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《日光街道》宿場を歩く【宇都宮宿】その1

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 宇都宮宿は、雀宮宿から二里一町、約7.9kmである。日光街道でも一番栄えていた宿場であった。宿内の人口は6,457人、42軒の旅籠があった。また城下町でもあり、門前町でもあったため、門前や寺社地域の人々を加え、人口15,500人であった。(天保14年)

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 日光街道を行くと、宇都宮市不動3丁目の不動前の交差点で、左斜めに入る道になる。

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小さな不動堂が建っている。中には50cmほどの大日如来の化身である大日大聖不動明王像が、けわしい表情で安置されている。

(宇都宮市の案内板より)

江戸時代の初めころ、宇都宮城主本多正純(ほんだまさずみ)は、日光街道と奥州街道をつけかえました。そのとき、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが、不動明王を祀った不動堂です。江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。

不動堂は初め、この場所より旭陵(きょくりょう)通りを少し入った辺りにありましたが、後にここに移されました。今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するものです。

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☆蒲生君平勅旌碑(がもうくんぺい・ちょくせいひ)

明治三年(1870)、宇都宮藩知事が、蒲生の遺功(死後に残された業績)をたたえ、碑を建てたもの。

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☆新町のケヤキ

江戸から宇都宮城下への入口にあたる場所に立つ。樹高43m、枝張り東西34m・南北31m、周囲7.9mで樹齢は800年以上といわれる。昔から旅人の目印となっていた。

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■台陽寺(宇都宮市新町1-6-12)西原山円門院。曹洞宗。

慶長十年(1605)、宇都宮藩主・奥平家昌が大中寺(下都賀郡大平町)の11世宗寅(寅寛大和尚)を招いて宇都宮城内に建立。その後、元和五年から八年(16191622)、藩主・本多正純時代に、城下町割り(改修)により、現在地に移設した。享保六年(1721)には本堂を再建したが。昭和二十年(1945)7月に宇都宮大空襲で焼失。

現在の本堂は終戦後に再建されたもの。

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不動前通りから入って山門の手前には子安地蔵堂が建っている。この地蔵尊は宇都宮藩主戸田氏の守り地蔵であり、最初は宇都宮城内にあった。その後、大正九年(1920)にここ台陽寺に移され、子育て地蔵として地元の住民たちの篤い信仰を集めている。

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☆熱木(ねぎ)不動尊

初代下野の国司宇都宮宗円(初代・藤原宗円)が、天皇の命を受けて奥州征伐に遠征、城山村多気山頂上に陣を張ったときに、戦勝を祈願して不動尊像三体を造成したという内の一体で、世にも得難い不動明王で願い事叶うという伝説がある。そんな由緒があるようにはとても思えない。現在は、近隣の自治会の公民館(集会所)のようだ。

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■一向寺(宇都宮市西原2-1-10)清照山専修院。時宗。

健治二年(1276)、宇都宮景綱の開基。本尊は阿弥陀如来像(銅造、重要文化財)

別名汗かき阿弥陀といわれている。境内には戊辰戦争ゆかりの墓碑がある。

<戊辰戦争六道口戦死者慰霊碑>

 近年造られた六道口戦死者の慰霊碑。

<官修墓/倉田弥重墓>

宇都宮藩士倉田弥重の墓。830日早朝、田島を出発した西軍は、会津を目指し進軍。沼山集落付近で東軍と交戦し、東軍は敗走するも、宇都宮藩士の五番隊長、倉田弥重が狙撃され戦死、享年42歳。傍には「倉田家」の墓があるので、倉田家の菩提寺として、この一向寺に墓が建立された。

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■報恩寺(宇都宮市西原1-3-13)山号:松嶺山。臨済宗。

開山は宇都宮藩藩主・奥平家昌の正室・仙遊院(本多忠勝の娘)、創建年は寛永十六年(1639)といわれる。

1639年には、家昌を継いだ後、幼少のため一時古河に所替えとなった奥平忠昌が、後継の本多正純を継いで宇都宮藩主となっていた。寺域には宇都宮氏の五輪塔があるが、その由来は不詳である。

戊辰戦争(宇都宮城の戦い)では、寺域に近い六道の辻が主戦場となり、その戦火で本堂を焼失している。現在の本堂は、その後再建したものである。

山門茅葺の唐門は、寛永十六年創建時そのままの状態といわれ、宇都宮市に残る最古の木造建築物と推定される。宇都宮市指定文化財となっている延命院地蔵堂は18世紀初頭の建築であるが、これも古い木造建築であるといわれている。

 境内には戊辰戦争(宇都宮城の戦い)で亡くなった宇都宮藩士の墓や薩摩藩、長州藩、大垣藩の戊辰薩藩戦死者墓・戦死烈士之墓がある。また戦死烈士之墓の前には、寺域であるが鳥居が建てられている。とくに<薩摩藩戦死者之墓>は、境内入って直ぐに、官修墓地と向かい合って、目立っている。

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■戊辰之役戦死墓(宇都宮市六道)

