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《日光街道》宿場を歩く【栗橋宿】【中田宿】

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栗橋宿は、幸手宿から二里三町、約8.2kmである。また次の中田宿までは、わずかに十八町、約2km弱と近い。この宿場は、つぎの中田宿の間の大きな利根川を越えなければならないため、日光街道でも重要な関所が置かれていた。江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から大きな河川には橋をかけることは許さず、また交通上の重要な地点には関所を設けていたわけである。

 

なお、栗橋は旧埼玉県北葛飾郡栗橋町であったが、平成22年(20103月、合併して久喜市栗橋になった。町を歩いてみると、古い商家がいくつか点在していて宿場の面影が残っている。なお、中田宿は利根川の改修工事により宿場が消滅してしまったため、実際には歩けない。

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 栗橋宿へはJR宇都宮線の栗橋駅下車である。駅前にはなぜか、「静御前」の墓がある。

こんな話が伝わっている。平氏追討に功績のあった源義経が、白拍子(舞姫)の静御前を寵愛していた。その後、義経は兄頼朝に追われ、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびる。静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かう。途中、下総国下辺見付近(現在の古河市下辺見)で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔(ともら)いたいと、再び京都へ戻ろうとした。しかし、重なる悲しみと慣れぬ長旅の疲れから病に落ち、文治五年(1189915日、この地で死去したと伝えられている。

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静御前の侍女・琴柱がこの地にあった高柳寺(現在の静御前の墓のある場所)に遺骸を葬った。なお、墓石や碑文は江戸時代以降のものだ。(高柳寺は、その後古河の中田に移転し光了寺と改称している。静が後鳥羽上皇から賜った錦の舞衣も通常は非公開だが、保存されているという)

光了寺の寺宝の一つ「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」については、後鳥羽上皇の寿永2年(1183)に大変な日照りに見舞われ、高僧を招き雨乞いをしても雨が降らない。そこで百人の舞姫を集め、次々に雨乞いの舞を舞わせ百人目の静が踊ろうとした時、上皇が静に御衣を与え、その御衣で舞ったところ、たちまち大雨が降ったという伝説がある。

また古河市内下辺見(しもへみ)には、義経の死を耳にし、橋の上で奥州行きを思案したと言われる「思案橋」、古河市水海(みずうみ)には、「静結びの柳」、「静の椿」などの遺跡がある。

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 ところで調べてみると、静御前の墓や命を絶った最後の地の伝承は、日本全国に分布していた。北海道乙部町姫川、岩手県宮古市鈴久名鈴ヶ神社、長野県大町市美麻大塩、奈良県大和高田市磯野、奈良県薬師寺、淡路島、山口県山口市、新潟県旧栃尾市、福島県郡山市静御前堂、香川県東かがわ市、福岡県福津市と十箇所以上である。

※静御前のイラスト:久喜市教育委員会・静御前遺跡保存会作成の『静御前の墓』説明板より

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 恐ろしい話だが、不正に関所を通らずに行くと、重罪になり死刑になったそうだ。

■焙烙(ほうろく)地蔵

栗橋宿の入口近くにある。火あぶりの刑に処せられた、関所破りの重罪人を供養するために地蔵が祀られている。

※焙烙:素焼きの平たい鍋。茶・豆・塩・ごま等を煎るのに用いる。

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利根川と関所跡近くにあるのが、栗橋の鎮守である八坂神社だ。

■八坂神社

八坂神社は江戸時代のはじめ(1624年)、利根川橋のたもとに創立され、栗橋町の総鎮守として、この町の歴史と歩みを共にしてきた。

 7月に行われる天王様のお神輿は、江戸末期(昭和46年復元)の作で大きく、重く、造りが壮麗で町内を巡幸する姿や担ぎ手の「オイヤサ、オイトサ」の声も勇ましく、そのスケールはほかの追随を許さず夏の風物詩になっているそうだ。

 境内には狛犬のかわりに新しいものだが、神社には珍しい「除災の鯉」と「招福の鯉」の像がある。これらは、八坂神社のご神体を鯉と亀が運んできたという言い伝えに基づくものだ。

