りである宿場からつぎの宿場へ歩くといった手法をとった。東京から東武線やJR線で宿場近くの駅へでかけた。したがって歩き始めてからすでに半年が経過しているが、おそらく夏頃まで約1年がかりの旅である。(道標:中央区、春日部市)

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謹賀新年

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