 会津の飯寺で宇都宮藩兵の戸田三男隊に捕われた長岡藩の山本帯刀は、死を覚悟し、自らの愛刀と部下の持っていた軍用金を集め、戸田に渡し「これを貴藩に提供す、相当の費用に当てられんこと」と嘆願し従容として死に就いた。戸田は帰藩後、有志の賛同を得て旧幕府軍戦死者の墓地を整理して建碑。(山本の愛刀は二荒山神社から護国神社に移管され、現存する)碑文によると、『六道口において官軍と幕府軍との間で大激戦があり、付近には多数の死体が散乱していた。官軍の戦死者は報恩寺に葬られて立派な墓碑が建立されたが、幕府軍は賊の名をもって呼ばれた。その幕府軍の戦死者は土地の人々により仮埋葬されたまま、供養もされずにいたが、明治7年宇都宮藩士戸田三男等各士族と付近の住民によって墓碑が建立された』とある。

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■六道閻魔堂

 このあたりは、江戸時代に壬生や佐野、楡木などから宇都宮城下へ向かう六本の道が集まっていたので、仏教でいう六道と呼ばれていた。元禄十四年(1701)、光琳寺の専誉上人がお堂を建て、高さ2.4mほどの閻魔大王を祀った。しかし明治はじめの戊辰戦争で焼けてしまい、明治三十九年(1906)に建て直したもの。

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 さて日光街道は、旧町名でいえば南新町→熱木町→「歌橋町」→「大黒町」→「蓬莱町」と続く。蓬莱町には昔なつかしい建物で、質屋「米兵商店」が残っている。

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さらに、「茂破町」→「材木町」と続き、裁判所前を右折すると、「新石町」で、このあたりが日光街道(日光道中)と奥州街道(奥州道中)の追分である。日光街道は左折するが、まっすぐJR宇都宮駅方向に進むと「伝馬町」となり、本陣跡上野家の敷地だ。

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☆旧町名(宇都宮市提供)

○歌橋町:うたのはしまち

昔、この辺りに住んでいた人が歌を詠み、その歌が万葉集(まんようしゅう)に載)ったという伝説により、町名が起こったといわれている。古くは、宇田橋町(うたのはしまち)とも書かれていた。江戸時代には日光街道沿いに七のつく日に市(いち)がたち、賑わったという。

○材木横町:ざいもくよこちょう

この付近は、日光街道沿いの材木町から西へ延びた町人町であったので、材木横町と呼ばれるようになったという。大運寺(だいうんじ)の門前町として開け、町内には傘屋・桶屋・粉挽き屋(こなひきや)などが軒を並べていた。明治時代の初め頃、境町(さかいちょう)となった。

○大黒町:だいこくちょう

この付近に、古くから三面大黒天が祀(まつ)られていたので、大黒町と呼ばれるようになった。江戸時代には日光街道沿いに町家が並び、宿屋が多かったという。また、七のつく日には市(いち)がたち、賑わいをみせた。

○蓬莱町:ほうらいちょう

この付近に、古くから蓬莱観音(ほうらいかんのん)を祀ったお堂があったので、蓬莱町と呼ばれるようになったと伝えられている。江戸時代には日光街道沿いに町家が並び、七のつく日には市がたち、賑わいをみせた。

○伊賀町:いがまち

この付近は、宇都宮城下の西端に位置した武家屋敷町で、宇都宮氏の時代に芳賀伊賀守ゆかりの土地であったことから、伊賀町の名が付けられた。江戸時代には、楡木・栃木へ通じる六道口(ろくどうぐち)を警備する役人の屋敷が置かれていた。

○材木町:ざいもくちょう

この付近は、宇都宮城の北西に位置した町人町で、特に藩の御用材を商う材木問屋が軒を並べていたことが、町名の起こりと伝えられている。町の中ほどから東の城内へ通じる道には不明門(あかずのもん)と呼ばれた木戸番所があった。

○茂破町:もやぶりちょう

この付近は、宇都宮城主・本多正純が日光街道を開くまでは、竹薮(たけやぶ)や雑草の生い茂る原野であったところを、「茂(も)を破(やぶ)って」町づくりしたことから、茂破町と呼ばれるようになった。江戸時代には、二のつく日に市(いち)がたち賑わいました。明治時代の初めになって、茂登町(もとまち)と改められた。

○新石町:しんこくちょう

この付近は、元和五年(1619)年頃下町の米屋3軒が移転してきたことから、はじめは西石町(にしこくちょう)と呼ばれ、後に新石町と呼ばれるようになったという。町の南側には日光街道を往来する荷物の重さを調べる貫目改所(かんめあらためじょ)が置かれていた。

○伝馬町:てんまちょう

この付近は、元和五年(1619)、宇都宮城主・本多正純による城の大改修のときに、下町にあった問屋場が移転された所。日光街道と奥州街道の分岐点にあたり、荷を運ぶ人馬(伝馬:てんま)が備えられていたことから、この町の名が生まれた。町内には大名の泊まる本陣をはじめ、たくさんの旅籠屋(はたごや)が軒を並べ、城下では最も賑やかな所であった。

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コメント

報恩寺を開基したてされる女性は、奥平家昌正室ではありません。
奥平家昌正室の本多忠勝女は、慶長十六(1611)年に亡くなり、戒名も法明院と言います。
法明院は、烈女として名高い小松姫の同母妹ですが、姉とは違い婚家において、特別な事跡が伝わっておりません。
報恩寺開基の女性は、恐らく奥平忠昌の実母ではないでしょうか。
大名家では、正室に子がなく離縁された後、出自の良い側室が跡継ぎを生んだ場合、正室扱いになるので、報恩寺開基の女性も、そうした女性なのかもしれません。

投稿: 匿名 | 2012年5月24日 (木) 06時24分

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