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■顕正寺(久喜市栗橋東3-14-14

寺号:幡谷山破邪院、真宗大谷派。境内には少しふっくらした親鸞聖人像がおいでになる。立派な寺である。「栗橋八福神」では毘沙門天を祀る。

 この寺には栗橋宿の著名人・池田鴨之介の墓がある。池田は並木五郎兵衛と共に幕府に願い出て、慶長年間(15961614)に約3km程、東の出身地・下総国栗橋村(茨城県猿島郡五霞町元栗橋)から村民(約四十五世帯)を引き連れ、後の栗橋宿となる「新栗橋(上河辺新田)」を開墾したという。さらに下総国中田新宿村藤の森(茨城県古河市中田)にあった「顕正寺」を現在地に移したそうだ。

 池田家は江戸時代、初代鴨之介の子、與四右衛門(よしえもん)よりその名を世襲して、代々、栗橋宿の本陣役を務めた。(参考:旧栗橋町教育委員会)

※並木五郎兵衛の墓は、深廣寺にある。

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■浄信寺 (久喜市栗橋3-8-15

浄土宗。「栗橋八福神」では寿老人を祀る。

 ここには栗橋宿の出世頭・梅澤太郎右衛門の墓がある。慶長五年(1600)、太郎右衛門は相模国梅澤村から栗橋に移住し開墾に従事した。そして元和八年(16224月、徳川2代将軍秀忠の日光社参の折、暴風雨のため利根川が満水となり、将軍一行の渡る船橋が危うくなった。すると太郎右衛門は、人夫を率いて水中に入り、命がけでこの橋の安全を守り災難を救った。将軍はこれを賞して、関東郡代伊奈半十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金字に日の丸の軍扇およびお墨付をくだされた。これにより梅澤氏は名字・帯刀を許されたそうだ。(参考:旧栗橋町教育委員会)

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(中田宿)

■光了寺 (古河市大字中田1334)寺号:巌松山聖徳院。真宗大谷派。宝物として静女の守本尊、蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣、義経形見の懐剣(かいけん)、鐙(あぶみ)など貴重な遺品数点が所蔵されている。

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☆本陣池田家

慶長十九年(1614)、池田鴨之介は並木五郎兵衛と共に、新田開発のためにこの地に移った。元和八年(1622)、徳川2代将軍秀忠が日光東照宮にはじめて社参の折、この池田家が本陣となり以後、明治三年本陣制度が廃止されるまで、代々本陣を勤めた。現在は、本陣時代の格式ある門を残し、子孫の方が住まわれている。

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☆栗橋関所跡

栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地(重要な地点)に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで『房川渡(ぼうせんわたし)中田関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓井と並んで重要な関所であったという。関所は当初、中田宿側に設置されていたが、後に栗橋宿側に移動されている。

 関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあり、寛永年間(16241645)に関東郡代の伊奈備前守が、番士4人を置いた。以後、番士は明治2年関所廃止まで約250年間、代々世襲で勤めた。(参考:旧栗橋町教育委員会)

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利根川河川敷に設置された栗橋関所は、敷地約120坪・建坪約16坪の小規模なものであった。幕末の関所の番士は足立、島田、富田、加藤の四家。番士の勤務は毎日朝6時(明け六つ)から夕方6時(暮六つ)まで2人1組で5日間交代である。現在も残る足立家は、番士の子孫が住まわれているが、その敷地は約1,400平方メートルと広大である。この足立家には膨大な御関所日記が残されているそうだ。なお、関所番士屋敷は寛永元年(1624)に関所の番士の住まいとして江戸幕府が設置した。

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※中田宿および栗橋宿模型:古河歴史博物館展示より

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☆☆栗橋宿での昼食は、帰りがてら「末広食堂」へ。JR栗橋駅へは歩いて8分ほどのごく普通の中華食堂で、気のいいおじさんが一人で営業中だ。街道歩きは体力勝負なので、「ラーメンセット(チャーハン)」を注文。ラーメンとチャーハン・玉子丼・中華丼・親子丼・肉丼・かき揚げ丼のいずれか一品とセットだ。(ずいぶんバリエーションが豊富だ)これで650円はお徳である。

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 ラーメンは、メンマ・チャーシュー・ナルト・海苔・ホウレン草・刻みネギの具材。スープは、なつかしいあっさりとした鶏ガラスープで実にうまい。半チャーハンもうまい。これにお新香付き。特別ではなく普通の味なのだが、妙に落ち着くのだ。このご時勢にラーメン単品は400円、ソース焼きそばも400円。栗橋には庶民の味方になる食堂があった。満足である。

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■末広食堂〔お食事処 すえひろ〕(埼玉県久喜市栗橋北1-67TEL:0480-52-0527)

営業時間/12002000(不定休)

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